山本 大斗(やまもと だいと、2002年8月9日 - )は、… 山本 大斗(やまもと だいと、2002年8月9日 - )は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。 米子市立車尾小学校1年生時に野球を始め、車尾スポーツ少年団野球部に所属。6年生時に主将として第34回高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会に出場しベスト16進出。その後に行われた第21回西日本学童軟式野球大会では鳥取県勢初となる準優勝を達成した。米子市立東山中学校時代は硬式野球のクラブチームである米子ボーイズに所属。同学年のチームメイトに岡本大翔がいた。 開星高等学校に進学し、1年秋から外野のレギュラーに定着。2年夏の島根県大会は1学年上の田部隼人と共に決勝まで勝ち進んだが、石見智翠館高校に延長の末逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逃した。
九里 亜蓮(くり あれん、1991年9月1日 - )は、広島… 九里 亜蓮(くり あれん、1991年9月1日 - )は、広島東洋カープに所属する鳥取県米子市生まれのプロ野球選手(投手)。
足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取… 足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 境高では2年生時から控え投手として起用され、1984年の夏の甲子園県予選準決勝では米子商業高に完投勝ち。決勝はエース安部伸一(三菱重工三原)が米子工業高を抑え夏の甲子園への出場を決める。1回戦で法政一高と対戦。安部が延長10回2死まで無安打と好投、しかし末野芳樹にサヨナラ本塁打を喫し敗退。この試合は右翼手として出場した。2年秋からエースとなり秋季県大会を制覇。秋季中国大会に進むが、準々決勝(初戦)で関西高に0-1で敗退、翌1985年春の選抜出場を逃した。期待された3年夏は故障に苦しみ、県予選で鳥取商業高に4-7で敗れ、甲子園出場はならなかった。
杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5… 杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5日 - )は、日本のアマチュア野球選手・指導者・解説者。鳥取県米子市出身。鳥取県立米子東高等学校、慶應義塾大学卒業。 現在、皆生タクシー社長、皆生温泉芙蓉別館会長などの職の傍ら、NHK鳥取放送局で高校野球解説を務めており、県大会をはじめ、甲子園での全国大会などでも解説を行う。 米子市立福原中学校時代、鳥取県中学校総合体育大会で優勝。米子東高校3年次の1983年、夏の甲子園に3番捕手として出場(初戦敗退)。一浪を経て慶應義塾大学に進学し野球部に入部。上級生となり指導者に転じ、1990年には新人戦の監督を務めた。1991年、山陰合同銀行に入行。
角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉… 角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉、1956年〈昭和31年〉6月26日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ、解説者・評論家、タレント。パシフィックボイス所属。 1978年から1987年の登録名は角 三男。1988年から1989年の登録名は角 光雄(いずれも読み同じ)。 長男は元プロ野球選手の角一晃。次男は元プロ野球選手で、独立リーグ・ルートインBCリーグに所属する埼玉武蔵ヒートベアーズ球団社長の角晃多。 米子市立美保中学校卒業後の1972年に米子工業高校へ進学。 1973年には4番・右翼手として夏の鳥取大会決勝に進むが、鳥取西高校に10回裏サヨナラ負けを喫した。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1… 清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1日)は、鳥取県出身のプロ野球選手。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之の指導を受け、3年春の選抜に出場。山陰勢初の甲子園決勝進出を果たしたが、バッテリーを組んだ宮本洋二郎が高松商業高校の山口富士雄に左翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を浴び、準優勝に終わる。夏の甲子園でも1勝したが、2回戦で徳島商業高校に完敗した。秋の熊本国体でも準優勝。 その後東映フライヤーズに入団したが、2年間出場なしに終わった。 2009年10月1日死去。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 20… 大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 2025年6月6日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手。 米子工業高校から1959年に阪急ブレーブスへ入団。 2025年6月6日午後3時27分、心不全のため死去。3日後の9日にはオリックス・バファローズが米子市内の施設で死去したと発表した。84歳没。
米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥… 米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。 プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。 その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。 祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。
山根 俊英(やまね としひで、1928年3月1日 - 200… 山根 俊英(やまね としひで、1928年3月1日 - 2009年3月5日)は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 199… 土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 1999年1月25日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 後に若松(わかまつ)と改姓。なお、姓の読みはどいがきではなく正しくはどいかいとと読むと言うが、なかなか正しく読んでもらえず、そのまま「どいがき」で通したと言う。 両リーグ分立前後を代表する捕手で、1947年から1952年まで6年連続でベストナインを獲得。熱血的な性格からニューヨーク・ヤンキースの往年の名捕手にあやかって和製ヨギ・ベラと呼ばれた。末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。 幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。
成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 198… 成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 1985年3月29日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(投手)。1950年の登録名は「敬二」。 米子中学校4年次の1935年、1級先輩の清水秀雄-井上親一郎のバッテリーの活躍で、一塁手として春夏連続で甲子園に出場した(ちなみに井上とは、その後、大学、ノンプロ、プロと共に過ごすことになる)。1936年は山陰大会決勝で鳥取一中に敗れる。 卒業後慶應義塾大学野球部で活躍したのち、大阪鉄道局米子に入る。シベリア抑留を経験したが、その後米鉄に戻り、1949年までプレーする。 1950年、国鉄スワローズ結成に伴い入団。球団結成初戦の開幕投手を務めたが、惜しくも敗戦投手となった。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - … 岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - 1969年12月30日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手、高校野球・社会人野球監督。右投右打で、ポジションは捕手、内野手、投手。 父は米子中学校野球部長を務めた岡本速水。 米子中では4年次の1932年に、夏の甲子園に二塁手として出場した(初戦で石川師範に敗れる)。翌1933年は主将・主戦として活躍したが、山陰大会1回戦で敗れ、甲子園出場を逃した。 卒業後は関西大学に進学し、野球部で好打、堅守の内野手として名を馳せた。1939年には職業野球・ライオン軍に入団。弱小チームでユーティリティープレイヤーとして捕手をはじめ、さまざまなポジションをこなした。