伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月… 伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月15日 - 2002年(平成14年)6月8日)は、日本画家。山形県鶴岡市七日町出身。
1910年代生まれ:6,028人
伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月… 伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月15日 - 2002年(平成14年)6月8日)は、日本画家。山形県鶴岡市七日町出身。
内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11… 内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11月15日 - 1988年(昭和63年)12月3日)は、昭和時代の日本の経営者 、実業家。 内藤節爾・タケの長男として東京に生まれる。1934年(昭和9年)大阪帝国大学機械工学科卒。現・三井化学の前身である東洋高圧工業に入社。東洋高圧工業化工事業開発室長を経て、1961年(昭和36年)東洋エンジニアリング設立とともに専務となる。1965年(昭和40年)同社副社長、1968年(昭和43年)社長、1982年(昭和57年)会長に就任。1987年(昭和62年)6月相談役となる。尿素を原料とした肥料プラントの輸出振興に努め同社の経営基盤を築いた。身障者への奉仕活動に尽力する。
津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月1… 津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月15日 - 1975年10月9日)は、兵庫県出身の昆虫学者。男性。とりわけ水生昆虫学、汚水生物学の日本への導入とその研究で知られる。日本陸水学会元会長。 主な著書に『水生昆虫学』『水質汚濁の生態学』、『汚水生物学』がある。 1911年、兵庫県尼崎市に生まれた。京都に移り住み、旧制第三高等学校に進学、ドイツ語を専攻した。当初医学を志望していたが、健康を損ねて断念し、1932年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に進学、動物学を専攻した。動物学教室で川村多実二に師事し、水生昆虫の研究を行った。 1935年に同大を卒業し、大学院に進学した。1937年、交換留学生としてドイツのミュンヘン大学に留学、デモル教授(1882-1960)に師事した。
松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ … 松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ 1990年5月15日)は、日本の政治家。位階は従三位。元衆議院議員(11期)。 福岡県北九州市出身。実業家・松本健次郎の七男。1937年、慶應義塾大学法学部政治科を卒業。同大法学部助手、高等部講師、時事新報記者、黒崎窯業社員を経て1946年、戦後初の総選挙で福岡2区から初当選した。日本社会党では教宣局長、国際局長などに就いた。 1949年、妻であった松尾千代子と離婚。松尾は文化放送でプロデューサーを務めながら引き取った子供を育てた。 日本社会党に属し、1960年の安保国会では飛鳥田一雄・石橋政嗣・岡田春夫・戸叶里子らとともに「安保7人衆」の一人として政府追及の先頭に立った。
美馬 儀一郎(みま ぎいちろう、1911年(明治44年)11… 美馬 儀一郎(みま ぎいちろう、1911年(明治44年)11月14日 - 2009年(平成21年)4月6日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取、徳島商工会議所会頭。高松高等商業学校卒業。徳島県徳島市出身。旧名・勤一。 徳島市の豪商・美馬家に生まれる。父は祖父美馬儀一郎の養子・美馬弘美、母は祖父の二女・久で、その長男。父が離縁となり、祖父の死後、1939年8月に家督を相続した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井関 尚栄(いせき しょうえい、1911年11月14日 - … 井関 尚栄(いせき しょうえい、1911年11月14日 - 1986年3月17日)は、日本の法医学者。ノーベル賞候補にも挙がった日本の法医学会が世に誇る研究者。
奥瀬 平七郎(おくせ へいしちろう、1911年〈明治44年)… 奥瀬 平七郎(おくせ へいしちろう、1911年〈明治44年)11月13日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)は、日本の忍術研究家、小説家、三重県上野市(現・伊賀市)の元市長。三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)生まれ。 1911年(明治44年)、三重県阿山郡上野町(現・三重県伊賀市)で代々続く醤油製造販売業「細平(こまへい)」の二男として生まれる。父の平十郎(1887年〜1956年)は、家業を従業員に任せ上京。霞翠の号で当時の代表的な投稿雑誌や文芸誌、詩歌誌に数多くの作品を発表、文芸誌『初楓』を創刊、また東京二六新聞記者として、上野町の『伊賀新聞』に小説『鞠子』を71回にわたって連載するなど文筆家として活躍した人物だった。
