大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – … 大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – 2003年7月19日)は、日本の経営者。総合建設会社・大林組の第3代社長。大林道路社長・会長。内外テクノス社長。大林不動産社長。大林組二代目社長で母方叔父の大林義雄の養子。全国建設業協会(全建)会長も務めた。 大阪府出身。大林組創業者大林芳五郎の長女ふさとその入り婿・賢四郎の二男。 1941年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、大林組に入社。翌1942年に徴兵された。1943年11月、第2代社長の大林義雄(芳五郎の長男でふさの弟)の急死に伴い3代目社長に就任。以後45年余りにわたって社長職を務めた。1987年には会長職を兼任したが、1988年に4代目社長に津室隆夫を据え、会長職に専任。
木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 … 木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 - 2009年〈平成21年〉2月26日)は、日本の政治家。元奈良県奈良市長(1期) 。位階は正六位。 三重県出身。1941年〈昭和16年〉昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒。1946年〈昭和21年〉奈良市役所に入る。市民、財政の各課長、総務部長、市長公室長、収入役、助役を経て、1980年〈昭和55年〉奈良市長に当選。市長を1期務め、1984年〈昭和59年〉の市長選挙には不出馬、市長を退任した。2009年〈平成21年〉死去。死没日付をもって正六位に叙された。
利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日… 利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉12月16日)は昭和期の作曲家。本名:恩田 良武。 朝鮮で生まれた。本籍は群馬県邑楽郡明和町で、同地に本家と先祖の墓がある。 早稲田大学政経学部中退。 1942年(昭和17年)ポリドール・レコードに入社。その後キングレコードを経てビクターに所属。1947年(昭和22年)、「星の流れに」が大ヒット。作曲家人生49年で1200余曲を作曲する。1966年(昭和41年)、「霧氷」にて第8回日本レコード大賞を獲得。 日本作曲家協会理事を務めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)12月16日死去。
神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986… 神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986年7月13日)は、日本の俳優・声優。東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。本名は神田 澄孝。かかしプロ、アマチプロゼ、北川事務所に所属していた。 東京帝国大学文学部仏文科を卒業。1942年に日本出版文化協会に入った。上司には南條範夫・杉浦明平、同僚に柴田錬三郎がいた。しかし、映画評論家の内田岐三雄に豪快なマスクと雄弁を注目されて、1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社した。映画『暖き風』でデビューし、戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得た。 新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』などで主要な役を演じたが、代表作には恵まれなかった。
立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - … 立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - 1971年7月23日)は、石川県石川郡(現白山市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は窪川 清(くぼかわ きよし)。身長173cm、体重115kg。最高位は西前頭7枚目(1945年6月場所)。 出身地の白山市松任から「マットウさん」のあだ名で呼ばれた。右肩から当たって右を差し、そのまま出ていく取り口で、時に投げ技や捻りも見せたが基本は勝ち味の遅い"相撲好き"タイプ。羽黒山の土俵入りでは太刀持ちを務めた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 199… 石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 1995年4月24日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。東京都出身。 1940年に東京帝国大学工学部応用学科を卒業し、日産液体燃料に就職。同年9月、海軍技術科短期現役補修学生となり、造機中尉に任官。1945年5月、技術少佐に昇進し、終戦を迎えた。 戦後、農業化学研究所に勤務。1953年3月に三菱石油に転じ、1973年5月に常務、1979年3月に東北石油社長を経て、1983年6月に三菱石油社長に就任し、1989年6月には会長に就任した。 1995年4月24日肺炎のために死去。77歳没。墓所は東京都世田谷区の乗満寺。
坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 200… 坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 2005年9月24日)は、日本の実業家。アパレルメーカーファミリア創業者として知られる人物である。 1918年4月11日、兵庫県神戸市出身で、父はレナウン創業者で昭和時代に貴族院議員を務めた佐々木八十八。 1931年に甲南高等女学校に入学、1936年に甲南高等女学校を卒業。東京市へ上京し、東京女学館高等科の聴講生として学んでいる。 1940年、惇子は坂野兼通(山口銀行総理事)の子息、坂野通夫と結婚し、1943年に長女を出産した。その際に外国人専門の乳幼児看護師から外国式の育児法を教示される。 第二次世界大戦の進行と共に夫が大日本帝国海軍の軍属としてインドネシアに赴任。
川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 197… 川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 1979年3月14日)は、日本の経済学者。専門は金融論(信用論)。マルクス経済学に基礎をおきながら、ケインズ経済学(体系)など幅広い視角から高度経済成長期のインフレーション問題などについて実証的・理論的な研究を行った。 1918(大正7)年、福岡県に生まれる。1936(昭和11)年3月、灘中学校卒業。同年4月大阪商科大学 (旧制)(大阪市立大学→現大阪公立大学)高等商業部入学。1939(昭和14)年、病気により同大学を中退。同年9月、大阪商科大学経済学研究所臨時雇い。その後、同所書記、同所研究員を経て、1949(昭和24)年大阪市立大学助教授、1957(昭和32)年同教授。
大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日… 大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、スペイン文学者、同志社大学商学部教授。専攻はスペイン古典文学。 福井県福井市出身。1940年、東京外国語学校スペイン語部文科を卒業する。日本郵船社員、都新聞記者などを経て、1962年に同志社大学商学部助教授となる。 1966年、給与所得者は過重な税負担を課せられているとして「サラリーマン税金訴訟」を起こした。一、二審で敗れ、1984年3月3日、最高裁上告中にS状結腸癌により死去。享年65歳。 1975年、『魔女セレスティナ』で第12回日本翻訳文化賞を受賞する。
大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 20… 大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 2008年9月29日)は、日本の大蔵官僚。 広島県福山市三之丸町生まれ。広島県立福山誠之館中学校から第六高等学校(文科乙類)に入学。六高時代は柔道部に入部。官僚の道を選ぶべく東京帝国大学法学部を目指し、1938年に入学。東京帝大法学部法律学科3年次の1940年10月に高等試験行政科及び司法科を合格。東京帝大法学部法律学科を卒業し、1941年 大蔵省に入省し、国民貯蓄奨励局に配属された。8か月の勤務の後、広島の部隊に陸軍二等兵として入隊。1944年3月 パラオ諸島の中心コロール島に着任した。米軍の攻略目標から外れた大村らの基幹部隊は、パラオ本島のジャングルの中で持久作戦に入る。
安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - … 安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - 2015年11月10日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手。
原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は… 原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は広島県出身のプロ野球選手。
高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈… 高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈大正7年〉4月9日 - 1980年〈昭和55年〉7月30日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1938年(昭和13年)岐阜県師範学校を卒業し、1944年(昭和19年)同研究科を卒業した。 小学校訓導、陸軍伍長、岐阜県下国民学校訓導、中学校教諭、岐阜市教育委員会副委員長、日本社会党岐阜県本部書記長などを務めた。1955年(昭和30年)の岐阜県議会議員選挙に岐阜市選挙区から左派社会党公認で立候補して当選した。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)は社会党公認で当選している。衆議院議員補欠選挙に立候補するため、1964年(昭和39年)12月6日付で県議を辞職した。
