大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(18… 大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(1864年9月26日) - 昭和25年(1950年)10月10日)は、旭川市の実業家、政治家。#大谷酒造株式会社の創業者。新潟県出身。真宗大谷派旭川別院檀家総代。旭川村(現旭川市)への鉄道誘致、日本放送協会北海道放送局開設、百貨店丸井今井旭川支店にも深く携わった。1928年(昭和3年)6月紺綬褒章。 現在の旭川市6条6丁目にあった酒造会社。 明治42年下村正之助の酒造場を買収し創業、43年度から生産を始め、同年の造石高 672 石、44年 1,051 石を生産して千石蔵に仲間入りした。 代表的な銘柄は、旭正宗・旭自慢 昭和19年企業整備令により、旭川酒類工業会社に合併され、第四工場として稼働。
岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月2… 岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月25日〈元治元年8月25日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月19日)は、明治時代から昭和初期の日本の弁護士、会社役員、資産家。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎源十郎の長男。生家は代々農業を営む。1878年、新潟英語学校に入り、在学2年で4ヶ年の課程を終え学業が大に進む。1881年、大学予備門に入り、その後病気のため2年休学する。1883年、家督を相続し、前名・源之助を改める。 1886年、大学予備門の課程を終え1887年、高等中学法科を卒業する。1890年、帝国大学法科大学を卒業、法学士の称号を受く。
神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25… 神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25日(元治元年8月25日)- 1954年(昭和29年)3月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。号・鶉迫。 豊前国上毛郡四郎丸村(現福岡県豊前市山田)で、酒造家・神崎栄蔵の長男として生まれる。蔵春園で学んだ。家業の他、小倉酒精社長、角屋酒造社長、八尾貯蓄銀行取締役、築上銀行取締役、八尾銀行取締役、宇島銀行取締役、宇島鉄道専務取締役などを務めた。 1907年、福岡県会議員に当選し立憲政友会に所属。1910年から1923年まで県会議長を務めた。その他、福岡県結核予防協会長、同山林会副会長、同教育会長、同実業団体連合会長、同酒造業組合会顧問などを歴任。
西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日… 西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日〈文久3年9月9日〉 - 1910年〈明治43年〉2月2日)は、日本の内務官僚。官選県知事。号・靖軒、獅牢。 信濃国埴科郡鼠宿村(現・長野県埴科郡坂城町)で、西沢陽左衛門の息子として生まれる。慶應義塾に学び、1890年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省試補となり会計局に配属された。 1891年5月、警保局に転じ、同年10月、宮崎県参事官に就任。以後、新潟県参事官、香川県警部長、香川県・滋賀県・大阪府・兵庫県・京都府の各書記官などを歴任。 1904年11月、青森県知事に就任。1908年6月、福島県知事に転じ、産業振興に尽力したが、盲腸炎および肺炎により在任中に死去した。
八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年… 八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年9月9日) - 1945年(昭和20年)1月4日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(奈良県選出、当選10回)。ドクトルメジチーネ。族籍は奈良県平民。 大和国奈良出身。八木重義の長男。大阪医学専門学校で学んだ後、東京帝国大学医科大学別科を卒業。その後、ドイツに留学し、ロストック大学を卒業し、ドクトルメジチーネの学位を授けられた。 帰国後、静養する。東京帝国大学医科大学附属第一医院副手となるが、間もなくこれを辞して奈良に帰る。医業に従事する。奈良町会議員、奈良市会議員、奈良県会議員、同参事会員、添上郡会議員に挙げられる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(… 榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(文久3年9月3日) - 1936年(昭和11年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院検事、同判事。 榊原光次郎の弟としてのちの愛知県に生まれる。普通学を修めたのち、1886年(明治19年)帝国大学法科大学を卒業する。大学院に進んだのち、1890年(明治23年)東京地方裁判所判事となり、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長となった。その後、大審院検事および判事を歴任した。大審院判決例の編集に功績がある。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10… 菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10月7日) - 昭和12年(1937年)5月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。