スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は… 関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は、高知県長岡郡大篠村(現 南国市)の社会教育家。 社会教育家。明治18年10月29日長岡郡大篠村 大そね乙1746(南国市)に生まれる。父可通、母喜代。県立第一中学校をへて、第一高等学校3年を中退する。高知市に無料施療所を開設し、大正6年頃には高知県連合青年団を結成して副会長 となり、長岡郡連合会長を兼任した。処女団を創設、部落解放運動として部落内青年団、処女団運動を起こす。からわら貧しい優秀な青年には学資を提供した。大正8年県会議員に当選。また大篠村長 や修養団高知県連合会 理事を務め希望社や生長の家にも関係する。こうした運動に 30町歩ほどの所有地を投入した。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 19… 川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 1959年7月4日)は、日本の歴史学者。 1884年、茨城県東茨城郡磯浜村(現在の大洗町)に生まれた。1904年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学史学科に入学。黒板勝美や当時講師であった三浦周行らの指導を受ける。1907年に卒業し、黒板勝美の紹介で、経済雑誌社の嘱託として『続国史大系』と『続群書類従』の校訂・校正に携わる。また、大学院に進学し「荘園ノ研究」を研究課題とした。 1912年から1915年3月まで名古屋市史編纂員を務め、1917年12月には、毛利家が毛利元就、吉川元春と小早川隆景の伝記を編纂するために設置した三卿伝編纂所に入所し、史料調査にあたる。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。 矢野真三郎の三男として、福岡県朝倉郡(後の朝倉市)に生まれる。炭鉱経営者の篤志家佐藤慶太郎の無条件の奨学金支援によって、福岡県立中学修猷館、東京府立第一中学校を経て、1907年(明治40年)、第一高等学校英法科を首席で卒業し、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する(銀時計)。 1911年(明治44年)、高等文官試験行政科を首席合格して東京府試補となり、翌1912年、オックスフォード大学に留学。1913年(大正2年)に帰国して高等文官試験外交科を首席合格し、1914年(大正3年)、外交官補としてイギリスに在勤する。
時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月… 時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月6日 - 1929年(昭和4年)2月7日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選県知事。 広島県甲奴郡上下村(現府中市)出身。時永清吉の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進学。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年5月、統監府属として渡韓した。 1910年10月、朝鮮総督府取調局属となる。以後、同取調局事務官、同道事務官・平安南道在勤、京畿道在勤、同事務官・総務局総務課長、兼同参事官、同内務部第二課長、同済世院庶務課長事務嘱託、同警務官兼同警視、同警務総監部保安課長、同兼警務総監部高等警察課長事務取扱、同事務官、兼同参事官などを歴任し、1922年1月、朝鮮総督府監察官に就任。
吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - … 吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - 1958年12月7日)は、日本の歌人、政治家。 1884年、千葉県印旛郡(現・印西市)の農家に、父庄一郎、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される印旛沼の氾濫に悩まされていた。1892年、父の庄一郎が埜原(やわら)村の村民47戸を率いて、妻とともに北海道石狩国雨竜郡に移住。開墾し、雨竜村和(やわら)(現・北竜町字和)を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父(庄之輔)、祖母のもとで育てられた。開成中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法科経済学科を1916年に卒業。1921年に父の経営する中央新聞に文芸部長として入社する。
大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22… 大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22日 - 1975年(昭和50年)12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。 1884年、東京市日本橋区生まれ。神田練塀小学校から東京開成中学校、第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1921年、東京帝国大学文学部助教授に採用される。1915年に東京帝国大学に日本城郭史の研究を提出して文学博士の学位を授与された。1937年5月8日、帝国学士院会員に選出。1924年、東北帝国大学教授に転任。ヤーコプ・ブルクハルトを学んで西洋中世史、ルネッサンス史に先駆的業績をあげた。1944年に東北帝国大学を退官し、日本女子大学教授となった。
木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日… 木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日 - 1959年〈昭和34年〉6月27日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系県知事、台湾総督府総務長官、衆議院議員。 長野県上伊那郡中箕輪村(現:箕輪町)に木下彦四郎の四男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し内務省に入省、長野県属となる。 以後、熊本県鹿本郡長、同上益城郡長、長野県小県郡長、同県理事官、秋田県警察部長、北海道庁拓殖部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1924年(大正13年)6月、鳥取県知事に就任。
橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 … 橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 - 1936年〈昭和11年〉4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄。 1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる。 1901年(明治34年)、開成中学校を卒業。同級生には斎藤茂吉がいた。同年、第一高等学校に進学。
長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)… 長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)1月7日 - 1945年(昭和20年)8月25日)は、日本の内務官僚。 東京府知事や警視総監を歴任。 旧唐津藩士・長谷川芳之助(一刀流の使い手である長谷川善兵衛久徴の子)の長男として岡山県で生まれる。第一高等学校を卒業。 1907年(明治40年)、東京帝国大学法科政治科を卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入る。内務書記官、内務参事官、三重県警察部長、千葉県警察部長、警視庁第二部長、警視庁保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、内務省土木局長を歴任。 1923年(大正12年)10月25日、1924年(大正13年)6月24日、石川県知事を務める。
鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈… 鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1952年〈昭和27年〉9月10日)は、日本の紡績技術者、実業家。日清紡績第3代社長。 新潟県新潟市本町通14番町(現 新潟市中央区本町通14番町)の鷲尾甚平の長男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1908年(明治41年)9月に日清紡績に技師として入社、見習生、主任を経て、1915年(大正4年)12月に高岡工場長に就任、1917年(大正6年)2月から東京紡績の創立とともに工務部長として工場建設に従事。
宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月… 宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月12日 - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 愛媛県大内郡水主村(現在の香川県東かがわ市)出身。宮脇清吉の五男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、統監府判事となり、晋州、大邱、京城の各裁判所で勤務。 1913年6月、内務省に転じ埼玉県理事官・内務部学務課長に就任。以後、福井県警察部長、和歌山県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、宮城県内務部長、広島県書記官・内務部長、石川県書記官・内務部長などを歴任。
寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 … 寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 - 1961年(昭和36年)7月16日)は、日本の農学者。東北帝国大学教授。貴族院勅選議員。参議院議員(緑風会)。農学博士。日本学士院賞受賞。 静岡県出身。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業(恩賜の銀時計授与)、農商務省に入った。農事試験場技手、同技師、農林技師を歴任。この間、水稲の耐寒品種である陸羽132号の交配、育成を行った。1941年(昭和16年)に農事試験場長に就任。同年に東北帝国大学教授・農学研究所長を兼ねた。1944年(昭和19年)、「水稲冷害の生理学的研究」で日本学士院賞受賞。
川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月1… 川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月15日 - 1946年 〈昭和21年〉10月1日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、高知市長、衆議院議員。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第7代会長。旧姓は宮崎。姓は川渕とも表記される。 高知県高岡郡窪川町(現・四万十町)生まれ。宮崎文次の二男として生まれ、川淵龍起の養子となる。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(明治45年)、内務省に入り警視庁警部に任官。 以後、警視庁警視、月島警察署長、台湾総督府警視、山形県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、警視庁書記官・警務部長、警察講習所教授兼内務省参事官などを歴任。
浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7… 浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7月30日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 東京府北豊島郡滝野川村(後の東京都北区)出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業。滝野川町会議員、北豊島郡会議員、東京府会議員、同参事会員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選。続く第15回衆院選でも再選を果たす。その他、帝国種苗殖産株式会社取締役を務めた。 日本福祉大学教授でソーシャルワーカーの浅賀ふさは妻。東京で小栗飛行学校を開いた小栗常太郎は義兄、その実父で酒造や銀行業、紡績業などを手広く営んだ豪商の小栗富治郎は義父に当たる。
池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月2… 池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月24日 - 1962年(昭和37年)5月23日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・千坂。 本籍・岡山県。内務官僚・千坂高雅の六男として生まれ、男爵・池田長準の養子となる。養父の死去に伴い、1913年(大正2年)4月10日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、三井銀行に入行。以後、日本鉄工取締役、富士護謨工業取締役、山城銀行頭取、桑船銀行取締役、萩電灯取締役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明… 矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵。 横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され公正会に属して活動した。
芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月… 芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。 千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任。
別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5… 別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5月17日 - 1931年(昭和6年)5月16日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 山口県豊浦郡滝部村(豊北町を経て現下関市豊北町大字滝部)出身。別府玄三の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り福岡県試補となる。 以後、福岡県理事官、群馬県理事官兼視学官、内閣書記官兼国勢院書記官、法制局参事官、拓殖事務局長などを歴任。 1924年6月、島根県知事に就任。1926年9月、奈良県知事に転じた。1927年5月、栃木県知事に就任。
鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 19… 鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 1923年6月6日)は、日本の工学者。明治から大正期の通信工学の権威である。無線電話機の発明に成功し、逓信省電気試験所長をつとめた。工学博士。 秋田県北秋田郡花岡村(現大館市)で酒造業を営む鳥潟平治の長男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所に入所し、通信工学(特に無線通信)の研究に従事。当時、無線通信で主流であったコヒーラ検波器は通信距離が短いうえに安定しない問題があったが、1908年にタンタラム検波器を、1909年に鉱石検波器を発明し、飛躍的に無線通信機の性能を向上させた。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月1… 前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月10日 - 1943年(昭和18年)4月10日)は、日本の逓信官僚。 三重県出身。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。翌年に高等文官試験に合格した。逓信局書記、通信事務官補、通信副事務官、逓信局副事務官、逓信局事務官、逓信書記官を歴任し、その間に和歌山郵便局長、京都中央電話局長、北海道逓信局総務部長、熊本逓信局監察課長、同監理課長、東京逓信局規画課長を務めた。さらに逓信局電話課長、電務局規画課長などを歴任。1927年(昭和2年)、仙台逓信局長に就任し、大阪逓信局長、東京逓信局長も務めた。1933年(昭和8年)、退官。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)1月10日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外科医。東京医学専門学校教授、順天堂医学専門学校教授を歴任し、日本外科学会会長。東京府日本橋区出身。 1883年(明治16年)1月、日本橋区の樋口家に生まれる。 1905年(明治38年)7月、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学福岡医科大学に進学して、順天堂副医院長で順天堂医院第2代医院長佐藤進の養子である佐藤恒久の養子になる。1907年(明治40年)義父恒久が死去する。1909年(明治42年)12月、福岡医科大学を卒業し、卒業後は福岡医科大学外科(三宅速教授)に入局。1912年(大正元年)よりドイツ・イギリス・ベルギー・オランダに留学しゲッティンゲン大学やベルリン大学で病理学・肺外科の研究に従事し、第一次世界大戦勃発により1914年(大正3年)帰国した。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
池田 魁(いけだ かい、1882年(明治15年)12月10日… 池田 魁(いけだ かい、1882年(明治15年)12月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。東京市豊島区長。 鹿児島県大島郡住用村(現在の奄美市)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、朝鮮総督府逓信局に勤務した後、鎮南浦府尹を務めた。 1932年(昭和7年)、東京市に入り、芝区会計課長を経て、豊島区長に就任した。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明… 加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明治15年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 現在の山形県米沢市出身。加勢清隆の二男、あるいは三男。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し秋田県警視となる。 以後、秋田県事務官、新潟県事務官、埼玉県警察部長、新潟県警察部長、愛知県内務部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1926年9月、宮崎県知事に就任。日向カボチャの宣伝を行った。1927年5月、高知県知事に転任。
細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 195… 細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 1950年11月20日)は、日本の俳人。医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。 1882年4月、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。旧制第一高等学校、東京帝國大学医科大学を卒業。 最初は定型俳句の俳人として「一高俳句会」に所属。のち新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、また荻原井泉水とも交流する中で新傾向、自由律俳句に傾倒する。新傾向俳句機関誌『層雲』の同人となり、のちに自由律俳句誌の『海紅』創刊にも参加。古くからの碧門だったが、碧梧桐が海紅離脱後に立ち上げた『碧』や『三昧』にはついて行かず、中塚一碧楼が主宰となった海紅に残った。それでも1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤状態に陥ると真っ先に見舞いに詰めかけている。
本山 文平(もとやま ぶんぺい、1882年4月 - 1980… 本山 文平(もとやま ぶんぺい、1882年4月 - 1980年9月13日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本統治時代の台湾及び日本の官僚。 新潟県出身。第一高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学を卒業。台湾総督府に入り専売局属となる。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1924年の奉令で常吉徳寿の後を引き継いで台湾台中州の知事となった。管轄は、現在の台中市、台中市、彰化県、南投県などの地区。1926年10月、警務局長に転じ、1928年7月まで在任した。 後に内地に戻り、1929年には大分県知事に任命され、翌1930年には熊本県知事に転任した。1931年12月18日に休職。
山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月… 山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月 - 1945年〈昭和20年〉3月25日)は、日本の内務・農商務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・奥、旧名・堅次。 鹿児島県川内市(薩摩川内市)出身。奥斎之助の二男として生まれた。1900年(明治33年)、山岡国吉の養子となり、1930年(昭和5年)、名を国利と改名。 第一高等学校を首席で卒業。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し山形県属となる。 以後、警視庁方面監察官、農商務大臣秘書官兼農商務省参事官、同省山林局書記官、同事務官、三重県警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長、内務省土木局河川課長などを歴任。
吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月… 吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月28日 - 1961年〈昭和36年〉11月3日)は、日本のドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。 新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年(明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。 1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂で日本人が初めて上演した歌劇、グルック作曲のオペラ『オルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎、乙骨三郎、近藤逸五郎たちと4人で担当した。 1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊、夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年… 倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年1月9日)は、日本の建築家。明治末期から昭和初期にかけて九州帝国大学技師を務め、九州大学(箱崎キャンパス)の校舎を多く設計したことで知られる。 1881年(明治14年)、東京生まれ。第一高等学校(旧制)を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)。 京都市嘱託技師、東京高等工業学校講師を経て、1911年(明治44年)11月、創設されたばかりの九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に当たる。その後、1918年(大正7年)、臨時建築掛が建築課になるとその初代課長に就任。
