川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3… 川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3年3月14日) - 1951年(昭和26年)2月9日)は日本の実業家。男爵。「男爵いも」の名称の由来となった人物として知られる。 土佐藩士・川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)と妻・美津の長男として、1856年(安政3年)土佐郡杓田村(後の高知市元町)に生まれる。英米系医学を教える慶應義塾医学所(後の慶應義塾大学医学部)に入塾するが一年たらずで中退。1877年(明治10年)から7年間、英国スコットランドに留学、グラスゴー大学で船舶機械技術を学ぶ。造船業の盛んな同地で実地修行すると共に、イギリス式の農業にも触れる。 帰国後、三菱製鉄所や日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり、1897年(明治30年)社長に就任。
三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈18… 三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈1856年4月14日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、陸軍副参政官。陸軍軍医監(少将相当官)。 日向国臼杵郡恒富村(現在の宮崎県延岡市)出身。延岡藩校医学館、鹿児島医学校、長崎医学校を経て、陸軍軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官し、陸軍軍医補、陸軍二等軍医、陸軍一等軍医と昇進していった。1894年(明治27年)、日清戦争にあたって病院船神祐丸の院長を務めた。1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命された。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任した。
岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3… 岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3年3月7日) - 1927年(昭和2年)11月26日)は、明治、大正期の実業家、企業経営者。海運業を基盤として、銀行業や保険業を生業に、明治、大正期に神戸において財閥を形成した。中堅の阪神財閥の一つである岡崎財閥の創業者。神戸財界の雄と呼ばれた。 佐賀藩士、石丸六太夫の次男として肥前国佐賀で生まれ、幼少の頃より藩校弘道館内における15歳以下の藩士の子弟を教育した蒙養舎で学問を修めた。明治維新後に上京し、開成学校(共に後の東京大学)を経て、(旧)東京大学を卒業後に、兵庫県庁に通訳係として勤務した。1884年(明治17年)藤吉が28歳の時、元土佐藩士で、かつて飾磨県参事を務め、1877年(明治10年)8月、姫路に第三十八国立銀行が設立された際の4人の発起人の内の1人であり、嗣子のいなかった岡崎真鶴に婿養子として迎えられ、岡崎家の一員となった。
須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3… 須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3月6日)- 1925年(大正14年)5月25日)は、明治時代から大正時代の造船技師(工学博士)、実業家。日本郵船の副社長を務めた。位階および勲等は従五位・勲三等。 日向国都城で、薩摩藩島津氏一族である都城島津家の家臣の須田利昌の三男として生まれる。1870年12月分家する。1873年から勧学義塾で学び、1874年に工学寮付属学校に入学し、1875年に工学寮に進学した。1881年に工部大学校を卒業し、工部省の技手となる。のち神戸川崎工場分局に移り技師となり、1884年、農商務省管船局を経て、日本郵船に入社する。 1888年、船舶の発注のためにイギリスに渡り、造船所で監督をしながら造船学を研究した。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856… 小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年〕3月8日)は、日本の地球科学者。地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く活躍した。ドイツ地理学を日本に導入し日本の地質学や地形学の揺籃期に活躍・貢献をした。また、多くの学生を育てた。 石見国(現在の島根県)津和野生まれ。藩校の養老館で漢学や蘭学を学ぶ。1870年、15歳の時、藩から大学南校(のちの開成学校、東京大学)に貢進生として上京し、英語、理学を修め卒業する。1877年(明治10年)、創立されたばかりの東京大学理学部地質学および採鉱学科に進学し、1879年(明治12年)東京帝国大学理学部地質学および採鉱学科の最初の卒業生。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3… 田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3月2日)- 1926年(大正15年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家。新聞経営者。衆議院議員(4期)。 越中国新川郡、のちの富山県下新川郡経田村(現魚津市)の濱名家に生まれ、のち伯父の田村家の養子となる。富山藩儒・岡田呉陽の門に入り学んだ。1874年(明治7年)新川県第三大区副区長、1875年(明治8年)9月、学区取締を経て、1878年(明治11年)新川郡書記に就任する。1881年(明治14年)3月、有志と共に協同会を組織し同会長となり政治活動に奔走する。ついで富山県会議員に当選し、同常置委員、副議長などを歴任した。ほか、富山日報社社長を務めた。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安… 大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安政3年2月28日) - 1923年(大正12年)9月25日)は、日本の政治家、弁護士。 安政3年、柳河藩士大淵清吾の長男として、筑後国三潴郡蒲池村(現在の福岡県柳川市)で出生。 明治法律学校に学び、福岡県十等警部、熊本始審裁判所書記などを経て熊本区裁監督判事となり、後に弁護士となる。 政治家としては、衆議院議員を2期務めた(熊本県郡部、第7 ・9帝国議会)。 実業家としては、熊本軽便鉄道(のち大日本軌道熊本支社)の設立に甲州財閥の雨宮敬次郎と共に携わり大日本軌道の取締役を務めた。また、熊本軌道(のち熊本市電百貫線)社長や1915年に開通した御船鉄道の取締役なども務めた。
