スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月… 森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月23日) - 1921年(大正10年)10月28日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系県知事、貴族院議員。 米沢藩下士・遠藤庄右衛門の二男として生まれ、秋田県書記官・森長義の養子となる。第一高等学校を経て、1893年7月、帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法官試補となる。同年11月、内務属となり警保局に配属された。 1894年6月、香川県参事官・第一課長兼第三課長に就任。以後、新潟県参事官、長野県・香川県・千葉県・和歌山・三重県・熊本県の各書記官、熊本県第一部長、静岡県第一部長などを歴任。 1907年10月、茨城県知事に就任。
香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は… 香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は、石川県出身の技師であり工学博士。黎明期の日本製鉄界を牽引し、日本鉄鋼協会会長も務めた。 旧加賀藩で与力を務めた香村金六の長男として1866年12月5日(慶応2年10月29日)金沢の柿木町で出生。1871年(明治4年)に幼くして父を亡くし同年9月に家督を相続。同地で中学まで過ごす。身体は弱いが勉強を得意とした小録は1884年(明治17年)9月に東京大学予備門へ入学。第一高等学校に移った後、1889年(明治22年)9月に東京帝国大学工科大学へ進学。1892年(明治25年)7月に同大学採鉱冶金科を卒業して農商務省に入省すると、技師試補として製鉄事業調査会の事業であった耐火煉瓦の調査研究に従事した。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5… 浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5月22日) - 大正3年(1914年)11月10日)は、日本の英語学者、エスペランティスト、聖書学者。 徳山藩の家に生まれ、京都中学校を1883年7月に同校を優等賞にて卒業。その後、上京し、東京英和学校(現:青山学院)を経て、1886年に工部大学校予科を優等賞にて卒業。学制改革に伴い、第一高等学校を経て、帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)へ進学。キリスト教に対する信仰心の高まりもあり、中退後に渡米しノースウェスタン大学にて神学と言語学を学ぶ。1893年、シカゴ大学にて第一号となる博士号を取得した(博士論文:旧約聖書ゼカリヤ書(第1章 - 第8章)の原典比較研究)。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2… 堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2年11月28日) - 没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる。 1885年(明治18年)東京大学理学部卒業。1891年(明治24年)、衛生試験所技師。第一高等学校教授。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた。 1914年(大正3年)5月に尾張徳川家の家令となると、前年に東京麻布区富士見町に新居を構えていた同家第19代当主・徳川義親の意を受けて、名古屋市大曽根から東京への拠点移転に向けて、家政改革を進めた。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857… 中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857年11月15日) – 大正13年(1924年)3月21日)は、日本の日本の官僚。会計検査院長。位階および勲等は従二位・勲一等。 安政4年9月29日、佐賀藩士中隈武雅と母乕子の二男として生まれた。1871年に藩の推薦で東京に出た。大学南校を経て、1880年、東京大学理財政治学科を卒業した。 会計検査院に出仕したが、まもなく大蔵省御用掛に転じ、さらに農商務省御用掛、東京山林学校(のち東京農林学校)教授を務めた。1886年、大蔵権少書記官となり、1889年には第一高等学校教授を兼任し、理財学を担当した。その他、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)講師・専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(18… 吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(1856年1月23日) - 1928年(昭和3年))は戦前日本のドイツ語教師。金沢藩貢進生、第一高等学校教授、独逸学協会学校附属独逸語専修学校講師。 安政2年12月16日(1856年1月23日)武蔵国江戸下谷御徒町に加賀藩士吉田淳一郎の子として生まれた。幼名は幸太郎、後に謙之助、謙次郎。 明治3年(1870年)前田肇、桜井房次郎と共に金沢藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、安東清人、保志虎吉、関澄蔵等とドイツ語を専攻した。 明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった。
