獺ヶ口 笑保人(おそがぐち えほと、1999年10月22日 … 獺ヶ口 笑保人(おそがぐち えほと、1999年10月22日 - )は、日本の将棋棋士。三重県熊野市出身。森信雄七段段門下。棋士番号は343。 0(2020年6月から関東奨励会に移籍) 竜王・名人(王位・棋聖・棋王・王将/六冠) 藤井聡太(永世竜王・永世王位・永世棋聖) 叡王・王座(二冠) 伊藤匠 十七世名人 谷川浩司 九段 羽生善治(永世竜王・十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将・永世棋聖) 九段 佐藤康光(永世棋聖) 九段 森内俊之(十八世名人) 九段 渡辺明(永世竜王・永世棋王) 七段 藤原直哉 ( 2026年4月22日引退 ) 八段 小倉久史 ( 2026年4月30日引退 ) 九段 脇謙二 ( 2026年5月1日引退 ) 八段 所司和晴 ( 2026年5月13日引退 ) 【2026年04月 四段昇段者】小窪碧、川村悠人、古井丈大(3名、第40期からの出場) 【2026年10月 四段昇段者】(2名、第40期からの出場) 2026年10月1日昇段者(2名):2027年04月1日昇段者(2-3名): (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照)
徳本 政敬(とくもと まさのり、1973年6月22日 - )… 徳本 政敬(とくもと まさのり、1973年6月22日 - )は、三重県熊野市出身の元プロ野球選手(内野手)。
濱中 英次(はまなか えいじ、1966年12月9日 - )は… 濱中 英次(はまなか えいじ、1966年12月9日 - )は、三重県熊野市出身の元プロ野球選手(投手)。
笠松 茂(かさまつ しげる、1947年7月16日 - )は、… 笠松 茂(かさまつ しげる、1947年7月16日 - )は、三重県熊野市出身の元体操選手で現在はコーチ。
大桑 堉嗣(おおくわ いくじ、1942年3月1日 - )は、… 大桑 堉嗣(おおくわ いくじ、1942年3月1日 - )は、日本の実業家。オークワ代表取締役会長。日本チェーンストア協会副会長、日本スーパーマーケット協会副会長、和歌山県公安委員会委員長等も歴任。 三重県熊野市出身。日本大学商学部卒業。和歌山県和歌山市に本社を置き、南近畿(大阪府・奈良県・三重県)を中心にスーパーマーケットチェーンを展開しているオークワ創業者である大桑勇の長男である。現在、同社の代表取締役会長を勤めている。2008年3月、同年5月15日をもって、現職と兼任でCEOに就任する事が発表された。 その他、日本流通産業株式会社の代表取締役社長(代表者)や日本チェーンストア協会の副会長、日本スーパーマーケット協会の副会長も務めている。
岩本 進(いわもと すすむ、1941年1月27日 - )は、… 岩本 進(いわもと すすむ、1941年1月27日 - )は、三重県熊野市出身の元プロ野球選手(内野手)。 木本高校から1960年に読売ジャイアンツの入団テストに合格し、翌1961年に入団。1962年には遊撃手として一軍に昇格し、同年はイースタン・リーグで本塁打王と打点王を獲得。 1963年は春季キャンプの練習試合で頭部死球を受けたことで出遅れたが、4月5日に突然「就職先を探してくる」と言って合宿所を飛び出し、一時行方不明になる。結局実家へ帰っていたことがわかるが、この年に巨人から大毎オリオンズへ移籍していた堀本律雄から「まだやる気があるのなら、自分から球団(大毎)と話をしてやる」との手紙を受け、これがきっかけとなって同年5月21日に大毎オリオンズと契約して移籍。
三原 佐知子(みはら さちこ、1939年(昭和14年)5月2… 三原 佐知子(みはら さちこ、1939年(昭和14年)5月20日 - )は女流浪曲師。本名は鳥越幸子。浪曲親友協会所属、同協会理事。 三重県熊野市出身。叔父が浪曲の近江勝で実の父も浪曲好きで志したが悪声で断念。1954年の15歳で叔父の近江勝の元に入門し近江五十鈴名乗り、1955年に「出世のわらじ」で初舞台。1959年に小松千鶴と改名、1976年に「母恋あいや節」のラジオでの出演が評判を呼び一躍人気を得る。1978年6月に大阪郵便貯金ホール(上本町)で現在の三原佐知子に改名。 現在でも「一心寺」での会など積極的に口演を行なっている。浪曲だけにとどまらず民謡から歌謡曲も謡う。 他レコード、テープ、CD多数。
