前ヶ汐 英太郎(まえがしお えいたろう、1923年10月1日… 前ヶ汐 英太郎(まえがしお えいたろう、1923年10月1日 - 没年不明)は、高砂部屋に所属した元力士。本名は徳野 剛(とくの ごう)。愛媛県西宇和郡伊方町出身。173cm、92kg。最高位は西十両11枚目。得意技は小股掬い。 同郷の前田山英五郎(のちの第39代横綱)が所属する高砂部屋に入門、1938年1月場所に初土俵を踏んだ。1944年11月場所、前田山に倣い前ヶ汐英太郎と四股名を改めた場所に幕下優勝を果たし、1945年6月場所に十両に昇進する。新十両の場所は3勝4敗と負け越し、1場所で幕下陥落。翌1946年11月場所に再十両を果たすも5勝8敗と負け越したところで23歳で廃業。俊敏さを活かしたバリエーションが豊富な激しい取り口であり、特に小股救いを得意とした。
長與 繁(ながよ しげる、1923年10月1日 - 2012… 長與 繁(ながよ しげる、1923年10月1日 - 2012年7月18日)は日本の元競艇選手。長崎県出身で女子プロレスラー長与千種の父。 1952年に大村競艇場で競艇が初開催された際の選手1期生にあたる(登録番号56番)。 生涯成績は通算出走回数:119走、通算勝利:20勝。 引退後は飲食店を経営。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2… 下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本の都市計画家、建設官僚。国土事務次官を歴任。工学博士。日本上流文化圏研究所理事長。 日本の国土計画立案に多く関与し、また各種団体の要職を務め、その影響力を指して「御大」と呼ばれた。 1923年9月30日に下河辺収の長男として東京府東京市(現在の東京都)で生まれた。旧制水戸中学校、旧制水戸高校を経て、1947年、東京大学第一工学部建築学科卒業。在学中に終戦を迎えたため高山英華の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院技術研究所勤務。その後建設省入省。1952年に経済審議庁計画部勤務。1957年、建設省に復帰、計画局勤務。
隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9… 隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9月30日 - 1989年〈平成元年〉11月4日)は、日本の脚本家、小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で脚本、隆慶一郎のペンネームで小説を執筆していた。 東京市赤坂区生まれ。旧制同志社中学、第三高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒。 戦時中は学徒出陣で出征、陸軍士官として中国大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復学して1948年 東京大学卒業、大学時代に師事していた小林秀雄が参画していた創元社(のちの東京創元社)に入社する。
吉本 晴彦(よしもと はるひこ、1923年(大正12年)9月… 吉本 晴彦(よしもと はるひこ、1923年(大正12年)9月30日 - 2017年(平成29年)5月30日)は、日本の実業家。元大阪マルビル会長。「大日本どケチ教」の教祖。 大阪・梅田の大地主の家に生まれ、祖父彦太郎に「どケチ道」を仕込まれた。学徒動員された経験を持ち、中国で終戦を迎えた。復員後に不動産業を始めた。1946年(昭和26年)、同志社大学経済学部卒業と同時に不動産事業を興し、吉本土地建物株式会社社長に就任。 1970年(昭和45年)、自分の半生に基づいてケチを勧めた著書「どケチ人生」がベストセラーになり、1973年に「大日本どケチ教」を設立して教祖に就任した。元サントリー副会長の鳥井道夫、森下仁丹社長だった森下泰とともに「大阪の三ケチ」と呼ばれた。
竹内 一夫(たけうち かずお、1923年9月29日 - 20… 竹内 一夫(たけうち かずお、1923年9月29日 - 2021年12月8日)は、日本の脳外科医。杏林大学名誉学長。 東京都出身。旧制武蔵高等学校を経て、1946年東京帝国大学(現・東京大学)医学部卒。大槻外科副手、清水外科助手、1955年「癲癇の末梢血液循環について 腦疾患と容積脈波」で医学博士の学位を取得。1956年清水外科医局長、1957年講師、脳神経外科外来医長、1958年虎の門病院脳神経外科部長、1973年杏林大学医学部教授、83年医学部長、1988-1998年学長、名誉教授、2011年名誉学長。 厚生省科学研究費・特別研究事業『脳死に関する研究班』班長として「竹内基準」をまとめた。1991年紫綬褒章受勲。
