野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14… 八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14年10月10日)- 1918年(大正7年)1月29日)は、明治期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県伊達郡石戸村長。 陸奥国伊達郡山戸田村(福島県伊達郡石戸村大字山戸田、霊山町を経て現伊達市霊山町山戸田)で生まれる。漢学を修め、農業を営む。 祠官、戸長、学区取締、福島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長、石戸村長、伊達郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 また、福島県蚕糸業組合頭取、蚕糸業中央部会議員、福島県蚕業学校評議員、同会長などを歴任。蚕種製造の改良を図って山戸田組を設立し頭取に就任。伊達郡の生糸改良のため扶桑社を設立した。
浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1… 浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1843年11月26日(天保14年10月5日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治時代・大正時代の実業家であり政治家。美濃国恵那郡岩村(現・岐阜県恵那市岩村町)出身。 浅見家は岩村藩初代藩主松平家乗が慶長6年(1601年)に転封の際に上野国那波から随行して来たといわれ、累代の当主は、岩村藩の御用達職、庄屋、問屋職などを勤め、藩の財政を支えていた。與一右衛門は浅見家9代目当主にあたる。幕末から明治の変動期に岩村町の再建に尽力し、また岐阜県議会議長や衆議院議員を歴任した。 また、私財を投じて1906年(明治39年)には岩村・大井間に電気鉄道の岩村電気軌道を開通させた。
久米 唯次(くめ ただじ、1843年11月24日(天保14年… 久米 唯次(くめ ただじ、1843年11月24日(天保14年10月3日) - 1915年(大正4年)4月25日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 禎瑞新田(伊予国新居郡禎瑞村。愛媛県新居郡橘村を経て現西条市禎瑞)干拓以来の旧家、久米弥吉の長男として生まれる。農業を営み、1915年(大正4年)時点で直接国税2500円余を納めた。 学務委員に就任し禎瑞小学校(現西条市立禎瑞小学校)の建設に多額の寄付を行った。新居郡会議員などを務め、1897年(明治30年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任したが、大病のため1898年(明治31年)6月7日に辞職した。
品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
稲生 眞履(いのう まふみ/しんり、天保14年9月29日(1… 稲生 眞履(いのう まふみ/しんり、天保14年9月29日(1843年10月22日) - 大正14年(1925年)2月1日)は、明治・大正時代の宮内省官僚。通称は潜蔵。 三河国挙母城下の久保町(現・愛知県豊田市久保町)出身。挙母藩の儒者・竹村方斎に師事し、江戸に出てからは加藤張卿に学んだ。 維新後、奈良県庁に就職するが、すぐに宮内省に移り、奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)の学芸員となる。1900年(明治33年)、勲七等瑞宝章を受章。また、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の学芸委員に移り、特に刀剣や書画を始めとする古美術に精通した。 森永製菓を創立した一人である稲生平八は甥であり、三女季子は秋山真之の妻。
長屋 忠明(ながや ただあき / ただあきら、1843年10… 長屋 忠明(ながや ただあき / ただあきら、1843年10月20日(天保14年9月27日)‐ 1920年(大正9年)1月2日) は、幕末の伊予松山藩士、明治期の政治家。衆議院議員。旧姓・高木。 伊予国温泉郡松山(現愛媛県松山市) で、松山藩士・高木四郎右衛門(明徳)の二男として生まれ、14歳で同藩士・長屋雄八郎(忠賢)の養嗣子となる。18歳で藩校・明教館に入校して文武を修めたが、武芸を好んだ。慶応3年(1867年)禁裏御所守衛を命ぜられ上京し、同年中に帰郷して監察となり、以後、代官、徒士隊長などを務めた。明治2年(1869年)少参事に就任した。 廃藩置県後、明治政府に出仕し、大蔵省出仕、東京府権中属などを歴任。
真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27… 真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27日〈1843年10月20日〉 - 1898年〈明治31年〉10月1日)は、明治期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、群馬県碓氷郡原市町長。号・虚斎。 上野国碓氷郡、のちの群馬県碓氷郡原市町(安中町を経て現安中市)で、真下利七、しゅん の長男として生れた。佐々木愚山に師事し漢学、詩文を修めた。安政3年9月(1856年)安中藩士分となり、のち新徴組に加わり国事に奔走した。 1875年(明治8年)熊谷県雇となり、暢発学校(のち群馬県師範学校)俗務係を務め、北第21大区碓氷郡37カ町村と甘楽郡5カ村誌の編纂を担当。1876年(明治9年)北第21大区副区長に就任し、第19番中学区取締、医務取締、碓氷郡書記、学務委員、衛生委員、勧業委員などを務めた。
