開錦 豪藏(かいにしき ごうぞう、1938年2月11日 - … 開錦 豪藏(かいにしき ごうぞう、1938年2月11日 - 没年不明)は、現在の秋田県横手市出身で錦島部屋、時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は土田 房三。183cm、104kg。最高位は東十両16枚目。得意技は左四つ、寄り。 1954年9月場所初土俵、1965年1月場所に十両昇進を果たすも、4勝11敗と大敗して翌場所に幕下陥落。そして新十両から1年後の1966年1月場所後に廃業した。廃業後は茨城県水戸市堀町1163-13で料理屋「ちゃんこ錦」を経営した。
清ノ森 政夫(きよのもり まさお、1935年4月8日 - 2… 清ノ森 政夫(きよのもり まさお、1935年4月8日 - 2019年4月20日)は、秋田県横手市(現役当時は平鹿郡大森町)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。出生名は佐々木 政夫(ささき まさお)。後年、桂川(檀崎質郎)・春枝夫妻の婿養子となり、檀崎 政夫(だんざき -)に改名。現役時代の体格は183cm、92kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は東前頭9枚目(1960年9月場所)。大正時代の幕内力士、日本海忠藏は大叔父に当たる。 17歳の時、同郷の先輩でもある元関脇・清瀬川が師匠を務めていた伊勢ヶ濱部屋(一時期は荒磯部屋に改称)へ入門し、1953年1月場所で初土俵を踏んだ。 1957年5月場所で十両に昇進し、1959年3月場所で新入幕を果たした。
公地 次男(こうち つぐお、1933年2月20日 - 没年不… 公地 次男(こうち つぐお、1933年2月20日 - 没年不明)は、伊勢ヶ濱部屋、荒磯部屋、再度伊勢ヶ濱部屋に所属した元力士。本名同じ。現在の秋田県横手市出身。179cm、100kg。最高位は西十両3枚目。得意技は左四つ、寄り。 1952年5月場所初土俵、1958年11月場所に十両昇進し、30場所務めた。1964年1月場所限りで廃業した。
平鹿川 泰二(ひらかがわ たいじ、1924年3月31日 - … 平鹿川 泰二(ひらかがわ たいじ、1924年3月31日 - 1992年4月11日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現役当時、現・同県横手市)出身で立浪部屋(入門時は春日山部屋)に所属した元大相撲力士。本名は佐藤 泰治(さとう たいじ)。最高位は西前頭13枚目(1957年5月場所)。現役時代の体格は179cm、100kg。得意手は左四つ、上手投げ、下手投げ。 地元の小学校を卒業後上京し、蒲田区(現・大田区)内の製薬会社に勤務していたが、16歳の時に角界入りを決意。元関脇・藤ノ川雷五郎が率いる春日山部屋へ入門し、1941年1月場所で初土俵を踏んだ。同期生には、後に年寄・春日山を襲名することとなる藤川(後、「信州」から「大昇」へ改名、最高位・前頭筆頭)らがいる。
大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - … 大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡大森町(現在の同県横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。本名は大黒 金一(おおぐろ きんいち、後、神谷(かみや)に改姓)。現役時代の体格は176cm、83kg。最高位は東前頭5枚目(1946年11月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、足癖。 16歳の時に上京し、1937年1月場所に於いて、伊勢ヶ濱部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の平鹿郡大森町から、「大ノ森」と名乗った。1938年1月場所で序ノ口に付いてからは、負け越しなしで順調に番付を上げた。1941年5月場所で十両に昇進。十両も2場所で通過し、1942年5月場所で入幕した。
大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 -… 大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 - 1986年3月21日)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は斎藤 金作(さいとう きんさく)。最高位は西前頭筆頭(1954年1月場所)。現役時代の体格は179cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。引退後は、一時期年寄として日本相撲協会に在籍していた。 17歳の時に上京して錦島部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。序ノ口に付いた時の四股名は、「十文字」。 間も無く、「矢留石(やとめいし)」に四股名を改め、1944年1月場所にて十両昇進を果たした。その後一時期幕下に陥落したものの、1947年6月場所で十両に復帰した際に錦島部屋ゆかりの「大蛇潟」と改名してからは上昇気流に乗り、1948年5月場所に於いて新入幕を果たした。
前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 -… 前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 政三(さとう せいぞう)。得意技は左四つ、寄り。 秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身。16歳の時に上京して高砂部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。 1944年5月、幕下上位で勝ち越し、新十両昇進を決めた。だが、すぐに応召、翌11月場所は休場した。まもなく復帰し、1945年6月には十両格で出場した。 戦時中、天皇と同じ名は畏れ多いと、「前ノ山」に改名。 その後、1946年11月場所で新入幕。左四つの体勢からの挟み付けるような寄りが得意だったが、勝ち味が遅く、幕内上位には上がれず、最高位は西前頭13枚目にとどまった。
清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - … 清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - 1980年10月13日)は、秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、旧全日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長182cm、体重94kg。得意手は、左四つ、上手投げ、外掛け。最高位は、東前頭筆頭。 本名:佐藤 梅之助(さとう うめのすけ)。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋 梅之助(おおはし うめのすけ)が本名となったが後に離婚、佐藤姓に戻している。 同郷の幡瀬川を頼って伊勢ヶ濱部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。当初の四股名は薩摩川。早くから有望視されるとともに順調に出世し、四股名を清美川と改名。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日… 清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身で楯山部屋に所属した大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。5代伊勢ヶ濱。最高位は東関脇。 1893年11月1日に秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。 1917年5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ・下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。
日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 … 日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 - 1953年9月19日)は、現在の秋田県横手市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は最上 忠五郎。身長178cm、体重83kg。最高位は西前頭16枚目。清ノ森政夫の大叔父。 1904年1月初土俵、1910年6月十両昇進。1914年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り、櫓投げを得意としたが、幕内では全く通用せず、初日から5連敗で途中休場。1914年5月十両に、1915年5月には幕下まで陥落したが、中々勝てず、1917年1月廃業した。その後は名古屋市で会社勤めののち、手打ちうどんの製造販売業に従事した。 上の名前は改名歴なし。