金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年… 金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1921年(大正10年)3月23日[3])は、幕末から大正期の僧侶、政治家。衆議院議員(通算8期)、官選県知事。旧名・楞厳。
職業が僧侶:642人
金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年… 金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1921年(大正10年)3月23日[3])は、幕末から大正期の僧侶、政治家。衆議院議員(通算8期)、官選県知事。旧名・楞厳。
天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851… 天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851年6月9日) - 明治42年(1909年)12月4日)は、明治前期の浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家。諡号は即生院。 父の天野若空(文政2年3月13日(1819年4月7日)-明治31年(1898年)3月9日)は浄土真宗の学僧として名高く、美濃国厚見郡岩戸村(北長森村を経て現在の岐阜県岐阜市)にあった善龍寺の住職を務め、没後の明治34年(1901年)には勧学の地位を贈られている。 若円は若空の長男として生まれ、明治13年(1880年)浄土真宗本派大教校普通全科卒業後善龍寺を継ぎ、更に高田教務所管事や本山(西本願寺)の教学課長などを歴任した。
漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉… 漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉永3年1月1日)- 1934年(昭和9年)1月25日)は、幕末から昭和初期の僧侶・実業家・政治家。衆議院議員、東京府荏原郡品川町長。旧姓・加藤。娘・漆雅子は品川女子学院の創立者。 伊勢国桑名郡江内村(岐阜県下石津郡江内村、油島村、海津郡大江村大字油島、海津町を経て現海津市油島)で、自作農・加藤武右衛門の二男として生まれる。万延元年(1860年)美濃国石津郡高須町(現海津市)の浄土宗円心寺に入り僧となる。明治元年(1868年)芝増上寺学寮に入り仏典を学ぶ。名字は浄土宗開祖法然の漆間にちなみ漆(うるし)と改称し届出た。1874年(明治7年)荏原郡北品川宿、法禅寺住職に就任。
泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月… 泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月26日)は、真言宗の僧。書家。徳島県吉野川市出身。花桝伊兵衛の五男。幼名は直蔵。号は物外(ぶつがい)。 1860年(万延元年)、12歳で出家する。1864年(元治元年)の頃より、徳島の芝「秋邨塾」で柴秋邨に漢籍を学ぶ。その後、1868年(明治元年)から1872年(明治5年)まで高野山で、1873年(明治6年)から1877年(明治10年)まで京都で仏教学を学ぶ。 1879年(明治12年)より真言宗布教師として全国を巡錫し、1900年(明治33年)に京都仁和寺の第35世門跡に就任、1908年(明治41年)に京都泉涌寺の第147代長老となる。
山腰 天鏡(やまごし てんきょう、1848年(嘉永元年3月)… 山腰 天鏡(やまごし てんきょう、1848年(嘉永元年3月) - 1914年(大正3年)6月28日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第5代曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。曹洞宗会議長。別名号=浄円。 越前国(福井県)に生まれる。石川県竜淵寺の谷浄天のもとで得度・嗣法。諸岳奕堂、森田悟由に師事し、曹洞宗専門本校(のち駒澤大学)に学ぶ。石川県金沢市の松山寺・一閑院・放生寺や鳥取県の竜徳寺住持を歴住。1888年(明治21年6月より大学林の教務学監。 1903年(明治36年)9月に第5代曹洞宗大学学長に就任。大学林の専門学校への昇格に尽力。曹洞宗会議長を務めた。 1914年6月28日死去。67歳。
石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842… 石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842年1月12日) - 大正9年(1920年)11月16日)は、尾張国大曽根出身の僧侶。 天保12年12月1日(1842年1月12日)、尾張国大曽根において出生。9歳のときに仏門に入る。長門国・信濃国・尾張国など各地で修行を積み、地元泰増寺に戻る。元治元年(1864年)には總持寺、1875年(明治8年)には豊橋龍拈寺の住職に就任。さらには彦根清涼寺、東京豪徳寺、小田原最乗寺の住職を歴任し、1905年(明治38年)には当時石川県鳳至郡にあった曹洞宗大本山總持寺の貫首に至った。翌年には曹洞宗管長となる。焼失した總持寺の再興に際して、神奈川県鶴見への移転を主導したとされる。
