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山口 敏(やまぐち びん、1931年3月22日-2020年9… 山口 敏(やまぐち びん、1931年3月22日-2020年9月24日)は、日本の人類学者。 千葉県東金市出身。水戸高等学校 (旧制)卒、1954年東京大学理学部人類学科卒、59年同大学院生物系研究科博士課程単位取得退学。 1972年「アイヌとオーストラリア原住民の比較骨学的研究」で札幌医科大学・医学博士。1959年北海道公立学校教員、札幌医科大学講師、66年助教授、1972年国立科学博物館人類研究部主任研究官、78年部長。95年定年退官。
上妻 精(こうづま ただし、1930年10月31日 - 19… 上妻 精(こうづま ただし、1930年10月31日 - 1997年6月26日)は、日本の哲学研究者、東北大学名誉教授。ヘーゲルを専門とした。 1930年、愛知県名古屋市生まれ。旧制水戸高等学校1年修了。東京大学文学部倫理学科で学び、指導教官は金子武蔵であった。学科の同期には評論家の俵孝太郎、思想の科学研究会会長代行の後藤宏行、東京大学教授の谷嶋喬四郎、山口大学教授の山田洸がいた。1953年、東京大学文学部を卒業し、同大学大学院に進む。1960年、同大学院博士課程を中退。 卒業後は東邦大学助教授となった。1965年、成蹊大学助教授。1970年に教授昇進。1985年、東北大学文学部教授となった。1993年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
森川 俊夫(もりかわ としお、1930年1月7日 - 201… 森川 俊夫(もりかわ としお、1930年1月7日 - 2018年10月30日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。一橋大学名誉教授。トーマス・マンの作品を多く翻訳した。 東京生まれ。水戸高等学校卒、1953年東京大学文学部独文科卒業、熊本大学法文学部助手。1954年東大文学部助手。1957年電気通信大学専任講師。1961年一橋大学専任講師。西ドイツ・チュービンゲン大学に二年留学。1963年助教授。1971年教授。1992年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。2011年、瑞宝中綬章受章。 2018年10月30日、食道がんのため死去、88歳。叙正四位。
大池 文雄(おおいけ ふみお、1928年 - )は、日本の実… 大池 文雄(おおいけ ふみお、1928年 - )は、日本の実業家、マルクス主義者。 長野県小諸市生まれ。1947年旧制水戸高等学校文科甲類入学、梅本克己に師事。同校中退後、日本共産党水戸市委員長、同国際派全国委員会委員、同国際派・所感派統一後茨城県常任委員。1956年のハンガリー事件をめぐり中央と対立、58年同党除名。一方で、新茨城タイムス社、出版社論争社、日本ソノサービスセンター、太陽グリーンランド、裾野カンツリー倶楽部等を設立する。2005年事業から引退。同人誌『丁卯』主宰。
安東 仁兵衛(あんどう じんべえ、1927年6月5日 - 1… 安東 仁兵衛(あんどう じんべえ、1927年6月5日 - 1998年4月24日)は、日本の社会主義者。構造改革派の論客。筆名は笹田 繁(ささだ しげる)。 旧制水戸高校在学中の1948年に日本共産党に入党。東京大学在学中は、沖浦和光とともに東大細胞や学生運動のリーダーとして活躍。イールズ闘争に関与し、東京大学戦後初の退学処分を受ける。 その後、主に日本共産党の文京地区委員会の常任活動家として類いまれな行動力で党活動に献身。50年問題などを克服する過程では国際派の宮本顕治に期待を託し、日本共産党第7回大会での宮本書記長の実現に現場の活動家として貢献。 その後、日本共産党内の構造改革派の論客となり、1959年5月、長洲一二らとともに雑誌『現代の理論』創刊に参加(同年9月終刊)。
山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 … 山本 満(やまもと みつる、1927年(昭和2年)1月3日 - 2013年(平成25年)1月10日)は、日本の政治学者。専門は国際政治学、国際政治経済学。一橋大学名誉教授。吉野作造賞受賞。 千葉県千葉市生まれ。父・山本猛之助は、革新派弁護士の団体である自由法曹団に所属する弁護士。 旧制水戸高等学校文科乙類を経て、1950年(昭和25年)東京大学経済学部を卒業。 2013年1月10日、急性心不全のため死去。
大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 19… 大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 1992年7月23日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1948年水戸高等学校 (旧制)卒業。1953年中央大学法学部卒業、1955年同大学院法学研究科政治学専攻修士課程。1956年明治大学大学院政治経済研究科政治学専攻博士課程中退。1956年中央大学法学部助手。1960年同法学部助教授。1967年同法学部教授。中央大学では「政治学原論」「政治過程論」「地域政治」の講義を担当していた。1982年中央大学学生部長。1983年中央大学にて法学博士受く。1991年東京都知事選挙に日本社会党推薦で出馬。横山桂次、篠原一、吉武輝子らの推薦を受けたが落選。
