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久保 幹(くぼ もとき、1959年9月8日 - )は、日本の… 久保 幹(くぼ もとき、1959年9月8日 - )は、日本の工学者。工学博士 (大阪大学・1992年)。立命館大学生命科学部生物工学科教授。一般社団法人SOFIX農業推進機構代表理事。SOFIX(Soil Fertile Index:生物的指標にもとづく土壌肥沃度指標)で、土の健康状態の「見える化」に取り組む。一般社団法人日本ホロス臨床統合医療機構顧問。 広島県出身。1978年、広島県立福山誠之館高等学校を卒業。1983年、広島大学工学部第3類(化学系:室岡研)を卒業。1985年、広島大学大学院工学研究科工業化学博士課程前期課程を修了。東洋曹達工業生物工学研究所に勤務。1992年、博士(工学・大阪大学)。
吉田 修(よしだ おさむ、1935年3月1日 - )は、日本… 吉田 修(よしだ おさむ、1935年3月1日 - )は、日本の医学者。前奈良県立医科大学学長。京都大学名誉教授。学位は、医学博士(京都大学・1967年)。専門は泌尿器科学。 岡山県出身。元日本学術会議議員。38歳で京都大学医学部泌尿器科学講座を主宰。以後多数の俊英を育成。日本泌尿器科学会総会会長、同理事長、日本癌治療学会総会会長、同理事などを歴任。泌尿器科学領域全般に幅広い業績。特に泌尿器腫瘍学分野で画期的な業績。また、医学教育分野や医事行政にも造詣が深く、文部科学省、厚生労働省関連の協議会、懇談会などに数多く参加。 2008年6月よりiPSアカデミアジャパン株式会社代表取締役社長(現在相談役)、2012年4月より天理医療大学学長。
坂田 勝(さかた まさる、1932年8月24日 - )は、日… 坂田 勝(さかた まさる、1932年8月24日 - )は、日本の機械工学者。東京工業大学名誉教授。元拓殖大学学長。元カリフォルニア大学バークレー校スプリンガー卓越教授。 広島県深安郡大津野村(現福山市大門町)生まれ。1952年広島県福山東高等学校(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1956年東京工業大学機械工学課程卒業、三菱日本重工業入社。1957年東京工業大学精密工学研究所機械力学研究室助手。 1964年東京工業大学工学博士。1965年東京工業大学理工学部助教授。1968年日本放送協会総合技術研究所嘱託。1969年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員(文部省在外研究員)。1975年東京工業大学工学部教授。
池庄司 敬信(いけしょうじ けいしん、1929年6月9日 -… 池庄司 敬信(いけしょうじ けいしん、1929年6月9日 - 2007年7月31日)は、日本の政治学者・歴史学者。専門は、ロシア政治思想史・ロシア史。中央大学名誉教授。広島県福山市出身。 広島県立福山誠之館高等学校卒業。1953年中央大学法学部卒業。1958年同大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。同年、同法学部助手。1961年同法学部専任講師。1962年同法学部助教授。1968年同法学部教授。1970年イギリス・ロシアで在外研究。1978年中央大学学生部長。その後、同通信教育部長。2000年中央大学定年退職。同名誉教授。 学外として武蔵野市宅地開発等紛争調整委員、武蔵野市特別職報酬等審議会委員。
力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - … 力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - 2016年1月22日)は、日本の経済学者、社会工学者。法政大学名誉教授。 広島県尾道市生まれ。旧制三高から旧制東京大学経済学部に進み、学生運動に身を投じる。東大共産党細胞において渡邉恒雄らとの路線闘争を繰り広げ勝利。1948年には武井昭夫、沖浦和光らと全学連(全日本学生自治会総連合)を結成。全学連の理論面での指導者とされた。翌年6月3日に東大で学生大量処分に抗議する公聴会が開かれたとき、処分理由を説明する矢内原忠雄経済学部長に「キミはファシストだ」と難詰した(キミ、ボク論争)。 東大卒業後、国民経済研究所研究員を経て、法政大学工学部経営工学科教授(社会工学)。
藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月… 藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月31日 - 1999年〈平成11年〉3月3日)は、日本の政治学者、評論家。広島県尾道市生まれ。「ふじわら こうたつ」と呼ばれることが多い。 雑貨店の忠雄と美容師キクノの長男。5歳の時に父を腸チフスで亡くし、母は国鉄駅員と再婚。尾道市立筒湯小学校(現・尾道市立久保小学校)、福山誠之館中学を経て、第六高等学校に入学。同級生に星野直樹次男の星野良二。 1942年(昭和17年)東京大学法学部に入学。同級生に志垣民郎。高等学校の教師の伝手で法制局参事官の長村貞一の邸宅に下宿していた。1943年(昭和18年)12月末に学徒出陣に召集され、歩兵第11連隊補充隊(広島西部第2部隊)にて3か月間の普通教育を受けたのち、久留米第一予備士官学校に入学。
外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 -… 外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 - 2012年4月2日)は、日本の臨床心理学者、横浜市立大学名誉教授。 広島県福山市生まれ。旧制広島県立福山誠之館中学校、旧制水戸高等学校を経て、1941年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。1949年東京学芸大学助教授、1950年横浜市立大学助教授、1951年ロール・プレイング療法を日本に導入。1956年教授。1982年定年退官、名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 195… 永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 1957年5月17日)は、日本の医学者、生理学者、優生学者。 広島県賀茂郡下市村(現・竹原市)出身。終戦直後に外務次官を務めた河相達夫は実弟。 1902年、東京帝国大学医科大学を卒業後、1903年よりドイツに留学。ゲッティンゲン大学で生理学者マックス・フェルヴォルン(Max Verworn)の薫陶を受け、冬眠動物の代謝生理の研究を行う。1906年に帰国、1915年には大沢謙二の後を継ぎ東京帝大医科大学生理学教室第2代教授となる。その前後から一般雑誌や婦人雑誌などに盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数発表している。1930年に日本民族衛生学会を設立、理事長として優生学研究の推進と国民優生法(1940年)の前身である民族優生保護法案の提出に大きな役割を果たした。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。