池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 199… 池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 1997年1月6日 )は、日本の経営者。日本旅行社長を務めた。 岡山県出身。旧制矢掛中学(現:岡山県立矢掛高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1966年9月に日本旅行専務に就任し、1977年1月には社長に昇格した。1984年5月に取締役相談役を経て、1988年4月から顧問を務めた。 1997年1月6日脳梗塞で死去。78歳没。
若尾 隆子(わかお たかこ、1918年4月4日 - 2014… 若尾 隆子(わかお たかこ、1918年4月4日 - 2014年10月19日)は、日本の女優。旧姓は鮫島。 埼玉県川越市出身。東京府立第八高等女学校を卒業し、東宝劇場照明係を経て、戦後は名古屋演劇集団創立と共に夫と演劇活動を続けた。
山口 恵照(やまぐち えしょう、1918年4月4日 - )は… 山口 恵照(やまぐち えしょう、1918年4月4日 - )は、日本の哲学者。大阪大学名誉教授。インド哲学専攻。愛知県出身。 愛知県葉栗郡木曽川町(現:一宮市)に生まれる。1941年京都帝国大学文学部哲学科卒業。立命館大学助教授、1955年大阪大学文学部インド哲学科助教授、教授、82年定年退官、名誉教授。62年「古典サーンキヤ哲学の研究」で京都大学文学博士。1991年勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 20… 大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 2001年6月5日)は、日本の翻訳家。 東京出身。早稲田大学英文科卒業、戦後、明治大学政治経済学部教授を務めた。 1968年に川瀬広保らが創設した明治大学SF研究会の会長。レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』、H・P・ラブクラフトの作品などSF、怪奇小説の翻訳で知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日… 岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日 - 2016年(平成28年)4月21日)は、日本の医学者。止血剤:ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸の開発者の1人。
木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010… 木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010年3月21日)は、日本の美術監督、映画監督。 東京都恵比寿出身。日本映画・テレビ美術監督協会顧問、日本映像美術協議会JVA賞審査委員長、日活芸術学院学院長、映画美学校理事、東京工芸大学芸術学部客員教授、京都造形芸術大学映画学科准教授を務めた。 十代の頃より、舞台美術監督伊藤熹朔に師事。1941年、日活に入社。しかし、翌年に日活は新興キネマ、大都映画と合併して大映となる。『海の呼ぶ聲』(1945年 / 伊賀山正徳監督、封切は終戦後)で美術監督に昇進。1954年、映画製作を再開した日活へ移籍。 1963年、『悪太郎』をきっかけに鈴木清順監督作品の美術を担当、「清順美学」と呼ばれるその作風の創造に大きく貢献する。
一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月… 一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月)は日本の経営コンサルタント。 群馬県前橋市出身。旧制前橋中学校卒業後に、中島飛行機の生産技術係長、富士機械製造の資材課長や、日本能率協会のプロジェクトマネージャーをなど経て、経営コンサルタントとして独立。生産管理、管理会計の分野からはじめ、社長専門のコンサルタントとして伝説をつむいだ。5000社を超える企業を指導し、多くの赤字企業を立て直した。 社長専門の経営コンサルタントの第一人者とされ、苛烈なまでに経営者を叱り飛ばす姿から「社長の教祖」「炎のコンサルタント」との異名を持つ。 ”ダメな会社はTOPがすべて悪い、人のせいにするな、部下のせいにするな、環境のせいにするな”が基本方針。
矢橋宗一(やばし そういち、1918年4月 - 没年不詳)… 矢橋宗一(やばし そういち、1918年4月 - 没年不詳)は、日本の実業家。矢橋工業代表取締役社長。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。 1918年4月、矢橋次郎と絹(旧姓・安居)の長男として生まれる。慶應義塾大学を卒業し、安田信託銀行入行。1958年矢橋工業入社。矢橋工業取締役を経て、1970年矢橋工業常務、1973年矢橋工業専務、1979年矢橋工業代表取締役社長に就任。 「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る。
佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 -… 佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 - 1960年(昭和35年)12月30日)は、日本の画家、詩人。本名は忠義。溪山人、忠石、教祖とも号する。 第二次世界大戦中は中国・東南アジアで従軍する。1945年に復員したのちは、後述の放浪中に作成された作品とは対照をなす、神秘的な油彩画を多く制作した。1955年から5年に渡り日本全国を旅し、昭和30年代の風景や人物を絵画に残した。水彩、フェルトペン、鉛筆等による多彩な画風が特徴である。1959年、旅先の沼津で脳卒中のため倒れ、翌1960年、両親の住む湯布院町で、「父母の後光見たり萩深し」という辞世の句を残し死去。 佐藤の作品の多くは、1991年7月に大分県大分郡湯布院町(現大分県由布市湯布院町)に開館した由布院美術館で展示されていたが、2012年3月に同館が閉館することに伴い、2013年1月からは大分県別府市にある国の登録有形文化財聴潮閣内に開設された佐藤溪美術館で展示されている。
村井 勉(むらい つとむ、1918年3月31日 - 2008… 村井 勉(むらい つとむ、1918年3月31日 - 2008年10月31日)は、日本の実業家。アサヒビール代表取締役社長、東洋工業(現:マツダ)代表取締役副社長、住友銀行(現:三井住友銀行)代表取締役副頭取、JR西日本代表取締役会長等を歴任した。1988年勲二等旭日重光章受章。 福岡県小倉市堺町(現:北九州市小倉北区)で円応寺住職の二男として生まれ、その後村井家に養子に出された。旧制小倉中学(現:福岡県立小倉高等学校)を経て、1942年9月、戦時中の半年繰り上げで東京商科大学(現:一橋大学)を卒業。当時の住友グループにおける一括採用試験に合格。内定者面接にて、「銀行に行くのが嫌な人は手を挙げなさい」と言われ挙手したにも関わらず住友銀への配属となるが、出社することなく召集となり10月に小倉歩兵連隊に入隊。
山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 19… 山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 1999年6月8日)は、日本の農業史学者、食文化研究家、文筆家。 三重県生まれ。筆名・梶山健。慶応義塾大学法学部法律学科卒業。 1952年農業発達史調査会研究員として『日本農業発達史』の執筆に参加。1959年より農政調査委員会、1960年企画部長、常任理事、専門委員。『食の科学』(光琳)編集長。1986年から文筆活動に専念。 1988年「文化的・社会経済的視座から考察した「食」の変貌に関する研究」で東京農業大学農学博士。
小酒井 望(こさかい のぞむ、1918年3月31日 - 19… 小酒井 望(こさかい のぞむ、1918年3月31日 - 1989年1月15日)は、日本の医学者。順天堂大学医学部教授を経て、同大学名誉教授。細菌学、臨床検査学が専門。 名古屋市生まれ。小酒井不木の長男。1941年東京帝国大学医学部卒。1942年1月、陸軍短期現役として陸軍軍医学校防疫研究室に配属。1952年東京大学医学博士。国立東京第一病院、1961年順天堂大学医学部教授。1983年定年、名誉教授。1984年、初代順天堂大学医学部附属浦安病院院長に就任し、現職で死去した。
庄司 幸助(しょうじ こうすけ、1918年3月31日 - 2… 庄司 幸助(しょうじ こうすけ、1918年3月31日 - 2011年5月15日)は、日本の政治家、自然保護活動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算2期務めた。日本共産党名誉幹部会顧問。財団法人政治経済研究所森林政策研究室主任研究員。 宮城県仙台市宮城野区出身。東北帝国大学法文学部を経て、1947年から1972年まで日本共産党の宮城県議会議員を務める。 第33回衆院選に宮城1区から出馬し初当選を果たす。再選を目指した1976年の衆院選に立候補し次々点に終わるが、1979年の衆院選で2期目の当選。以後1980年、1983年、1986年の各衆院選に挑むも何れも当選には至らなかった。 宮城県議在任中の1970年頃からブナ問題に関心を寄せ、政界引退後も仙台のブナ林と水・自然を守る会常任代表、日本の森と自然を守る全国連絡協議会常任世話人を務めるなどして里山の保全に力を入れていた。
川口 武彦(かわぐち たけひこ、1918年3月29日 - 1… 川口 武彦(かわぐち たけひこ、1918年3月29日 - 1998年12月29日)は、日本の経済学者、社会運動家。元九州大学教授。元社会主義協会代表。経済学のほか、堺利彦、山川均など労農派を中心とした初期社会主義研究でも功績を残した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
小野 晋(おの すすむ、1918年3月29日 - 2001年… 小野 晋(おの すすむ、1918年3月29日 - 2001年9月20日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。大分県出身。 1941年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1969年5月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年5月に専務を経て、1976年5月に副社長に就任し、1978年6月には社長に昇格。1984年6月に会長に就任し、1989年6月に相談役に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2001年9月20日に肺炎によって死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2… 村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2006年11月5日)は、元南極観測隊隊長で国立極地研究所名誉教授。