山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 20… 山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 2024年6月17日)は、日本の評論家・哲学者。 1925年、山口県下関市生まれ。幼少期を下関、稚内、金沢、函館で過ごした。水戸高等学校で学び、1946年に京都帝国大学文学部哲学科に入学した。 卒業後は北海道第二師範学校助教授となった。東京大学出版会編集者などを務め、1959年より評論活動に入る。1962年「思想の科学」編集長。1965年には『危険な思想家』を出版。桃山学院大学教授を経て、1977年から1995年まで関東学院大学教授を務めた。1977年には作家の中山千夏らと革新自由連合を結成した。 1989年頃には神奈川県藤沢市辻堂に住んだ。
山極 圭司(やまぎわ けいじ、1925年3月23日 - )は… 山極 圭司(やまぎわ けいじ、1925年3月23日 - )は、日本近代文学研究者。 宮城県仙台市出身。旧制水戸高等学校卒、1949年東京大学文学部国文科卒。東京都立戸山高等学校教諭、白百合女子大学文学部教授。1996年定年。木下尚江を研究した。
髙崎 正義(たかさき まさよし、1924年〈大正13年〉 -… 髙崎 正義(たかさき まさよし、1924年〈大正13年〉 - 1993年〈平成5年〉7月4日)は、日本の建設技官。国土地理院長を務めた。 水戸高等学校理科を経て、1948年東京大学理学部地理学科を卒業後、建設院総務局企画課に任官。1978年国土地理院長。1986年度から1992年度まで日本地図学会会長を務めた。
井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1… 井坂 英彦(いさか ひでひこ、1922年10月31日 - 1997年1月24日)は、日本の病理学者。専門は、実験腫瘍学・細胞遺伝学・組織培養。医学博士(東京大学・論文博士・1957年)(学位論文「腹水肝癌の銀線維」)。鹿児島大学教授等を歴任。 茨城県生まれ、旧制水戸高等学校から1946年東北帝国大学医学部卒業、同大大学院第1期特別研究生修了後、同大病理学教室副手。1949年、 佐々木研究所研究員となり、吉田富三所長の下、腹水肝癌などの細胞遺伝学的研究、組織培養法に関する研究に従事。1957年、東京大学より医学博士の学位を取得、学位論文の題は「腹水肝癌の銀線維」。 1958年、同研究所病理部長。1974年、鹿児島大学医学部第一病理学教室教授。
和田 敏信(わだ としのぶ、1921年(大正11年)1月21… 和田 敏信(わだ としのぶ、1921年(大正11年)1月21日 - 2006年(平成18年)11月14日)は、石油資源開発社長、通商産業事務次官。位階は従三位。 山口県出身の鎌倉育ち。父は海軍中将・和田専三。水戸高等学校文科甲類を経て、1944年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1947年に商工省入省し総務局に配属。入省同期に、増田実(通産審議官)、森口八郎(通産審議官)、林信太郎、山口衛一(防衛庁装備局長、日本航空機開発協会特別顧問)など。
湊 徹郎(みなと てつろう、1919年11月24日 - 19… 湊 徹郎(みなと てつろう、1919年11月24日 - 1977年7月19日)は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(5期)。中曽根派。位階は従三位。勲等は勲二等。議員宿舎は、九段宿舎。 福島県田村郡三春町生まれ。水戸高等学校を経て、1942年、東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後、出征し、陸軍少尉。1945年8月に、復員した。 1946年に、福島県庁勤務。1961年、佐藤善一郎福島県知事のもとで、副知事を務める。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で福島2区から初当選。以後5期連続当選。1970年、第3次佐藤内閣総理府総務副長官就任。1973年、青嵐会の代表世話人として旗揚げに参加。1976年、衆議院農林水産委員長。
箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 -… 箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 - 1987年(昭和62年)10月6日)は、日本の政治家、実業家。第11・14・15代土浦市長。 茨城県出身。1941年(昭和16年)旧制水戸高校を卒業。1944年(昭和19年)東京帝国大学経済学部卒業し、軍需省に入り総動員局秘書課勤務となる。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して解員(復員)した。 戦後の1950年(昭和25年)土浦土木建築工業代表取締役となり、1966年(昭和41年)には社長となる。この間、土浦一高、三高の講師も務めた。 1971年(昭和46年)土浦市長に初当選。
立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月… 立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月18日 - 1999年(平成11年)1月28日)は、日本の精神科医。沖縄県出身。統合失調症、一酸化炭素中毒、水俣病などを研究。松沢病院時代は終戦時の精神病療養所の死亡率を発表した。位階は正四位。 小学校時代は沖縄県今帰仁小学校に通学し、優等生であった。1936年旧制水戸高等学校を卒業、1940年3月東京大学医学部卒業。精神科入局(内村祐之教授)東京大学助手を経て1942年12月19日、東京都立松沢病院に勤務。1946年12月東京大学医学博士。論文の題は「本邦人の精神疾患負荷に関する研究」1954年3月医長に昇任。1961年4月1日、第4代熊本大学精神科教授。
藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日… 藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日本の倫理学、明治教育史学者。 岐阜県長良村(現在の岐阜市)生まれ。父の仕事で長野県松本市、群馬県前橋市と転々とし、水戸高等学校卒、1939年東京帝国大学文学部哲学科卒、外務省に入る。1940-42年入隊。1943年東京女子高等師範学校嘱託としてドイツ語を教える。1946年山梨工業専門学校専任講師、1949年明治大学教養部助教授、1954年教授、ドイツでボルノーに学ぶ。1969年東京農工大学教授、1978年定年退官、立正大学文学部教授、1986年退職。
北村 信正(きたむら のぶまさ、1914年 - 2010年)… 北村 信正(きたむら のぶまさ、1914年 - 2010年)は、日本の造園家。長く東京都職員として、都の造園事業に従事。日本梅の会会長。造園業の東洋造園土木株式会社の会長もつとめた。 茨城県水戸市生まれ。水戸高等学校 (旧制)理科乙種を経て、東京帝国大学農学部林学科卒業後、1938年東京市に入り現場監督助手を務める。その後軍の幹部候補生部隊に入隊し、工兵となって大陸に渡る。終戦後はシベリア抑留を3年間の後に帰国し、東京都に奉職。1957年に「遊び場研究会」を発足。1961年公園緑地部技術課長。東京都は公園緑地部長を最後に退職後、日本造園学会副会長、初代東京都造園緑化業協会副会長、国際造園家協会IFLA日本代表国際会議副会長、財団法人東京慰霊堂協会理事長、日本庭園協会理事など、各種緑地関係の団体役員を歴任。
小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1… 小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1991年10月20日)は、日本の英文学者。 茨城県水戸市生まれ。1937年東京帝国大学文学部英文科卒、1941年同大学院(旧制)満期修了。副手、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、東京女子大学教授、学習院大学文学部教授を歴任。1983年定年退任、名誉教授。 1984年、勲三等瑞宝章を受章。 1991年10月20日、肺炎のため死去。
次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月1… 次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月13日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、上代日本文学者。 妻・万貴は、文学博士田中義能の四女。弟次田香澄は中世日本文学者。 東京小石川に生まれる。父の次田潤は国文学者で、その長男。父の転勤にしたがい鹿児島、釜山、伊勢、鹿児島、佐賀、東京と移転、水戸高等学校(旧制)卒、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。 1937年第四高等学校教授、40年第二高等学校教授、43年東京女子高等師範学校教授、49年お茶の水女子大学助教授、53年教授、75年定年退官、名誉教授、幾徳工業大学教授。80年退職。没後正四位。
宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1… 宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1978年9月26日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。専攻は社会教育学。彼の教育学の核心は自己教育ととしての社会教育、共同学習と相互教育の連動であり、それを簡明に論説したのが戦前の「形成と教育」(1940)、戦後の「教育の本質」(1949)や「社会教育の本質」(1949)である(山田正行『平和教育の思想と実践』同時代社、2007年、参照)。 東京生まれ。旧制水戸高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業後、新興教育研究所、教育科学研究会で活動ののち、1940年法政大学講師。戦後は文部省社会教育局勤務などを経て、1953年東京大学教育学部教授。