田中 健夫(たなか たけお、1923年〈大正12年〉9月27… 田中 健夫(たなか たけお、1923年〈大正12年〉9月27日 - 2009年〈平成21年〉10月12日)は、日本の歴史学者。文学博士(東京大学・論文博士・1977年)(学位論文「日本中世対外関係史の研究」)。東京大学名誉教授。中世東アジアの国際関係史を研究。 群馬県高崎市出身。1940年旧制群馬県立高崎中学校4年修了。1942年9月旧制新潟高等学校卒業。同年10月東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1945年9月卒業。1949年東京大学史料編纂所入所、1961年助手、1966年助教授、1971年教授。1977年「日本中世対外関係史の研究」で文学博士(東京大学)の学位を取得。1984年定年退官、東京大学名誉教授、東洋大学教授。
尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-… 尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-2017年(平成29年)1月21日)は、日本の経済学者、平和運動家。法政大学名誉教授。専門は教育経済論。 1923年(大正12年)9月27日、宮城県にて生まれる。宮城県立第一中学校、陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校(56期)を卒業し、陸軍中尉で終戦をむかえる。戦後、法政大学経済学部(通信制)に入学し、卒業後、同大学大学院に進み、教育経済学を専攻する。1982年(昭和57年)の全学集会で非核大学宣言をまとめ、翌年から公開講座『法政平和大学』をひらく。また、テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟の会の世話人代表を務めた。 1995年の第17回参議院議員通常選挙に、環境政党「憲法みどり農の連帯」公認で東京都選挙区から出馬、落選。
山田 滋(やまだ しげる、1923年(大正12年)9月26日… 山田 滋(やまだ しげる、1923年(大正12年)9月26日 - 2002年(平成14年)2月3日)は、日本の自治官僚。沖縄開発事務次官、全国市議会議長会事務総長、危険物保安技術協会理事長などを歴任。 愛知県出身。府立高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1947年4月、高等試験行政科試験に合格し、同年、厚生省に入省し労政局配属。 1970年7月 消防大学校長。1971年9月 消防庁次長。
大橋 博司(おおはし ひろし、1923年9月26日 - 19… 大橋 博司(おおはし ひろし、1923年9月26日 - 1986年9月21日)は、日本の医学者・精神科医。国立京都病院(現:国立病院機構京都医療センター)院長。京都大学名誉教授。専門は臨床精神医学、特に失語症を中心とする神経心理学。 1946年京都大学医学部卒業後、医学を専門とするかたわら帝塚山大学にて哲学や古典を勉強した。1953年「失語における一般障碍について」で京都大学より医学博士の学位を取得。 1973年 - 1985年京都大学精神医学教室教授(第4代)。
斎藤 実(さいとう みのる、1923年9月25日 - 201… 斎藤 実(さいとう みのる、1923年9月25日 - 2014年11月4日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(6期)。 青森県下北郡大湊町(現むつ市)出身。1940年、函館市立商工青年学校(後の北海道函館工業高等学校)卒業。1959年札幌市議会議員に当選する。1期務めた後、1963年から北海道議会議員を1期務める。1967年の第31回衆議院議員総選挙で北海道1区から公明党公認で立候補して当選、以後6期務めた。1986年の第38回衆議院議員総選挙に出馬せず引退した(後継者には参議院から藤原房雄が鞍替え)。2014年死去。
小久保 実(こくぼ みのる、1923年9月25日-2011年… 小久保 実(こくぼ みのる、1923年9月25日-2011年6月21日)は、日本現代文学の研究者。 大阪府生まれ。関西大学卒、同大学院博士課程単位取得満期退学。関西大学、関西外国語大学助教授、園田学園女子短期大学助教授、大谷女子大学教授、帝塚山学院大学教授・名誉教授を務めた。堀辰雄を中心として現代日本文学を多く論じた。