松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856… 松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856年3月28日) - 昭和3年(1928年)1月18日)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長、境町会議員、郡会副議長、境町学務委員。伯州境港の豪商。 境町に生まれた。吉三郎の四男。幼名を虎之助と称す。夙に算数の術に長ず。 年甫二十五歳の時、厳君の許容を得、資を分つて同町に分家を創立し鉄石油商を開始した。 日本海上火災保険等の代理商を営むほか、ニューヨークスタンダード石油等の販売商として手広く商いに励み、その傍ら政治にも関心をもった。 若くして町会議員に立ち、町長就任時には郡会副議長の要職にあった。 大正3年(1914年)町の将来的発展と貨客の便を図るため、境駅を現在地に移し、お台場までの中心道路新設改修を計画、一部竣工させた。
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年… 新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日)は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期。位階および勲等は従四位・勲四等。 自由党幹部として活躍した。 下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる。吹上藩の藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる。 明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる。翌年、官吏侮辱罪・集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける。
持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月… 持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月20日)- 1937年(昭和12年)11月3日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡本庄町長。 武蔵国児玉郡本庄宿(のちの埼玉県児玉郡本庄町、現:本庄市)で、商家・持田市平の第四子として生まれる。書を僧・純道に、経史詩文を矢口謙斎について学ぶ。1875年、熊谷県立暢発学校師範学科を卒業。改進学校(現:本庄市立旭小学校)長、埼玉県教育会員を務めた。 1887年、公証人試験に合格。埼玉県会議員、同常置委員、児玉郡参事会員、本庄町会議員、同町長などを歴任。埼玉県庁の熊谷移転を主張した。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から自由党所属で出馬して当選。
鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政… 鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政2年3月3日) - 1931年(昭和6年)2月2日)は、伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。 1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。
植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月1… 植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月18日) – 昭和4年(1929年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 讃岐国香川郡、のちの香川県香川郡百相村(仏生山町を経て現高松市)出身。1882年(明治15年)、大阪府警部補に任じられた。1887年(明治20年)、島上・島下両郡連合会議員となり、淀川改良工事の請願に取り組んだ。1897年(明治30年)、自由党大阪支部幹事となり、大阪府会議員に当選した。その後、憲政党・立憲政友会の創設に参加し、幹事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。その間、高槻町長、大冠村長を務めた。
森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2… 森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2年2月11日)- 1928年(昭和3年)5月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 尾張国知多郡大野村(愛知県知多郡大野町を経て現常滑市)出身。萩原宗平の長男として生まれる。元治元年6月(1864年7月)2代善七の養子となり明治4年8月(1871年)家督を相続し、天明元年創業の小間物商笹屋3代目となる。1881年(明治14年)愛知県会議員に当選。ついで名古屋市会議員、同参事会員、名古屋商業会議所常議員、名古屋銀行頭取、名古屋株式取引所理事長、東海倉庫、日本車輌製造各社長、尾張紡績、帝国撚糸などの重役を歴任した。
陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937… 陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937年2月24日)は、日本の僧侶。名古屋市円通寺第28世、両本山布教師、曹洞宗大学林総監などを歴任。別名、鉞巌沙門。号は仙雄。 安政2年2月8日、尾張国名古屋生まれ。1886年(明治19年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。研究生に特選され、1887年から1890年まで哲学館に在学。1885年(明治18年)9月、曹洞宗大学林寮監。明治23年11月より曹洞宗東京中学林教授。曹洞宗台湾布教師。1900年(明治33年)9月、曹洞宗大学林総監。 著書に「修道用心偈六百首布皷」「正法眼蔵布皷」「永平正法眼蔵知津布皷」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年… 小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年3月25日) - 1939年(昭和14年)6月13日)は、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)出身の堂宮大工(棟梁)。 明治期から大正期にかけて、愛知県を中心に滋賀県も含めて60か所以上の寺院や神社の建築を手掛けた。温和で忍耐強い性格だった。 安政2年(1855年)2月8日、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)に生まれた。父は小野田菊蔵であり、又蔵は二男だった。 18歳だった1873年(明治6年)3月に棟梁の石川貞助(貞蔵)に弟子入りした。石川貞助は知多郡前山村(現・常滑市)出身の堂宮大工であり、三好の石川家に養子に入ったとされる。