林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(… 林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(天保14年9月21日) - 1899年(明治32年)9月5日)は、明治時代滋賀県の政治家。 1843年10月14日((旧暦)天保14年9月21日)、近江国甲賀郡相模村(現甲賀市)に生まれる。1872年(明治5年)甲賀郡第7区副区長、1874年(明治7年)同区長に選ばれ、地租改正時には甲賀郡総代として地価軽減運動に奔走した。1880年(明治13年)、第一回県議会が大津南町(現大津市)顕證寺において開かれ、騰九郎は甲賀郡選出県会議員として参加した。1884年(明治17年)4月9日の県会において騰九郎は「農商学校」設立建議案を提出し、これが後の滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)設立に繋がる。
長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(18… 長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(1843年10月9日) - 明治41年(1908年)8月13日)は、日本の宗教家。 佐斐神村(現在の鳥取県境港市佐斐神町)に生まれる。農業を営み、地方の名族である。幼少の頃から学問を好み、黒住教を信仰する。 明治11年(1878年)11月、教導職に補し、試補より累進して遂に講師権中信教に至る。邸内に講社を設立し、又土地を提供し、教会所を建築してその所長となる。 その間、伯耆国の分局幹事、宗忠神社新築の世話係長、諮問会議員などをつとめる。 『長山氏世代記録(家伝)』によれば、長山家はもともと“足立(あだち)”姓だったが、元治2年(1865年)六郎右衛門が功績不詳ながら、藩主から“長山”姓を許されたため、長山を名乗った。
古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14… 古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14年9月15日) - 1921年(大正10年)5月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 周防国佐波郡植松村(のち華城村、現・防府市)に生まれる。漢籍を学ぶ。剣術と砲術を修め、さらに西洋兵学を学ぶ。1868年藩の砲兵隊長、花陽丸砲艦司令として乗り組み、蝦夷地に派遣される。1869年藩の砲兵塾舎長、兵学寮助教を命じられ、1871年山口県一番砲隊少尉となるが、翌年、解散となる。1974年陸軍武庫司十等出仕となり、翌年陸軍十等出仕となる。1876年陸軍上等監護となるが、病気のため辞職する。 陸軍を辞職した後は佐波郡大区代議人、山口県会議員、同副議長、同常置委員、同議長となる。
土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14… 土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14年9月15日) - 1911年(明治44年)5月12日)は、明治期の医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。美濃国出身。従四位勲二等。 1843年10月8日((旧暦)天保14年9月15日) 美濃国山縣郡下伊自良村小倉(現・岐阜県山県市)の医師高井松亭の長子に生まれ、幼名を孝太郎と称した。長じて漢学を学び、名古屋の麻生頼三に西洋医学を学び、京都の出て巖垣六藏・廣瀬元恭に就いて漢方医学を修める。1862年(文久2年)伊勢の土井郁之助、1866年4月(慶応2年3月)幕府の西洋医学所教授坪井芳州の塾に入り医学所に入校した。 明治維新後、姓を高井氏から本家の土岐姓に復姓して頼徳と名を改めた。
桜井 勉(さくらい つとむ、天保14年9月13日〈1843年… 桜井 勉(さくらい つとむ、天保14年9月13日〈1843年10月6日〉 - 1931年〈昭和6年〉10月12日)は、明治時代の行政官、衆議院議員。日本の天気予報の創始者とされる。元出石藩士、維新後は徳島県、山梨県、台湾新竹県の各知事、神社局長などを務めた。 出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木(現・兵庫県豊岡市)に生まれた。初名は「熊一」。1850年に藩校の弘道館に入門。その後、堀田省軒、芳野金陵、土井聱牙らの学者に学び、教養を深めた。 1870年に出石藩大参事となる。翌年には出石県権大参事となり出石県廃止後は松山県権大参事となる。明治新政府では内務に携わった。1873年に租税権助に就任。