野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9… 野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9月24日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市井ケ谷町)の小作農の家に生まれる。高等小学校卒業後、国有鉄道米原機関区に就職した。1942年に日本国有鉄道名古屋鉄道教習所を卒業し、20歳で一人前の機関士となった。 召集され、1944年1月、フィリピン群島に送られる。同年夏、上陸用舟艇の艇長としてルソン島に転進。マニラ郊外に上陸後捕虜となる。1945年12月8日に輸送船に乗り、呉海兵団基地に帰還した。野々山の部隊は約960名編成されていたが、生存者はわずか20数名であった。
作道 洋太郎(さくどう ようたろう、1923年(大正12年)… 作道 洋太郎(さくどう ようたろう、1923年(大正12年)9月23日 - 2005年(平成17年)2月4日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、日本経済史・経営史。学位は、経済学博士(大阪大学・1961年) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小林 章良(こばやし あきよし、1923年9月22日 - 2… 小林 章良(こばやし あきよし、1923年9月22日 - 2002年12月13日)は兵庫県出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手。
川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月… 川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月22日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)9月22日に鹿児島県鹿児島市で、川久保二之介・静の五男として生まれる。家族は長男から、輝夫の後に生まれた六男まで全員が男兄弟だった。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(海兵72期)を卒業すると、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令があり、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫大尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
藤嶋 清多(ふじしま きよた、1923年〈大正12年〉9月2… 藤嶋 清多(ふじしま きよた、1923年〈大正12年〉9月21日 - 2011年〈平成23年〉6月16日)は、日本の政治家。群馬県前橋市長(2期)。 群馬県前橋市出身。1941年(昭和16年)旧制前橋中学卒。終戦後の1946年(昭和21年)前橋市役所に入る。建設、都市計画の各部長などを歴任し、1982年(昭和57年)に収入役、1986年(昭和61年)に助役に就任した。1988年(昭和63年)前橋市長選挙に立候補して初当選、2期務めた。1996年(平成8年)引退。2011年(平成23年)死去。
柳井 乃武夫(やない のぶお、1923年(大正12年)9月2… 柳井 乃武夫(やない のぶお、1923年(大正12年)9月21日 - 2014年(平成26年)9月28日)は、日本の官僚。日本国有鉄道常務理事や運輸審議委員を務めた。 外交官・弁護士の柳井恒夫の長男としてリオデジャネイロに生まれる。弟は外交官で駐米大使を務めた柳井俊二。暁星小学校、武蔵高等学校尋常科・高等科を経て、東京帝国大学法学部に進学する。東大在学中の1943年に学徒出陣で徴兵され、フィリピンのレイテ島に出征する。終戦を知らずにフィリピンのポロ島山中で二ヶ月の逃亡生活を送った後に投降した。その模様は後年、自著『山の兵隊』『万死に一生 第一期学徒出陣兵の手記』に記述している。 1945年12月に復員後、1947年に運輸省に入省。
南 義弘(みなみ よしひろ、1923年9月21日 - 202… 南 義弘(みなみ よしひろ、1923年9月21日 - 2021年10月4日)は、日本の経営者。トナミ運輸社長、会長を務めた。トナミ商事前社長の南信弘は息子、元衆議院議員の綿貫民輔は従兄弟。 兵庫県出身。1947年に千葉工業大学冶金学科を卒業し、1969年にトナミ運輸に入社。 監査役を経て、1973年5月に副社長に就任し、1975年5月には社長に就任。2005年6月に会長に就任。 高岡商工会議所会頭とほくほくフィナンシャルグループ監査役も務めた。 2009年4月に旭日中綬章を受章。 2021年10月4日老衰のために死去。98歳没。
