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山口 敏(やまぐち びん、1931年3月22日-2020年9… 山口 敏(やまぐち びん、1931年3月22日-2020年9月24日)は、日本の人類学者。 千葉県東金市出身。水戸高等学校 (旧制)卒、1954年東京大学理学部人類学科卒、59年同大学院生物系研究科博士課程単位取得退学。 1972年「アイヌとオーストラリア原住民の比較骨学的研究」で札幌医科大学・医学博士。1959年北海道公立学校教員、札幌医科大学講師、66年助教授、1972年国立科学博物館人類研究部主任研究官、78年部長。95年定年退官。
上妻 精(こうづま ただし、1930年10月31日 - 19… 上妻 精(こうづま ただし、1930年10月31日 - 1997年6月26日)は、日本の哲学研究者、東北大学名誉教授。ヘーゲルを専門とした。 1930年、愛知県名古屋市生まれ。旧制水戸高等学校1年修了。東京大学文学部倫理学科で学び、指導教官は金子武蔵であった。学科の同期には評論家の俵孝太郎、思想の科学研究会会長代行の後藤宏行、東京大学教授の谷嶋喬四郎、山口大学教授の山田洸がいた。1953年、東京大学文学部を卒業し、同大学大学院に進む。1960年、同大学院博士課程を中退。 卒業後は東邦大学助教授となった。1965年、成蹊大学助教授。1970年に教授昇進。1985年、東北大学文学部教授となった。1993年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 … 山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 - 2013年(平成25年)1月10日)は、日本の政治学者。専門は国際政治学、国際政治経済学。一橋大学名誉教授。吉野作造賞受賞。 千葉県千葉市生まれ。父・山本猛之助は、革新派弁護士の団体である自由法曹団に所属する弁護士。 旧制水戸高等学校文科乙類を経て、1950年(昭和25年)東京大学経済学部を卒業。 2013年1月10日、急性心不全のため死去。
大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 19… 大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 1992年7月23日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1948年水戸高等学校 (旧制)卒業。1953年中央大学法学部卒業、1955年同大学院法学研究科政治学専攻修士課程。1956年明治大学大学院政治経済研究科政治学専攻博士課程中退。1956年中央大学法学部助手。1960年同法学部助教授。1967年同法学部教授。中央大学では「政治学原論」「政治過程論」「地域政治」の講義を担当していた。1982年中央大学学生部長。1983年中央大学にて法学博士受く。1991年東京都知事選挙に日本社会党推薦で出馬。横山桂次、篠原一、吉武輝子らの推薦を受けたが落選。
山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 20… 山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 2024年6月17日)は、日本の評論家・哲学者。 1925年、山口県下関市生まれ。幼少期を下関、稚内、金沢、函館で過ごした。水戸高等学校で学び、1946年に京都帝国大学文学部哲学科に入学した。 卒業後は北海道第二師範学校助教授となった。東京大学出版会編集者などを務め、1959年より評論活動に入る。1962年「思想の科学」編集長。1965年には『危険な思想家』を出版。桃山学院大学教授を経て、1977年から1995年まで関東学院大学教授を務めた。1977年には作家の中山千夏らと革新自由連合を結成した。 1989年頃には神奈川県藤沢市辻堂に住んだ。
井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1… 井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1997年1月24日)は、日本の病理学者。専門は、実験腫瘍学・細胞遺伝学・組織培養。医学博士(東京大学・論文博士・1957年)(学位論文「腹水肝癌の銀線維」)。鹿児島大学教授等を歴任。 茨城県生まれ、旧制水戸高等学校から1946年東北帝国大学医学部卒業、同大大学院第1期特別研究生修了後、同大病理学教室副手。1949年、 佐々木研究所研究員となり、吉田富三所長の下、腹水肝癌などの細胞遺伝学的研究、組織培養法に関する研究に従事。1957年、東京大学より医学博士の学位を取得、学位論文の題は「腹水肝癌の銀線維」。 1958年、同研究所病理部長。1974年、鹿児島大学医学部第一病理学教室教授。
藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日… 藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日本の倫理学、明治教育史学者。 岐阜県長良村(現在の岐阜市)生まれ。父の仕事で長野県松本市、群馬県前橋市と転々とし、水戸高等学校卒、1939年東京帝国大学文学部哲学科卒、外務省に入る。1940-42年入隊。1943年東京女子高等師範学校嘱託としてドイツ語を教える。1946年山梨工業専門学校専任講師、1949年明治大学教養部助教授、1954年教授、ドイツでボルノーに学ぶ。1969年東京農工大学教授、1978年定年退官、立正大学文学部教授、1986年退職。
宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1… 宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1978年9月26日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。専攻は社会教育学。彼の教育学の核心は自己教育ととしての社会教育、共同学習と相互教育の連動であり、それを簡明に論説したのが戦前の「形成と教育」(1940)、戦後の「教育の本質」(1949)や「社会教育の本質」(1949)である(山田正行『平和教育の思想と実践』同時代社、2007年、参照)。 東京生まれ。旧制水戸高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業後、新興教育研究所、教育科学研究会で活動ののち、1940年法政大学講師。戦後は文部省社会教育局勤務などを経て、1953年東京大学教育学部教授。
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1… 平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。 上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学卒。1936年、国民精神文化研究所嘱託(- 1938年)、1939年、広島高等師範学校教授(- 1944年)、1944年、九州帝国大学法文学部教授、1951年同大学教育学部教授。1953年、九州大学教育学部長。 1960年日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年国立教育研究所長(- 1978年)。同研究所において『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日… 目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日 - 1994年〈平成6年〉4月30日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1904年、山口県岩国市で生まれた。。父母が相次いで早世し、中学生にして一家の長としての責任を負うことになった。水戸高等学校を経て、東京帝国大学支那文学科に入学。1929年に東京帝国大学を卒業。 卒業後は、1930年に第三高等学校教授となった。1931年に結婚。1933年、九州帝国大学助教授に任じられ、そのまま文部省在外研究員として北平に研究留学(1933年10月から1935年10月まで)。この留学期間中の記録として『北平日記』8冊を記していた。
大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月… 大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月2日 - 1977年(昭和52年)7月16日)は、昭和時代の日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。 茨城県水戸市に生まれる。麻布中学校、水戸高等学校を経て、東京帝国大学工学部造兵学科へ入学。化学機械を修め、恩師の大河内正敏の勧めで理化学研究所に入る。その後、1931年(昭和6年)台北帝国大学に赴任し、粉体工学の研究を行い、1940年(昭和15年)東京工業大学化学工学科助教授を経て、1942年(昭和17年)同大学教授、1958年(昭和33年)東京大学応用微生物研究所教授兼任、1960年(昭和35年)東京工業大学原子炉研究施設長、さらに1962年(昭和37年)より2年間同大学第6代学長を務める。
横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 19… 横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 1989年3月1日)は、日本の構造家、建築構造技術者。東京都出身。 旧制開成中学校、旧制水戸高等学校理科乙類を経て、1928年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。当時の建築学科教室主任教授であった佐野利器の指導推挙で日本銀行臨時建築部に勤務する。その後内務省、戦災復興院技官などで建築の構造設計監理を一貫して担当。 1950年に横山建築構造設計事務所を開設。前川国男との東京文化会館、東京都美術館、国立西洋美術館など、その他東京海上本社ビルなど、数多くの構造設計を担当した。 1964年藍綬褒章受章、1971年勲三等瑞宝章受章。 著書に、『世界のランドマークを求めて―建築構造設計論』(彰国社)、『遙かなる身と心との遍歴―紀行と随想』(1982年、相模書房)、『理念の追求と展開―建築構造設計論』(1979年)など。
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。