田中 裕(たなか ゆたか、1918年3月28日-2017年1… 田中 裕(たなか ゆたか、1918年3月28日-2017年1月19日)は、日本の国文学者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)(学位論文「中世文学論的研究」)。大阪大学名誉教授。中世文学が専門。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。第三高等学校を経て1942年1月京都帝国大学文学部を繰上げ卒業。のち京都一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)教諭、甲南高等学校(旧制)教授、1950年大阪大学文学部助教授、1962年「中世文学論的研究」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1964年教授。1981年定年退官、名誉教授、南山大学教授、梅花女子大学教授。1989年退職。
大下 俊春(おおしも としはる、1918年3月27日 - 1… 大下 俊春(おおしも としはる、1918年3月27日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。大下回春堂(現在のフマキラー)社長を務めた。 広島県出身。熊本薬学専門学校を卒業。 1950年には大下回春堂(現在のフマキラー)社長に就任。 また、当時資金難に陥っていた広島カープに資金援助をした。 1960年7月5日急性肺炎のために社長在任時に死去。42歳没。
北城 真記子(きたしろ まきこ、1918年3月26日 - 1… 北城 真記子(きたしろ まきこ、1918年3月26日 - 1995年2月24日)は、日本の女優。東京府出身。本名は北城 ます子。 東洋高等女学校中退。1943年(昭和18年)文学座研究所に入り「怒潯」出演。戦後、1947年(昭和22年)神協劇団研究生で入り「タルチュフ」初舞台。1949年(昭和24年)に文学座に戻り「娼婦マヤ」、「道遠からん」。1953年(昭和28年)文学座自主映画「にごりえ」で杉村春子を助演。1957年(昭和32年)東映「純愛物語」「越後つついし親不知」。1960年(昭和35年)文学座の「女の一生」「メアリー・スチュアート」に出演した。 1995年(平成7年)、直腸がんのため死去。
笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)… 笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)は、日本の元サッカー選手。大学生の時にサッカー日本代表として出場経験があり、現役時代のポジションはミッドフィールダー。 笠原は神戸一中サッカー部及び慶應義塾体育会ソッカー部に在籍し、1937年の全日本蹴球選手権大會(現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、慶応義塾大学の初優勝を成し遂げた。彼はまた、慶應義塾大学の選手と卒業生で構成される母校の慶應BRBでもプレイし、津田幸男、二宮洋一、篠崎三郎と共に、1939年と1940年の天皇杯でも優勝した(以後、天皇杯は戦争で1941-1945年まで中断となる)。1941年慶應義塾大学経済学部卒業。
磯野 富士子(いその ふじこ、1918年3月24日 - 20… 磯野 富士子(いその ふじこ、1918年3月24日 - 2008年1月5日)は、日本のモンゴル研究家、翻訳家。 広島県生まれ。日本女子大学附属高等女学校卒業。日本女子大学校英文科卒業。磯野誠一と結婚、1943年誠一とともにモンゴルに行き、西北研究所の所員となる。 戦後帰国、『冬のモンゴル』を刊行。1961年「再び主婦労働について」を発表し、第二次主婦論争の口火を切る。1966年『オルドス口碑集』の翻訳を出版、パリのラティモア-モンゴル学研究所主任研究員となる。 父は海軍技術少将穂積律之助、伯父に東大教授穂積重遠と叔父に京城電気取締役穂積真六郎。祖父東大教授穂積陳重、祖母歌子は渋沢栄一の長女であり、父の律之助は栄一の2番目の孫であった
山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 200… 山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 2002年12月23日)は、日本の政治家、公明党の衆議院議員(6期)。岡山市出身。
山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 200… 山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 2002年12月23日)は、日本の政治家、公明党の衆議院議員(6期)。岡山市出身。 1941年、慶應義塾大学文学部を卒業。1967年の第31回衆議院議員総選挙で当時の中選挙区であった岡山県第1区で、党結成後初めての総選挙に公明党から出馬して初当選し、以降、1980年の第36回衆議院議員総選挙まで連続6回の当選を果たした。この間、1972年には政策審議会文教部会長、1981年には中央統制委員など、党内の要職を歴任した。2002年12月23日、岡山市内の病院で脳梗塞の後遺症により84歳で亡くなった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