杉浦 敏介(すぎうら びんすけ、1911年11月13日 - … 杉浦 敏介(すぎうら びんすけ、1911年11月13日 - 2006年1月27日)は、日本の実業家。元日本長期信用銀行(現SBI新生銀行)頭取。日韓経済協会第三代目会長。 東京市下谷区に杉浦倹一・とし夫妻の次男として生まれる。杉浦家は江戸時代、幕臣であった。東京高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業後の1935年、日本勧業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行。日本勧業銀行の権力闘争に敗れた濱口巌根とともに、1952年に設立された長銀創立に参加。専務、副頭取を経て1971年5月から1978年6月まで頭取。その後は会長、相談役最高顧問などを務めた。 会長時代も含め20年近くも経営トップの座に君臨し、「長銀中興の祖」、「長銀のドン」と呼ばれた。
福原 信和(ふくはら のぶかず、1911年(明治44年)11… 福原 信和(ふくはら のぶかず、1911年(明治44年)11月12日 - 1994年(平成6年)9月27日)は、日本の実業家、理学博士。 元株式会社資生堂代表取締役社長、同社会長、元福原興業株式会社代表取締役社長。 東京出身。旧制高千穂中学校(第16期生)を卒業後、横浜高等工業学校応用化学科卒業する。資生堂化粧品店、資生堂パーラー、大阪資生堂、資生堂美容室、資生堂美容具、資生堂化工、資生堂開発、静和興業各株式会社取締役、博道会理事、日本写真会会長を歴任した。
後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - … 後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - 2020年7月10日)は、日本の実業家。ホテルオークラ社長・会長、日本ホテル協会会長を歴任。 愛知県渥美郡二川町(現豊橋市二川町)出身。1935年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。同年三井物産入社。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。 庭野正之助(のちに日本鉱業社長)らとともに、警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 米国三井物産社長・会長、三井物産副社長等を経て、1977年新設ポストである、三井物産副会長に就任。 大成観光常勤顧問を経て、1981年大成観光代表取締役社長就任。
春日 由三(かすが よしかず、1911年(明治44年)11月… 春日 由三(かすが よしかず、1911年(明治44年)11月10日 - 1995年(平成7年)10月22日)は、日本の政治家。新潟県十日町市長(2期)。日本民謡協会理事長。NHK専務理事。 現在の新潟県十日町市出身。大島三五郎の三男に生まれ、春日家の養子となる。1935年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年、NHKに入局。富山放送局長、編成、企画、経理の各局長を経て、1959年に理事、1963年に専務理事となった。この間、1951年の第1回紅白歌合戦の審査員長を務めた(第2回を除く第7回まで)。その後NHKを退局し、日本音楽著作権協会理事長を務め、1971年に郷里の十日町市長に当選した。 春日は市長時代には「市民との会」という少人数の集会を開き、会には必要最小限の関係課長が同行して、即答性を重視する方針をとった。
田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 19… 田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 1982年12月20日)は、日本の政治家。北海道知事。青森県出身。
水越 貫一(みずこし かんいち、1911年11月9日 - 1… 水越 貫一(みずこし かんいち、1911年11月9日 - 1985年7月26日)は、日本の実業家。中部電力副社長を経て、東海電気工事(現:トーエネック)の社長・会長を務めた。藍綬褒章受章。 愛知県碧海郡(現在の安城市)出身。 1932年、彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を卒業。卒業後は1年間家業を手伝い、1933年4月、岡崎の旧中部電力に入社した。 その後、1937年9月に東邦電力、1942年に中部配電、1951年5月に戦後の中部電力へと移り、電力会社再編の中で一貫して電気事業に従事した。 1954年7月に中部電力秘書課長となり、1956年6月に経理部財務課長、1959年6月に経理部次長、1960年6月に支配人経理部長、1963年4月に支配人財務部長を歴任した。
柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002… 柳谷 寛(やなぎや かん、1911年11月8日 ‐ 2002年2月19日)は、日本の俳優。本名同じ。長男は俳優の柳谷慶寿、次男は数学者・作家の柳谷晃。 1911年11月8日、青森県青森市に生まれる。旧制東奥義塾中等部(現在の東奥義塾高等学校)を経て、日本映画俳優学校卒業後、P.C.L.に入社して映画『坊つちやん』のガキ大将役でデビューする。1938年にP.C.L.が東宝に改編された後も、同社の作品に多く出演した。 戦後は菅井一郎らの俳優グループ第一協団に所属して、東宝・大映・東映・日活など幅広く活躍。独特の演技で才能を発揮し、朴訥()とした雰囲気を持つ個性派の脇役俳優として知られた。東映の映画『月光仮面』には五郎八役で全シリーズに出演。