小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年1… 小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年10月5日(天保14年9月12日)- 1922年(大正11年)10月25日)は、幕末から大正期の薩摩藩士、漢学者、官僚、政治家。内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員。学位は、文学博士。幼名・善次郎、字・偉卿、号・桜泉。 大隅国大隅郡田代郷大禰田村(鹿児島県南大隅郡田代村、肝属郡田代村、田代町を経て現錦江町)で、薩摩藩士・小牧良助の二男として生まれた。江戸で塩谷宕陰に学び、藩校造士館の教員を務めた。 1869年(明治2年)議政官史官試補に就任し、小史、権大史を歴任。その後、官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事、文部大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、内閣書記官長などを歴任。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7… 弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7月12日) - 1920年(大正9年)2月12日)は、明治時代の教育家。 土佐国高岡郡押岡村(現:高知県須崎市)に生まれる。父は高知藩士の弘田潤造。 真面目な性格で、特に武技を好み激剣柔道の奥義を究めた。少壮藩に謹志して藩士の鼓舞教導に努めた。 戊辰戦争に従軍し、廃藩置県後、県立高知中学校が創立した際には教師となって漢文を教えた。厳格でよく生徒を諭し、多くの生徒から敬慕されていた。また、郷里の為に基金を投じ、学校を設立して子どもたちの教育に力を注いでいた。 山河を開拓して公園を作るなど公共事業に大きく貢献した。村町の人たちはこれを讃えて弘田公園と呼んだ。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843… 萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843年7月2日(天保14年6月5日)- 1916年(大正5年)7月31日)は、明治から大正初期の養蚕家、篤農家、政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡東上磯部村(群馬県碓氷郡東上磯部村、磯部村東上磯部、磯部町、安中町を経て現安中市)で、豪農・萩原四郎左衛門、とま子の第二子(二男)として生れた。母が出産直後に死去したため、代々里正を務める家の叔父・萩原弥左衛門の養子となる。佐々木愚山に師事し和漢の群書を学び、山口藤十郎に剣術を、水戸藩士・黒田健之助に柔術・居合を学んだ。 1858年(安政5年)養父の死去に伴い家督を相続し、同年7月11日(6月1日)里正に就任した。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843… 渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。 明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日… 伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1914年〈大正3年〉1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。 薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主・伊東氏に連なる名門の出身である(伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫という)。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保… 髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保14年5月15日)- 1925年(大正14年)7月18日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡東村長。 上総国夷隅郡佐室村(千葉県夷隅郡佐室村、東村佐室、大原町を経て現いすみ市佐室)で、農業・髙梨正作、モトの長男として生まれる。堀江文同に師事し漢学を修めた。1867年(慶応3年)組頭、名主に就任。1869年(明治2年)から1879年(明治12年)まで、宮谷県、木更津県、千葉県の捕亡掛、第6大区副区長、同戸長を歴任した。この間、自由民権運動に加わり、1879年、以文会の発会式に参加した。 1880年(明治13年)1月、補欠選挙で千葉県会議員に選出され、1891年(明治24年)11月まで在任し、この間、同副議長(1889年11月-1890年10月)、同議長(1890年10月-1891年11月)を務めた。
8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年… 8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年5月14日(1843年6月11日) - 明治30年(1897年)12月18日)は、大相撲の立行司。本名は後藤文次郎(与太夫)。出身地は現在の岩手県北上市。 6代式守伊之助の弟子。初代の式守錦太夫で、安政3年(1856年)11月に初めて番付に載る。明治4年(1871年)3月に3代式守与太夫を襲名し、地道に昇進していった。明治17年(1884年)5月に8代式守伊之助を襲名。1年後に次席となった。堅実な軍配裁きに定評があった。明治30年(1897年)12月18日死去した。享年54。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵… 四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵右衛門、1843年6月11日(天保14年5月14日) - 1918年(大正7年)1月27日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。タキヒヨーの始祖。 尾張国丹羽郡東野村(現・愛知県江南市)出身。1875年(明治8年)名古屋へ進出し、先代が築いた呉服太物商絹兵を拡張し滝兵右衛門商店とした。