長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日… 長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月21日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、警視総監。 静岡県敷知郡浜松常盤町(浜名郡浜松町大字常盤を経て現浜松市中央区常盤町)出身。長唯連の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1907年に京都帝国大学法科大学を卒業。文部省に入り普通学務局属となる。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省普通学務局第三課長を務める。 内務省に移り、香川県事務官、高知県事務官・警察部長、山梨県警察部長、福岡県警察部長兼港務部長、大分県・山口県・京都府の各内務部長などを歴任。 1922年6月、岡山県知事に就任。
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日… 宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日 - 1946年(昭和21年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。大蔵官僚。 千葉県印旛郡、のちの白井村(白井町を経て現白井市)出身。宇賀平兵衛の四男として生まれた。1904年(明治37年)第一高等学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省専売局で主事、副参事、参事、事業部塩脳課長を歴任した。1924年(大正13年)、台湾総督府専売局長に転じ、1928年(昭和3年)に退官した。1931年(昭和6年)には台北州知事に起用された。その後、台湾電力株式会社理事に就任した。
乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家・音楽教育者。 1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に東京府牛込区牛込横寺町(現・東京都新宿区横寺町)で生まれた。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった。 開成中学卒業後、1898年、第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、カール・フローレンツ、ラファエル・フォン・ケーベルらの薫陶を受ける一方、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成。
斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月… 斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月1日 - 1939年(昭和14年)12月20日)は、日本の内務官僚、弁護士。府県知事。 静岡県出身。第一高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り山林属となるが、内務省に転じ、1910年、岐阜県山県郡長に就任した。 以後、群馬県学務課長、山形県警察部長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、高知県・熊本県の各内務部長などを歴任。 1923年10月、宮崎県知事に就任。さらに、熊本県・大阪府の各知事を務める。1932年6月、京都府知事に就任。不況下の中小商工業者の救済に尽力し「産業知事」と呼ばれた。
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 19… 藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 茨城県古河市に生まれる。号は獅埼庵、獅子庵。父方祖父の五郎左衛門は旧古河藩国家老。江戸家老鷹見泉石は母方の曾祖父である。 第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本絵画史を専攻した。1914年以降は同大学文学部副手となり、そのかたわら、岡倉天心らが創刊し瀧精一を主幹とする、日本および東洋古美術研究誌『國華』の編集部員を1911年から勤め、広く美術工芸品への知識を得ていった。また女子美術学校、日本大学の講師、1917年國學院大學教授となる。
吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月2… 吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月25日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 高知県出身。第一高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1907年(明治40年)統監府財政監査庁に入り、書記官となった。その後朝鮮総督府道事務官となり、平安北道第二部長、慶尚北道第一部長、仁川府尹を歴任し、1921年(大正10年)から京城府尹を務めた。
平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1… 平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1950年12月10日)は、日本の裁判官。 広渡寺住職、飯能学校教員を務めた平山鳳琳の長男。母は飯能焼の絵付師腰塚小四郎の娘。埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身。飯能小学校高等科、麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学法科を経て、裁判官になった。 浦和地方裁判所判事、那覇地方裁判所長、横浜地方裁判所長、鳥取地方裁判所長、松江地方裁判所長などを勤めた。高等官一等正四位勲三等。69歳で死去した。
松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12… 梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12月2日 - 1936年〈昭和11年〉9月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 兵庫県養父郡畑村(現・養父市)で、梅谷伊平の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し警視庁警部となる。 1910年(明治43年)11月、警視庁警視に昇進。以後、岩手県警察部長、栃木県警察部長等、警察畑の要職を歴任した。1916年6月、台湾総督府に転出し、警視・民政部警察本署保安課長に就任。その後、警察官及司獄官練習所長事務取扱、台北庁長、総督府事務官、兼参事官、新竹州知事などを歴任。
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
日比 重雅(ひび しげまさ、1880年(明治13年)6月 -… 日比 重雅(ひび しげまさ、1880年(明治13年)6月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選鳥取県知事。 本籍・三重県。内務官僚・日比重明の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し東京府属となる。 以後、山口県事務官、奈良県事務官、香川県事務官、香川県警察部長、和歌山県警察部長、三重県警察部長、岐阜県内務部長、静岡県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。 1922年10月16日、鳥取県知事に就任。政府の方針に従い財政緊縮政策を実施した。1924年6月24日、知事を休職となる。1926年6月23日、休職満期となり退官した。