手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日… 手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日 - 1990年〈平成2年〉4月14日)は、日本の法制史学者。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。1935年慶應義塾大学法学部卒業。1958年「明治初期刑法史の研究」で、法学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1977年定年退任、名誉教授。
李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日-… 李 太熙(イ・テヒ、朝鮮語: 이태희、1911年11月8日- 1999年10月27日)は、大韓民国の検察官、弁護士。第8代検察総長。日本名は三江 達夫。 平安南道江東郡出身。平壌高等普通学校を経て、1934年佐賀高等学校文科甲類卒業。1937年東北帝国大学法文学部法科卒業。高等文官試験司法科に合格し、1960年に許政内閣で検察総長に任命されたが、5・16軍事クーデター後、弁護士に転じた。日本名は三江達夫。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 19… 秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 1996年9月24日)は、日本の実業家。佐藤商事株式会社・代表取締役社長、会長。学校法人羽黒学園理事長。栄典・称号は、従五位・勲四等瑞宝章・紺綬褒章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 19… 高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名:梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母である(寺田の娘が大浦と結婚したため)。 1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。 1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。
薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉1… 薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉11月6日 - 2024年〈令和6年〉3月31日)は、日本の教育者、司書、スーパーセンテナリアン。2022年11月15日以降から死去するまで日本国内の男性最高齢者であった。千葉県の人物が日本最高齢になったのは、史上初と見られる。 南房総市立三芳中学校や千葉県立安房水産高等学校(現在の千葉県立館山総合高等学校)に長年国語科と社会科の教員として勤めていた。定年後は司書として図書館に再就職し、80歳で退職した。教員だった1960年には御湯殿上日記等の文学類の書籍を執筆していた。 100歳の誕生日には、かつての教え子たちが同窓会を開いて祝福した。
入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5… 入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の水泳選手。大阪府高槻市出身。オリンピック出場2回。1932年ロサンゼルスオリンピックでは100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した。 1924年(大正13年)に茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に入学。茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた。3年生時に早くも背泳ぎの日本新記録を作る。1928年アムステルダムオリンピックには男子100m背泳ぎで参加。なお、アムステルダムオリンピックには茨木中から入江・高階富士夫(およびOBの高石)が選手として、杉本が飛込コーチとして参加している。
市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年… 市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。市川 龍男と表記されることもある。本名は有田 信一(ありた しんいち)。旧芸名は市川 市松(いちかわ いちまつ)、市川 新藏(いちかわ しんぞう)、有田 晃之助(ありた こうのすけ)。父・市川幡谷と共に、マキノ・プロダクションなどのサイレント映画で活躍した二枚目俳優である。 1911年(明治44年)11月5日、東京府東京市浅草区花川戸(現在の東京都台東区花川戸)に、映画俳優市川幡谷(本名有田松太郎、1888年 - 没年不詳)の子として生まれる。生年月日については、1910年(明治43年)11月1日の説もある。
永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)1… 永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)11月4日 - 2002年(平成14年)9月19日)は、日本の実業家。栃木県出身。元栃木市長。永田製作所創業者。栃木市名誉市民。 1911年(明治44年)、栃木県栃木町(現栃木市)に生まれる。1930年(昭和5年)に旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)、1934年に立教大学文学部を卒業。 1956年、栃木市教育委員に就任し、その翌年に永田製作所を創設。1965年に栃木市教育委員長、1969年に栃木商工会議所副会頭となる。 1979年、第11代栃木市長に就任。1988年、勲四等瑞宝章を受章。2002年(平成14年)、逝去。享年92(満91歳没)。