さらに京都、東京に支店を出し1912年(大正元年)11月滝兵商店(現タキヒヨー)を組織した。 ほか、名古屋銀行頭取、愛知織物、帝国撚糸各社長、尾張紡績取締役、関西鉄道監査役、名古屋市参事会員、同市会議員などを歴任した。1897年(明治30年)愛知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)-… 篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)- 1910年(明治43年)8月28日)は、明治期の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国閉伊郡浦鍬ヶ崎村(岩手県閉伊郡浦鍬ヶ崎村、東閉伊郡浦鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎町、下閉伊郡鍬ヶ崎町、宮古町を経て現宮古市鍬ヶ崎)で、徳三郎の長男として生まれた。独学で学問を修めた。 1878年(明治11年)汽船を用いて天然氷40トンを初めて東北から東京へ輸送することに成功。1880年(明治13年)閉伊川沿岸埋立工事を計画し、3年間の工期で切通しを開削して交通の利便性を向上させた。1882年(明治15年)宮古湾漁業会社を設立して、鮭建網、鮭留網の新漁場を開いた。
大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、18… 大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、1843年4月30日(天保14年4月1日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治期の曹洞宗の僧。救世教の祖。初め機外禅透と号したが、のち大道長安。救世教を開いてからは救世仁者とも号した。越後国(新潟県)出身。 蒲原郡新発田(新発田市)の本田文八の次男として生まれる。幕末の1848年(嘉永元年)越後国長岡の曹洞宗長興寺で得度し、1854年(安政元年)長興寺の兄弟子である大雲寺・柏庭大樹に師事し、その養子となった。駒込吉祥寺旃檀林(今の駒澤大学)に学ぶ。 明治維新後の1873年(明治6年)大樹のあとを受けて岡山県津山・長安寺の住職となり「大道山長安寺」から大道長安に改名。
鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保1… 鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保14年3月24日) - 1892年(明治25年)10月2日)は幕末から明治初期の僧、社会事業家。孤児や貧しい子供たちの養育などで知られ、育てた子供の数は200人とも言われる。 1843年(天保14年)、出羽国村山郡(後の山形県東村山郡大郷村、現・山形市)生まれ。7歳で出家して陸奥国安達郡大玉村(現・福島県大玉村)の相応寺で修行、13歳からは京都の智積院で修行、その後は安達郡岩代町(現・二本松市)の東福寺、次いで息王寺の住職となり、1868年(明治元年)からは安積郡郡山町(現・福島県郡山市)の如宝寺の住職となる。 当時の郡山地域は戊辰戦争などで荒れ果てており、生まれたばかりの子供を育てられない家庭も多かったため、そうした子どもたちを引き取り、寺にて自費で育てて教育したり、「門前縞」という織物を教えたという。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保… 小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保14年3月13日) - 1910年(明治43年)7月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友直。 大組頭小野寺惣三郎の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡飛鳥村(山形県飽海郡南平田村、平田村、平田町を経て現酒田市)に生まれる。1868年(明治元年)家督を相続し肝煎、ついで戸長となり、1882年(明治15年)から1902年(明治35年)まで20年間に渡り山形県会議員を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では山形県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 この間、区書記兼村長、学務委員、町村連合会議員、山形県参事会員、南平田村会議員、飽海郡会議員、同議長、郡教育会議員、地方森林会議員など多くの公職を歴任した。
先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 … 先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 忠左衞門、1843年2月27日〈天保14年1月29日〉 - 1925年〈大正14年〉9月23日)は、日本の政治家、実業家、資産家、大地主、香川県多額納税者。衆議院議員(香川県第五区選出、当選1回)。西讃銀行取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡仁尾村(現・香川県三豊市)に生まれた。忠左衛門の長男。早くから家庭の薫陶を受け、また金光寺信元に就いて漢籍を修めた。商業を営んだ。 1874年、三野郡仁尾村学務委員となり、それ以来仁尾村会議員、三野豊田郡地位等級会議員、香川県会議員、仁尾村勧業世話係、仁尾村第六聯合会長、仁尾村家の浦聯合会議員、仁尾尋常小学校建築委員長、仁尾村長等の各公職に就任。