小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1… 平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。 上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学卒。1936年、国民精神文化研究所嘱託(- 1938年)、1939年、広島高等師範学校教授(- 1944年)、1944年、九州帝国大学法文学部教授、1951年同大学教育学部教授。1953年、九州大学教育学部長。 1960年日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年国立教育研究所長(- 1978年)。同研究所において『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月2… 石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月29日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。財務官僚。 神奈川県三浦郡浦賀町大津(現横須賀市大津)に生まれる。台北第一中学校、水戸高等学校文科甲類を経て、1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格した。1932年(昭和7年)7月、警務局警務課に奉職し、府巡査懲戒予備委員に任じ、1936年(昭和11年)9月、府地方警視として基隆水上署長となり、3か月後に新竹警察署長に転じた。ついで1938年(昭和13年)1月、台中州豊原郡守となり、1939年(昭和14年)4月、花蓮港庁勧業課長に転じた。
馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1… 馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1日 - 1988年〈昭和63年〉9月20日)は、昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役、フジテレビ取締役。京都府出身。 水戸高等学校を経て1930年に京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸(小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。 馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12… 舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。 大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。 戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。
丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3… 丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月30日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。 運輸大臣、衆議院議員(9期)を歴任。三男は丹羽雄哉。 東京府東京市赤坂区生まれ。敬三の四男。 旧制麻布中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年、東京帝国大学経済学部卒業。同年高文行政科合格。昭和6年(1931年)内務省に入り、大阪府警部補、長野県、満州国、埼玉県、厚生省、京都府などの勤務を経て、1942年、千葉県官房長、群馬県警察部長、警視庁官房主事、情報局情報官を歴任、1947年退職。 1947年から1950年まで公職追放となる。
目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日… 目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日 - 1994年〈平成6年〉4月30日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1904年、山口県岩国市で生まれた。。父母が相次いで早世し、中学生にして一家の長としての責任を負うことになった。水戸高等学校を経て、東京帝国大学支那文学科に入学。1929年に東京帝国大学を卒業。 卒業後は、1930年に第三高等学校教授となった。1931年に結婚。1933年、九州帝国大学助教授に任じられ、そのまま文部省在外研究員として北平に研究留学(1933年10月から1935年10月まで)。この留学期間中の記録として『北平日記』8冊を記していた。
森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)1… 森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)11月29日 - 1982年(昭和57年)10月24日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県、後の上野市(現伊賀市)出身。水戸高等学校を経て、1934年(昭和4年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年に鉄道省に入省し東京鉄道局に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、岡崎駅長、下関運輸事務所長、札幌鉄道局業務部長、企画院書記官、運輸通信省企画局課長、東京鉄道局業務部長、運輸省配車課長、新潟鉄道局長、日本国有鉄道運輸支配人、東京鉄道管理局長、国鉄理事、同関東総支配人、鉄道建設審議会委員、日本交通文化協会理事などを務めた。