名は「つたう」とも読む。星亨の配下。 文久3年(1863年)、陸奥国遠田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に菅原応輔の二男に生まれる。大学予備門を経て帝国大学に学び、明治19年(1886年)渡米、パシフィック大学に学ぶ。在米中自由党に加盟し、1887年にサンフランシスコで在米日本人愛国同盟会(Japanese Patriotic League)を結成、機関紙『第十九世紀』を発行。同会は、米国オークランドで政治活動を行っていた山口熊野らのグループと、菅原らサンフランシスコの日本人留学生が結びついてできたもので、やや遅れて日向輝武、井上平三郎、井上敬次郎らが参加した。
穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年1… 穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年10月6日) - 昭和7年(1932年)1月31日)は、日本の歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵・渋沢栄一。 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた。
栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(18… 栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(1863年10月5日) - 昭和19年(1944年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 肥前国神埼郡蓮池村(現在の佐賀県佐賀市から神埼市にかけての地域)に堺時中の四男として生まれ、栗山延光の養子となった。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語法律科を卒業した。博文館に入社して、百科事典の編纂主任となった。その後、『信府日報』主筆や『西肥日報』主筆を務めた。さらに神埼郡会議員、佐賀県会議員、同議長に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文… 林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文久3年8月15日) - 1927年(昭和2年)12月1日)は、日本の官僚、政治家。衆議院書記官長、衆議院議員。号・雲梯。 熊本藩士・林田俊太郎の長男として現・熊本市に生まれる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。法制局に入り法制局属として長官官房に配属された。1888年6月、枢密院属となる。 1888年11月、法制局参事官試補として法制部に配属。以後、法制局参事官、臨時帝国議会事務局秘書官、衆議院書記官、兼農商務省参事官、衆議院庶務課長、兼守衛部長、衆議院議事課長などを歴任。 1897年11月、衆議院書記官長に就任。
平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年… 平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年9月26日) - 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の神職、国学者、神田神社社司。美濃国(後の岐阜県南部)出身、東京帝国大学(後の東京大学)文学部古典講習科卒業。首府神社界の1人とされる。 父は美濃郡代(美濃国代官)を勤めた旗本戸沢盛恭で、旧名を戸沢盛定と称した。美濃国羽栗郡笠松町生まれ。1886年(明治19年)頃に平田銕胤の長男平田延胤の養子となり、盛胤と改名した。 岐阜県師範学校(後の岐阜大学)卒業後、1880年(明治13年)に上京。1882年(明治15年)9月に創設された帝国大学古典講習科(乙部・国語課)に入学。第一期の同期生に松本愛重、小中村(池辺)義象、萩野由之、関根正直、落合直文らがいる。
池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3… 池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3年8月13日) - 1942年(昭和17年)11月26日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。旧姓は矢部。 遠江国豊田郡浦川村(静岡県豊田郡浦川村、磐田郡浦川村、浦川町、佐久間町を経て現浜松市天竜区)の矢部家に生まれ、1879年(明治12年)引佐郡伊平村(引佐町を経て現浜松市浜名区)の池田徳治郎の長女さわと結婚し養子となる。1886年(明治19年)伊平戸長役場の用係に出仕し、同村会議員を経て、1893年(明治26年)同村長に就任した。養蚕、学校建設、道路整備に尽力した。引佐郡会議員を経て、1903年(明治36年)静岡県会議員となり、1911年(明治44年)同議長を務めた。
米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(186… 米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日) - 1919年(大正8年)7月20日)は、日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。米井商店(現・ヨネイ)、明治護謨製造所(現・明治ゴム化成)の創業者。 文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫田郡高倉村(現・岡山県津山市)で平民米井仲平、ツルマツの次男として生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。1887年大学卒業とともに同社に入社し、1897年(明治30年)1月には匿名組合磯野商会(創始者:磯野計、共同事業者:米井源治郎)を創立し、機械や鉱物、雑貨の輸入業を始める。
