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梶山 純(かじやま じゅん、1930年(昭和5年)5月 - … 梶山 純(かじやま じゅん、1930年(昭和5年)5月 - )は、日本の法学者。専門は商法。八幡大学名誉教授。長崎県国見町出身。 長崎県立長崎中学校 (旧制)3年生の時に原爆を体験する。第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1953年九州大学法学部法律学科卒業。その後九州大学大学院助手を経て、1960年八幡大学法経学部講師に就任、以後助教授、教授を歴任。2003年九州国際大学より名誉教授の称号を受く。
宮久 三千年(みやひさ みちとし、1928年 - 1983年… 宮久 三千年(みやひさ みちとし、1928年 - 1983年2月6日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・鉱物学。大分県生まれ。 旧制第七高等学校造士館を経て、1952年に九州大学理学部地質学科を卒業。その後、九州大学工学部採鉱学科応用地質学講座の木下亀城の指導を受け、1957年3月まで大学院に在籍。1957年5月、愛媛大学文理学部助教授として赴任し、1969年に同大学理学部教授に昇進。1980年4月以降、病気療養のため休職した。「尾平式鉱床に伴う鉱石鉱物の組織と共生」で、1962年、九州大学より工学博士の学位を取得。 卒業論文以来、一貫して大分県尾平鉱床地域を中心とした九州地方の各種金属鉱床の研究に精力を傾け、数多くの論文を発表した。
海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2… 海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2006年5月4日)は、日本の地理学者(東洋地理学史)。大阪大学名誉教授。 1921年、静岡県浜松市生まれ。第七高等学校造士館を経て、京都帝国大学文学部に進学。史学科地理学専攻で小牧実繁、室賀信夫に師事した。1945年に同大学文学部を卒業。卒業後は岐阜県の中学校教員となった。 1948年、大阪第二師範学校の教員となった。その後、大阪学芸大学講師、後に助教授昇格。1963年、大阪大学教養部教授となり、人文地理学講座を担当した。1985年に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、大阪清浄女子短期大学で教鞭をとり、1991年に退任した。
横山 保(よこやま たもつ、1921年5月28日 - 199… 横山 保(よこやま たもつ、1921年5月28日 - 1996年7月30日)は、日本の経済学者・統計学者。大阪大学名誉教授、高岡短期大学初代学長・名誉教授。博士。数理経済学者として日本の戦後初期の経済学発展に大きく貢献した。 神奈川県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類に1940年4月入学、1942年9月卒業。東京帝国大学理学部数学科に1942年10月入学、1945年9月卒業。1946年2月1日に関東学院中学部講師嘱託となり、6月1日に関東学院工業専門学校講師に転任、12月1日に同校教授に昇任し1949年3月31日まで務める。1949年度は新制静岡県立富士高等学校に教諭として勤務。
高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 201… 高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 2019年1月30日)は、放射光科学を専門とする日本の物理学者。鹿児島市出身。東京大学及び高エネルギー加速器研究機構名誉教授。動力学X線回折理論の研究により、放射光科学と結晶学の発展に貢献した。また後年は、産学連携や高等教育におけるインターンシップ制度の推進にも尽力した。 フォトン・ファクトリー施設長、日本結晶学会会長、日本放射光学会会長、学校法人筑波研究学園理事長、総合科学研究機構理事長、日本インターンシップ学会会長を歴任した。 高良大社の宮司の家に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、九州帝国大学理学部物理学科卒業。
福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 20… 福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 2012年3月28日 )は、日本の医師、医学者。内科医。医学博士。心筋梗塞研究の権威だった。 鹿児島県の奄美大島名瀬の生まれで、大島郡龍郷町出身。1942年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1945年九州帝国大学医学部を卒業して、操坦道教授の第一内科に副手として入局し、1951年九州大学第一医学部内科助手。1952年鹿児島市立病院内科医長に就く。1953年九州大学より医学博士授与。論文の題は「抗痙攣剤の人体脳波に及ぼす影響について」。1955年1月鹿児島大学医学部第一内科助教授に就任。鹿児島大学助教授を長く務めた後、再び鹿児島市立病院に転じて循環器内科部長。
中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1… 中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1996年3月9日)は、日本の物理学者、物性学者。鹿児島大学第4代学長・名誉教授、大分大学(旧)第5代学長、鹿児島女子大学(志學館大学)第3代学長。理学博士。専門は固体物性学。 長崎県出身。広島文理科大学(広島大学の前身)理学部物理学科へ1939年春に入学し、1941年12月に卒業。勝山小学校訓導兼旧制長崎県立長崎中学校物理学非常勤講師を経て、1944年、旧制第七高等学校造士館教授に就任。勤労動員で長崎の三菱工場へ行って、原子爆弾に被爆し、偶然トンネルに入っていたため自身は一命をとりとめる。 学制改革により、1950年3月31日、新制鹿児島大学文理学部助教授に就任。