井川 憲明(いかわ のりあき、1939年 - )は、日本の農… 井川 憲明(いかわ のりあき、1939年 - )は、日本の農学者。元明治大学農学部教授。日本感性工学感性商品研究部会副会長、日本景観学会理事、NPO法人グリーンサイエンス21運営委員。 三重県熊野市出身。物理化学と環境倫理学を専門に研究。経営資源の一つとして感性に注目し、「感性工学」という研究ジャンルを確立した。 1997年明治大学 農学博士。論文の題は「食品のテクスチャ-に関する研究 -標準化のテクスチャ-と新テクスチャ-試論 」。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1… 五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1971年3月7日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。三重県熊野市出身。 1922年(大正11年)中央大学法科2年を終えた後で同年9月に弁護士試験に合格し、法律家生活をスタートした。 弁護士を続け、1946年(昭和21年)5月に大審院検事となり、同年6月に司法大臣官房秘書課長、1947年(昭和22年)12月に最高裁判所事務総局事務次長を歴任。 1950年(昭和25年)6月に最高裁判所事務総長となり、約8年間、司法行政の総元締めとして、裁判所部内や最高裁機構改革問題(1957年に最高裁機構改革法案が国会に提出されるも廃案)などに取り組んだ。
田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2… 田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2月11日 - 1931年(昭和6年)10月4日)は三重県生まれの洋画家である。雅号は愛耕と名乗った。 1894年(明治27年)2月11日の紀元節の日に三重県南牟婁郡五郷村(現熊野市五郷町)に生まれる。父は五郷郵便局長の田垣内粂吉、母はけい。 1924年(大正13年)4月、五郷の旧家山東家の長女光恵と婚姻する。1925年(大正14年)東京に上京し、洋画家中川一政に師事する。この頃中川一政に師事をしていた堀内唯生と出会う。1926年(大正15年)に中川一政より油彩(夏の橋)など二点譲り受ける1927年(昭和2年)に第五回春陽会展に五郷桃崎の景と初秋の郊外が入選。
小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月… 小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月5日 - 1987年(昭和62年)12月20日)は三重県生まれの洋画家、政治家である。 1894年1月5日、三重県南牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれる。出生当時の名前は茂。父は神川村村長の小林信太郎、母の名は不詳であるが、文化学院を開いた西村伊作とは従兄弟の関係にあたる。 1905年、青木梅岳に師事。1908年、西村伊作に油絵技法を習う。1920年に鹿子木孟朗の門に入る。1924年、絵画を学ぶため渡仏。1927年(昭和2年)帰国。藤島武二に師事する。1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)にかけてカメラマン2人を率いて紀伊半島各地を巡って写真に収め、それらの写真を吉野熊野国立公園の指定申請書に添付した。
花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不… 花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不詳)は、日本の元女優。三重県南牟婁郡木本町(現:熊野市)出身。本名は勝見 みね子(旧姓・島田 みね子)。夫は俳優の勝見庸太郎である。 旅劇団一座の女優であったが、大正10年(1921年)に松竹蒲田にスカウトされ入社。同年『黒き潮(死刑囚の娘)』で映画デビューする。代表作は『母いづこ』『マイフレンド』など。当時は母親役や年配の婦人の役が多かった。 大正12年(1923年)頃に同所属俳優の勝見庸太郎と結婚し、女優業を引退。その後は勝見とともに勝見庸太郎プロダクションを設立し、彼の映画制作・監督業を支えた。 没年月日は伝わっていないが、夫の勝見庸太郎の死去(1962年)以前には既に亡くなっているという。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5… 田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。 1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は彼の郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむものという。 医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。