西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861… 西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861年10月16日) - 1937年7月10日)は、日本の教育者、郷土史家。 初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県佐賀市西田代町)に生まれ、西村家を継いだ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。 東大卒業後、佐賀県尋常中学校を振り出しに、岐阜県第一中学校、大分県立大分中学校、福岡県立豊津中学校の教諭を経て、福井県立武生中学校、滋賀県立第一中学校、福岡県立中学修猷館、長崎県立長崎中学校の校長を歴任する。郷里に帰り、成美高等女学校校長を最後に教職生活を終える。 1914年、鍋島家が創立した佐賀図書館の館長に就任。
小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年… 小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である。号は楽山園。 備前の赤磐郡稗田村に生まれる。幼少時に漢学を学び、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた。その後園芸栽培の活動を始め、同地で生産されるモモやナシ、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために、殺虫剤の研究開発にも携わった。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された。その後も果実の販売向上のために市場の開業や、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった。
中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、… 中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、1861年10月13日〈文久元年9月10日〉- 1934年〈昭和9年〉3月25日)は、日本の政治家、実業家、官僚。大阪商船社長、衆議院議員、内務大臣、商工大臣、文部大臣を歴任。政友会。旧姓は斎藤。号は狸庵。加賀国(石川県)生まれ。 文久元年9月10日(1861年10月13日)、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に加賀藩士斎藤宗一・キン夫妻の五男として生まれる。 1882年(明治15年)、東京大学英法科を卒業後、1886年(明治19年)に東京帝国大学法学部選科を卒業する。大学院では商法を専攻する。 1886年(明治19年)、中橋徳五郎は判事試補となり、横浜陪審裁判所詰となる。
藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈18… 藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈1861年10月12日〉 - 昭和8年〈1933年〉12月23日)は、日本の数学者、統計学者、教育学者。東京帝国大学理科大学教授、帝国学士院会員、貴族院帝国学士院会員議員、理学博士。 明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。 佐渡国(現: 新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では幾何学の専門家のテオドール・ライエが担当したゼミナールに参加する一方、エルヴィン・クリストッフェルの下で偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。
織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月… 織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月9日) - 1939年(昭和14年)3月24日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 尾張国中島郡日下部村(愛知県中島郡日下部村、大里村、稲沢町を経て現稲沢市)出身。織田文信の長男として生まれた。 1879年(明治12年)、中島郡役所雇となり、1885年(明治18年)に準判任官に昇進し、1888年(明治21年)には郡書記に任じられた。しかし翌年辞職して、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補、検事、判事を歴任したが、1902年(明治35年)に農商務省に移り、林務官、林務課長、主計課長、特許局審査官、特許局事務官を歴任した。
西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年… 西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年10月11日(文久元年9月8日) - 1939年(昭和14年)4月11日)は、高知県出身の衆議院議員、同志社第4代社長(現在の総長)。のちに日本を離れてアメリカや南米で農場を経営した。 土佐国高岡郡出間村(現・土佐市)で十寸弥と金の長男として生まれる。1875年陶冶学校、1876年立志学舎、1880年茂松法学校で学ぶ。1881年、請われて福島県三春の正道館講師を務める。1883年、山脇泰子と結婚、翌年息子清顕が生まれる。1886年、代言人試験に合格。1887年、代言業を始める。1890年神戸に転居、多聞協会で受洗。 板垣退助や片岡健吉などに従って、自由民権運動に参加。
