山田 脩也(やまだ しゅうや、2005年8月20日 - )は… 山田 脩也(やまだ しゅうや、2005年8月20日 - )は、宮城県仙台市青葉区出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。阪神タイガース所属。 6歳年上の兄、利輝の影響で仙台広瀬リトルリーグで野球を始め、小学校6年生の時にWBSC U-12ワールドカップの日本代表に選出された。その後仙台東部リトルシニアを経て、利輝も在籍した仙台育英学園高等学校へ進学。 仙台育英学園高等学校では1年春から遊撃手のレギュラーを務める。2年夏の第104回全国高等学校野球選手権大会では2番打者として全試合に先発出場し、東北勢初となる優勝に貢献した。同年秋から主将を務めた。3年春の第95回記念選抜高等学校野球大会ではベスト8に進出。
麦谷 祐介(むぎたに ゆうすけ、2002年7月27日 - )… 麦谷 祐介(むぎたに ゆうすけ、2002年7月27日 - )は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。オリックス・バファローズ所属。 小学校2年生の時に東北楽天ゴールデンイーグルスのアカデミーで野球を始め、仙台市立袋原中学校在学時は楽天が下部組織として新たに創設したクラブチーム、東北楽天リトルシニアの1期生としてプレーした。 高崎健康福祉大学高崎高等学校に進学したが、部内暴力の被害を受け、「部に合わない」という理由で1年冬に中退し、宮城県大崎市古川(旧・古川市)にある大崎中央高等学校に転校した。高校時代は甲子園大会への出場はなかった。 高校卒業後は富士大学へ進学し、外野手のレギュラーに定着。
佐藤 世那(さとう せな、1997年6月2日 - )は、宮城… 佐藤 世那(さとう せな、1997年6月2日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台市立南光台東小学校2年生の時から南光台東小野球愛好会で野球を始め、地元球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが運営する「楽天イーグルスベースボールスクール」に所属した。 小学校卒業後は、仙台育英学園系列の中学校・高校に在籍。秀光中等教育学校時代には軟式野球部のエースとして活躍した。 仙台育英学園高等学校への進学後は、同学年のチームメイト・平沢大河、郡司裕也などと共に、2年秋の第45回明治神宮野球大会で優勝。3年時には、春の第87回選抜高等学校野球大会・夏の第97回全国高等学校野球選手権大会に続けて出場。
熊谷 敬宥(くまがい たかひろ、1995年11月10日 - … 熊谷 敬宥(くまがい たかひろ、1995年11月10日 - )は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。阪神タイガース所属。 仙台市立南光台小学校2年時の冬に、友人の勧めで軟式野球をスタート。仙台市立南光台中学校在学中には、仙台東部シニアへ所属していた。 仙台育英高校への進学後に硬式野球部へ入部すると、2年時(2012年)夏の全国高等学校野球選手権大会から、春夏を通じて3季連続で甲子園球場の全国大会に出場した。3年時(2013年)には、春の第85回記念選抜高等学校野球大会で通算14打数2安打と振るわなかったものの、チームは準々決勝まで勝ち残った。夏の第95回全国高等学校野球選手権大会では、通算で8打数4安打を記録。
佐藤 貴規(さとう たかのり、1993年1月29日 - )は… 佐藤 貴規(さとう たかのり、1993年1月29日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)。 実兄はプロ野球選手の由規(佐藤由規)で、自身が2011年から2014年までNPBの東京ヤクルトスワローズに育成選手として所属していた際には同僚であった。2015年・2016年にはベースボール・チャレンジ・リーグの福島ホープスに所属していた。なお福島時代のみ、名前の「貴規」を登録名に用いていた。 仙台市立北仙台小学校に在学中の5年生の時から、本格的に野球を始め、6年時に全日本リトルリーグ野球大会準優勝。仙台市立北仙台中学校時代は東北シニアに所属し投手兼三塁手。当時は最速138キロを記録し素質は由規以上と言われていた。
伊藤 祐介(いとう ゆうすけ、1990年10月20日 - )… 伊藤 祐介(いとう ゆうすけ、1990年10月20日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 小学校3年時から投手として野球を始め、仙台市立西多賀中学校時代は七ヶ浜シニアに所属した。 聖和学園高等学校では、1年時の秋からベンチ入りする。2年時の秋からエースとなり、県大会3位で同校野球部創部4年目で東北大会初出場に貢献した。3年時の夏は、宮城県大会ベスト8で仙台二高と4-4で延長15回引き分け、再試合に末に0-3で敗れる。甲子園出場経験は無し。 東北学院大学に進学すると、仙台六大学野球連盟に加盟している野球部に入部する。1年時の春から公式戦に登板し、秋に新人賞、2年春に敢闘賞。