服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1… 服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1992年5月12日)は日本の植物学者である。南九州の蘚苔類の研究で知られる。 宮崎県日南市飫肥に生まれた。第七高等学校を経て東京帝国大学理学部に入学し、卒業後東京科学博物館(現、国立科学博物館)で働いた。1946年に、家業の林業を継ぐため帰郷し、日南市に服部植物研究所を設立した。林業の傍ら、当時、研究がほとんどなされていなかった蘚苔類の研究を行い、南九州に分布する蘚苔類の分類学的研究を行い、その後日本各地、アジアやニューギニアの蘚苔類の研究も行った。服部植物研究所は蘚苔類の国際的な研究センターになった。胞子体がなく特徴的な配偶体をもつナンジャモンジャゴケ(Takakia lepidozioides)を記載したことでも知られる。
新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 20… 新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 2012年3月12日)は、日本の医学者・精神科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。長男は医学者で神戸大学名誉教授の新福尚隆。 鹿児島県鹿児島市生まれ。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1937年九州帝国大学医学部卒業、下田光造に師事。1947年「ショック療法の精神病理学的研究」で九州帝国大学より医学博士の学位を取得。 台北帝国大学医学部精神科助手、陸軍軍医(高雄)、鳥取大学医学部助教授などを経て、1952年同教授。1966年東京慈恵会医科大学教授、1979年定年退職、名誉教授。アルコール医学会長、交通科学会長、心身医学会長、国際老年精神医学会名誉会長など。
築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1… 築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1992年4月7日)は、日本の社会心理学者、元東京大学東洋文化研究所教授。 鹿児島県生まれ。1934年旧制第七高等学校造士館文科卒業。1941年東京帝国大学文学部心理学科卒、同年東京府立第三商業学校教諭、1943年東京帝国大学東洋文化研究所助手、1951年専任講師、1962年「文学心理学基礎論」で東洋大学文学博士、1968年東京大学東洋文化研究所教授、1971年定年退官、成城大学文芸学部教授、1980年退職。日本社会心理学会理事長を務めた(1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)。 次第に日本文化論に関心を移した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 199… 田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 1992年8月29日)は、日本の社会学・社会福祉学者。 鹿児島県出身。1933年旧制第七高等学校造士館文科卒業。東京帝国大学卒。厚生省児童局企画課で、1949年アメリカに学び、1951年の児童憲章制定に関わる。1961年「公的扶助の現状と問題点」で東北大学文学博士。1960年東北大学文学部助教授、1964年教授、1974年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授、1975年立正大学教授を務め、81年退職。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- )は、日本の船舶工学者、歴史家。 1928年旧制第七高等学校造士館理科甲類卒業。1931年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。逓信局管船局に入る。東京高等商船学校教授(兼)、海務院船舶部、海軍艦政本部(商船班)、運輸省船舶局(検査制度課長)、東京大学工学部(船舶工学科)講師、川崎重工業株式会社技術顧問、日本船舶振興会及び日本海事科学振興財団(船の科学館)勤務。1977年度交通文化賞受賞。
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 198… 日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した。この間、転倒温度計(英語版)に関する日高公式を作成した。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた。
隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 -… 隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 - 1978年1月25日)は、美術史家。近代日本美術の研究に貢献。 鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字中(現在の鹿児島市鴨池)出身。1924年旧制第七高等学校理科卒業。1928年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、1931年大学院西洋美術史専攻中退。1932年帝国美術院附属(1947年から国立博物館附属)美術研究所入所。1951年美術研究所第二研究部長となり、1952年の改組によって東京文化財研究所(1954年東京国立文化財研究所と改称)美術部第二研究室室長、1966年退職。1966年から1974年まで東京家政大学教授。その他、文化財保護審議会専門委員、東京国立近代美術館評議員も務めた。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 … 木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 - 1996年(平成8年)9月1日)は、日本の植物学者。 ヤナギ科の分類を大成した植物学者として知られているとともに、旧制第七高等学校造士館に在学中に原始的な形態を持ち生きている化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集し、同一個体から得られた標本を比較することで葉の形態の季節変異の著しいヤナギ科の分類の確立に努めた。 1958年(昭和33年)8月、昭和天皇の採集品を鑑定するために那須御用邸に招かれる。翌月には、他の有識者とともに天皇から植物に関する質問を受けたほか座談会に参加。
小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1… 小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1968年12月21日)は、日本の心理学者。 岩手県二戸郡福岡町(現在の二戸市)出身。旧制福島中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年東京帝国大学文学部心理学科卒業。東京高等学校教授、日本大学教授、1945年東京文理科大学教授、1949年東京教育大学教授、1963年日本大学文理学部教授を歴任。 1952年「認識錯誤の法則に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。視知覚の研究で小保内学説と呼ばれる感応理論を創設。
正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月… 正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月22日 - 1993年(平成5年)6月18日)は、日本の植物学者。理学博士。 岡山県和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)に生まれる。旧制第七高等学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学理学部植物学科を卒業後、台北帝国大学理農学部助手となり、1934年(昭和9年)には同大助教授兼農林専門部教授となった。太平洋戦争後は、一時、横浜国立大学で勤務した後、1950年(昭和25年)金沢大学に赴任。金沢大学理学部(現・金沢大学理工学域)植物分類・地理学講座の初代教授を務めた。 ボルネオと台湾の植物誌の編纂、ラン科植物の分類などを行うと同時に、植物地理学的な研究も行った。
森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14… 森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14日-1961年(昭和36年)2月4日)は、日本の農学者、農業工学者。専門は農業機械学。農学博士。九州大学教授。九州大学農学部長や日本学術会議会員を歴任。 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名出身。医師の父の六男として生まれる。阿木名尋常小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1919年(大正8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。東大の恩師のすすめで同年より東京帝国大学農学部講師。1924年(大正13年)7月28日、九州帝国大学農学部助教授となる。1933年(昭和8年)4月19日、論文「本邦在来犂ニ関スル研究」で北海道帝国大学より農学博士号授与(農業機械関係では日本初)。
木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 19… 木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 1974年1月14日)は、日本の鉱床学者・地球科学者。理学博士。九州大学名誉教授。福井県生まれ。 第七高等学校造士館を経て、1920年東京帝国大学理学部地質学科を卒業。工学部の平林武教授の指導を受け、ライフワークとなった黒鉱鉱床の研究に進む。卒業後、農商務省鉱務技手として仙台に勤務し、東北地方の金属鉱床の研究を行う。福岡鉱山監督局を経て、1925年商工省地質調査所に勤務。「小坂」「花輪」などの地質図幅を作成し、黒鉱鉱床生成の地質環境を研究。黒鉱鉱床アルカリ性溶液交代説で一世を風靡する。1929年アフリカおよびヨーロッパに出張。1931年黒鉱鉱床の研究により理学博士の学位を取得。
半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 19… 半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 1967年9月13日)は、日本の官僚、哲学者、陸軍軍人。 陸軍大阪衛戍病院院長を務めた軍医半田久雄・房子の長男として福岡県に生まれる。母・房子は、代々福岡藩の藩医を務めた原家の当主12代原三信(当主は代々「三信」を襲名している)の長女であり、13代原三信(原三信病院設立者)は伯父、14代原三信は従兄にあたる。敏治10才の時に房子は急逝している。 1909年福岡県立中学修猷館を卒業し、第七高等学校第一部甲類(英法)に入学するが、同年12月父に無断で高校を退学し、陸軍士官学校へ入学、1912年5月卒業する(24期生)。陸士の同期には甘粕正彦がおり、甘粕が満洲で亡くなるまで親交を続けた。
暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 196… 暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 1966年12月7日)は、日本の生理学者・産業医学者。日本における「労働科学」の創設者として知られる。 兵庫県生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館卒業後、1910年東京帝国大学に入学。1917年東京帝国大学医学部卒業。在学中は永井潜に学んだ。1918年警視庁保健衛生事務嘱託となり「細民街」を調査する。1919年大原社会問題研究所の創立に際して所員となり、紡績女工・労働者・農民・開拓民の生活・栄養の調査を行う。『日本社会衛生年鑑』の編集も担当した。1921年倉敷労働科学研究所を設立して所長に就任。同研究所は、のちに東京に移転して日本労働科学研究所(労研)と改称、財団法人化した。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年… 松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年不詳)は、日本の船舶工学者。 東京帝国大学第二工学部教授。東京大学工学部教授。 修猷館教諭を務めた松本豊太郎の長男として、福岡市に生まれる。1905年福岡県立中学修猷館、1910年7月第七高等学校造士館工科を経て、1913年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。 1913年三菱重工業に入社。1919年英国に留学し、神戸造船所参事、造船設計課長、造船設計部長を経て、1940年3月神戸造船所副長に就任。 1942年4月東京帝国大学に、第二次世界大戦が激化する当時の情勢下において、軍事産業を支える工学者や技術者を養成するために、第二工学部が設置されると、その教授に招聘され就任する。
岩井 誠四郎(いわい せいしろう、1886年11月 - 19… 岩井 誠四郎(いわい せいしろう、1886年11月 - 1963年7月)は、日本の医学者、京城帝国大学教授、朝鮮総督府医院医官、学位は医学博士。専攻は内科学。旧姓・木内。 旧制第七高等学校造士館を経て、1916年、九州帝国大学医科大学医学科卒業、同大助手。1921年、慶應義塾大学医学部助教授を経て、京城帝国大学教授に就任。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月… 今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月19日 - 1950年〈昭和25年〉4月7日)は、日本の医学者、内科学者。旧制東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位医学博士。 1883年、鹿児島県の士族今村明清の六男として鹿児島市にて生まれた。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館を卒業(第三部医科志望、第1回卒業生)。1909年12月東京帝国大学医科大学卒業。続けて同大学の病理学教室で研究、次いで大学附属医院に勤務。1919年東京帝国大学医学部講師嘱託となる。1921年12月8日、東京帝国大学より医学博士の学位を受領。1922年6月東京帝国大学医学部助教授に任じられる。
大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年(明治13年)… 大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年(明治13年) - 1938年(昭和13年))は、伝染性紅斑(通称:リンゴ病)を日本で初めて発見したとして知られる千葉県白子町(旧 関村)の医学者。 相模国三浦一族の流れをくむ大多和忠右衛門(旧関村初代村長)の四男。関小学校、旧制千葉中学校、旧制第七高等学校、九州帝国大学医学部(旧 京都帝国大学福岡医科大学)を卒業し、同大学附属病院で内科医、小児科医として勤務した。 1912年(大正元年)に、当時小学校低学年の子供に流行していた頬が赤くなる奇病「りんごほっぺ病(伝染性紅斑)」はウイルス性疾患であることを日本で初めて発見し、医学雑誌(第5病の2例. 児科雑誌, 149: 721-730, 1912)に報告した。
武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日… 武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日 – 1946年3月23日)は、日本のドイツ学者、ドイツ語教育者。東京外国語学校(旧制、現在の東京外国語大学)の教授として長年にわたり教鞭を執り、20世紀前半の日本におけるドイツ語教育の発展に寄与した人物である。 1873年(明治6年)2月3日、埼玉県草加町(現在の草加市)に、薬種商を営む武内作蔵と妻なみの次男として生まれる。東京帝国大学文科大学独逸文学科を1900年に卒業した。 同年、東京外国語学校の教授に任命された。1907年には第七高等学校造士館教授に転じ、1914年、再び東京外国語学校教授に就任した。1932年に同校を退官し名誉教授の称号を受けた後も、講師として1939年まで教壇に立った。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。