赤松 連城(あかまつ れんじょう、天保12年1月17日〈18… 赤松 連城(あかまつ れんじょう、天保12年1月17日〈1841年2月8日〉 - 1919年〈大正8年〉7月20日)は、幕末から大正にかけての浄土真宗本願寺派の僧侶。赤松克麿、赤松常子の祖父。俗名は中宇三郎。 加賀国金沢出身。若狭国妙寿寺にて修行の後、28歳で周防国徳山の徳応寺を継ぐ。廃仏毀釈の混乱の中で、大洲鉄然・島地黙雷らとともに宗門改革に立ち上がる。 明治5年(1872年)から宗門大谷光尊の命で島地黙雷とヨーロッパに留学し、イギリスなどの教育制度を学んだ。帰国後は宗門の教育制度を改革するとともに東京奠都に伴う寺務所の東京移転計画を阻止し、大教院を事実上の廃仏政策であると批判して島地黙雷とともに反対運動を展開した。
中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保… 中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶で、諱は全忠(ぜんちゅう)、別号として白崖窟(はっけいくつ)を持つが、広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した明治時代屈指の豪僧として知られる。在家者への教導にも力を注ぎ、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けた。 天保10年4月3日、肥前国東松浦郡十人町(現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩士塩田壽兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。
滝谷 琢宗(たきや たくしゅう、天保7年12月22日〈183… 滝谷 琢宗(たきや たくしゅう、天保7年12月22日〈1837年1月28日〉 - 1897年〈明治30年〉1月31日)は、越後国出身の日本の曹洞宗の僧侶。魯山琢宗とも。俗名は小川五三郎。永平寺63世貫首(真晃断際禅師)。
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年1… 滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。 越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。
七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年… 七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年7月11日) - 1900年(明治33年)1月29日)は幕末・明治時代の浄土真宗の僧侶である。号は松花子。 1835年(天保6年)、現在の越後国三島郡(現新潟県長岡市)飯塚にある浄土真宗本願寺派明鏡寺第13代住職井上宗鏡の次男として生まれる。このころは「天保の大飢饉」によって全国で多くの餓死者が出て、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱とその影響による生田万の乱、能勢騒動が起こり、世の中は騒然としていた。 1845年(弘化2年)11歳で得度、14歳で僧朗勧学の門に入り、15歳から宣界司教の德水社に入り修学。20歳から九州に移り、豊前の月珠勧学について宗学を研鑽。
森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(… 森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(1834年2月9日) - 大正4年(1915年)2月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。永平寺64世貫首。曹洞宗5代管長(性海慈舩禅師)。号は大休。 天保5年(1834年)、尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)の森田家の次男に生まれる。天保11年(1840年)、名古屋の大光院で出家。嘉永4年(1851年)に、師僧に従って武蔵国大泉寺に移動、吉祥寺旃檀林に通う。 安政3年(1856年)から諸嶽奕堂に師事し、翌年に奕堂と共に天徳院に移動する。万延元年(1860年)に陽仙院の兄弟子天瑞白龍の後を継ぎ、龍徳寺の住職になる。 明治3年(1870年)に奕堂が總持寺貫首になったのに従って總持寺に入り、明治8年(1875年)、天徳院住職となる。
福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈183… 福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈1833年7月16日〉 - 大正3年〈1914年〉2月22日)は、広島県出身の浄土真宗の僧侶、教育者。浄土真宗本願寺派明円寺11世住職。 広島市の『佐東町史』(1980年3月)[要ページ番号]によれば、天保4年(1833年)5月29日安芸国沼田郡中調子村(現在の広島市安佐南区川内)の浄土真宗本願寺派明円寺第10世住職福島大乗の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)5月、大順が16歳の時に旧豊田郡川尻町(現呉市)の光明寺の訶提の門に入り、嘉永4年(1851年)12月までの2年7か月間で仏学の基礎を学んだ。嘉永5年(1852年)2月に本願寺学林(京都、現龍谷大学)に入り、安政元年(1854年)7月まで学んだのちに帰郷した。