青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(18… 青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(1854年4月15日) - 昭和7年(1932年)7月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員を経て、東京米穀商品取引所理事長や、京浜電気鉄道社長を務めた。 武蔵国多摩郡相原村(神奈川県南多摩郡堺村、その後東京府に移管され現町田市相原町)の豪農、青木勘次郎の長男として生まれる。幼少時は父から勉強することを禁じられていた。1882年から神奈川県会議員を務め、埼玉往還の開設にあたるなどした。1884年武相銀行頭取。1896年には自由党から衆議院議員選挙に出馬したが進歩党との関係が疑われて除名となり落選した。1898年無所属で出馬して衆議院議員に当選した。
山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3… 山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3月15日)- 1928年(昭和3年)12月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、神奈川県高座郡海老名村長。雅号・稼堂。 相模国高座郡河原口村(のち神奈川県高座郡海老名村、現:海老名市)の醸造家・山田嘉年、時夫妻の長男として生まれる。耕余塾に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。 海老名小学校教員、神奈川県属、河原口村戸長を務め、その後、神奈川県会議員に当選。武相困民党事件の仲裁役を担ったが、金融会社(債権者)と農民(負債者)との間の主張の隔たりは大きく仲裁を断念した。1884年、高座郡会議長に就任し、自由党に入党した。 1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で中島信行の後継として神奈川県第五区から自由党所属で出馬して当選。
岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7… 岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7年3月15日) - 1936年(昭和11年)7月22日)は、日本の政治家・実業家。号は晩香。 自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。 現在の和歌山市で、嘉永7年(1854年)3月15日(衆議院に提出した履歴による。嘉永6年(1853年)説もあり)、紀州藩士・長坂学弥(がくや)の子として生まれる。孫の岡崎久彦によれば、長坂家は長坂血鑓九郎の末裔であるという。江戸の旗本直参・長坂本家との関係は、系図に明らかでなく、大坂夏の陣後の元和年間に徳川頼宣に従って紀州入りしたときに与えられた1,000石のお墨付が遺るのみという。
津久居 彦七(つくい ひこしち、1854年4月11日(嘉永7… 津久居 彦七(つくい ひこしち、1854年4月11日(嘉永7年3月14日)- 1929年(昭和4年)6月29日)は、日本の政治家、衆議院議員、貴族院多額納税者議員。栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)出身。足尾鉱毒事件解決のために奔走した田中正造をバックアップした人物としても知られる。 佐野町会議員、同町区長、同町名誉町長を歴任。1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で栃木県郡部区から衆議院議員に当選(憲政本党)。立憲国民党員時代には上越線敷設運動にも参加した。 安蘇郡(現・佐野市一帯)の教育向上にも力を入れ、1899年(明治32年)には第四中学校創立期成会を設立。この運動の結果、旧制栃木県第四中学校(現・栃木県立佐野高等学校・附属中学校)が創立された。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年… 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年3月8日)- 1916年(大正5年)11月16日)は、日本の内務官僚。内務次官、錦鶏間祗候。幼名・虎之助、号・陽山。 上総国夷隅郡作田村(現在のいすみ市)出身。名主・吉原重郎の三男として生まれ、吉原白水の養嗣子となる。大多喜藩校、東金郷校、荻野山中県興譲館で学ぶ。教員となり、1874年5月、山梨県白井学校訓導試補に就任。以後、小学岩崎学校、小学梁木学校、小学松島学校で勤務。 1876年(明治9年)7月、司法省法学校生徒となる。1885年(明治18年)4月、判事補に任官し司法権大書記官となり、同月、高知始審裁判所詰。1886年(明治19年)8月に辞任。
古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政… 古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政元年3月7日)- 1924年(大正13年)7月25日)は、明治から大正期の豪農、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・清太郎。 甲斐国八代郡土塚村(山梨県八代郡御代咲村、東八代郡御代咲村土塚、浅間村、一宮町を経て現笛吹市一宮町土塚)で、豪農・古屋総兵衛、かつ の長男として生まれる。古屋家は代々当主が専蔵と総兵衛を交互に襲名する決まりで、1874年(明治7年)に祖父の通称・専蔵を襲名した。幼くして学問に関心が高く一宮村の蜂谷(名不詳)から学び、次いで徽典館分校・石和教諭所で深町小七郎から指導を受けた。その後上京を願ったが果たせず独学を続けた。
