岡原 文彰(おかはら ふみあき、1970年〈昭和45年〉4月… 岡原 文彰(おかはら ふみあき、1970年〈昭和45年〉4月23日 - )は、日本の政治家。愛媛県宇和島市長(3期)。元宇和島市議会議員(1期)。 愛媛県宇和島市出身。宇和島市立宇和津小学校、宇和島市立城東中学校、愛媛県立宇和島東高等学校、松山大学法学部卒業。水産会社に勤務。 2011年(平成23年)4月10日に行われた愛媛県議会議員選挙に宇和島市・北宇和郡選挙区(定数4)から民主党公認で出馬するも次点で落選。 2013年(平成25年)9月1日に行われた宇和島市議会議員選挙に出馬しトップ当選を果たす。無会派。 2017年(平成29年)8月27日に行われた宇和島市長選挙に出馬し、前市議の兵頭司博を破り初当選した。
桜内 文城(さくらうち ふみき、旧姓谷岡、1965年10月2… 桜内 文城(さくらうち ふみき、旧姓谷岡、1965年10月21日 - )は、日本の政治家、会計学者、元財務官僚。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、日本維新の会国会議員団政策調査会長、次世代の党政策調査会長などを歴任した。 愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)出身。本籍は愛媛県南宇和郡一本松町(現在の愛南町)。宇和島市立明倫小学校、宇和島市立城東中学校、愛媛県立宇和島東高校卒。 1988年3月、東京大学法学部卒業。同4月、大蔵省(現在の財務省)に入省。大学、大蔵省の同期に古川元久がいる。大臣官房秘書課に配属。 主税局係長、加治木税務署長、在マレーシア日本大使館一等書記官、国際金融局、理財局、大臣官房文書課企画調整室課長補佐(企画調整)等。
山本 公一(やまもと こういち、1947年〈昭和22年〉9月… 山本 公一(やまもと こういち、1947年〈昭和22年〉9月4日 - 2023年〈令和5年〉10月31日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は旭日大綬章。 衆議院議員(9期)、環境大臣(第23代)、内閣府特命担当大臣(原子力防災)、総務副大臣(第2次小泉改造内閣・第3次小泉内閣)、衆議院内閣委員長・沖縄及び北方問題に関する特別委員長・国家基本政策委員長・政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員長、盛運汽船代表取締役社長等を歴任した。 父は宇和島市長、衆議院議員、盛運汽船社長を務めた山本友一。 愛媛県宇和島市生まれ。愛媛県立宇和島南高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。大学卒業後、1970年に関西汽船株式会社に入社。
横田 弘之(よこた ひろゆき、1938年8月29日 - )は… 横田 弘之(よこた ひろゆき、1938年8月29日 - )は、日本の政治家。勲等は旭日中綬章。 愛媛県議会議員(8期)、愛媛県議会議長(第95代)、地域政党愛媛維新の会代表などを務めた。 愛媛県宇和島市生まれ。宇和島市立明倫小学校、南宇和郡緑僧郡村立緑小学校、松山市立石井中学校、愛媛県立松山東高等学校、中央大学法学部法律学科卒業。 1964年に参議院議員の増原惠吉、1983年には衆議院議員の今井勇の秘書を務める。1991年に愛媛県議会議員選挙で立候補し、初当選した。 自由民主党に所属していたが、2010年の松山市長選挙では自民党推薦の新人候補を支持せず、野志克仁を応援したため、県連から除名処分を受ける(市長選では野志が当選)。
増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月… 増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉10月11日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。香川県知事(官選第37代、公選初代)、参議院議員(4期、自由民主党)、行政管理庁長官(第25-26代)、北海道開発庁長官(第23-24代)、防衛庁長官(第26・29-30代)。 愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男として生まれる。 宇和島中学校、第一高等学校を経て1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高等試験に合格して内務省に入省。京都属。 和歌山県保安課長、特高課長、北海道庁警視保安課長、兵庫県警務課長、山形県警務部長など警察畑を歩いたのち1946年(昭和21年)6月、香川県知事に就任した。
馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治3… 馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治35年)3月6日 - 1971年(昭和46年)7月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。旧姓は山口。 愛媛県北宇和郡岩松村(岩松町、津島町を経て現宇和島市)の山口家に生まれ、越智郡今治町今治(現今治市)の馬越大吉の養子となる。1924年(大正13年)愛媛県立弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)を卒業し、1930年(昭和5年)甲種船長に合格した。 その後、家業の魚問屋を継承して会社組織に変更。1932年(昭和7年)今治市会議員に当選。1933年(昭和8年)11月の補欠選挙で愛媛県会議員に選出され、1946年(昭和21年)まで3期在任し、同参事会員、同副議長を務めた。
毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3… 毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3月23日 - 1986年〈昭和61年〉6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡立間村柏木(吉田町を経て現宇和島市)出身。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)中退。農業を営み、立間村助役、同村長、愛媛県議、四国電気(株)重役、同参事会員、北宇和郡畜産組合長、南予乾繭販売利用組合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1986年死去。
薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、188… 薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、1889年(明治22年)2月26日 ‐ 1953年(昭和28年)8月27日) は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡来村長。 愛媛県北宇和郡、のちの来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事した。森岡天涯の雑誌『南予之青年』の編集に従事。 来村会議員を経て、1925年(大正14年)宇和島市会議員に当選し1930年(昭和5年)まで在任。1931年(昭和6年)5月から1934年(昭和9年)5月まで来村長に在任。その後、宇和島市会議員に再選され1947(昭和22年)まで在任し、1942年(昭和17年)市会議長に就任。
白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月2… 白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡、のちの喜佐方村(吉田町を経て現宇和島市)で、白城清太郎の二男として生まれた。同郷の山下亀三郎を頼り、横浜石炭商会(のちの山下汽船)に入る。山下汽船(株)取締役、山下(名)理事、尼ヶ崎築港(株)監査役、阪神築港(株)取締役、白城(名)社長、日満鉱業(株)取締役、同社長、同会長、満州鉛鉱(株)副社長、満州鉱山(株)取締役、日満石膏(株)会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。
高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 -… 高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 - 1972年9月23日)は、日本の実業家・政治家、衆議院議員(2期)。画家の高畠華宵は弟。 小間物商と生糸商を営んでいた高畠和三郎の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町裡町4丁目(現・愛媛県宇和島市)に生まれた。実業界・地方政界で活動した後、1937年に中央政界に入る。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選。その後は翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 戦後は旧日政会系の日本進歩党の結党に参加したが、日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は高畠以外では中井一夫・西川貞一・依光好秋・猪野毛利栄・三善信房・綾部健太郎の6名のみである。