由規(よしのり、本名:佐藤 由規〈さとう よしのり〉、198… 由規(よしのり、本名:佐藤 由規〈さとう よしのり〉、1989年12月5日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。右投左打。 NPB入り後から一貫して由規の登録名を使用している。実弟の(佐藤)貴規も野球選手で、一時は東京ヤクルトスワローズに兄弟揃って在籍していた。 小学校4年生の時に野球を始める。仙台市立北仙台中学校1年生だった2002年には、リトルリーグの仙台東リーグの一員として全国制覇。その後、仙台東は日本代表としてアジア大会を勝ち進み、世界大会に進出。初戦の対ロシア戦に先発した由規は大会10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成し、最終的にチームは決勝でアメリカ代表に0-1で敗れる。
相原 和友(あいはら かずとも、1989年10月27日 - … 相原 和友(あいはら かずとも、1989年10月27日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学校3年または4年の時に野球を始め、仙台市立広瀬中学校では軟式野球部に所属していた。高校は東陵高等学校に進学し、1年春からベンチ入り選手として名を連ね、3年春にはチームのエースとして宮城県大会で優勝した。3年夏の宮城県大会は3回戦で古川学園に敗れ、3年間での甲子園出場経験はない。 大学は東北福祉大学に進学し、1年春からベンチ入り選手として名を連ねていた。4年時の全日本大学野球選手権大会の2回戦の愛知学院大学戦では、9回無死満塁のピンチを抑えることができず逆転された。その後、明治神宮野球大会の準々決勝の大阪体育大学戦では、8回1死満塁のピンチを抑えると、続く9回も三者凡退に抑え、チームの勝利に貢献した。
中根 佑二(なかね ゆうじ、1989年9月7日 - )は、宮… 中根 佑二(なかね ゆうじ、1989年9月7日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。従兄弟は元プロ野球選手の中根仁。 小学2年から野球を始める。仙台東リトルで、世界選手権準優勝の経験を持つ。 エース候補として仙台育英高に進学したが、1年時の秋に右肘靭帯を手術。2年時の秋になって復帰するが、3年時の夏も佐藤由規の控えであった。宮城県予選の泉高戦では8回を4安打無失点13奪三振を記録する好投を見せ、チームも第89回全国高等学校野球選手権大会への出場を果たしたが、甲子園での登板機会はなかった。 高校卒業後は、仙台六大学野球連盟に加盟する東北福祉大学に進学。1年時の春からリーグ戦に登板、秋に初勝利を挙げる。
阿部 俊人(あべ としひと、1988年12月23日 - )は… 阿部 俊人(あべ としひと、1988年12月23日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球解説者。右投左打。 両親の地元である仙台市内の病院で出生後に、東京都練馬区で育った。練馬区立田柄中学校時代は、和光シニアに所属。花咲徳栄高校では3年の夏に埼玉県大会準々決勝で赤坂和幸がいた浦和学院高校に敗れた。 東北福祉大学へ進学すると1年春から出場機会を得て、ショートで4度のベストナインに輝き、6度の全国大会出場に貢献。日本代表として国際大会へも出場しており、4年次には主将を務めた。2010年の仙台六大学野球秋季リーグ戦では、打率.424、12盗塁を記録し、東北福祉大学9季連続59度目の優勝に貢献し、最優秀選手賞を受賞した。
加藤 政義(かとう まさよし、1987年4月28日 - )は… 加藤 政義(かとう まさよし、1987年4月28日 - )は、宮城県仙台市太白区出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 金剛沢小学校1年から軟式野球を始め投手、遊撃手を経験。西多賀中学校2年夏には仙台東部シニアで全国8強。東北高校に進学後は1年生にしてレギュラーを掴み、甲子園初出場。2003年夏の第85回選手権大会に六番・三塁手として出場し準優勝を経験した。3回戦の平安高校戦ではサヨナラ安打を打った。以後、卒業までに甲子園には春1、夏3の計4回出場した。高校時代は女子プロゴルファーの有村智恵とクラスメートだった。 九州国際大学に進学しても1年春季リーグからレギュラーを獲り、3年春季には初のベストナインに選ばれ、秋季リーグからは主将を務める。
