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友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。
遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月… 遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月12日 - 1988年(昭和63年)11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 鳥取県出身。鳥取中学校(鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)5月、陸軍経理学校(14期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第8連隊付となる。1922年(大正11年)10月、第19師団経理部員に就任し、歩兵第47連隊付を経て、1929年(昭和4年)5月、経理学校高等科(甲種1期)を優等で卒業し、さらに員外学生として東京帝国大学経済学部に派遣され1929年4月から1932年(昭和7年)3月まで聴講した。この間、1930年(昭和5年)3月、一等主計に昇進。
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月… 猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。鳥取県出身。戦艦「武蔵」艦長として戦死し、一階級特進で最終階級は海軍中将。 鳥取県気高郡賀露村(現・鳥取市)において大工棟梁・猪口鉄蔵の長男として生まれる。弟に猪口力平(海軍兵学校第52期)がいる。海軍内では兄は「猪口敏(チョコビン)」、弟は「猪口力(チョコリキ)」と区別する呼称もあった。旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校第30期を受験し双方に合格。海兵第46期へ入学。1918年(大正7年)11月、10番/124名(1番は山階宮武彦王、実質は9番)の成績で卒業。
美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月… 美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月10日 - 1945年(昭和20年)7月下旬(戦死日不明))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県岩美郡牧谷村牧谷(現・岩美町)で、同村の素封家である沢田家の番頭の長男として産まれる。鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進学する。 1912年12月1日、士官候補生として歩兵第55連隊(佐賀市)に入隊し、1年後の1913年12月1日に陸軍士官学校に入校した。1915年5月25日の卒業後は見習士官として原隊復帰後、同年12月25日付で歩兵第56連隊(久留米市)付として歩兵少尉に任官する。 歩兵第56連隊時代の1917年9月15日に陸軍戸山学校に入校した。
岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12… 岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12月3日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鳥取県出身。鳥取中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)12月から1928年(昭和3年)4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進。
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 19… 杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 1947年6月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 農商務省官吏・杉山栄蔵の五男として東京で生れる。鳥取中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を次席で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。1917年(大正6年)11月、海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、「天津風」乗組、オランダ駐在、「矢矧」水雷長、「夕暮」駆逐艦長、「春風」駆逐艦長を経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 「第6号駆逐艦」(早苗)艦長、海軍省軍務局(第1課)局員、第2艦隊参謀、軍令部出仕、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海大教官、「由良」艦長、「青葉」艦長、「八雲」艦長、「日向」艦長、第3艦隊参謀長などを歴任し、1936年(昭和11年)12月、海軍少将に進級。
河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日… 河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日 - 1946年(昭和21年)7月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鳥取藩士・小学校長、河瀬聰の四男として生れる。鳥取第一中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「天津風」水雷長、臨時海軍防備隊付などを経て、1922年11月、海軍大学校(甲種20期)を卒業した。 横須賀防備隊水雷長、「萩」「桑」の各駆逐艦長、連合艦隊参謀、水雷学校教官、艦政本部員、水雷学校教官、イギリス出張(造兵監督官)、「霧島」副長、第3駆逐隊司令、第6駆逐隊司令、艦政本部員などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月… 西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。