水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1… 水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1861年10月6日〉 - 1918年〈大正7年〉8月11日)は、明治・大正時代における日本の実業家、政治家である。信濃毎日新聞記者から政界に入って長野市会議員や衆議院議員(当選2回)を歴任し、実業界では長野市所在企業の役員や日本建築用製紙社長を務めた。 水品平右衛門は、文久元年9月3日(新暦:1861年10月6日)、水品平内の長男として生まれた。水品家は善光寺門前町の岩石町(現・長野市岩石町)に居を構える旧家で、綿商を家業とする。「平右衛門」のは当主が代々襲名した名である。 水品は加藤天山の門で学んだのち長野県師範学校に入り、さらに東京の尺振八塾で英学、明治法律学校で法学を専攻した。
細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文… 細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文久元年9月3日〉 - 1924年〈大正13年〉5月25日)は、明治から大正時代の政治家、蚕種業者。長野県小県郡城下村長、上田市長。 信濃国小県郡諏訪形村(現・上田市諏訪形)で吉兵衛の二男として生まれた。生家は代々庄屋を務め酒造業などを営んでいた。松平(しょうへい)学校を卒業。家業の酒造業から蚕種製造業に転じ、1873年(明治6年)上田初の製糸場を設立する。その後、蚕種製造のみとし小県郡蚕種検査所主事を務めた。ついで、1890年(明治23年)城下村会議員に選ばれ、1893年(明治26年)同村長に就任し、小学校の増築や高等科新設などに尽力した。
堀尾 茂助(ほりお もすけ、1861年10月4日(文久元年9… 堀尾 茂助(ほりお もすけ、1861年10月4日(文久元年9月1日) - 1940年(昭和15年)12月28日 )は、日本の政治家、衆議院議員。名は恭、後に茂助と改名。号は楽斎、庭柏居士。 堀尾吉晴の子孫とされる堀尾義康の息子として尾張国東春日井郡小木田村大字関田(現在の春日井市)で生まれる。剣法、漢学、書法、詩作を学んだ。 東春日井郡書記、小木田村会議員、愛知県会議員、東春日井郡会議員、愛知県農会長などを歴任。自由民権運動に加わり地租増徴案に反対し地価修正運動を推進した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙に愛知県第三区から出馬し当選。以後、第6回、第13回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日… 11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1933年(昭和8年)4月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・平八郎。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で、豪農・10代加賀美嘉兵衛の長男として生まれる。英学、漢学を修めた。 父とは政治姿勢を異にし自由民権運動に加わる。民権派機関紙『峡中新報』の株主総理として経営を行う。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、地方衛生会員、東八代郡会議員なども務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(山梨県第3区、無所属)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元… 高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1937年(昭和12年)12月12日)は、日本の実業家。茶人・高橋 箒庵(そうあん)としても知られる。 水戸藩士の高橋常彦の四男として生まれる。明治維新により生活困窮に陥り、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出される。3年奉公したが耐え難く実家に戻り、以降各所に居候しながら学ぶ。1878年(明治11年)ごろは水戸の漢学塾・自彊舎に通った。茨城中学卒業後地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。1881年(明治14年)慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、1882年(明治15年)5月に、友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった。
久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861… 久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861年10月1日〉 - 昭和6年〈1931年〉5月24日)は、日本の土木技術者(工学博士)、実業家、政治家。衆議院議員を4期務めた。故郷の群馬県沼田市に沼田公園を寄付し、沼田市名誉市民として顕彰されている。 上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に生まれた。父は沼田藩士の久米権十郎正章。幼少期に両親を喪ったため、継母に養育される。 1876年(明治9年)6月、上京して慶應義塾に学ぶ。1878年(明治11年)に工部大学校土木科に入学。 1884年(明治17年)に工部大学校土木科を優秀な成績(第一等及第)で卒業。卒業後は高島嘉右衛門の土木事業に参画したという。
秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年… 秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年8月21日)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・渡邊。 武蔵国多摩郡、のちの東京府北多摩郡三鷹村(現東京都三鷹市)で渡邊萬助の二男として生まれ、明治2年10月(1869年)秋本倉蔵の養嗣子となる。運送業に着目して事業を興した。その他、日本採炭(株)社長、武相甲信運輸組合長、東京府農工銀行監査役、田無銀行頭取、玉川水道(株)監査役、南洋製糖(株)取締役などを務めた。 政界では、武蔵野村会議員、村助役、村長、北多摩郡会議員、同参事会員、東京府会議員、同郡部会議長、同参事会員、徴兵参事員、普通水利組合議員、警視庁防疫評議員などを歴任。
伊賀 保太郎(いが やすたろう、1860年10月21日(万延… 伊賀 保太郎(いが やすたろう、1860年10月21日(万延元年9月8日) - 1903年(明治36年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 播磨国神西郡、のちの兵庫県神崎郡香呂村(香寺町を経て現姫路市)出身。普通学を学ぶ。戸長、香呂村会議員、神崎郡会議員、同参事会員、所得税調査委員、徴兵参事員、兵庫県会議員、同常置委員となる。また、播但鉄道(株)発起人、姫路電燈(株)重役、増位温泉(株)社長、播磨採鉄(資)専任業務担当社員を務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年1… 井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 常陸国水戸にて水戸藩士の子として生まれた。幼名は亮太郎。藩の俊才が学ぶ自彊舎に入学し水戸学と漢書を学び、さらに栗田寛の彰考館にて『大日本史』の資料編集に従事したが、次第に洋学を志し彰考館を辞めることになる。このころ福澤諭吉と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己が福沢の依頼で優秀な若者を探していたが、井坂はこの推薦する4人の中に選ばれ、明治14年(1881年)に石河幹明、高橋義雄らと共に慶應義塾に入学する。在学中は福沢諭吉の家に寄宿し、優秀な成績を修めた。
馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月… 馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 会津藩に士籍を有し、のち福島県議を5期務めた馬場庄平の次男である。会津若松英語学校などで修学したのちに上京し、中村正直の私塾、東京英語学校(官立)を経て東京大学予備門に進む。 1885年(明治18年)7月、東京大学法学部を次席で卒業。 馬場は司法省御用掛となり、東京始審裁判所詰として裁判官のキャリアを開始する。横浜地裁、東京地裁、東京控訴院での勤務を経て1896年(明治29年)に浦和地裁裁判長、翌々年に大審院判事となる。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延… 大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1860年(万延元年)、土佐国土佐郡小高坂村後町(現在の高知県高知市)居住の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月22日、工兵少尉に任官。1883年(明治16年)2月28日工兵中尉に、1886年(明治19年)10月4日工兵大尉に昇進。1888年(明治21年)11月17日、陸軍士官学校教官に補される。 1895年(明治28年)3月23日工兵少佐に昇進し、陸軍大学校教官、宇品運輸通信支部員などを経て、1898年(明治31年)10月1日、工兵中佐に昇進。
渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (… 渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (万延元年8月13日) - 1916年(大正5年)9月26日)は、日本の実業家。三井物産専務理事や、三井同族会管理部会員など務めた。 横浜の医師渡邊顯哉の次男として生まれる。商法講習所(現一橋大学)を経て、矢野二郎校長の紹介で岩下清周とともに1879年に三井物産に入社した。1881年横浜支店詰。その後ロンドン支店詰となり、長年イギリスで勤務し、妻の満里はイギリス人。 1885年ロンドン支店副支配人。1886年ロンドン支店支配人。1895年には理事兼ロンドン支店支配人(1899年から支店長に名称変更)となり、紡績機の輸入や米の輸出、山本条太郎上海支店長との連携による石炭の購入などを進めた。
並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元… 並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元年8月11日)- 1926年(大正15年)6月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長、島根県能義郡安来町長。本家並河家14代当主。号・適處(てきしょ)。 出雲国能義郡安来町(島根県能義郡安来町を経て現安来市)で、本家並河家12代・三郎兵衛方月の二男として生まれた。山村勉斎に師事し漢学を修めた。1877年(明治10年)6月、本家並河家14代の家督を相続した。 安来村戸長、学務委員、所得税調査委員、安来町会議員、徴兵参事員、島根県会議員、同議長、安来町長、能義郡会議員、島根県農会長、地方森林会議員、能義郡教育会長などを務めた。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