岸 孝之(きし たかゆき、1984年12月4日 - )は、宮… 岸 孝之(きし たかゆき、1984年12月4日 - )は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 社会人野球の七十七銀行硬式野球部(宮城県仙台市)の初代監督である父親の影響で、仙台市立西中田小学校3年となった1993年(平成5年)から安久野球部(現:西中田ゴールデンアクロス)で野球を始めた。1997年に仙台市立柳生中学校に入学。 2000年に宮城県名取北高等学校(名取市)に進学。自宅に最寄りだったことと、野球部が坊主頭を強制していないことが同校選択の理由であると後のインタビューで答えている。5月には野球部退部も考えたが踏みとどまった。同年夏の身長は170cm、体重が51kg(宮城県大会登録メンバー表より)で、BMIが17.65(適正体重:63.58kg)とやせ型であり、体格に恵まれているわけではなかった。
渡辺 雅弘(わたなべ まさひろ、1983年3月3日 - )は… 渡辺 雅弘(わたなべ まさひろ、1983年3月3日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(捕手)。 柳生中学校から東北高校に進学し、2000年のドラフト9位で横浜ベイスターズに入団。同期入団の後藤伸也とは高校時代にバッテリーを組んでいた。福岡ダイエーホークスに指名された加藤暁彦も高校時代のチームメイト。 引退後は横浜DeNAベイスターズの球団職員として、湘南シーレックス担当、横浜DeNAベイスターズ一軍用具担当などを務め、2013年は打撃投手。2015年には中畑監督付きをし、2019年現在はチーム付き広報をしている。2022年時点でも、打撃投手が必要だと言われれば投げることもあるという。2025年からはファーム(二軍)の試合運営に携わっている。
攝津 正(せっつ ただし、1982年6月1日 - )は、宮城… 攝津 正(せっつ ただし、1982年6月1日 - )は、宮城県仙台市生まれ、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者、YouTuber。 「攝」が旧字のため、報道では新字を使った「摂津」という表記も使用される。 仙台市で生まれ、小学校5年生の頃より秋田市に転居。秋田市立高清水小学校、秋田市立将軍野中学校を卒業。 秋田経法大附属高校では1年夏からベンチ入りし、3年時の2000年にはセンバツに出場。当時のチームメイトには加藤光教がいた。 高校卒業後はJR東日本に入社し、東北硬式野球部に所属。3年目から登板機会を増やし、社会人日本選手権東北二次予選では最優秀選手賞を受賞した。2004年からチームのエースとなる。
小山 桂司(おやま けいじ、1980年11月19日 - )は… 小山 桂司(おやま けいじ、1980年11月19日 - )は、宮城県仙台市太白区出身の元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。右投右打。 小学3年生時に野球チームに入ってから一貫して捕手を務める。ただし大学時代に一時抑え投手として登板することもあった。 秋田経法大附属高では3年夏に県大会ベスト4。秋田経済法科大学を中退し、2003年にシダックスに入社。その後、野村克也監督の厳しい指導のもと素質が開花し、遠投110m以上の強肩で、送球が二塁に到達するまでの時間は約1.8秒。 2005年度ドラフト会議(大学生・社会人ほか対象)にて北海道日本ハムファイターズから5巡目指名を受けて入団。 2008年4月23日の対オリックス・バファローズ戦でプロ初出場、5月1日の対千葉ロッテマリーンズ戦で初先発出場を果たした。
丹野 祐樹(たんの ゆうき、1980年7月20日 - )は、… 丹野 祐樹(たんの ゆうき、1980年7月20日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 仙台高では第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。エースとして登板したが1回戦で、のちに準優勝する京都成章高校に10-7で敗れた。バスケットボール選手の柏倉秀徳は高校の同期である。 1998年のドラフト会議でヤクルトスワローズに7位指名され入団。松坂世代の一人である。 4年間で1軍登板はなく、2002年に戦力外通告となった。 武器はスライダー、フォーク、シュート。 引退後はヤクルトで打撃投手を2014年まで務め、その後は球団職員としてランドリー業務を担当している。
