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稲垣 良典(いながき りょうすけ、1928年〈昭和3年〉11… 稲垣 良典(いながき りょうすけ、1928年〈昭和3年〉11月27日 - 2022年〈令和4年〉1月15日)は、日本の哲学者。九州大学名誉教授。学位はPh.D.(アメリカ・カトリック大学)、文学博士(東京大学)。 佐賀県出身。専門は中世哲学、法哲学。トマス・アクィナスの『神学大全』の訳者の一員で、日本における中世スコラ哲学研究の第一人者。関連著書を多数刊行している。神学に関する訳書も多数ある。ローマ・カトリック教徒で、洗礼名はベルナルド。 1928年、佐賀県小城郡牛津町(現・小城市)生まれ。旧制佐賀高等学校を経て、戦後の1951年、東京大学文学部哲学科卒業。同年、南山大学助手。 アメリカ・カトリック大学(英語版)(CUA)大学院(CUA、Ph.D)に留学し、1953年にM.A.を、1955年6月にPh.D.を取得。
浅井 圓道(浅井 円道、あさい えんどう、1927年2月18… 浅井 圓道(浅井 円道、あさい えんどう、1927年2月18日 - 2004年9月8日)は、日蓮宗僧侶・仏教学者。 東京市(現大田区)に浅井圓照の長男として生まれる。幼名・立治。長崎市に移り、1941年父は長崎市長照山晋山となり、1942年得度し圓道と改名。1945年3月佐賀高等学校卒、7月徴兵検査。長崎で原子爆弾に遭い負傷。1949年東京帝国大学文学部印度哲学科卒。1949-1952年身延山専門学校助教授。1951年東京大学大学院修士課程修了。1952年名古屋中部社会事業短期大学助教授、1954年立正大学仏教学部講師、1958年助教授、1966年立正大学短期大学部助教授、1970年 立正大学文学博士。
小森 義峯(こもり よしみね、1923年〈大正12年〉3月1… 小森 義峯(こもり よしみね、1923年〈大正12年〉3月19日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の憲法学者、海軍軍人、民族派。法学博士(京都大学・論文博士・1966年)。佐賀県小城郡牛津町(現・小城市)出身。大石義雄の門下。門下生は皇學館大学名誉教授の富永健。 1942年旧制佐賀高等学校文科乙類卒業。1943年大日本帝國海軍に応召。その後、中尉に昇進。1945年9月復員。1946年京都帝国大学法学部政治学科卒業。 1947年佐賀龍谷中学校教諭。1948年4月京都府立桃山高等学校教諭。1948年12月京都師範学校附属桃山中学校教諭。 1953年3月京都大学大学院法学研究科修士課程修了(指導教授:大石義雄)。
田中 健藏(たなか けんぞう、1922年11月7日 - 20… 田中 健藏(たなか けんぞう、1922年11月7日 - 2015年2月11日)は、日本の病理学者、外科医。第17代九州大学総長。 東京市日本橋区生まれ。関東大震災後に移住し、長崎県佐世保市育ち。1940年旧制長崎県立佐世保中学校卒業。1942年旧制佐賀高等学校卒業。1946年九州大学医学部卒業、外科学教室第1講座入局。1948年九州大学大学院特別研究生前期修了。1949年九州大学医学部助手。1951年医学博士。1953年九州大学医学部講師。同年九州大学医学部助教授。 1960年フルブライト・プログラムでハーバード大学医学部に留学。1963年九州大学医学部教授。1975年九州大学医学部長を経て、1981年に九州大学総長、国立大学協会理事。
鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月1… 鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月15日)は、日本の倫理学者。獨協大学名誉教授。 福岡県生まれ。1942年旧制佐賀高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1947年京都帝国大学文学部哲学科卒業、1962年同旧制大学院修了。1951年大阪市立東第二高等學校敎諭、1965年獨協大学教養部助教授、1968年教授、1993年定年退職、名誉教授。
楠田 久男(くすだ ひさお、1916年9月25日 - 202… 楠田 久男(くすだ ひさお、1916年9月25日 - 2020年2月26日)は、日本の機械工学者、佐賀大学元学長。専門は伝熱工学。 鳥栖市出身。旧制佐賀高等学校を経て、1939年9月に九州帝国大学工学部機械工学科卒業。熊本大学工学部教授、佐賀大学理工学部教授、同学部長などを経て、1986年から1990年まで佐賀大学学長を務めた。サガン鳥栖の前身である鳥栖フューチャーズの設立に尽力した。 2020年2月26日、老衰のため鳥栖市の特別養護老人ホームで死去。103歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松尾 均(まつお ひとし、1915年9月15日 - 1994… 松尾 均(まつお ひとし、1915年9月15日 - 1994年9月23日)は、日本の労働経済学者・社会福祉学者。 佐賀県武雄生まれ。佐賀高等学校卒、1940年東京帝国大学法学部政治学科卒、産業組合中央会職員、1941年内閣企画院第三部嘱託、1946年国民経済研究協会研究員、1958年日本女子大学文学部社会福祉学科教授、64年同家政学部教授、83年定年、名誉教授。