柚木 慶二(ゆのき けいじ、安政6年9月28日(1859年1… 柚木 慶二(ゆのき けいじ、安政6年9月28日(1859年10月23日) - 大正5年(1916年)2月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 大隅国姶良郡加治木町(現在の鹿児島県姶良市)に、郷士柚木新十郎の長男として生まれる。西南戦争の際には西郷軍に投じ、左手を負傷した。1879年(明治12年)、三州社という政社を結成して自由民権運動に取り組むようになった。また子弟の教育を志して1883年(明治16年)に育英黌という学校を創設したが、政府側の政社の迫害により閉鎖に追い込まれた。その後は興商会を組織し、後に商業倶楽部と改めた。1889年(明治22年)、新たに同志会という政社を結成し、翌年には県会議員に選出された。
李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6… 李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6年9月25日)- 1901年(明治34年)4月29日)は、日本の内務官僚。三重県知事(官選第7代)、徳島県知事(官選第15代)、内務省神社局長(初代)。旧名・左馬之助。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で、長州藩士の家に生まれる。 東京英語学校、東京大学予備門を経て、1884年7月、東京大学文学部政治学及理財学科を卒業した。 1884年7月17日、内務省に入省し同省御用掛に就任。1886年3月、内務属となり、県治局郡区課勤務となる。1887年11月、内務書記官に昇格。長野県書記官を経て、1898年7月、三重県知事に就任。1899年2月、徳島県知事に転任。
川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6… 川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6年9月15日〉- 1929年〈昭和4年〉5月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議長、佐賀県会議長。位階は従四位。勲等は勲二等。 肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)生まれ。草場船山の塾で漢学を学ぶ。佐賀県参事会員、佐賀日日新聞社長などを歴任。 1884年(明治17年)4月から1892年(明治25年)9月まで佐賀県会議員を務めた。同年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1899年(明治32年)9月に佐賀県会議員選挙に西松浦郡選挙区から自由派(憲政党派)所属で立候補して、当選した。
尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6… 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 安政6年9月15日(1859年10月10日)、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾の地主で、祖父長兵衛は大名家や江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、明治9年(1876年)数え17歳で父を病で失うと、利権も他家に移り家は没落、京橋弓町に移り住む。
斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日… 斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日(1859年10月4日) - 大正2年(1913年)12月3日)は、日本の政治家、資産家、衆議院議員(2期)立憲国民党所属、山形県会議員、東田川郡会議員。名は鉄之助、福周、千里とも。 先祖代々「三郎右衛門」を名乗る田川郡渡前村の大地主素封家に生まれ幼名は鉄之助という。幼少より勉学に励み慶應義塾入学を目指し上京するが、母の死を期に郷里に戻る。以後、地元で子供たちの指導育成に努めた。 1887年(明治20年)には、山形県会議員選挙に27歳で出馬し初当選する。以来、議員を務める傍ら地元の教育振興に尽力して小学校の増改築、敷地購入などの為に莫大な私財を寄付し続ける。
和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月… 和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月4日) - 1918年(大正7年)1月5日)は日本の気象学者、海洋学者。東京大学理科大学物理学科を卒業し中央気象台の前身である内務省地理局測量課気象掛に勤め、気象事業の統轄と気象の調査研究に一生をささげた。暴風警報や天気予報の創始者である。主な業績は1880年の富士山頂での気象観測、日本近海の海流調査、及び研究。また東京物理学講習所(現東京理科大学)の設立者の一人でもある。 1893年農商務省水産調査所の水産調査委員会会員として海流瓶による日本近海の海流調査を提唱し、1893,94,95年に海流瓶を放って親潮、黒潮の状況を調査した。科学的に日本近海の海流が調査されたのは初めての事だった。