清水 脩(しみず おさむ、1911年11月4日 - 1986… 清水 脩(しみず おさむ、1911年11月4日 - 1986年10月29日)は、日本の作曲家。カワイ楽譜(現:カワイ出版)元社長。大阪府大阪市天王寺区出身。 1932年(昭和7年)大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現:大阪大学外国語学部)のフランス語科を卒業後、1938年(昭和12年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学)選科に入学、橋本國彦に作曲、細川碧らに理論を学ぶ。1939年(昭和14年)、第8回音楽コンクール作曲部門で「花に寄せたる舞踏組曲」が1位入選、1950年(昭和25年)「インド旋律による四楽章」が芸術祭管弦楽曲に入選、1953年(昭和28年)に「交響曲第1番」で第1回尾高賞の佳作に入選、1955年(昭和30年)に歌劇「修禅寺物語」で伊庭歌劇賞および毎日音楽賞を受賞。
安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月… 安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月3日 - 1977年4月18日)は、韓国の小説家。号は南石。安は幼年期を間島で過ごした。間島は朝鮮独立運動の盛んな場所であったため、安は亡国人の苦しみを特に目の当たりにしていたのだろう。安の文学は、亡国という苦しみをひとつのテーマに置いている。 1911年11月3日、咸鏡南道咸興市に生まれる。父は安鎔浩、母は金淑卿の2男1女の長男。父の安鎔浩は間島の龍井にある光明高等女学校の校監を務めていた。安が5歳のとき、興南市西湖里に引越し、ここで戸籍を登録したので、原籍は興南市である。興南市の小学校に通い、13歳で満州の間島に引っ越す。間島中央学校を卒業し、再び咸興市に戻り、1926年3月、咸興高等普通学校に入学する。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
藤尾 純(ふじお じゅん、1911年11月3日 - 1987… 藤尾 純(ふじお じゅん、1911年11月3日 - 1987年3月12日)は、日本の俳優。大阪府大阪市南区心斎橋筋(現在の同市中央区)出身。本名:藤尾 徳二(ふじお とくじ)。女優の中原早苗は長女だが、早苗が幼少の頃に家を出たため、藤尾の妻・南部雪絵が1人で育てた。娘婿は映画監督の深作欣二で、孫の深作健太も映画監督である。 中外商業高等学校(現在の兵庫県立尼崎北高等学校)中退。1927年、諸口十九一座に入団し、京都座で初舞台を踏む。その後、榎本健一らの浅草カジノ・フォーリー、ムーランルージュ新宿座などで活躍した。 戦後、新風ショウを結成。喜劇の脇役として親しまれた。また、戦前から東宝の映画を中心に数多くの作品に出演していたが、1965年、東京映画製作の映画『大勝負』を最後に映画界を離れ、舞台に専念した。
小寺 明(こてら あきら、1911年11月2日 - 2001… 小寺 明(こてら あきら、1911年11月2日 - 2001年9月28日)は、日本の化学者。専門は、高分子化学。東京教育大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学)。東京生。 この他に、東京教育大学理学部長、東京教育大学評議員、中央大学法学部通信教育課程兼任講師、日本化学会副会長、日本学術会議議員を歴任。
植村 鷹千代(うえむら たかちよ、1911年11月2日 - … 植村 鷹千代(うえむら たかちよ、1911年11月2日 - 1998年2月26日)は、日本の美術評論家。 旧高取藩主植村家壺子爵の子として、奈良県高市郡高取町に生まれる。1932年大阪外国語学校仏語部卒。日本外事協会、南洋経済研究所を経て、1939年日本大学芸術科講師、1943-1945年同盟通信社に勤務。1939年から美術評論活動を開始。戦後、日本アバンギャルド美術家クラブ結成に参加、前衛美術論を展開した。現代美術研究所主宰。1971年高齢者を対象に設立されたサロン・デ・ボザール会長に就任。1977年紫綬褒章受勲。
佐々野 利彦(ささの としひこ、1911年(明治44年)11… 佐々野 利彦(ささの としひこ、1911年(明治44年)11月2日 - 1975年(昭和50年)7月12日)は、日本の体操競技選手で、指導者も務めた。日本オリンピック委員会常任委員、日本体操協会副会長。 長崎県南松浦郡福江町(現・五島市)出身。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1964年東京オリンピックでは日本体操チームの総監督を務め、技の難度を示す「ウルトラC」という言葉を普及させたとする説がある。 1975年7月12日、肝臓癌のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。63歳没。同年7月28日、岸記念体育会館の地下講堂で日本体操協会・日本オリンピック委員会・日本体育大学など7団体による合同告別式が行われた。