網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保… 網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保14年1月11日) - 1926年(大正15年)4月18日)は、明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 雨宮彦兵衛の二男として甲斐国東八代郡祝村(現・山梨県甲州市)に生まれる。1865年(慶応元年)同郡錦村の網野治郎右衛門の養子となり、1870年(明治3年)2月、家督を相続する。1872年(明治5年)11月、同村戸長に就任し、ついで八代郡第四区第五区蚕種製造世話掛、錦村副戸長、八代郡第五区長兼学区取締役、学区取締総理、学事会員嘱託を経て、1882年(明治15年)9月に錦村村会議員に当選した。 1884年(明治17年)9月、東八代郡錦生学校教育連合会議員に転じ、英村錦村所得税調査委員、東八代郡会議員、同郡参事会員、同郡所得税調査委員補欠などを経て、1902年(明治35年)1月、山梨県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年1月10日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年… 安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1909年10月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。旧姓は林。通称は謙三。海軍の先覚者の一人。 備後国御調郡向島西村(現在の広島県尾道市)の医師・林金十郎の四男として生れる。12歳で広島に出て漢学、医学を学ぶ。1860年、長崎で医学を学び、英国軍艦に乗組んで二年間軍学を学んだ。1865年何礼之が開設した私塾で前島密らとともに学ぶ。 薩摩藩の講師として招かれた前島に誘われ薩摩藩へ移る。1866年、小松清廉、西郷隆盛に請われ薩摩藩の海軍養成に携わる。1867年薩摩藩に軍艦「春日丸」を購入するよう島津久光に進言。
蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1… 蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1843年1月27日) - 大正元年(1912年)8月29日)は、幕末から明治期の日本の航海者。函館大経・深瀬鴻堂と共に「函館三士」と称される。 天保13年12月27日(1843年1月27日)、箱館に生まれる。箱館の諸術調所で蘭学者・武田斐三郎より航海術を学び、箱館奉行企画の黒竜江出貿易及び上海出貿易航海で測量方を務めた。 大政奉還後の明治5年(1872年)正月、開拓使御用掛に任ぜられ「樺戸丸」の船長となる。その際に開拓長官・黒田清隆の指示で航海に際しての旗印として夜空に赤く光る北極星をイメージした「北辰旗」をデザインし、この旗印は1882年まで開拓使のシンボルとして使用された。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - … 逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - 1894年〈明治27年〉)は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。 生年は1834年(天保5年)ともいわれる。佐倉藩藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子として生まれ、家伝の立身流を修行する。立身流は袋竹刀で打ち合う古式の剣法であったが、江戸で竹刀防具を用いる撃剣試合が盛んになると、佐倉藩も1850年(嘉永3年)に他流試合を許し、北辰一刀流や鏡新明智流などを招いて学んだ。鏡新明智流からは高弟の上田馬之助が来て、逸見は上田の指導を受けた。 1860年(万延元年)、父より立身流居合目録を受ける。父の計らいで藩から剣術留学の許しを得て、1861年(万延2年)に江戸に出て、鏡新明智流士学館道場を主として1年間撃剣を修行。
原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1… 原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年))は、日本の政治家。南多摩郡長および八王子町長を務めた。 1843年に武蔵国多摩郡調布の上布田村(現在の東京都調布市)で生まれる。幼名は泰輔。1880年4月、神奈川県勧業課御用掛になる。1882年6月、南多摩郡長に就任。1886年に愛甲郡長になる。1891年11月、再び南多摩郡長に就任。1893年に南多摩郡は神奈川県から東京府になる。1897年に郡長を辞任。1900年4月、八王子町長に就任し、1901年3月辞任。 豊穣は1870年から1913年まで日記を書いており、調布市で公開されている(ただし、1889年 - 1912年10月は空白になっている)。
久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1… 久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1913年(大正2年))は、日本の実業家・起業家。久光常英堂(久光製薬の前身)の代表者である。 肥前国基肄郡田代村(現・佐賀県鳥栖市)出身。小松屋(現・久光製薬)の創業者である久光仁平の長男として生まれる。新しい薬の開発に力を注ぎ、1869年(明治2年)に健胃清涼剤「奇神丹(きしんたん)」を発売する。日清戦争の際に出征する兵士に販売し、そのことを契機として軍用薬に指定され業績を大いに伸ばしていった。 1871年(明治4年)、仁平より家業を譲り受ける。小松屋を「久光常英堂」と改称する。1881年(明治14年)、田代村で起こった大火に巻き込まれ久光常英堂も全焼したため、養父郡轟木村大字鳥栖字三角屋(現・鳥栖市)の徳渕家に身を寄せながら行商を続けた。