太田 敦士(おおた あつし、1978年3月20日 - )は、… 太田 敦士(おおた あつし、1978年3月20日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学3年の時にボーイズリーグに入り、5年生の時に全国大会で準優勝する。仙台高校では2年夏に県大会ベスト4、3年夏もやはり準決勝で優勝した仙台育英高に敗れる。2年夏のベスト4進出の際、他チームのエースが仙台育英・金村秀雄、東北高・嶋重宣、仙台工・櫻井幸博と高卒プロ入りする面々であったことから注目されると1995年ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。同校初のプロ野球選手となった。カーブやスライダーを武器とした。 1999年に初の一軍登板を果たすも、2000年に現役引退。その後はいくつかの仕事を経て、整体を習得するためにカラダファクトリーへ入り、店長やエリアマネージャーを歴任して株式会社ファクトリージャパングループ専務取締役となる。
天野 勇剛(あまの ゆうごう、1977年12月11日 - )… 天野 勇剛(あまの ゆうごう、1977年12月11日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(内野手)。 在日韓国人で、千葉ロッテマリーンズ時代の登録名は2002年から2005年まではユウゴー、韓国では本名の金 勇剛(キム・ヨンガン、김용강)。 小学4年で野球を始め、中学2年の時に内野手へ転向。1994年夏・1995年春・夏の甲子園に出場。2年次は内野手(主に遊撃手)で3年では投手でプレーしていた。 1996年に千葉ロッテマリーンズに入団。当初は投手としての入団だったが、1年も持たずに内野手に転向する。俊足かつパワーヒッターの選手として期待されていたが、一軍では満足な成績が残せなかった。さらに入団以来毎年のようにコンバートが行われており、結局9つのポジションすべてを経験したという珍しい選手の一人である。
江尻 慎太郎(えじり しんたろう、1977年4月30日 - … 江尻 慎太郎(えじり しんたろう、1977年4月30日 - )は、宮城県仙台市宮城野区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・野球指導者、野球解説者、スポーツキャスター、実業家。 2023年4月1日より、福岡ソフトバンクホークス子会社であるAcroBatsの代表取締役社長を務める。 進学校の宮城県仙台第二高等学校野球部時代はエースとして活躍し、3年春の県大会では強豪の仙台育英学園高等学校を破って大会を制し注目を浴び、東北大会では準優勝も経験した。3年夏は県大会ベスト8で終えた。慶應義塾大学の当時の監督・後藤寿彦から誘いを受けるが、2年間浪人した。 3度目の受験で早稲田大学社会科学部に合格し入学し、二浪の末に早稲田大学に入学したという経緯が同じ事、低めへの制球力から「小宮山悟二世」と呼ばれた。
高橋 顕法(たかはし あきのり、1975年1月24日 - )… 高橋 顕法(たかはし あきのり、1975年1月24日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は宮城教育大学硬式野球部監督。 大和小2年で野球を始める。蒲町中を経て仙台育英高校に進学する。在学中、同校は春夏の甲子園に4回出場しているものの、高橋自身は肘や腰の故障のためにベンチ入りすら叶わず、3年間で公式戦登板なしに終わる。大学や社会人からも声はかからず、最後の手段として広島東洋カープの入団テストを受験したところ、合格。1992年のプロ野球ドラフト会議で8位指名を受け入団。全体の最後の78番目の指名だった。この時には契約金を辞退している。 3年間で二軍で通算0勝3敗、防御率9.79と結果を残せず、1995年に戦力外通告を受ける。
羽根川 竜(はねかわ りゅう、1973年6月5日 - )は、… 羽根川 竜(はねかわ りゅう、1973年6月5日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高時代は、3年次の1991年に夏の選手権に出場。1回戦で礒部公一擁する西条農高と対戦するも敗退。 多彩な変化球を持つ軟投派の投手として、1991年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから6位指名を受け入団。 巨人では層の厚い投手陣に割って入れず、一軍登板を果たせないまま1996年オフに自由契約となり退団。翌1997年は千葉ロッテマリーンズに移籍し、念願の一軍登板を果たす。しかし、結果は残せずに1998年オフに自由契約となり退団。 1999年には、台湾・中華職業棒球大聯盟の兄弟エレファンツに移籍、二桁勝利を記録するなど主力投手として活躍した。