大山 信郎(おおやま のぶろう、1911年11月1日 - 2… 大山 信郎(おおやま のぶろう、1911年11月1日 - 2009年2月13日)は、日本の医学者、医学博士。東京教育大学学長を務めた。 愛知県出身。1937年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学副手、山梨県立医学専門学校眼科部長、国立盲教育学校教授などを経て、1951年に東京教育大学教授に就任し、1974年3月から1978年3月までに学長を務めた。1972年4月に教育学部長を経て、1978年3月には名誉教授に就任。 1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2009年11月26日に死去。97歳没。
老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911… 老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911年(明治44年)10月30日 - 2001年(平成13年)3月24日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。富山県東礪波郡出町(現・砺波市)出身。1932年レークプラシッドオリンピック、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは日本選手団の旗手。日本初のフィギュアスケートのオリンピック代表選手の一人。 中学2年の時、大阪でスケートを始める。1930年(昭和5年)、第1回全日本選手権に最年少で出場し5位に入る。翌1931年、第2回全日本選手権では優勝する。1932年(昭和7年)には北米に遠征し、1932年レークプラシッドオリンピックで9位、世界選手権で7位となった。
宮本 三郎(みやもと さぶろう、1911年10月29日 - … 宮本 三郎(みやもと さぶろう、1911年10月29日 - 1981年6月7日)は、日本の国文学者。 1936年東京帝国大学文学部国文科卒、学習院大学文学部教授。定年前に死去。俳諧、特に芭蕉を専門とした。
近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月2… 近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月29日 - 1994年(平成6年)1月23日)は、元体操選手、実業家。 東京市神田区に生まれる。1936年(昭和11年)早稲田大学専門部法科卒。在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 現役引退後は、体操指導者となり、1956年メルボルンオリンピックおよび1960年ローマオリンピックでは体操総監督を務めた。ほか、1968年の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選。日東鉄工社長、国際体操連盟副会長、日本オリンピック委員会常任委員、アジア体操連合会会長を歴任し、1982年(昭和57年)日本体操協会会長となり、1991年(平成3年)名誉会長に就任した。
寒川 喜一(かんかわ きいち、1911年(明治44年)10月… 寒川 喜一(かんかわ きいち、1911年(明治44年)10月27日 - 1990年(平成2年)2月3日)は、日本の地方公務員、政治家。衆議院議員。 徳島県出身。1933年に関西大学専門部第1部法科を卒業。大阪府書記となり、地方事務官、大阪府人事委員会事務局長、同府労働部長などを歴任。その後、大阪府職業訓練協会副会長、寒川労働コンサルタント所長、関西大学評議員などを務めた。 1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙、次の第31回総選挙で落選。1969年(昭和44年)12月、第32回総選挙で大阪府第1区に民社党から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。民社党大阪府支部連合会副会長、同会長代理、同大阪1区連会長、同党本部中央委員、同沖縄対策部会長、民社中小企業政治連合大阪1区連合会会長などを務めた。
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1… 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日本の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に6人兄弟の長男として生まれる。父親の花森恒三郎は裕福な薬種商であったが、競馬や株などで財を無くし、安治が8歳のときには火事で家が全焼したため長屋暮らしとなった。安治は幼い頃より画才に優れ、神戸市立雲中小学校の同級には田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校では活動写真部と弁論部に入り、1年浪人して旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、田所太郎らと校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月2… 香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の洋画家。昭和を代表する洋画家の一人。 開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。 1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。 1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
