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玉井 日出夫(たまい ひでお、1948年9月5日 - )は、… 玉井 日出夫(たまい ひでお、1948年9月5日 - )は、日本の文部官僚。文部科学審議官(文教担当)、文化庁長官を歴任。愛媛県美術館名誉館長、玉川大学客員教授。 愛媛県松山市出身。広島国泰寺高等学校を経て、東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業の後、同第1類(私法コース)に学士入学。1974年(昭和49年)に旧文部省に入省(初等中等教育局中学校教育課)。総括審議官や大臣官房長を歴任したのち、2007年(平成19年)から文部科学審議官(文教担当)。2009年(平成21年)7月より19代目の文化庁長官に在任し、2010年に退官。2011年に学校法人北海学園特任教授。2012年から玉川大学芸術学部客員教授(文化政策などを担当)。
吉村 仁(よしむら ひとし、1930年9月27日 - 198… 吉村 仁(よしむら ひとし、1930年9月27日 - 1986年10月23日)は、日本の厚生官僚。公的健康保険制度の大改革を実現させた厚生省事務次官。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条岡町)出身。 旧制広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)三年のときに、広島への原爆投下があったが、出席番号が奇数だったために呉市の工場へ動員され、奇跡的に被爆を免れる。旧制官立広島高等学校(現・広島大学)を経て、1953年に東京大学法学部第3類(政治コース)卒業後、旧厚生省に入省する。薬害エイズ事件当時の薬務課長であり、元衆院議員の持永和見は同期。以降一貫して医療保険政策に携わり医療問題に取り組む。
増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月1… 増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月18日 - 1996年〈平成8年〉12月2日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 広島県広島市出身。旧制広島一中、旧制広島高校を経て1946年東京帝国大学工学部土木工学科卒。同年内務省に入る。1948年、建設省発足に伴い同省に移る。1972年北陸地方建設局長、1974年河川局長に就任する。1976年に退官。翌年の第11回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補して当選した。1981年鈴木善幸改造内閣で大蔵政務次官に就任。1989年の第15回参議院議員通常選挙で落選した。1991年に首都圏建設資源高度センター社長に就任した。
村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)1… 村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)11月27日 - 1972年(昭和47年)8月26日)は、日本の政治家、内務・通産官僚。衆議院議員(2期)を務めた。従四位勲三等。 1918年(大正7年)、広島県に生まれる。広島県立広島第一中学校を経て東京府立第四中学校へ転校し、その後、第一高等学校を卒業。卒業後は短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学。1945年に卒業した。同年6月、海軍主計少尉に任官。舞鶴施設本部付兼第101部隊長を務めて終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学法学部を卒業。
岡本 悟(おかもと さとる、1913年7月13日 - 198… 岡本 悟(おかもと さとる、1913年7月13日 - 1988年11月12日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)。 広島市南区松原町出身。旧制広島一中、旧制広島高等学校卒業。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年、鉄道省入省。大阪鉄道局書記。運輸省観光局長、大臣官房長、鉄道監督局長を務める。 1963年(昭和38年)4月19日-運輸事務次官就任。1964年(昭和39年)、運輸事務次官退任。 1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙全国区当選。1971年(昭和46年)、第9回参議院議員通常選挙再選。1972年(昭和47年)、七日会(田中派)理事。1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙に立候補せず、引退。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 19… 加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 1989年6月5日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。
黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月1… 黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月16日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の外交官、通産官僚。外務書記官、大東亜省電信課長、香港占領地外事部長、公正取引委員会総務部長、通産省通商局長、外務省経済局長、駐デンマーク公使・大使、駐インドネシア大使、外務審査官、外務次官を務めた。 1907年広島県生まれ。広島国泰寺高校から東京帝国大学を経て、第39回文官高等試験外交科合格後、1930年に外務省に入省。1942年に外務書記官(在米大使館外務書記生)を務めた後、大東亜省電信課長を経て、日本占領下の香港で外事部長を務め 、日本の降伏まで務めた。帰国後は、終戦連絡中央事務局経済部長、公正取引委員会総務部長、通商産業省の通商局長(通商監)、外務省の経済局長、駐英公使(1954年より)、駐デンマーク公使・大使、インドネシア大使などを歴任。
灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月… 灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務・厚生官僚、政治家。位階は従二位。 衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)、自由民主党総務会長(18代)等を歴任した。 1899年12月21日広島県佐伯郡大柿村(のち大柿町、現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造と醤油の醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)。
谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 195… 谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 1955年2月28日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。広島カープの「カープ」名付け親。正五位勲四等受章。 広島県賀茂郡西志和村(現・東広島市志和町)出身。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)で鈴木剛や田部武雄の兄・謙二と同学で親友であった。野津謙は年は違うが同期で、谷川は蹴球部(サッカー部)だったという。両親は早くに移民としてアメリカに渡り、カリフォルニア州・サクラメントで百貨店を経営。この頃のカリフォルニアは、まだ暑くて荒涼した住みにくい土地であったが、父親は荒地開拓の日本人リーダーとして信望を集めていた。昇も中学卒業後、父に従ってアメリカに渡りイリノイ大学政治経済学科に入学。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30… 賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月… 佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月19日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は、日本の内務官僚。岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などの要職を歴任した。 広島県佐伯郡五日市村(現在の広島市佐伯区)出身。佐上兵次郎の長男として生まれる。父兵次郎は第4回内国勧業博覧会に灯油を出品した商人であった。広島県立一中(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 東京帝大卒業後、高等文官試験合格。内務畑を歩み1916年、内務省内務書記官・土木局道路課長。1922年内務省参事官兼内務大臣秘書官・大臣官房文書課長となり、道路課長を兼務。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年… 川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年1月18日〉- 1936年〈昭和11年〉3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現:呉市広町)生まれ。 医師の二男として生まれる。旧制広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも4年で中退し、千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)に編入。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み、修了後に内務省入りした。 1916年(大正5年)、福島県知事。1919年(大正8年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。1922年(大正11年)、名古屋市長。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
梶井 剛 は、昭和期の逓信官僚、実業家。逓信省工務局長、日本… 梶井 剛 は、昭和期の逓信官僚、実業家。逓信省工務局長、日本電気社長、日本電信電話公社初代総裁、東海大学初代学長、電気学会会長を務めた。正三位、藍綬褒章、勲一等瑞宝章受章(現在の瑞宝大綬章)。工学博士。石川県加賀市出身。