関口 利男(せきぐち としお、1923年9月21日 - 20… 関口 利男(せきぐち としお、1923年9月21日 - 2008年11月17日)は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元東京工業高等専門学校校長。 多賀工業専門学校、桐生高等工業学校を経て、1949年東京工業大学電気工学科卒業。1957年東京工業大学工学博士。東京工業大学工学部電気・電子工学科教授や、武蔵工業大学工学部電子通信工学科教授を務めた。東京工業大学名誉教授。1980年東京工業大学工学部長。1983年東京工業高等専門学校校長。1989年電子情報通信学会編集長。正四位、1997年勲三等旭日中綬章受章。東京工業大学関口研究室出身者には安藤真東京工業大学名誉教授や、遠藤信博日本電気代表取締役会長などがいる。
勝原 文夫(かつはら ふみお、1923年(大正12年)9月2… 勝原 文夫(かつはら ふみお、1923年(大正12年)9月20日 - 2017年(平成29年)4月24日[要出典])は、日本の風景学者、景観論者、農業経済学者、農学者、俳人。 東京府に生まれる。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)卒業後、1年の浪人を経て旧制東京府立高校に入学し、2年生のとき学徒出陣で輜重隊に入隊した。[要出典] 復学後に府立高校を卒業して[要出典]東京大学経済学部に進学し、農業経済学を専攻した。[要出典]1948年の大学卒業後、創立時の国立国会図書館調査局に入り、39年間在職して1987年に退職した。同年、農村風景論に関する著述活動により、第8回国立公園協会田村賞を受賞した。
植田 隼美(うえだ はやみ、1923年9月20日 - )は、… 植田 隼美(うえだ はやみ、1923年9月20日 - )は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
山口 銀次(やまぐち ぎんじ、1923年9月20日 - 19… 山口 銀次(やまぐち ぎんじ、1923年9月20日 - 1997年4月22日)は、日本のハワイアン歌手、ウクレレ奏者。実兄に山口正保、実弟に山口軍一がおり、ともにハワイアン・ミュージシャンである。 長崎県佐世保市出身。少年期にウクレレを始めた。 バッキー白片に師事しつつ、寺部頼幸、寺部震、石川淳らと椰子の実楽団(後の寺部頼幸とココナッツ・アイランダースの前身)を結成。 太平洋戦争中は戦闘機操縦士としてフィリピンに出征。 1945年10月、九州に復員。その後、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの再結成に立ち会う。当時のメンバーは、白片、寺部頼幸、寺部震、実兄の山口正保、山口銀次。 1953年、アロハ・ハワイアンズを脱退し、バンドの同僚である和田弘や鈴木揚介とともに山口銀次とマヒナスターズを結成。
高橋 盛吉(たかはし もりよし、1923年〈大正12年〉9月… 高橋 盛吉(たかはし もりよし、1923年〈大正12年〉9月20日 - 2007年〈平成19年〉7月23日)は、日本の政治家。岩手県北上市長(4期)。 岩手県北上市(旧和賀町)生まれ。1947年〈昭和22年〉紅陵大学(現・拓殖大学)商学部卒。卒業後は経済安定本部に入り、貿易局に勤務する。その後、経済審議庁計画部、日本原子力研究所、水資源開発公団に勤める。1963年〈昭和38年〉岩手県庁に入り、企画開発局、企画部開発課長、企画部次長心得、総務部次長、商工労働部長、企画開発室長、総務部長、企業局長を歴任する。 1980年〈昭和55年〉の第12回参議院議員通常選挙に岩手県選挙区から無所属の野党候補として立候補したが落選した。
根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005… 根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005年10月24日)は、日本の俳優。本名は森 不二雄(もり ふじお)。 身長171cm。1950年代より大映で菅原謙次と人気を二分し、活躍した二枚目スター。後年は活動の場をテレビ中心に移し、渋い脇役として存在感を示した。 東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)出身。父方の祖父はオーストリアの音楽家ルドルフ・ディトリッヒ、日本名=日土理非)、祖母は森菊。父はヴァイオリニストの森乙。甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。杉並商業学校を経て1941年に法政大学経済学部に進む。1943年、学徒出陣で東部六二部隊に入隊。