久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11… 久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11月28日〉 - 1919年〈大正8年〉11月21日)は明治時代から大正時代にかけての日本の化学者。理学博士。 東京大学理学部・医学部教授、第一高等学校校長、東京化学会(後の日本化学会)会長、京都帝国大学理工科大学長、京都帝国大学総長。帝国学士院会員。専門は有機化学。業績にベックマン転位の研究など。 1855年(安政2年)、代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。なお躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。津山藩の藩校で漢文や数学を、1868年(明治元年)からは箕作麟祥の塾で英語を学んだ後、1870年(明治3年)に全国から集められた貢進生の一人として大学南校(後の東京大学)に入学した。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
奥住 恒二(おくずみ つねじ、生年不詳 - 2015年5月1… 奥住 恒二(おくずみ つねじ、生年不詳 - 2015年5月16日)は、日本のアイスホッケー指導者。日本アイスホッケー連盟第4代会長を2011年7月1日から務めた。東京都青梅市出身。代表取締役社長も務めた奥住運輸は、福祉バスの事業化に成功している。 法政大学を卒業後、同大学や法政大学第一高等学校のアイスホッケー部のコーチ、国民体育大会東京成年代表監督などを務めた後、2009年から東京都アイスホッケー連盟会長を2011年5月まで務めた。明星大学、昭和大学、日本大学鶴ヶ丘高等学校でもコーチを務めた。 1964年に青梅市に人工スケート場が開設されたことから、東京都で最も古い小中学生アイスホッケーチームの西東京インディアンズをスタートさせた。
加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳… 加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳)は、大正から昭和期の教育者、翻訳家、編集者、軍事史学者。東京高等師範学校(現・筑波大学)で教え、アメリカの教科書を纂訳し出版したほか、軍事史学の翻訳書なども著した。 千葉県平郡、後の安房郡平群村(現南房総市)で生まれた。東京・築地の立教学校(現・立教大学)に入学し、英文学を修学する。第一高等学校大学予科を経て 1903年(明治36年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。その後、大学院に進み1914年(大正3年)4月、東京高等師範学校(現・筑波大学)教諭を務めた。 その後、翻訳家になり、大正期には、松宮春一郎(世界文庫刊行会主宰者、後の中央大学事務部長)と活動をともにして、水野葉舟とアメリカの教科書を纂訳し刊行したほか、複数の軍事史学の翻訳書を著す。
章 宗祥(しょう そうしょう)は、清末民初の政治家・外交官。… 章 宗祥(しょう そうしょう)は、清末民初の政治家・外交官。字は仲和。 抜貢の家庭に生まれる。1899年(光緒25年)、日本に留学し、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科に入学した。同時期に留学していた曹汝霖と親交を結んでいる。その後、明治大学でも法学士を修得した。 1903年(光緒29年)に帰国し、北京進士館教習、法律館纂修官となる。1905年(光緒31年)、董康と共に日本の刑法を訳出した。さらに、商部尚書載振による商法編纂を補佐し、憲政編査館編制局副局長に昇進している。1907年(光緒33年)、東三省総督に徐世昌が就任すると、これに随従した。 1909年(宣統元年)、北京内城巡警庁丞となり、その後、法律編纂局編修、内閣法制院副使を歴任した。
田村二郎(たむら じろう、1920年 - ? )は、日本の数… 田村二郎(たむら じろう、1920年 - ? )は、日本の数学者。 大阪府に生まれる。東京帝国大学理学部卒、1960年「開いたリーマン面上の有理型函数」で東京大学理学博士。第一高等学校講師、名古屋大学理学部助教授、東京大学教養学部助教授、教授。1968年教養学部長となるが、学園紛争のため69年退官する。
張 耀曽(ちょう ようそ)は中華民国の政治家・法学者。中国同… 張 耀曽(ちょう ようそ)は中華民国の政治家・法学者。中国同盟会に属した革命派の人物で、後に北京政府の要人となった。字は鎔西。ペー族(白族)。 公立京師大学堂(北京大学の前身)を卒業した後に日本に留学した。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。この間に中国同盟会に加入し、雑誌『雲南』の創刊に参加した。 辛亥革命が勃発すると、張耀曽は学業の途中で帰国する。帰国後は革命派の雲南代表として中華民国臨時約法の起草に参与した。臨時参議院が成立すると、議員兼法制委員長に任ぜられている。1912年(民国元年)、国民党に加入した。翌1913年(民国2年)には国会衆議院議員となり、後に憲法起草委員会委員となった。
水本 良則(みずもと よしのり)は、日本の国土交通技官。豊田… 水本 良則(みずもと よしのり)は、日本の国土交通技官。豊田市助役や、建設省東北地方建設局道路部長等を経て、矢巾町副町長を務めた。 岩手県紫波郡矢巾町北郡山出身。1970年岩手県立盛岡第一高等学校卒業。北海道大学大学院工学研究科修了後、1976年建設省入省。関西国際空港工務二部企画課長を経て、1991年建設省中国地方建設局岡山国道工事事務所長。1993年建設省道路局地方道課建設専門官。 1995年豊田市助役。1998年国土庁大都市圏整備局特別整備課関西文化学術研究都市建設推進室長。1999年建設省東北地方建設局道路部長。2001年環境事業団環境緑地事業部長。2004年国土交通省大臣官房付、即日辞職。
伊原 敏郎(いはら としお)、1870年5月24日(明治3年… 伊原 敏郎(いはら としお)、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1941年(昭和16年)7月26日)は、日本の演劇評論家、劇作家。 青々園(せいせいえん)という筆名を使用したため、伊原青々園としても知られる。 島根県松江市に、旧松江藩士の子として生まれ、伊原家としては10代目であった。第一高等学校中退、1893年二六新報に入社、青々園の名で劇評を書く。坪内逍遥と親しくなる。 1896年都新聞に入社した。1900年三木竹二と『歌舞伎』を創刊、さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で1933年朝日文化賞を受賞した。また、この三部作により、1936年(昭和11年)に早稲田大学より文学博士号を授与される。