及川 道子(おいかわ みちこ、1911年10月25日 - 1… 及川 道子(おいかわ みちこ、1911年10月25日 - 1938年9月30日)は、日本の女優。 1920年代後半〜1930年代前半の日本映画で、清楚で近代的なキャラクターを数多く演じ、「永遠の乙女」と呼ばれた。 1911年10月20日、東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)に生まれる。父・鼎寿は、社会主義運動家の経歴を持ち、後に出版社の春秋社に勤務した。両親ともにクリスチャンであり、その影響で道子も敬虔なキリスト教信者となる。1924年に小学校を卒業し、当時存在した東京音楽学校一橋分教場声楽科に入学。同年秋、小山内薫の紹介で、築地小劇場に加わる。 同年12月の第18回公演『そら豆の煮えるまで』で主役の少年に抜擢され初舞台。
森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月2… 森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月24日 - 1961年〈昭和36年〉11月17日)は、日本の小説家。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。 1911年、群馬県北群馬郡伊香保町の旅館・古久屋に生まれる。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学び1930年準卒業。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部英文科を卒業。在学中に『早稲田文科』を創刊、『象徴時代』『泉』『文芸主潮』『早稲田文学』などの雑誌にも関与した。神近市子などから高い評価を受けた。1942年より応召。同年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされる。 戦後は一時期東西出版社で『旬刊ニュース』の編集に携わる。
千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2… 千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2000年9月3日)は、日本の理論経済学者、慶應義塾大学名誉教授、関東学園大学名誉教授。広島修道大学学長。紫綬褒章受章。 1911年、兵庫県で生まれた。慶應義塾大学経済学部に入学し、金原賢之助のゼミナールに所属した。1937年に同大学を卒業し、ドイツ留学。 1937年、慶應義塾大学経済学部助手に採用された。1943年に助教授昇格。1944年からは警察大学校講師も兼任。 戦後も変わらず経済原論を担当した。1949年に教授に昇任。1960年、学位論文『資本主義計画経済の研究』を慶應義塾大学に提出して経済学博士を取得。1959年より1年間、ケンブリッジ大学およびハーバード大学に派遣研究留学。
小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 19… 小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 1995年9月16日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1935年に神戸商業大学を卒業し、日本生命保険での勤務を経て、1937年12月に日本ペイントに入社。1944年2月に取締役に就任し、1946年2月に常務、1952年12月に専務を経て、1965年6月には社長に就任。1975年7月には会長に就任。 1973年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1995年9月16日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - … 早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - 1977年3月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。北海道奥尻島生まれ。 1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。
柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月… 柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月22日 - 2003年〈平成15年〉2月21日)は、日本の法学者、弁護士、元判事。法学博士。専門は刑法。名古屋大学名誉教授。司法省事務官として内藤文質、森田宗一とともに1948年少年法の立法に携わった。 東京出身。三重県士族・柏木五百次郎の三男。静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部卒業。東大在学中に司法試験に合格。 判事司法事務官などを経て、1949年、東京地方裁判所判事から、1949年、名古屋大学に転じ、名古屋大学法学部教授。1975年、名古屋大学を定年退官。 その後、筑波大学、慶應大学教授などを経て、1993年、創価大学教授を退職。
平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1… 平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1994年11月14日)は、日本の歴史学者。防衛大学校名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。
塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1… 塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1993年4月16日)は、日本の実業家。六甲バターの創業者。兵庫県出身。 1928年に大阪城東商業学校を卒業。1942年に東亜木工製作所を経営し、1943年に神戸港運を経て、1948年に六甲バターを設立し、社長に就任。1985年に会長に就任。 1984年11月に勲五等双光旭日章を受章した。 1993年4月16日呼吸不全のために死去。81歳没。
佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - … 佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - 2008年6月19日 )は、日本の有機化学者。民間財団法人経営者。理学博士。 1911年(明治44年)、佐々木隆興の長男として、東京に生まれた。東京高等学校修了後、東北帝国大学理学部化学科で学び、卒業。 卒業後は同大学副手に採用された。1945年、財団法人佐々木研究所研究員となり、理事を兼ねた。1958年、学位論文『グリシンから出発するアミノ酸の生成およびその関連反応について』を東北大学に提出して理学博士号を取得。1965年、慶應義塾大学教授に就任。1966年、父の佐々木隆興の後を受けて(財)佐々木研究所第2代理事長に就任。以後35年間理事長職にあったが、2001年に(財)佐々木研究所名誉理事長・特別顧問に引いた。
八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月2… 八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成11年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。位階は従四位。 北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2… 石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は、20世紀に活動した日本のファッションデザイナー。株式会社ヴァンヂャケット創業者。日本メンズファッション協会最高顧問。 高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれた。岡山県岡山市出身。石津祥介は長男、ファーストサマーウイカは曽姪孫。 岡山の紙問屋の次男として生まれる。岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学専門部商科に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。
伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉… 伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉10月19日 - 没年不明)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。兵庫県川西市長(6期)。 三重県出身。1935年(昭和10年)京都帝国大学工学部機械学科卒業。大日本紡績に入り、1939年(昭和14年)入隊、1945年(昭和20年)除隊とともに退社。 1951年(昭和26年)日本精密機械工作社長、1960年(昭和35年)川西市商工会専務理事などを経て、1966年(昭和41年)の市長選で当時の小笠原新三郎市長を破って初当選。このとき、選挙ポスターで二連で並べて掲示すると公職選挙法の規定よりも上回るサイズのポスターになるのを使用し、陣営関係者が有罪判決を受けている。
大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月… 大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月19日-1999年 <平成11年> 12月1日)は、日本のキェルケゴール研究者。位階は正四位。 京都市出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒、1940年京都帝国大学大学院修了。1962年「キエルケゴールに於ける授受の弁証法」で京都大学文学博士。大阪外国語大学助教授、61年教授(デンマーク語)。77年定年退官、名誉教授、大阪樟蔭女子大学教授。1964年第一回田辺賞受賞。デンマーク・ダンネプロ・ナイト勲爵士。初期には西辺利仙の名で小説も書いた。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年… 日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年> 10月19日 - 2006年 <平成18年> 5月14日)は、元駐スウェーデン大使。山口県出身。 1937年東京帝国大学法学部を卒業し外務省に入省。終戦時、国会法成立時に通訳としてかかわる。エクアドル、セイロン(現スリランカ)兼モルディブ、スウェーデン大使を歴任。2006年5月14日に肺炎のため死去。享年94。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。