青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25… 青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25日 - 2001年(平成13年)1月27日)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選新潟県知事。 栃木県出身。水戸高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し山口県属兼社会局属、地方事務官となる。 以後、内務省社会局勤務、鹿児島県社会課長、三重県教育課長、同工場課長、地方警視、岡山県警察部保安課長兼工場課長、神奈川県警察部保安課長、奈良県書記官・警察部長、厚生省傷兵保護院補導課長、同省生活課長、同母子課長、軍事保護院総務課長、東北総監府官房主幹、内務省調査官、同大臣官房調査課長などを歴任。
大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月… 大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月2日 - 1977年(昭和52年)7月16日)は、昭和時代の日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。 茨城県水戸市に生まれる。麻布中学校、水戸高等学校を経て、東京帝国大学工学部造兵学科へ入学。化学機械を修め、恩師の大河内正敏の勧めで理化学研究所に入る。その後、1931年(昭和6年)台北帝国大学に赴任し、粉体工学の研究を行い、1940年(昭和15年)東京工業大学化学工学科助教授を経て、1942年(昭和17年)同大学教授、1958年(昭和33年)東京大学応用微生物研究所教授兼任、1960年(昭和35年)東京工業大学原子炉研究施設長、さらに1962年(昭和37年)より2年間同大学第6代学長を務める。
横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 19… 横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 1989年3月1日)は、日本の構造家、建築構造技術者。東京都出身。 旧制開成中学校、旧制水戸高等学校理科乙類を経て、1928年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。当時の建築学科教室主任教授であった佐野利器の指導推挙で日本銀行臨時建築部に勤務する。その後内務省、戦災復興院技官などで建築の構造設計監理を一貫して担当。 1950年に横山建築構造設計事務所を開設。前川国男との東京文化会館、東京都美術館、国立西洋美術館など、その他東京海上本社ビルなど、数多くの構造設計を担当した。 1964年藍綬褒章受章、1971年勲三等瑞宝章受章。 著書に、『世界のランドマークを求めて―建築構造設計論』(彰国社)、『遙かなる身と心との遍歴―紀行と随想』(1982年、相模書房)、『理念の追求と展開―建築構造設計論』(1979年)など。
実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月2… 実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月20日 - 1962年(昭和37年)2月15日)は、日本の独文学者、翻訳家。 1895年に実吉安純の六男として東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、水戸高等学校(旧制)、府立高等学校などで教師生活を経て、1949年旧・東京都立大学教授となる。後に桐朋学園大学教授、立正大学教授。トーマス・マンなど近代ドイツ文学の紹介で貢献的な役割を果たした。 一時期は伯爵・日野資秀の三女と結婚し、婚姓から「日野 捷郎」という名前で著作活動をした。義兄日野資謙の死去に伴い、1925年6月1日に伯爵を襲爵するも、1931年2月27日に隠居し、同年4月10日に離婚したため復姓した。
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。
長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 19… 長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 1982年3月19日)は、英文学者、教育者。長谷川五郎の父。オセロ (ボードゲーム)の名付け親。別名・長谷川朝暮。 東京本郷生まれ。1914年旧制一高英語文科卒、1917年東京帝国大学文科大学英文科卒。 現在は廃校となった旧制水戸高等学校の元教授。1921年4月、水高の最年少教授となり、以降水高廃校まで29年教壇に立った水高を代表する名物教授であった。教え子に後藤田正晴などがいる。この時代に四郎宅での句会に出席していた金子兜太によると、四郎は変わった髪型(前頭部に後ろの髪をかき集めてきて束ね、とぐろに巻いて油で固定している)にピーマン形の鼻、大きな目にしゃれた小さな縁なし眼鏡をかけ、エドガー・アラン・ポーの心酔者だったという。
竹中 喜満太(たけなか きまた)は、日本の公取官僚。元公正取… 竹中 喜満太(たけなか きまた)は、日本の公取官僚。元公正取引委員会事務局長。 茨城県出身。1933年水戸高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1950年公正取引委員会事務局総務部企画課長。1952年公正取引委員会事務局経済部企業課長、大蔵省外資審議会幹事。1955年公正取引委員会事務局審査部長。1962年公正取引委員会事務局経済部長。坂根哲夫元事務局長との対立が噂されたが、1963年には生え抜き職員として公正取引委員会事務局長に昇格した。1967年に辞職後、住友電気工業常任監査役。