井上 純(いのうえ じゅん、1970年6月8日 - )は、宮… 井上 純(いのうえ じゅん、1970年6月8日 - )は、宮城県仙台市太白区出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)。引退後はコーチ、小学生対象のベースボールアカデミーコーチを経て、東北楽天ゴールデンイーグルスのチーム統括本部に在籍しスカウトをしている。 小学生時代から足が早く、中学校ではバレー部だった。東陵高校時代は大会屈指のスラッガーとして、3年生時の1988年夏の甲子園宮城県予選決勝の東北高戦では3点本塁打を放ち、同校の初優勝に貢献。同年夏の甲子園に初出場した。本戦では、初戦の福井商業高に敗退した。 打撃力と俊足を評価され、1988年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから3位指名を受け入団。
斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、… 斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、宮城県仙台市若林区出身の元プロ野球選手(投手、右投左打)、野球解説者。2020年以降の登録名は齋藤 隆(読み同じ)。 NPBでは横浜ベイスターズ(1993年から2005年まで在籍)と東北楽天ゴールデンイーグルス(2013年から2015年まで在籍)でプレーし、横浜時代の1998年には球団のセントラル・リーグ優勝と日本シリーズ優勝に、楽天時代の2013年にも球団のパシフィック・リーグ優勝と日本シリーズ優勝にそれぞれ貢献した。また横浜時代の1996年にはセ・リーグ最多奪三振のタイトルを獲得している。2006年から2012年にかけてMLBのロサンゼルス・ドジャースやミルウォーキー・ブルワーズなど5球団でプレーし、ドジャース時代の2008年、ブルワーズ時代の2011年にそれぞれナショナルリーグ地区優勝に貢献した。
加藤 高康(かとう たかやす、1969年6月7日 - )は、… 加藤 高康(かとう たかやす、1969年6月7日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東海大学では首都大学リーグで12試合登板し2勝2敗。NTT東北では2年目に補強選手として都市対抗野球に出場、秋の日本選手権では完投勝利でベスト4進出に貢献した。1993年のNPBドラフト会議前に、この年導入された逆指名制度を利用して千葉ロッテマリーンズを逆指名し、会議当日にロッテから1位で指名され交渉権を獲得。契約金1億6000万円、年俸1200万円(金額は推定)で入団した。この契約条件は同年時点で球界史上最強の契約条件であり、「大型左腕」「金田二世」「開幕即戦力」と高い期待をかけられた。 1994年に一軍デビューし、1完封を含む2勝を記録。
佐々木 重樹(ささき しげき、1968年10月23日 - )… 佐々木 重樹(ささき しげき、1968年10月23日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスジュニアコーチ。
佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )… 佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )は、元プロ野球選手(投手)。現在は日本プロ野球名球会副理事長、野球解説者・野球評論家、タレント、馬主、レーシングチーム「D'station Racing」総監督。右投右打。 NPBでは1990年から1999年までと、2004年から2005年までの2度にわたり横浜DeNAベイスターズの前身球団に在籍し、抑え投手としてNPB歴代3位となる252セーブを記録した。また2000年から2003年まではMLBのシアトル・マリナーズに在籍し、日本人のMLB選手として歴代最多となるMLB通算129セーブを記録しており、NPB/MLB通算で381セーブ(日本人史上初の通算300セーブ)を記録したことになる。
中根 仁(なかね ひとし、1966年8月28日 - )は、宮… 中根 仁(なかね ひとし、1966年8月28日 - )は、宮城県仙台市泉区出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ、園芸家。 小学校3年生の頃にリトルリーグで野球を始めた。幼少期はロッテの試合を見に宮城球場によく行き、有藤道世のファンだったという。仙台育英高校からも誘いはあったが、地理的に近い東北高校への進学を決定。1年夏、2年春、3年夏と3回甲子園には出場を果たしており、3年夏の1984年、1学年下の佐々木主浩や葛西稔とともに四番・右翼手で全国高校野球選手権に出場。柳井高校、日大一高を破って3回戦進出の立役者となった。高校卒業後は先輩が野球部に在籍していたことから法政大学へ進学。 大学でも右翼手を務め、クリーンアップを任されるようになった1987年の東京六大学野球春季リーグ戦で初のベストナインに外野手として選出される。
