スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大神 友明(おおがみ ともあき、1970年6月7日 - )は… 大神 友明(おおがみ ともあき、1970年6月7日 - )は、広島市中区江波(えば)出身の元プロサッカー選手(ゴールキーパー)。 広島県立国泰寺高校から筑波大学に進学。卒業後、1993年にジュビロ磐田入団。 1996年より次第に出場機会を掴み、レギュラーを奪取した1997年には磐田の初優勝に貢献すると共にJリーグベストイレブンに選出される。1998年にはオールスターゲームに出場。しかし1999年の第1ステージで靭帯損傷の負傷から長期欠場。その後も調子が戻らず、アルノ・ヴァンズワムの加入などから出場機会を減らした。 2002年にアビスパ福岡に移籍。当初は正GKだったが、2003年以降は水谷雄一にその座と背番号1を譲り、2004年に現役を引退。
高田 哲也(たかだ てつや、1969年7月31日 - )は、… 高田 哲也(たかだ てつや、1969年7月31日 - )は、広島県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はボランチを中心に、センターバック、左サイドバックを担当。1993年に湘南ベルマーレの前身のフジタSCに入団以来、ベルマーレ一筋にプレーして2000年に引退した。 引退後は湘南ユースのコーチ、監督を経て、2006年はトップチームのコーチに就任。2009年から2017年まで名古屋グランパスにてU-15、U-18監督、テクニカルダイレクター、アカデミーダイレクターを歴任した。 2018年よりサンフレッチェ広島のジュニアユース監督に就任。2020年からはユース監督に就任した。
野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )… 野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )は、東京都生まれ、広島県育ちの元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。岡山県作陽高等学校サッカー部総監督。 1983年広島国泰寺高校のゴールキーパーとして吉田安孝らとともに高校選手権出場。義田貴士は同級生である。1988年筑波大学に進学しサッカー部で活躍。中山雅史、井原正巳、森山佳郎らが大学の後輩。 1990年招かれて保健体育教諭として作陽高等学校に赴任しサッカー部コーチとなり、1999年監督就任。2007年、高校選手権で同校を岡山県勢初の決勝進出に導いた。2005年にJFA公認A級ライセンス、2008年に同S級ライセンスを取得している。
吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )… 吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、現・サッカー解説者。 現役時代は、タイトなマークのディフェンダー として活躍、広島国泰寺高校時代の同期に野村雅之。 1988年東海大学卒業後、マツダSCの今西和男監督に誘われていたが、すでに入社を決めていた日本サッカーリーグ2部の田辺製薬サッカー部へ入団。田辺製薬がJリーグ参加を見送ることになり、再び今西に誘われ、1991年マツダSCに移籍。Jリーグ発足でサンフレッチェ広島になった1994年のサントリーシリーズのステージ優勝を経験した。1995年からコスモ石油四日市FCでプレーするも1996年のチームの解散で現役を引退。
宗政 潤一郎(むねまさ じゅんいちろう、1957年7月30日… 宗政 潤一郎(むねまさ じゅんいちろう、1957年7月30日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA Proライセンス、旧称:JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市中区出身。武蔵大学卒業。現在、日本サッカー協会参与、評議員、中国サッカー協会 (日本) 会長、広島県サッカー協会会長。サッカー解説者。テレビ&ラジオコメンテーター&MC。 テレビ番組「MIKASAサッカーナビ ミカサッカー及びムネ ザ・トーク~ちゅピCOMひろしま~」とラジオ番組「ムネ ザ・トークR~FMちゅーピー~」にレギュラー出演。 2024年10月6日、広島県サッカー協会100周年記念式典で、100周年を記念して設けられた「広島県サッカー殿堂」11名の中の1人として表彰され、広島サッカースタジアム(エディオンピースウイング広島)内にある広島サッカーミュージアムにレリーフが設置された。
水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 20… 水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 2022年4月10日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。 選手時代は、後のセレッソ大阪であるヤンマーディーゼルサッカー部の主力選手として活躍した。ガンバ大阪の前身・松下電器産業サッカー部の創設者で、ガンバ大阪の発足に向けた立ち上げに携わり、同クラブの基礎作りに尽力した。 広島県広島市出身。広島国泰寺高校から、中央大学法学部政治学科を経て1967年、ヤンマーディーゼル株式会社入社。小柄ながらボール扱いのうまさは日本最高ともいわれ、同社サッカー部の主力選手として活躍した。同い年で同期就職で親友の釜本邦茂のデビュー初得点のアシストを決めている。
川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2… 川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2026年3月22日)は広島県出身の元サッカー選手(FW/MF)。 東洋工業に所属し、日本代表としてもワールドカップチリ大会予選など、国際Aマッチ8試合に出場した。 選手引退後も東洋工業・マツダに勤務した。
田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は… 田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島一中(のち学制改革により鯉城高校、現国泰寺高校)の2年先輩に福原黎三、3年先輩に重松良典がいる。 中大クラブ(中央大学サッカー部の現役、OBで構成されたチーム)の一員として長沼健、内野正雄、丸山義行らと共に1956年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)準優勝に貢献した。 日本代表としては1955年1月の東南アジア遠征で代表に初招集され、同月11日のビルマ体協選抜戦で国際Aマッチデビューを飾った。その年、国際Aマッチ4試合に出場した。