山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832… 山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832年9月22日) - 昭和9年(1934年)4月11日)は、日本の浄土宗の僧。浄土宗管長、知恩院門跡。号は謙蓮社孝誉。近代日本仏教における代表的な高僧の一人である。一宗一派の枠を越え、広く仏教界全体の長老として仰がれ、「生き仏」と称された。 謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保11年(1840年)三重県松阪市の樹敬寺にて梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(1844年)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り修学、嘉永2年(1849年)増上寺において宗戒両脈を相承した。
新居 日薩(あらい にっさつ、天保元年12月26日〈1831… 新居 日薩(あらい にっさつ、天保元年12月26日〈1831年2月8日〉 - 1888年〈明治21年〉8月29日)は、日蓮宗の僧。日蓮宗の初代管長。久遠寺73世。 上野国山田郡桐生(現在の群馬県桐生市)の織物問屋の6男として生まれた。字は文嘉。号は文明院と容月。また祖父の新居善右ヱ門は、寂光院の前進である寂光庵を建立した人物である。1839年(天保10年)に出家し、その後、加賀国金沢(現在の石川県)にある充洽園に入って日輝から開明的な宗学を学んだ。 明治以降は東京に移り住み、東京・二本榎(現在の港区高輪)の日蓮宗宗教院を拠点に宗門子弟の育成に当たった。また1874年(明治7年)には日蓮宗の初代管長に就任した。
山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政… 山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政10年12月10日) - 1903年(明治36年)1月20日)は、江戸時代後期から明治時代の天台宗僧。但馬観音寺の第16世住職。 1828年1月26日(文政10年12月10日)、山本忠右衛門の四男として丹波国多紀郡野間村(現・兵庫県丹波篠山市)として生れる。 1847年12月16日(弘化4年11月9日)、20歳の時、家督を相続し丹波国氷上郡北由良村(現・兵庫県丹波市)の福井儀兵衛長女・茂世(もよ)と婚姻するが、仏門に帰依せんと出家の志をやみ難く、親族の山本又治郎を養子に迎えて家を継がせ、自らは1884年(明治17年)1月14日、57歳の時に隠居した。
畔上 楳仙(あぜがみ ばいせん、文政8年7月15日〈1825… 畔上 楳仙(あぜがみ ばいせん、文政8年7月15日〈1825年8月28日〉 - 1901年〈明治34年〉12月27日)は、日本の曹洞宗の僧侶。大本山總持寺独住2世貫首、曹洞宗第三代管長。旧姓清水。号は大岡。諡号は法雲普蓋禅師。 1825年(文政8年)、信濃国高井郡夜間瀬村(現・長野県下高井郡山ノ内町)生まれ、幼名は亀蔵。7歳で得度(出家)し、江戸・駒込の栴檀林に学ぶ。信濃・松代の長国寺覚巌、相模国(神奈川県)早川・海蔵寺月潭らに参じる。信濃の興隆寺、大林寺、長国寺、上野国前橋の竜海院、相模の最乗寺(1874年(明治7年)、独住第一世)などに歴住。1880年(明治13年)、總持寺独住2世貫首となり、明治天皇より法雲普蓋禪師の称を賜る。
足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明… 足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明治43年(1910年))は、備後国(現在の広島県東部)出身の江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗僧侶(勧学)。広島県福山市勝願寺第23代住職。実子に京都女子大学創始者の甲斐和里子や龍谷大学学長を務めた足利瑞義。孫に同朋舎を創った足利浄円。 文政7年(1824年)、備後国の光圓寺(現在の福山市御幸町下岩成)に生まれる。嘉永2年(1849年)に神辺の勝願寺に入る。宗学は石泉学派の創始である石泉僧叡の弟子であった慧海や泰巌に学ぶ。大教校教授、備後博練教校教授、安芸進徳教校教授を経て、明治23年(1890年)に大学林教員、仏教大学講師となる。
由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月… 由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月28日〉 - 1899年〈明治32年〉1月20日)は日本の江戸末期から明治初期にかけての臨済宗の僧侶。宜牧は諱、号は滴水、無異室、雲母庵とも称する。姓は由利、由里とも。また滴水宜牧ともいう。 丹波国何鹿郡白道路村(現・京都府綾部市)に上田彦兵衛、母絹の三男として生まれる。父は文政8年(1825年)早くに没したので、親類の京都府加佐郡河守村の酒造家である由理清左衛門宅に引き取られ、養子となる。そして父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、加佐郡行永村にあった龍勝寺の住職・大法和尚について出家得度する。この時僧名を宜牧と名づけられる。大和和尚は病身で経文祖録は進まず、もっぱら湯薬の世話に明け暮れた。
荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 -… 荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 - 1895年〈明治28年〉8月10日)は、幕末・明治の臨済宗僧侶。諱は承珠(じょうじゅ)、字は独園、号は退耕庵。独園承珠とも。廃仏毀釈の際に相国寺住持として日本の禅宗を守るために奔走した。 備前国児島郡山坂村(現在の岡山県玉野市)出身。8歳の時に親族がいた同郡の掌善寺に入って13歳で出家し、18歳の時に豊後国の帆足万里の下で儒学を学び、特に『周易』に通じた。6年後、京都に上洛して相国寺の大拙承演に師事して厳しい修行を積む。師が病気で倒れると越渓守謙の指導を受けながら最後まで師に尽くした。師の没後、心華院(現在の大光明寺)に移って布教活動をした。
美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(181… 美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(1815年2月15日) - 明治10年(1877年)11月4日)は、備前国周匝村(現在の岡山県赤磐市)出身の僧侶である。のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。「美泉」という苗字は明治初期の法律に従うため、定山があえて作った姓である。 文化12年(1815年)、備前国曹洞宗の名刹妙音寺の二男として生まれる。17歳の時に実家を出て、高野山の道場で修行を積んだ後に、北上して仙台、出羽三山、秋田の太平山三吉神社などに滞在し、布教活動を行う。 1853年(嘉永6年)に蝦夷地に渡り、1866年(慶応2年)に張碓(はりうす)から2人のアイヌ人の先導のもと内陸に入り温泉を発見した。
養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈181… 養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈1814年5月4日〉 - 1891年〈明治24年〉3月15日)は、幕末・明治期の浄土宗僧侶・仏教史家。 筑後国久留米にて久留米藩士鵜飼万五郎政善・久保氏の次男に生まれる。6歳で地元の西岸寺に入り、後に京都や江戸で修行する。21歳の時に増上寺にて宗脈を受ける。後に増上寺学寮を掌った。文久元年(1861年)に浄国寺住職となる。文久3年(1863年)自身の羅漢研究を纏めた『羅漢図讃集』を刊行する。これは今日から見ても高い学術的価値を持つ著作であり、徹定の優れた学識が窺える。また徹定は羅漢の知識を狩野一信に教え、増上寺に残る計100幅にも及ぶ一信の「五百羅漢図」制作にも役立った。
嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 18… 嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 1862年1月5日〈文久元年12月6日〉)は、日本の僧侶、画家。 伯耆国会見郡皆生村(現・鳥取県米子市)の漁家に生まれる。11歳の時に大山寺に入り、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改める。詩文書画に堪能である。「千枚書き」と呼ばれるほど数多くの書画をこの世に残す。 「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを曳く図」を描いて貴布禰神社に奉納する。晩年は大山寺を出て、山麓八幡に草庵を結び、迎嶽観主人太虚と号し、専ら風流三昧の境涯に浸り、十神山から発掘の古銅印を落款に用いる。文久元年12月6日に66歳で寂滅する。
悟東 あすか(ごとう あすか、女性、3月27日 - )は、東… 悟東 あすか(ごとう あすか、女性、3月27日 - )は、東京都三鷹市出身の日本の漫画家、高野山真言宗の尼僧。ストーリー漫画、ギャグ漫画、エッセイ風漫画、イラストなど幅広くこなすが、ギャグ漫画を最も得意とする。毎日中学生新聞などで4コマ漫画、取材マンガ等を連載。仏教各宗派の本山から依頼されるマンガも描いている。中学時代から吾妻ひでおの仕事場に出入りして漫画の描き方を学んだ。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年〈668年〉 - 天平… 行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年〈668年〉 - 天平21年2月2日〈749年2月23日〉)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。 朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。 当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。
髙山 良彦 は、日本の天台宗僧。
山村 尚正(やまむら たかまさ)は、日蓮宗の僧。刀匠岡崎正宗… 山村 尚正(やまむら たかまさ)は、日蓮宗の僧。刀匠岡崎正宗25代末裔。テノール歌手としても活動している。
草薙龍瞬(くさなぎりゅうしゅん)とは、日本の仏教僧侶。著述家… 草薙龍瞬(くさなぎりゅうしゅん)とは、日本の仏教僧侶。著述家。興道の里(こうどうのさと)代表。本名非公表。 宗派・伝統に属さない独立出家僧として、各地のイベント・講演会・研修に出張も行う。