直木 和(なおき かず、1918年3月23日 - 1940年… 直木 和(なおき かず、1918年3月23日 - 1940年代)は、日本のサッカー選手。 旧制兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)出身で、1933年に全国中等学校蹴球選手権大会で優勝した。 旧制第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、東京帝国大学法学部に入学してア式蹴球部に入部。在学中の1939年8月27日に大連で行なわれた大連関東州代表との国際親善試合で日本代表デビューし、1940年6月16日に紀元二千六百年奉祝東亜競技大会において行なわれたフィリピン代表との国際親善試合にも日本代表として出場した。後者は、2007年に国際Aマッチとして認定された。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
大田 堯(おおた たかし、1918年3月22日 - 2018… 大田 堯(おおた たかし、1918年3月22日 - 2018年12月23日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。シューレ大学アドバイザー。専攻は教育学、教育史、教育哲学。 広島県広島県本郷町(現・三原市)出身。築島家の三男として生まれ、1946年大田智子と結婚し、大田と改氏。旧制広島高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業。 東京大学教育学部・大学院教育学研究科教授、日本子どもを守る会会長、都留文科大学学長、日本教育学会会長などを歴任。 戦後の日本を代表する教育学者として著名である。2011年に大田を主人公としたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が公開され、再びその活動が注目されている。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、19… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の政治家、実業家。伊香保町議会議長、株式会社木暮旅館(現・ホテル木暮)代表取締役社長、伊香保ガス株式会社代表取締役社長、上毛新聞社取締役。日本観光協会理事、群馬県観光協会長、群馬県スケート連盟会長、26代目武太夫。位階は従五位。 1918年(大正7年)、先代木暮武太夫(元運輸大臣、国会議員、旧名:正一)の長男として群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)に生まれる。木暮家は、天正10年(1582年)長尾輝景から伊香保温泉の安堵状を与えられた木暮下総守を先祖とする旧家で、木暮旅館(現在のホテル木暮)を営み、代々「武太夫」の名を世襲する家柄である。
広津 桃子(ひろつ ももこ 廣津桃子、1918年3月21日 … 広津 桃子(ひろつ ももこ 廣津桃子、1918年3月21日 - 1988年11月24日)は、日本の作家、随筆家。広津和郎の娘。 広津和郎と下宿屋の娘神山ふくの長女として生まれる。神山家は幕末に御家人から町人になり、桃子の祖父の代には麴町の英国大使館近くで薪炭を商っていたが、永田町で下宿屋を始めた一家である。生まれて間もなく両親は別居し、母のもとで育つ。日本女子大学国文科卒業後、叔母の神山かねが経営する目黒区駒場町の下宿屋「西山寮」で母と暮らしながら、女学校で教鞭を取っていたが、1945年5月の空襲で西山寮が全焼する。戦後、同人雑誌『文学行動』に「窓」を発表し、1952年より母、叔母とともに藤沢市鵠沼に暮らす。
青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21… 青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21日 - 2012年(平成24年)2月28日)は、昭和時代に活躍した歌手。「鴛鴦道中」などで知られる。本名は小野寺 貞子(おのでら ていこ)。 宮城県仙台市の裕福な家庭に生まれる。幼い頃に母を亡くし、祖父母に育てられる。実家にあった蓄音機から流れる流行歌の世界に憧れるようになり、特に後の恩師となる関種子の歌う「嘆きの夜曲」を聞き、歌手を志すようになる。 1936年(昭和11年)、日本コロムビアが松竹とタイアップして、音丸の「下田夜曲」の宣伝のために開催した歌謡コンクールに応募し、優勝した。このコンクールには、後に活躍する若き日の岡晴夫や近江俊郎の姿もあったが、女性の歌であったためかいずれも落選している。
升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年〈… 升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1991年〈平成3年〉4月5日)は、将棋棋士、実力制第四代名人。棋士番号18。 木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。昭和の将棋界で一番のスター棋士である。 名前の読みは「こうそう」であるが、将棋界では「こうぞう」で通した。 父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。