福原 黎三(ふくはら れいぞう、1931年4月2日 - 19… 福原 黎三(ふくはら れいぞう、1931年4月2日 - 1970年2月27日)は、広島県東広島市八本松町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 1945年8月6日、原爆投下後の広島市に入り入市被爆。 1946年広島一中(のちの鯉城高等学校、現広島国泰寺高等学校)3年生のときにサッカーを始める。重松良典は一中サッカー部の1年先輩にあたる。また学校の同期には原田康夫(広島大学学長)、坂田正二(呉大学学長)、沢田昭二(名古屋大学名誉教授)、葉佐井博巳(広大名誉教授)などがいる。 全国中等学校蹴球大会(現全国高等学校サッカー選手権大会)が学制改革により全国高等学校蹴球選手権大会となった1948年に優勝した鯉城高校のフォワード(センターフォワードあるいはインサイドレフト)。
寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1… 寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1999年1月14日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手・サッカー指導者。元八幡製鉄サッカー部監督、東福岡高等学校コーチ。 広島一中(現広島県立国泰寺高校)から広島高等師範学校(現広島大学)を経て1949年、当時サッカー不毛の地といわれていた九州の八幡製鉄サッカー部に入団。まだ発足二年目の八幡製鉄サッカー部は同好会レベルで、企業内スポーツ部がまだレクリエーションとしか見られていなかった時代、引き抜きや本社転勤話を断り、無名だったチームの主力フォワード(FW)として活躍した。入社二年目の1951年監督就任。同年日本代表候補となるが、社用が忙しくなり合宿に参加できず、この年インド・ニューデリーで第1回が行われたアジア競技大会には出場出来なかった。
中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭… 中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭和元年〉 - 2023年〈令和5年〉12月28日)は、大阪生まれ、広島県広島市出身のスポーツライター、元サッカー選手、サッカー記者(自らは「サッカー愛好家」と称した。詳細は後述)。元朝日新聞論説委員。 旧制広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)・旧制広島高等学校(現・広島大学)を経て東京大学を卒業。1945年広島高等学校2年の夏、爆心地から1. 8キロの修理工場内で広島への原爆投下に遭遇。勤労動員で北部に向かう途中、偶然トラックがブレーキ故障を起こし、その修理のためトラックの下に潜り込んでいたところに原爆が投下された。この結果、奇跡的に一命をとりとめたが、父は行方不明、母は死亡した。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994… 田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994年2月9日 )は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、東京工業大学応用科学科に入学。また、広島一中出身者で組織された鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった。 また、鯉城蹴球団 (鯉城クラブ) のフォワードとして清水直右衛門や深山静夫、香川幸らと共に1924年の第1回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および1925年の第2回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第5回天皇杯全日本サッカー選手権大会と2年連続での優勝に貢献した。
清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 … 清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 - 1945年8月6日)は、滋賀県生まれ、広島県出身のサッカー選手。ポジションはフォワード、ディフェンダー。 呉服商の家に生まれ、父が広島市内に店舗を構えるのに合わせて中学以前に広島市内に移住した。広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学してサッカー部に所属し、1924年に神戸高等商業学校を卒業した。 また、鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦でヘディングシュートにより1得点を決めた。日本の国際Aマッチ2ゴール目が広島出身者の代表初ゴールであった。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
香川 幸(かがわ さち、生没年不詳)は、広島県出身のサッカー… 香川 幸(かがわ さち、生没年不詳)は、広島県出身のサッカー選手。 香川や清水直右衛門らを中心選手とする広島一中は、1918年から始められた現在の全国高校サッカー選手権の前身となる大阪毎日新聞主催の日本フートボール優勝大会(全国中等学校蹴球選手権大会)には参加できず、毎年神戸に遠征し腕を磨いた。 1920年、神戸高等商業(現神戸大学)が主催した全国蹴球大会に出場。毎日新聞主催の全国蹴球大会を三連覇中だった御影師範の他、神戸一中、神戸二中と強豪を破り、決勝の関西学院高等部にはコーナー勝ちし優勝した。当時は同点の時はコーナーキックの数で勝ち負けを決めていた。香川はフォワードの中心選手として活躍、翌1921年の同大会は関西学院に決勝で敗れたが、1922年は御影師範を決勝で破り優勝した。
平田 一三は、広島県出身のサッカー選手。関西学院大学体育会サ… 平田 一三は、広島県出身のサッカー選手。関西学院大学体育会サッカー部創設者。 旧制広島中学(現・広島国泰寺高等学校)蹴球部(サッカー部)で田中敬孝、野津謙、谷川昇の一学年上。同校卒業後、この間の進学先は分からないが、関西学院大学に進学。関西学院が当時あった兵庫県神戸市の原田の森(現在の灘区王子町)にあった「啓明寮」で仲間とボールを蹴り始め、1918年に「関学蹴球部」の名称で同校サッカー部を創設した。関西学院大学の体育会OB倶楽部が発行した『会報』第5号に「平田が一ケのフットボールをどこからか持ってきて…」、学院の学生運動部長だった松岡栄一が1917年の『学生会抄』に「蹴球部は新しい部丈生み親平田君…」と書いている。
深山 静夫(みやま しずお、生没年不詳)は広島県出身のサッカ… 深山 静夫(みやま しずお、生没年不詳)は広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表選手(全日本)。ディフェンダー。慶應義塾体育会ソッカー部創設者。 野津謙は県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)の1年先輩で、同校を1917年に卒業し慶應義塾大学へ進学。1919年か1920年頃から、神戸一中出の範田竜平、明倫中学出の下出重喜、東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)出の斉藤久敏らとボールを蹴りはじめた。 1921年、学内の有志を集めて「ブルー・サッカー倶楽部」を創部。同年「慶應アソシエーション・フットボール倶楽部」と改称(1927年、慶應義塾体育会ソッカー部に名称変更)。