海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年… 海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。 父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年(嘉永4年)房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍した。海老名は父と行動を共にし、ペリー来航の際は、父に貰った陣羽織を手に開戦に備えていた。 幼少の頃は天然痘に罹患するなど、3度も死に瀕する重病を患った。安政の大地震の際は歩行もできなくなっていた。弓馬刀槍に加え砲術、儒学と厳しい教育に耐え切れず、家出を図ったことさえあったという。
足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) … 足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) - 1911年(明治44年)7月27日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 遠江国城東郡丹野村(静岡県城東郡川野村、小笠郡川野村、小笠村、小笠町を経て現菊川市)の三橋家に生まれ、周智郡平宇村(山科村、山梨村、山梨町を経て現袋井市)の足立家の養子になる。和漢学を学ぶ。1873年(明治6年)浜松県第二大区小区長となるが、1875年(明治8年)凶荒に際し減租を訴え県官と対立し罷免された。この頃、協同会を結成し小作米基準地価算定論や公選民会開設論を展開した。1876年(明治9年)2月、浜松県15等出仕、同年6月、権少属として民会係となり、浜松県民会設立に尽くした。
浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年… 浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年11月22日)は、岡山県窪屋郡子位庄(現・倉敷市)出身の実業家。 1843年、窪屋郡小位庄で生まれる。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいたが成功しなかった。 1876年、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の再掘を始める。出費がかさむ事から、採掘事業は解散したが、和七郎一人踏みとどまり、新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功した。 また、早島村金田山廃坑の再掘を開始。多くの銅鉱を採掘し、巨額の富を得た。 巨額の利益を得たことから、数十町の田畑を買い、更に船舶を買い、海運業を始めた。 1883年11月22日、病で死去。
勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天… 勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天保14年〉 - 1888年〈明治21年〉7月22日)は、勝ノ浦部屋及び境川部屋に所属した力士。 本名は吉井→川島 力之助。身長162cm,体重105kg(成人時)。出身地は現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)。 最高位は東前頭筆頭。 農家の次男として出生。子供の時から体格が大きく、怪童力士として1850年11月に初土俵を踏んだ。当時数え8歳で、121cm,68kgあったと伝わる。嘉永年間は土俵入りのみだった(番付上は西張出前頭。当時の四股名は鬼若力之助だった)が、1860年10月に序ノ口として相撲を取り始めた。最初は苦労したが、明治に入って力を付け始め、1870年4月に十両昇進(西二段目7枚目となり十両相当となった)。
吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1… 吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1月) - 1918年(大正7年)5月23日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。岐阜県武儀郡吉田村長。 美濃国武儀郡吉田村(岐阜県武儀郡関町を経て現関市)出身。漢学を修める。 戸長、地租改正地価監定役、岐阜県会議員、武儀郡学務委員、郡書記、郡徴兵参事員、吉田村長、所得税調査委員、吉田村会議員となる。ほか、吉田倉庫銀行頭取、上有知銀行取締役を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年)… 大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年) - 1889年(明治22年)12月2日)は、現在の東京都出身で玉垣部屋に所属した大相撲力士。本名は竹馬 長吉。7代出来山。最高位は関脇。 実家は神田の蕎麦屋で、幼少期から体が大きく、玉垣部屋に入門。1856年(安政3年)1月に怪童力士として1場所だけ番付に載り、土俵入りをつとめた。翌1857年(安政4年)に角界に入り直し、11月場所で序ノ口に就いた。1867年(慶応3年)に入幕し、同期、同時入幕の境川浪右衛門(のち横綱)と出世を争い、その取組は人気を集めた。番付を順調に上げ、1869年(明治2年)4月に小結に昇進、8年に渡って三役の座を維持し、1871年(明治4年)3月関脇に昇進した。