木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年… 木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年3月26日) - 昭和8年(1933年)7月28日)は、日本の明治初頭から昭和にかけて活動した大地主、両羽農工銀行と荘内貯蓄銀行の創業者、電力会社役員、政治家。山形県田川郡水沢村(現:鶴岡市)出身、東京大学農学部卒。 伊藤知正の4男として田川郡水沢村(後の上郷村)に生まれ、民吉と名付けられる。明治18年(1985年)に矢馳村(のちの大泉村)の豪農である木村九兵衛の婿養子に入る。明治24年(1891年)に家督相続。九兵衛を襲名した。 耕地整理事業に取り組んでいた九兵衛は東大卒業後、耕作地の水不足を解消するためにドイツからドイツ製の15馬力の電動機を輸入し、石川島造船所(IHI)製のポンプと組み合わせた「電力揚水機」を設置した。
加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月… 加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月20日)は、明治時代後期から昭和時代戦前の政治家。銀行家。和歌山県和歌山市長。旧姓は茨木、旧名は六之助。 和歌山城下出身。紀州藩家臣の茨木藤助の三男として生まれ、のち加藤仁左衛門の養子となる。1880年(明治13年)和歌山区書記となり、和歌山市収入役、助役を経て、1897年(明治30年)9月から1914年(大正3年)11月まで和歌山市長を務める。その間、1890年(明治23年)3月に和歌山県会議員に当選し、再選を経て1898年(明治31年)9月まで務めた。 財界では、1916年(大正5年)紀陽貯蓄銀行取締役となり、1920年(大正9年)頭取に就任。
加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年… 加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1923年(大正12年)12月24日)は日本の実業家、政治家。元日本郵船副社長。幼名源太郎。 元中央大学総長・東京大学名誉教授加藤正治の養父(岳父)。 1854年3月21日(嘉永7年2月23日)、伯耆国日野郡渡村(現・鳥取県日野郡日野町別所)の農家に生まれた。加藤良吉の二男。7歳の頃から寺子屋に通った。12歳に達した時、根雨の大庄屋近藤喜八郎のもとに奉公に出された。 1873年、鳥取県庁を皮切りに山形県庁、兵庫県庁に勤務した。1885年、兵庫県令森岡昌純が農商務少輔に転出すると、その推薦で農商務権少書記官となり 当時過当競争の弊害で産業発展にブレーキをかけていた三菱汽船と共同汽船の合併に奔走、日本郵船の創立をみた。
加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永… 加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1935年(昭和10年)3月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、自由党系官選県知事、甲府市長。 美作国真島郡高田村(のち勝山村、現真庭市)で、岡山藩士・加藤量の四男として生まれる。岡山師範学校卒業後、小学校教員となる。その後、自由民権運動に加わる。国会開設運動に狂奔し、演説会を中止解散させられた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一らとそれを水葬に附した逸話などがある。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で岡山県第七区に自由倶楽部から出馬し当選。1894年3月の第3回総選挙まで連続3回当選。
桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853… 桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853年4月19日) - 大正9年(1920年)8月18日)は明治時代の自由民権運動家。 諱は武貞。飯田事件の首謀者の一人。 信濃国佐久郡東長倉村(現長野県北佐久郡軽井沢町)の柳沢家に生まれ、19歳で姉の嫁ぎ先である桜井家に相続入籍した。 幕末、横浜に出て勝海舟に師事するとともに写真技術を修め、1882年に飯田の憲兵屯所跡地に写真店を開業し、売薬の行商も営む。1883年、自由民権運動の政治結社「愛国正理社」を設立。愛知県の村松愛蔵、八木重治らと政府転覆のための挙兵を計画するが、事前に発覚して逮捕される。禁固3年半の実刑となり、のち大日本帝国憲法発布の大赦で出獄した。
時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(18… 時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(1853年4月17日) - 1922年(大正11年)以降)は大日本帝国陸軍の軍人。工兵第2方面工役長・鳴門支署長・舞鶴支署長、陸軍省築城部横須賀支部長、臨時軍用鉄道監部馬山浦鉄道班長、朝鮮総督府営林廠長。対馬・由良・舞鶴・東京湾要塞、馬山浦鉄道(朝鮮語版)等の構築に関わった。 嘉永6年(1853年)3月10日備前国邑久郡(岡山県瀬戸内市邑久町笠加地区)に5人兄弟の次男として生まれ、隣村福田村の時尾姓を継いだ。社軍隊・耕戦隊等民兵組織が盛んな岡山藩領にあって早くから軍人を志し、1874年(明治7年)陸軍教導団工兵科に入学し、隊長佐々木直前工兵少佐の下で操練・算術・画図・造屋を学んだ。
堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3… 堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日)- 1925年(大正14年)1月20日)は、明治から大正期の農業技術者・公吏・政治家。衆議院議員。通称・荘蔵。 豊前国京都郡行事村(福岡県京都郡行橋町を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ、堤兵蔵の養嗣子となる。文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した。 1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力。
池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年… 池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。