荻原 満(おぎわら みつる、1965年12月19日 - )は… 荻原 満(おぎわら みつる、1965年12月19日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 仙台商業高時代はエースで6番を打ち、1983年の3年次、夏の甲子園に出場した。3回戦に進むが宇部商業高の3年秋村謙宏(のち法大)に完封負けを喫する。 1984年に高校卒業後、東海大学へ進学し硬式野球部に入部。佐藤真一と同期であった。首都大学野球リーグでは在学中4回優勝(85春秋・86春・87春)。1985年秋季リーグでは最高殊勲選手、最優秀投手となる。リーグ通算48試合登板、28勝5敗、防御率1.61、ベストナイン2回受賞。 1987年春に左肘を手術したこともあり、同年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに入団。
金子 誠一(かねこ せいいち、1964年7月23日 - )は… 金子 誠一(かねこ せいいち、1964年7月23日 - )は、宮城県仙台市青葉区出身の元プロ野球選手(外野手)、実業家。現在は、保険代理店・株式会社FPスタジアム代表取締役社長。 東北高では、1982年にエース兼中心打者として甲子園に春・夏と連続出場を果たす。春の選抜では1回戦でPL学園高の榎田健一郎と投げ合うが敗退。夏の選手権も、1回戦で熊本工業高の奥村高次、野村裕二のバッテリーに抑えられ惜敗した。2年下のチームメートに控え外野手の中根仁がいた。 高校卒業後は、法政大学に進学し、東京六大学野球リーグでは在学中4回の優勝を経験。当初は投手だったが、1学年上の西川佳明や同期の猪俣隆、石井丈裕ら好投手が多く登板機会には恵まれなかった。
佐藤 誠一(さとう せいいち、1961年6月1日 - )は、… 佐藤 誠一(さとう せいいち、1961年6月1日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 宮城工業高では3年春に県大会準優勝、社会人野球の専売公社東北に進むが退社し、1982年に日本ハムファイターズの球団職員(練習生)となる。同年のプロ野球ドラフト会議でファイターズから2位指名を受け入団。 1985年、イースタン・リーグでチーム最多の7勝を挙げ、後半一軍でリリーフとして14試合に登板。翌1986年から一軍に定着し、同年8月18日のロッテ戦で初先発・初完投・初勝利を挙げた。1987年には自己最多の9勝を挙げた。 1989年には救援に転向して6勝18セーブを挙げ、オールスターゲームにも初出場。
立野 清広(たての きよひろ、1957年6月5日 - )は、… 立野 清広(たての きよひろ、1957年6月5日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東北高等学校から1975年ドラフト4位にてロッテオリオンズに入団。 人さし指を折った独特の握りから投げる垂直なカーブは威力十分だったが、一軍公式戦の出場がないまま1981年引退した。 引退後はロッテに残り、2003年まで同球団の打撃投手、2008年まで同球団の専任スコアラーを務めた。ロッテ在籍時代の落合博満は、打撃練習時にいつも立野を打撃投手として指名していた。
高橋 正巳(たかはし まさみ、1954年12月10日 - )… 高橋 正巳(たかはし まさみ、1954年12月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台育英高から、社会人野球の仙台鉄道管理局に進む。1979年の都市対抗にヨークベニマルの補強選手として出場。 1979年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。 1981年にアンダースローからサイドスローに転向。同年はスライダー、シュートやシンカーを武器に、開幕直後から先発陣に組み入れられ4勝をあげる。 1985年11月に木田勇と共に金沢次男・大畑徹との2対2の交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。 1986年オフに現役を引退した。 1987年から古巣・日本ハムファイターズに戻って打撃投手を務めた。
八重樫 幸雄(やえがし ゆきお、1951年6月15日 - )… 八重樫 幸雄(やえがし ゆきお、1951年6月15日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。野球解説者。 宮城県仙台市に生まれる。 仙台商高では1年生の時に一塁手、7番打者として、1967年の夏の甲子園に出場。2回戦で、同大会に優勝した習志野高と対戦し敗れている。翌1968年からは正捕手となり、夏の県大会に出場するが、東北大会準決勝で東北高と対戦し、チームは相手校のエース佐藤政夫に抑えられ惜敗した。秋は東北大会決勝で三沢高の太田幸司に完封負け。1969年夏は東北大会準決勝をで磐城高を延長15回の末に破るなどの躍進で優勝。夏の甲子園には4番打者として本大会に出場した。2回戦では広陵高の佐伯和司を打ち崩し、仙台商高は同校として初の夏の甲子園ベスト8まで駒を進めるが、準々決勝で玉島商のエース松枝克幸(法大-西川物産)に抑えられ敗退した。