木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9… 木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9月3日) - 1944年(昭和19年)6月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、法学者。正三位勲一等、法学博士。 文部次官、行政裁判所評定官、貴族院議員を歴任した。 薩摩藩士で、判事や神職を務めた木場清生(きよなり、木場伝内)の子。 東京大学卒。文部省に入り、伊藤博文政府団の一行に留学生として抜擢され、ドイツに留学、大日本帝国憲法作成に貢献する。ドイツではハイデルベルク大学にて、心理学、法学、政治学の博士課程を修了する。帰国後は文部大臣森有礼の下で、文部参事官として、近代国家としての教育制度の確立に尽力。高等教育会議、臨時教育会議の委員も務め、教育行政、学制改革にも携わる。
白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858… 白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858年10月16日) - 1916年(大正5年)1月4日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、教育者。愛媛県松山市長。愛媛県会議員。海南新聞社長。旧姓は門田。 伊予松山藩士・門田正業の長男として松山城下に生まれ、白川福明の養子となる。松山藩校の明教館、石鉄県校や大原観山の漢学塾にて学んだ後、1875年(明治8年)上京して漢学者・三島中州の私塾に入る。甲斐や近江の学校教師を務めたのち、1879年(明治12年)に帰郷して県官となるが、間もなく辞職して自由民権運動に傾倒し、長屋忠明や藤野政高らの率いる民権系政治結社・公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟の門田正経と共に担当。
富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政… 富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵。
丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9… 丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9月9日)- 1928年(昭和3年)7月8日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福井県丹生郡岡山村長。 越前国丹生郡下野田村(福井県岡山村、豊村を経て現鯖江市)で、丹尾兵馬の長男として生まれた。その後、大地主、農業、村役、馬売買を営む本家・丹尾清左衛門の養子となる。同郡家久村の木村塾で学び、1866年(慶応2年)福井藩立・立教館に入り漢学、数学、習字を修めた。1869年(明治2年)中學明新館(現福井県立藤島高等学校)に入学。その後上京し、築地のカロゾルス(クリストファー・カロザース)に師事し英語を修めた。1877年(明治10年)慶應義塾に入った。
石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政… 石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政5年9月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉1月31日)は、日本の林業家、政治家、実業家。因幡木材合資会社代表社員。鳥取電燈常務取締役。族籍は鳥取県平民。智頭杉で知られる「智頭林業育ての親」とされる。 1858年10月14日(安政5年9月8日)、因幡国智頭郡智頭宿(現・鳥取県八頭郡智頭町)に生まれた。庄屋を務めた石谷槌五郎の長男である。 文化文政期頃、祖父の代から石谷家は植林を進めていた。源蔵は後に石谷家の家督を相続し、林業近代化と地域振興に尽くした。大和国吉野地方(現・奈良県)を訪れて実生苗の生産や造林技術の研究を行い、スギの実生苗の大量生産に成功した。
飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11… 飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11日(安政5年9月5日) - 1910年(明治43年)3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国筑波郡新戸村(茨城県筑波郡小張村、伊奈村、伊奈町を経て現つくばみらい市)出身。漢学と英語と数学を学ぶ。農業と養蚕、製糸業を営む。茨城県会議員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1910年死去。
安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年1… 安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年10月6日) - 大正10年(1921年)12月10日)は、日本の社会教育家、政治家、自由民権運動家、日本基督教団高知教会長老、板垣伯銅像記念碑建設同志会・初代理事長。板垣退助の遊説に同行し、岐阜遭難事件に際して「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を直接聞いた人物の一人。坂本龍馬の親族。「愛山」と号した。 安藝家の遠祖は、長宗我部氏に滅ぼされた安藝國虎の次男・安藝三郎左衛門家友で、土佐郡十六村成山(現・伊野町)に居をかまえ、土佐和紙を創始した。山内一豊の土佐入領に際し、自製の七色紙を献上。その功により給田一町歩と幡多郡代官役、並に御用紙方役に任命され、製紙の技法向上に務めた。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。