土屋 哲(つちや さとる、1923年9月19日 - 2007… 土屋 哲(つちや さとる、1923年9月19日 - 2007年3月25日)は、日本のアフリカ文学・カリブ海文学研究者。明治大学・ナイロビ大学名誉教授。本名の読みは「てつ」。 和歌山県生まれ。東京大学卒。ナイジェリアのイバダン大学、ケニアのナイロビ大学などで日本文学を教え、これらの大学やセネガルのダカール大学に日本語関係の講座を開設。明治大学教授を務め、アフリカ文化などの紹介に努めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中根 英郎(なかね ひでろう、1923年9月19日 - 19… 中根 英郎(なかね ひでろう、1923年9月19日 - 1982年2月25日)は、日本の経営者。日動火災海上保険社長、会長を務めた。 愛知県出身。1946年に明治大学商学部を卒業し、1950年11月に日動火災海上保険に入社。1963年6月に取締役に就任し、1966年2月に常務、同年6月に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1977年7月には社長に昇格。 1982年2月25日、肝硬変のために死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中根 英朗(なかね ひでろう、1923年(大正12年)9月1… 中根 英朗(なかね ひでろう、1923年(大正12年)9月19日 - 1982年(昭和57年)2月25日)は、日本の実業家。 大衆保険市場のパイオニアとして長い歴史をもつ、安田財閥系の日動火災海上保険の社長に就任後、代理店連合会の発足、自動車保険損害調査を中心とするオンラインシステムの完成など、募集網強化と契約者サービス向上を推進。同社史上画期的と言われた首都圏営業体制の強化及び、全国拠点網の整備など、同社発展の礎をつくった。また、業容拡大と共に、資本金を86億円から120億円に増資し、業界上位企業としての地位を揺るぎないものにした。 社外に於いては、損保事業研究所幹事や、日本損害保険協会理事などを歴任し、業界の発展に尽力した。
芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年〈大正12年〉9月1… 芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年〈大正12年〉9月17日 - 1999年〈平成11年〉6月12日)は、日本の法学者。専門は憲法学。学位は法学博士(東京大学・1962年)。憲法学の権威とされる。宮澤俊義門下。弟子に横田耕一、高橋和之、戸松秀典、戸波江二、野坂泰司、日比野勤、長谷部恭男など。 1990年日本学士院会員、1993年文化功労者。1986年から1992年まで日本公法学会理事長。護憲派憲法学者団体の全国憲法研究会代表、国際人権法学会理事長等も歴任。著書『憲法』(岩波書店)は代表的な著作であり、累計100万部を超えるロングセラーとなっている。称号は東京大学名誉教授。軍在籍時の階級は陸軍少尉。
馬場 猪太郎(ばば いたろう、1923年9月17日 - 20… 馬場 猪太郎(ばば いたろう、1923年9月17日 - 2018年3月25日[要出典])は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 大阪府出身。早稲田大学卒業後、松下電器産業勤務、農業従事を経て1947年(昭和22年)に社会党入党。全日本農民組合連合会大阪府連副会長、日本社会党大阪府7区協議会議長、大阪府議会議員を歴任。1976年の第34回衆議院議員総選挙で大阪府7区から社会党公認で立候補して当選、1期務めた。1979年の第35回衆議院議員総選挙、1980年の第36回衆議院議員総選挙では落選により政界を引退。社会福祉法人友愛福祉会 おおわだ保育園の元理事長。