李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月… 李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、法律家、政治家。 本貫は永川李氏(朝鮮語版)。日本名は李家 澔(りのいえ ひろし)。 慶尚北道永川郡にて、大地主の息子として誕生。1923年3月に慶尚北道永川公立普通学校卒業後、翌4月に京城第二公立高等普通学校2学年に編入し、1930年3月に修了した。1930年4月、京都の立命館中学校3学年に編入して1933年3月に卒業。同年4月に佐賀高等学校文科甲類に入学して1936年3月に卒業。1936年4月、東京帝国大学法学部法律学科に進学し、1940年3月に卒業。大学在学中の1939年11月に高等文官試験司法科に合格。
森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11… 森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11日 - 2008年〈平成20年〉3月27日)は、日本の国語学者、上智大学名誉教授。 宮城県栗原郡生まれ。教員だった父の転勤で山形県、佐賀県に移り、佐賀高等学校を経て、1940年東京帝国大学国語国文学科卒。大学院に進むが、兵役のため1945年に退学。満洲勤務を経て1946年に広島高等学校教授、1949年に国立国語研究所所員、1953年に東京女子大学助教授、1958年に同教授。1970年に上智大学教授、1988年に定年退職、名誉教授。学外では、国語審議会委員をたびたび務めた。 兄は岡山大学教授・森岡常夫。 近代語の成立に関して、英華辞典や英和辞典における訳語を方法の変遷から調査し、それを中村正直や西周などの翻訳や聖書和訳と対照することで、それぞれの果たした役割を明らかにした。
吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 19… 吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 1976年5月9日)は、日本の行政学者・政治学者・弁護士。法学博士(京都大学)。大阪市立大学名誉教授。辻清明 (政治学者)と並ぶ行政学第2世代の一人。 1909年、長崎県佐世保市に生まれる。1930年佐賀高等学校文科甲類卒業。1934年京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、立命館大学研究生。1935年立命館大学助教授に就任。1942年立命館大学教授に就任。1947年立命館大学を退職。1948年京都弁護士会で弁護士登録。1952年大阪市立大学法学部教授に就任(~1973年)。1962年大阪市立大学法学部長(~1964年)、1967年大阪市立大学教養部長(~1969年)、1973年大阪市立大学停年退官。
金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7… 金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7月20日)は、大韓民国の応用化学者。号は石泉(석천)。 1908年3月9日、平安南道江西郡に生まれる。教育熱心な父親の意向で幼い頃から漢文を学び、私立鳳儀学校、平壌上儒公立普通学校、平壌公立高等普通学校を経て、1926年に旧制佐賀高等学校理科甲類へ入学し、1929年卒業。翌年には東京帝国大学へ進み、1933年工学部応用化学科を卒業。当時、応用化学科の唯一の朝鮮人卒業生であった。 1年間指導教授のもとで助手を務めたのち、1934年に岩城硝子へ入社。同社では1939年まで研究科長を務め、酢酸セルロース関連技術により7つの特許を取得した。その後、鐘淵紡績に引き抜かれたが、1942年にはさらに京城紡織へ転じた。
三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年… 三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年12月18日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。専門は消化器外科学。胆石症の権威。 九州帝国大学医学部第一外科初代教授を務めた三宅速の長男として徳島県に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制佐賀高等学校を経て、1927年九州帝国大学医学部を卒業。 大学卒業後、九大医学部の赤岩八郎教授の第一外科に入局。助手を経て、1933年1月講師となり、1934年3月助教授に就任。その後、1934年10月から1936年8月にかけて在外研究員としてドイツに留学し、キール大学のアンシュッツ(Wilhelm Anschütz)教授に師事する。 1938年7月長崎医科大学第一外科教授、1941年12月岡山医科大学第一外科教授を務めた後、1947年7月、父が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の第4代教授に就任。