小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永… 小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永6年2月22日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、福島県出身の法律家、衆議院議員(第2回、第3回)。福島民報初代社長(在任:1892年 - 1896年)。旧姓・今江。 陸奥国安達郡、のちの福島県安達郡二本松町(現二本松市)で二本松藩士・今江又兵衛の子として生まれる。12歳の時に二本松藩士の小笠原是馬助の養子となる。1875年に上京し、翌年の9月に司法省法学校の第二期生として入学する。その後、1884年7月に修業年限8年(予科4年、本科4年)を終え、法律学士の称号を得る。検事試補となり、千葉始審裁判所に勤務し、1885年12月に検事として任命される。
下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(… 下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(1853年3月27日) - 明治45年(1912年)2月12日)は、明治時代の日本の薬学者。薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長。 嘉永6年2月18日(1853年3月27日)、尾張国犬山藩士、藩校「敬道館」助教下山健治・よしの長男として生まれる。諱忠興。「敬道館」で漢学と本草学を修める。明治3年(1870年)10月犬山藩の貢進生に選ばれ神田一ッ橋の大学南校に入学。獨二之部(獨逸語科)に学び、明治6年(1873年)9月第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科に進学。明治11年(1879年)3月第1回生として首席で卒業し、翌年製薬士の学位を受け、その後、陸軍薬剤官と大学助教授を兼任する。
関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永… 関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永6年2月17日)- 1917年(大正6年)1月21日)は、明治から大正前期の日本の弁護士・政治家。衆議院議員。 常陸国久慈郡薬谷村(茨城県久慈郡久米村、金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で、医師・関文友(文雄)の二男として生まれた。 1875年(明治8年)法律学を学ぶため水戸に遊学し、北辰社を設立。1878年(明治11年)法典研究と自由民権運動推進のため水戸法学館を設け幹事に就任。有志と自由党茨城地方部を結成し、その後、茨城自由党に改称し主事に就任した。 1882年(明治15年)代言人試験に合格し代言人(弁護士)を開業。代言人組合会長、水戸弁護士組合会長なども務めた。
山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年… 山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年2月15日〉- 1928年〈昭和3年〉4月4日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。勲一等受章。 長州藩士・山根修平の二男として生まれる。明倫館で学び、警視庁巡査を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校に入学。少尉試補、工兵少尉・工兵第1大隊付を経て、1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧1期)を卒業する。 参謀本部出仕(清国駐在)、参謀本部管西局、清国差遣、ドイツ駐在、ドイツ・オーストリア留学、工兵第1大隊長、参謀本部第1局員などを経て、日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征した。続けて台湾平定(乙未戦争)に臨時台湾鉄道隊隊長として従軍。
谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6… 谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6年2月13日) - 1877年(明治10年)3月4日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は伍長。幼名は諸次郎。 嘉永6年(1853年)2月13日、日向国諸県郡倉岡村(現宮崎県宮崎市)の郷士坂本利右衛門、ウメの次男として生まれる。生後三カ月で母ウメが急死。しばらく近所の間でたらい回しにされたが、最終的に当時九歳だった姉のワサが親代わりとなり、一里も離れたところへ計介を抱いて「もらい乳」に出かけたり、重湯を飲ませたりして育てた。 4歳の時、谷村平兵衛の養子となるが、平兵衛は1821年(文政4年)に死亡していたため形のみの縁組であり、その後も実家で育てられた。
坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21… 坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21日(嘉永6年2月12日)- 1925年(大正14年)7月19日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員、富山県射水郡下村長。 越中国射水郡下村宿(富山県射水郡下村を経て現射水市)で、本陣を務めた坂井家に生まれた。富山藩儒・岡田呉陽に師事し漢籍を修めた。 1873年(明治6年)新川県14大区副戸長に就任。自由民権運動に加わる。1884年(明治17年)富山県会議員に選出された。1899年(明治32年)1月10日から同年1月27日まで下村村長に就任。同村会議員も務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(富山県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1… 児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1852年4月14日〈嘉永5年閏2月25日〉- 1906年〈明治39年〉7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。