伊藤 庄七(いとう しょうしち、1918年3月20日 - 1… 伊藤 庄七(いとう しょうしち、1918年3月20日 - 1999年3月6日)は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 20… 飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 2005年9月24日)は、日本の農学者・市民運動家。京都大学名誉教授。元京都ベ平連代表。専門は、農業経済学、農業史(農業・農法の歴史的研究)。農学博士(京都大学・論文博士・1961年)。 東京都生まれ。1941年、京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。1948年に国立国会図書館主事を経て、1951年に農林省農業技術研究所技官。1954年2月に京都大学人文科学研究所助教授、1974年6月に京都大学人文科学研究所教授。1981年に定年退官。1981年4月に京都大学名誉教授。 1961年5月に「農学成立史の研究」により、京都大学から農学博士の学位を授与される。
永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 198… 永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 1981年10月8日)は、日本の弁護士、政治家。広島県知事(5-7代)。参議院議員(2期) 父は、戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄で戦中戦後に国会議員を務めた永野護であった。旧制広島高校を経て1941年東京帝国大学法学部を卒業し司法試験に合格。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 戦後は東京地方検察庁検察官、法務総裁秘書官を歴任。 弁護士や会社経営を経て、広島県知事の大原博夫がスキャンダルで任期途中で辞任したため、1962年に行われた県知事選挙で当選した。
吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20… 吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20日 - 1967年〈昭和42年〉1月)は、教育者、重量挙げ選手。身長184cm、体重85kgの筋骨隆々体で知られ、平和祈念像のモデルとされている。何事も1番でなければ気が済まないという性格から「先頭」を意味する「せんとうはん」の愛称がある。 徳島県立穴吹高等学校出身のオリンピック代表選手。
福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918年(大正7年)3月1… 福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918年(大正7年)3月19日 - 1979年(昭和54年)8月13日)は、日本の小説家、詩人、フランス文学者。
馬渕 和夫(まぶち かずお、1918年3月19日 - 201… 馬渕 和夫(まぶち かずお、1918年3月19日 - 2011年11月24日)は、日本の国語学者。筑波大学名誉教授、東京成徳短期大学名誉教授。勲三等瑞宝章受章。長く「馬淵和夫」の表記を用いた。 愛知県名古屋市生まれ。東京文理科大学卒、1961年「日本韻学史の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京教育大学、筑波大学教授、1981年定年退官、名誉教授、東京成徳短期大学教授、2003年退職。1995年春、勲三等瑞宝章受勲。 馬渕の研究対象は広範囲にわたり、そのような意味においては総合性が大きな特色の一つであるといえるが、新たに開拓された分野として真っ先に挙がるのは、悉曇学や日本語の音韻史である。
本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 19… 本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 1997年6月8日)は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。本名は安次。1952年から1957年は本堂 保弥(やすや)、1958年以降は本名(コーチ時代の1969年のみ本堂 安治)を登録名としていた。
岡村 總吾(おかむら そうご、1918年(大正7年)3月18… 岡村 總吾(おかむら そうご、1918年(大正7年)3月18日 - 2013年(平成25年)10月26日)は、日本の工学者(電子工学・通信工学)。階級は海軍技術大尉。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は工学博士(東京大学・1951年)。東京大学名誉教授、東京電機大学名誉学長、文化功労者。名の「總」は「総」の旧字体のため、新字体で岡村 総吾(おかむら そうご)とも表記される。 東京帝国大学工学部助教授、東京大学工学部教授、東京大学工学部学部長、東京大学総長特別補佐、東京電機大学教授、日本学術振興会理事長、東京電機大学学長、学校法人国際大学理事長などを歴任した。 1918年(大正7年)3月18日、東京に生まれる。