太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 194… 太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 1942年11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。伊予鉄道電気(現伊予鉄グループ)6代社長。 愛媛県北宇和郡二名村(三間町を経て現宇和島市)生まれ。第四高等学校で学ぶ。1905年1月に二名村会議員となる。以後、北宇和郡会議員(1911年9月から1915年9月まで)、二名村長(1912年11月から1913年7月まで)を歴任する。 1915年9月の愛媛県会議員選挙に北宇和郡選挙区から、立憲政友会所属で立候補したが次点で落選した。その後、1917年7月の補欠選挙に当選して、同月17日に県会議員となる。1919年の県会議員選挙で再選を果たした。
伊達 武四郎(だて たけしろう、1868年9月28日〈明治元… 伊達 武四郎(だて たけしろう、1868年9月28日〈明治元年8月13日〉 - 1908年〈明治41年〉7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 宇和島藩の最後の藩主である伊達宗徳の四男として生まれる。ドイツに留学し、ベルリン大学とライプチヒ大学で学び、ドクトル・ユーリスの学位を受ける。次いでイギリスへ留学する。 帰国後の1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部選挙区から壬寅会公認で立候補してトップ当選する。つづく1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して再選。衆議院議員を2期務め、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(186… 清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(1866年10月22日) - 昭和9年(1934年)2月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、愛媛県吉田町長。 伊予国宇和郡喜佐方村(現在の愛媛県宇和島市)に、清家権四郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)、愛媛師範学校を卒業し、喜多郡大洲尋常高等小学校に訓導として赴任し、やがて校長に昇進した。1900年(明治33年)、南宇和郡視学に任命され、伊予郡、西宇和郡、北宇和郡の視学を歴任した。 1911年(明治44年)に官を辞し、北宇和郡から県会議員に当選。1919年(大正8年)からは議長を務めた。 1918年(大正7年)、吉田町長に就任。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1… 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1864年5月29日) - 昭和15年(1940年)6月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男。1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林で英学講師を務めた。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞、大阪朝日新聞などで記者を務めた。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回、第13回、第16回、第17回にて当選)を数えた。
伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年1… 伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年12月16日〉- 1923年〈大正12年〉2月7日)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院侯爵議員、宮中顧問官。宇和島伊達家10代当主。 宇和島藩主・伊達宗徳の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)12月27日に侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。 明治学舎、学習院で学び、1886年(明治19年)、小松宮彰仁親王に随行してイギリスを訪問し同国に留学した。帰国して1889年(明治22年)以降、式部官兼主猟官、宮中顧問官などを務めた。 明治10年代には旧藩の困窮士族のために北海道開拓を検討し現在の江別市に150万坪の土地を貸し下げたが、結局宇和島からの入植は実現しなかった。
兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永… 兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永5年2月30日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県宇和郡川之石村長。旧姓・竹村、田中。 伊予国宇和郡宇和島城下(愛媛県宇和郡宇和島、北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で宇和島藩士・竹村佐平の長男として生れ、宇和郡川之石浦(川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市保内町川之石)の郷士・田中孫右衛門の養子となり、その後、資産家・兵頭吉蔵の娘婿となった。 1885年(明治18年)3月、川之石浦戸長となり、川之石郵便局長も務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1890年(明治23年)10月、病のため辞任。
末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、184… 末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、1849年3月15日(嘉永2年2月21日) - 1896年(明治29年)2月5日)は、自由民権派の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)、字は子倹、号に鉄腸、浩斎。 宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。 1860年(万延元年)、四書五経の素読を終え、翌年、藩校の『明倫館』に入って朱子学を修め、1869年(明治2年)、母校の教授になった。王陽明の伝習録に傾倒した。 1870年(明治3年)、上京したものの師を得ず、京都の春日潜庵に陽明学を学んだ。1872年(明治5年)、帰郷して神山県に勤め、1874年(明治7年)、大蔵省に転じたが、折からの自由民権運動の高まりの中で言論に志し、1875年(明治8年)4月、東京曙新聞の編集長になった。
土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月… 土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月21日) - 1917年(大正6年)9月9日)は、幕末の宇和島藩士、明治時代の実業家、大阪財界指導者、衆議院議員。関西法律学校名誉校員。大阪市の本邸跡は日本銀行大阪支店になっている。 伊予宇和島藩士の大塚南平祐紀のの六男として生まれる。4歳のとき藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学ぶ。12歳からは、窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙と共に剣術修業に励み、16歳正月に初伝目録を授与された。
児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2… 児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2月1日〈1837年3月7日〉- 1908年〈明治41年〉7月1日)は、日本の裁判官・政治家。 後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候。 幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」「いけん」以外にも、「これかね」などとも呼ばれる。号は天赦、字は有終。 天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の末)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、父方の親戚が営む造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。