有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5… 有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5年2月18日〉 - 1915年〈大正4年〉1月12日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。爵位は男爵。別名に淳蔵。 大日本帝国陸軍の国産小銃である有坂銃の開発者であり、村田経芳に次いで銃砲開発の大家と謳われた人物である。 周防国岩国に生まれた、長州藩(岩国領)吉川家家臣の木部左門の二男、幼名を四郎という。文久2年(1862年)、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となった。岩国藩の洋式軍隊である日新隊の一員として、鳥羽・伏見の戦いに参加している。 明治維新後の明治2年(1869年)開成学校で学んだ後、明治3年(1870年)には陸軍兵学寮に入る。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年… 内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1922年(大正11年)5月11日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 1851年(嘉永4年)高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。若くして東京遊学。1868年(明治元年)[西暦年要検証]北村重頼の砲隊に属し東征軍に従う。1871年(明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。「雷電丸」「金剛」乗組を経て、1878年(明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年… 首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年4月16日) - 大正13年(1924年)5月31日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会)。 陸奥国登米郡登米町(現在の宮城県登米市)出身。1868年(明治元年)、東京に出て、尺振八の共立学舎で英学を学んだ。1872年(明治5年)、新潟県の英語教授となり、翌年から小倉県育徳学校教授に就任した。1875年(明治8年)、大蔵省翻訳課に出仕し、1877年(明治10年)には東京府書籍館に転じた。翌年より宮城県属になり、学務課長心得と仙台師範学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)に官を辞した後は、宮城県会議員に当選し、副議長に選出された。
遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4… 遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1907年(明治40年)11月8日)は、明治期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長、丸亀市会議長。 讃岐国那珂郡、のちの香川県丸亀市で、里正の家に生まれる。経史を修めた。 1873年(明治6年)香川県六大区一小区副小区長兼学務取締に就任。自由民権運動に加わった。1879年(明治12年)愛媛県会議員に選出された。1882年(明治15年)代言人(弁護士)となる。同年、自由党大会で警官と衝突して投獄された。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)4月、香川県会議長に就任し1895年(明治28年)10月まで在任した。
畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永… 畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永4年3月12日)- 1932年(昭和7年)1月24日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。旧姓・長岐。 出羽国秋田郡七日市村(秋田県北秋田郡七日市村、鷹巣町を経て現北秋田市七日市)で、素封家・長岐家の三男として生まれた。1869年(明治2年)山本郡仁鮒村(響村、二ツ井町を経て現能代市)の地主・畠山藤左衛門の婿養子となる。1873年1月(明治5年12月)養父の死去に伴い家督を相続した。 1870年(明治3年)久保田藩御山守となる。仁鮒村副戸長、同戸長、第三大区書記役、秋田県勧業諮問会議員などを歴任。また自由民権運動に加わる。
志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3… 志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3年3月5日〉 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の政治家。衆議院議員、県知事、長崎県会議長。心形刀流免許皆伝。 肥前国高来郡神代村(現:長崎県雲仙市)で神代鍋島家家臣・中島如幼の三男として生まれ、志波丈之助の養子となる。佐賀藩校・弘道館などで学び、また剣術の修行にも精進した。 1879年、長崎県会議員に選出され、後に県会議長となる。1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に長崎県第三区で自由党から出馬し当選。1898年3月の第5回総選挙まで連続3回の当選を果した。 1898年6月、第1次大隈内閣が成立し、翌月、石川県知事に登用された。
林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月1… 林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月20日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の5男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。
川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年… 川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年2月26日〉- 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。 薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、1869年(明治2年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。 1871年(明治4年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。1872年(明治5年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。