佐藤 政夫(さとう まさお、1950年12月18日 - )は… 佐藤 政夫(さとう まさお、1950年12月18日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高校3年時の1968年に、若生正廣との二枚看板で第50回全国高等学校野球選手権大会に出場。実際には宮城大会から先発を任されていて、本大会では1回戦で佐賀工業高校に敗れたものの、NPB球団のスカウトから注目されていた。大会後には社会人野球のチームからも数多くの誘いを受けていたが、「社会人(野球のチーム)には(自分のような)18歳の選手も30歳の選手もいて、大学(の硬式野球部)に比べればタテの世界(上下関係)が厳しくない」との考えから、高校の先輩(内野手の樋沢良信など)が硬式野球部に在籍していた地元の電電東北へ入社した。
若生 正廣(わこう まさひろ、1950年9月17日 - 20… 若生 正廣(わこう まさひろ、1950年9月17日 - 2021年7月27日)は、宮城県出身の元高校野球指導者。実兄はプロ野球選手の若生智男。 東北高校では投手。同期の佐藤政夫との二本柱であった。主将として1968年の宮城大会に臨む。先発を佐藤に任せ、四番打者、一塁手として活躍、決勝で築館高を破り全国選手権出場を決める。しかし1回戦で佐賀工に敗退した。この試合では佐藤をリリーフし、甲子園初登板を果たす。 卒業後は法政大学に進学。1年上に横山晴久、同期に池田信夫と好投手が揃い、あまり登板機会はなかった。社会人野球のチャイルドを経て1987年に埼玉栄高校野球部監督、1993年秋に母校である東北高校野球部監督に就任。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1949年4月25日 - 202… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1949年4月25日 - 2023年5月29日)は、宮城県出身のプロ野球選手(内野手)。 仙台育英高校では1967年、遊撃手、三番打者として夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東北大会決勝に進出するが、八重樫幸雄一塁手のいた仙台商に敗退、甲子園出場はならなかった。 同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから5位指名を受け入団。 1968年のジュニアオールスターゲームに選出される。 1971年には控え内野手として一軍に定着、内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして、70年代の阪急で活躍した。1975年には二塁手、遊撃手、三塁手として5月から20試合に先発出場。同年の広島カープとの日本シリーズでは全6試合に三塁の守備固め、代走として起用されている。
加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、… 加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、宮城県仙台市宮城野区出身の元プロ野球選手(捕手)・解説者。ニックネームは「ドン」。 仙台育英では2年次の1964年に夏の甲子園へ出場するが、1回戦で滝川高の芝池博明に0-1で完封負けを喫した。チームメイトでは1期上のエース・倉橋寛、遊撃手の佐藤博廸(南海)、同期の三塁手・石崎一夫がプロ入りしている。3年次の1965年夏は東北大会準決勝で磐城高に惜敗し、2年連続で甲子園には出場できなかった。高校時代から「大物」とうたわれ、通算打率.380をマークした。強肩と強打にプロ球界も目を付け、小さい頃からファンであった巨人から指名の話が来た時は有頂天になったが、同年のドラフトでは巨人の前に大洋から2位で指名されているが、入団を拒否。
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007… 伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身(岩手県生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。愛称は「キートン」。 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では3年次の1960年に夏の甲子園に出場したが、1回戦で青森高に敗退。強肩強打の捕手として大洋や巨人なども注目したが、1959年に同校の先輩である波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円であった。 1年目の同年から一軍でマスクを被り、7月30日の中日戦(川崎)の9回裏に蓜島久美に代わって初出場を果たす。