江見 俊太郎(えみ しゅんたろう、1923年9月16日 - … 江見 俊太郎(えみ しゅんたろう、1923年9月16日 - 2003年11月17日)は、日本の俳優。本名は黒川 輝郎(くろかわ てるお)。旧芸名は江見 渉。 東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区中野)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。妻は女優の松風はる美で、1976年から共同で「劇団ノア」を運営していた。 学徒出陣により海軍航空隊少尉で神風特攻隊出身。1945年復員後、東宝に入社し『民衆の敵』でデビュー。後に新東宝に移り、主に準主役で、色悪を主とした悪役としても活躍。また1947年に初舞台『出家とその弟子』で唯円役を演じるなど、早くから演劇活動を行い、多くの名作舞台に出演している。1964年に上演された『龍馬翔く』には後藤象二郎役で出演していたが、主演の南原宏治が公演中に負傷して降板を余儀なくされ、二幕目からは急遽、江見が南原の代役に立って務め上げた。
竹内 三賀男(たけうち みかお、1923年(大正12年)9月… 竹内 三賀男(たけうち みかお、1923年(大正12年)9月15日 - 2014年(平成26年)6月5日)は日本の実業家、元旭食品社長。高知県高知市出身。旭食品元社長の竹内成雄は長男。
鈴木 勝忠(すずき かつただ、1923年9月15日 - 20… 鈴木 勝忠(すずき かつただ、1923年9月15日 - 2012年6月3日)は、日本の日本近世文学研究者、岐阜大学名誉教授。 愛知県岡崎市生まれ。1943年、愛知第二師範学校卒業、入営。1953年、東京大学文学部国文科卒。愛知学芸大学講師、岐阜大学助教授、教授。1987年、定年退官、名誉教授、中京大学教授。1963年、東京大学国語国文学会賞受賞。1993年、芭蕉祭奨励賞受賞。2000年、勲三等旭日中綬章叙勲。没後正四位。 川柳・雑俳研究の第一人者で、『雑俳集成』を24巻のほか多く私家版を刊行した。
築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉… 築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉9月15日 - 2012年〈平成24年〉3月30日[要出典])は、日本の特撮監督、プロデューサー。東京都出身。 東京品川の大井町に生まれる。生家の前に「大井館」という映画館があり、5、6歳から映画館に毎日通うようになった。 1939年(昭和14年)、神田電機学校(現:東京電機大学)を卒業。父親の親友だった青島順一郎撮影技師の紹介で、映画会社新興キネマに入社。撮影助手となる。 1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画、日活と合併、「大日本映画製作株式会社」となる。各社とも社員を1/3にリストラしての合併だったが、「このなかに何とか残った」と語っている。
掛下 栄一郎(かけした えいいちろう、1923年〈大正12年… 掛下 栄一郎(かけした えいいちろう、1923年〈大正12年〉9月13日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。専門は哲学及び美学。 佐賀県大牟田市に生まれ、数ヶ月後に和歌山県和歌山市に移る。和歌山県立和歌山中学校を経て、1942年4月に第二早稲田高等学院文科に入学する。1943年12月、学徒出陣により大阪の高射砲隊に入隊し、満州にて幹部候補生としての教育を受ける。1946年1月、早稲田大学文学部哲学科(西洋哲学専修)に復学する。1947年10月に卒業した後、大学院において樫山欽四郎の指導を受け、また、早稲田大学図書館書記に嘱託される。 1949年4月、早稲田大学高等学院の助手となる。
貞家 克己(ていか かつみ、1923年 <大正12年> 9月… 貞家 克己(ていか かつみ、1923年 <大正12年> 9月13日 - 2003年 <平成15年> 11月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。愛知県出身。位階は正三位。 愛知一中や旧制一高を経て、1948年(昭和23年)東京帝国大学を卒業。司法修習を終えた後、いったん千葉地裁判事補などをし、1953年(昭和28年)10月に法務省入り。参事官、司法法制調査部長、訟務局長、民事局長を務め、「法務省に貞家あり」といわれた存在であった。裁判官としても宇都宮地裁所長、横浜地裁所長、広島高裁長官、大阪高裁長官などを歴任した。法務省訴訟局長から東京高裁判事になった時は周囲から「今様浦島ですね」と冷やかされ、自ら「浦島太郎の独白」と題する随筆を法律雑誌に寄せた。
吉田 克己(よしだ かつみ、1923年9月13日 - 201… 吉田 克己(よしだ かつみ、1923年9月13日 - 2016年1月16日)は、日本の公衆衛生学者。三重大学名誉教授。 岐阜県出身。京都帝国大学を卒業。1958年(昭和33年)、三重県立大学(現・三重大学医学部)の教授に就任する。四日市ぜんそくの発生原因について疫学的な見地から研究をおこない、硫黄酸化物との関連を指摘、住民による訴訟においても証人として出廷した。1960年代以降に四日市市の公害防止対策委員などを歴任して、四日市公害と環境未来館の設立時に資料などを提供した。1971年(昭和46年)から1973年(昭和48年)まで、三重県公害センター所長を兼任した。三重県による硫黄酸化物の総量規制の制定にも関与した。
服部 力(はっとり つとむ、1923年9月12日 - 201… 服部 力(はっとり つとむ、1923年9月12日 - 2012年2月27日)は、三重県伊勢市出身のプロ野球選手(投手)、ノンプロ野球指導者・組織運営者。右投右打。
虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1… 虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1991年6月15日)は、日本の作家、評論家、随筆家、翻訳家。
増田 善信(ますだ よしのぶ、1923年〈大正12年〉9月1… 増田 善信(ますだ よしのぶ、1923年〈大正12年〉9月11日 - 2025年(令和7年)6月9日)は、日本の気象学者。京都府竹野郡弥栄町(現京丹後市)出身。 数値予報を専門とする。気象庁退職後は非核化運動に科学者として関わり、独自調査による広島原爆後の「黒い雨」の降雨範囲を分析した「増田雨域」は、2020年(令和2年)の広島地裁及び広島高裁において健康被害を訴えた原告84名全員を被爆者と認定し、国が上告を断念するに至った訴訟に影響を与えた。また2020年(令和2年)、内閣が 日本学術会議が推薦した科学者のうち6名の任命を拒否した問題に関し、SNSで署名活動を行った。2023年12月2日には100歳の高齢で、26年間代表世話人を務めた全国学者・研究者日本共産党後援会世話人総会の閉会あいさつをした。
北田 栄作(きただ えいさく、1923年9月10日 - 20… 北田 栄作(きただ えいさく、1923年9月10日 - 2007年3月19日)は、日本の大蔵官僚。国際金融局次長、造幣局長、第三相互銀行取締役副頭取、同行代表取締役頭取、第三銀行代表取締役頭取(初代)などを歴任。 三重県出身。東京大学法学部政治学科卒業。東大法学部政治学科在学中に第一回目の国家公務員六級職試験をトップで合格。1949年 大蔵省入省。大臣官房秘書課配属。1953年7月 長浜税務署長。1962年6月 理財局総務課長補佐。1969年8月 主計局主計官(外務、通商産業担当)。1972年6月 理財局総務課長。1973年6月26日 東海財務局長。1974年7月10日 銀行局検査部長。1975年11月20日 大臣官房審議官(関税局担当)。
後藤 秀夫(ごとう ひでお、1923年9月10日 - 199… 後藤 秀夫(ごとう ひでお、1923年9月10日 - 1991年2月14日)は、日本の昭和期の戦後に活躍したプロボクサー。和歌山県出身。日本フェザー級チャンピオン。 アマチュア時代は強豪として鳴らした技巧派のアウトボクサー。早稲田大学在学時、当時花形スポーツであった学生ボクシングのスターとなる(後藤をモデルに「大学の虎」(鶴田浩二主演)なる映画も製作された)。 大学卒業後の1949年プロ入り、いきなり8回戦からデビュー。翌年、13戦目で早くも日本タイトルに挑戦、ベビー・ゴステロを判定で下し見事日本フェザー級チャンピオンとなる。その翌月には秋山政司の持つライト級タイトルに挑戦したが、判定で敗れた。
杉浦 宏(すぎうら ひろし、1923年9月10日 - 200… 杉浦 宏(すぎうら ひろし、1923年9月10日 - 2005年5月6日)は、日本の教育学者。 東京出身。早稲田大学教育学部卒。北里大学助教授、教授、東京国際大学教授。ジョン・デューイを主として研究した。 2005年5月6日、前立腺癌のため死去。
佐分純一(さぶり じゅんいち、1923年9月9日-1999年… 佐分純一(さぶり じゅんいち、1923年9月9日-1999年12月13日)は、日本のフランス文学者。 東京生まれ。画家佐分眞の長男。幼くして母をなくし、12歳で父が自殺。開成中学校から、1949年慶應義塾大学文学部仏文科卒。1950年慶應義塾高等学校教諭、1958年慶大法学部講師、1963年助教授、1970年教授、1988年定年、名誉教授、杏林大学教授。ジュリアン・グリーンを主として研究した。菊池英博は母の甥。法号 法覺院博譽慶純居士 多磨霊園に葬る。
岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 20… 岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 2013年9月16日)は、日本の作曲家。 富山県富山市生まれ。1947年、東京音楽学校(現:東京藝術大学)声楽科卒業。後に作曲家となり平井康三郎、池内友次郎に師事。日本童謡協会理事、山口大学教授を歴任。日本作曲家協議会会員。 合唱作品の作曲家として知られている一方、NHKでも放送・レコード関係の作曲・編曲などを手がけた。吹奏楽作品も全日本吹奏楽コンクール用に多く作曲し、作曲家グループ「ニュー・エイトの会」の一員で、意欲的に吹奏楽曲の作曲を行った。また、作曲のみならず作詞も数作手がけている。 次女は岩河智子(いわかわともこ、作曲家、札幌室内歌劇場音楽監督)墓は富山市の長岡墓地。
大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 201… 大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 2010年8月20日)は日本の建築家、都市計画家。福島県三春町出身。 福島県三春町に生まれる。祖父が三春藩士で河野広中をリーダーに自由民権運動の激しい戦いに身を投じ、苦難の境涯に屈することはなかったが、運動はもはやこれまでと自ら命を絶ったとされ、大高の父は、これを隠して弾圧を逃れる生活を送り、大高の生後間もなく福島市近郊に移った。 1940年旧制福島県立福島中学校(現福島県立福島高等学校)卒業。在学中器械体操部のマネージャーと美術部部長をつとめる。このころや少年時代のもっとも楽しかった想い出は、風景を水彩で写生したことだという。 41年旧制浦和高等学校理科入学。
犬丸 直(いぬまる ただし、1923年9月8日 - 2010… 犬丸 直(いぬまる ただし、1923年9月8日 - 2010年6月27日)は、日本の文部官僚。 愛知県生まれ。東京帝国大学法学部在学中に学徒出陣し、甲種幹部候補生として1945年1月に千葉陸軍高射学校を卒業、北支派遣軍隷下の唐山の高射砲中隊に配属される。4月に内地に転属し、国府台の高射砲隊にいた。 戦後復学して1948年に卒業後、文部省入省。1975年学術国際局審議官、76年管理局長、77年文化庁長官をへて退官。1980年国立劇場理事、1986-88年東京国立近代美術館館長、ユネスコ・アジア文化センター理事長、1990-2004年日本藝術院院長。
田中 敬(たなか たかし、1923年〈大正12年〉9月7日 … 田中 敬(たなか たかし、1923年〈大正12年〉9月7日 - 2016年〈平成28年〉12月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官。 広島県広島市出身。父の田中康道は弁護士。元三菱マテリアル会長、元日経連会長の永野健は従兄弟。旧制広島高師附属中学校、旧制一高を経て、1948年(昭和23年)東京大学法学部政治学科卒業後、大蔵省に入省し大臣官房渉外部配属。ちなみに一高同期に大倉真隆(大蔵省47年前期入省)、長岡實(大蔵省47年後期入省。共にのちの大蔵事務次官)、三重野康(日銀生え抜きの同行総裁)らがいて、大倉 - 長岡と続いて大蔵次官に就任した。 廿日市税務署長、関東信越国税局、国税庁所得税課長補佐、水資源開発公団資金課長、大蔵省理財局国債課長、資金課長、大臣官房文書課長、東京税関長を経て、1973年6月26日 主計局次長。
南 緑八郎(みなみ ろくうはちろう、1923年9月7日 - … 南 緑八郎(みなみ ろくうはちろう、1923年9月7日 - 2005年4月27日)は、日本の経営者。 新潟日報社社長を務めた。新潟県出身。 1946年に立命館大学を卒業し、1949年に新潟日報社に入社。1976年に取締役に就任し、1983年に常務、1988年に専務を経て、1990年から1992年までに社長を務めた。 2002年11月22日解離性大動脈瘤のために死去。79歳没。
水野 惣平(みずの そうへい、1923年9月6日 - 198… 水野 惣平(みずの そうへい、1923年9月6日 - 1983年2月12日)は、日本の実業家。元アラビア石油社長。 実父は「アラビア太郎」・「満州太郎」あるいは「山師太郎」こと山下太郎、養父は「財界四天王」の一人として池田勇人を支えた水野成夫。 東京府立一中、旧制府立高等学校を経て、昭和23年、北海道大学理学部卒業。富国生命保険、日本開発銀行を経て、小林中事務所秘書役になる。昭和39年、富士石油専務、昭和43年、アラビア石油専務、46年、社長。社長就任わずか2年で同社会長となり、経団連理事に就任。 アップストリームからダウンストリーム・石油精製部門への進出や、昭和48年の石油ショック前、アラブ支持を打ち出すよう政府に要望する。