波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979… 波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979年7月5日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)。本名は尹 次郎(ユン・チャラン、朝鮮語: 윤차랑)。 1955年秋、東北高校の主催による中学生を対象とした野球大会「南光大会」が開催された。この大会に仙台市立第二中学校のエースとして参加した波山はその才能を買われ、1957年4月、東北高校野球部に正式に入部した。同年9月8日、東北高校の招聘により評定河原球場で行なわれた対早稲田実業戦で5回表からリリーフ登板し、王貞治から三球三振を奪うなど、8回まで一人の走者も許さない好投を見せたが、9回、先頭打者の王に場外ホームランを許し敗戦投手となった。
菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 201… 菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 2014年7月17日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手。 東北高校から1959年に西鉄ライオンズへ入団。1962年に引退。
小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、… 小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 仙台工から1958年に国鉄スワローズへ入団。2年目に1軍初登板し、11試合に登板した。翌年は、3試合しか登板できず同年に引退。引退後は東北ベースボールアカデミーリーグの代表、日本プロ野球OBクラブ宮城県代表幹事を務めている。
若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 199… 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。
若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は… 若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高校時代は若生忠男・若生智男と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1956年に中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは低目を突く速球と威力あるシュートを武器に活躍する。3年次の1958年春季リーグでは東京農業大学戦でノーヒットノーランを達成し、5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学野球日本選手権では、決勝で立教大学に惜敗して準優勝。1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武・森田斌、同期には小栗秀夫、西山弘二(広島)・本田威志がいた。 大学卒業後の1960年、本田と共に大洋ホエールズへ入団。
若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024… 若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024年6月3日)は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、評論家。 兄には仙台商業高校元監督で宮城県野球連盟会長を務めた若生久二雄、弟には埼玉栄高校元監督の若生正廣がいる。東北高校時代は若生忠男(西鉄→巨人)・若生照元(中大→大洋)と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 卒業後の1956年に毎日オリオンズへ入団し、8月23日の阪急戦(駒澤)に和田功・中西勝己の3番手で初登板。9月3日の大映戦(後楽園)では先発に起用されるが、5回途中で降板。 2年目の1957年は8月18日の大映戦(西京極)で初勝利を挙げ、10月23日から同24日の東映3連戦(駒澤)では2勝を記録。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。