最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈… 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の宗祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。 最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。 最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。
栢木 寛照 は、天台宗の僧侶。第104代善光寺大勧進貫主。
円珍(えんちん)は、平安時代の天台宗の仏教僧。天台寺門宗(寺… 円珍(えんちん)は、平安時代の天台宗の仏教僧。天台寺門宗(寺門派)の宗(派)祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。宝号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」。 唐で学んだ入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人。 弘仁5年(814年)、讃岐国金倉郷(現香川県善通寺市)に誕生。多度郡弘田郷の豪族佐伯氏の一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り、延暦寺の義真に師事、12年間の籠山行に入る。天長10年(833年)、年分度者となった。
堀澤 祖門(ほりさわ そもん、昭和4年(1929年)- は、… 堀澤 祖門(ほりさわ そもん、昭和4年(1929年)- は、天台宗の僧侶。平成25年(2013年)から、三千院門跡門主。それ以前は叡山学院院長。 旧制小千谷中学、旧制新潟高校を経て、京都大学経済学部学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し、叡南祖賢の弟子となる。 最初に弟子入りを志願した時、祖賢大和尚は「お前は京大の学生だろう。しかも経済学部の学生だろう。今、日本がどういう時か知っているか。経済的に大変な時なんだ。お前たちが日本を復興させなくてはならないんだぞ。こんなところにいないで早く帰って、勉強しろ」と追い返した。得度したからには比叡山で一番オーソドックスな修行をしたいと申し出ると、叡南祖賢に千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいない。
近角 常観(ちかずみ じょうかん、明治3年4月24日(187… 近角 常観(ちかずみ じょうかん、明治3年4月24日(1870年5月24日) - 昭和16年(1941年)12月3日は、日本の明治~昭和期に活動した真宗大谷派僧侶、宗教家。諡は求道院、諱は常観。 1870年、滋賀県東浅井郡朝日村(後の湖北町。現在は長浜市)において、真宗大谷派西源寺の住職である近角常随の長男として生まれた。東本願寺経営の育英教校で学び、真宗大谷派僧侶で宗教哲学者の清沢満之と出会った。1889年、 京都府尋常中学校を卒業後、東本願寺派遣の留学生として上京。共立学校を経て、第一高等学校に進学。1894年4月8日、大日本仏教青年会が発足。同会発足時の中心人物は、近角のほか、沢柳政太郎、月見覚了ほかであった。
来馬 正行(くるま しょうぎょう)は、日本の僧侶。曹洞宗観音… 来馬 正行(くるま しょうぎょう)は、日本の僧侶。曹洞宗観音院第29代住職。 曹洞宗総合研究センターおよび中村元東方研究所東方学院、NHK学園講師など歴任。 駒澤大学仏教学部卒業。同大学大学院禅学専攻修了。観音院公開講座「参禅会・仏典講読会・福田会」主宰。曹洞宗総合研究センター曹洞宗教化部禅教室各講師。中村元東方研究所東方学院、朝日カルチャーセンター、NHK学園、東京吉祥講眼蔵会(於大本山永平寺別院)講師などを務める。西有寺専門僧堂西堂、武蔵野市の曹洞宗観音院住職。 観音院は江戸初期の1653年、松平出羽守直政開基と伝えられ、境内に住時の阿弥陀如来像(武蔵野市指定文化財)が残る。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
皆川 広義(みながわ ひろよし)は、日本の仏教学者、僧侶。駒… 皆川 広義(みながわ ひろよし)は、日本の仏教学者、僧侶。駒澤大学名誉教授。栃木県鹿沼市の曹洞宗常真寺第26世住職、皆川廣義。 駒澤大学仏教学部仏教学科卒業。同大学大学院人文科学研究科仏教学専攻修士課程修了。同大仏教学部助手、講師、助教授を経て教授に就任。2005年同大への多大な貢献が認められ名誉教授。曹洞宗教化研修所講師、日本仏教教育学会理事などを歴任。栃木県の常真寺住職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
プラユキ・ナラテボー(Phra Yuki Naradevo)… プラユキ・ナラテボー(Phra Yuki Naradevo)は、タイ上座部仏教の日本人僧侶、開発僧。出家前の俗名は坂本秀幸。 1962年、埼玉県本庄市生まれ。 上智大学文学部哲学科に在学中、「解放の神学」を実践するカトリック司祭ルベン・アビト教授に師事し、障害者支援やNGOであるRASA(アジアの農村と連帯する会)の活動に携わる。 上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、「農村開発におけるタイ僧侶の役割」を研究。その傍ら、NGOで他者のためを思って活動していたが、自分の心の開発を疎かにしていたために、やればやるほど疲弊する状況にあった。そんな折に出会ったタイの開発僧たちの姿に魅かれ、出家を決意する。
玉置 妙憂(たまおき みょうゆう)は、日本の看護師、看護教員… 玉置 妙憂(たまおき みょうゆう)は、日本の看護師、看護教員、僧侶、スピリチュアルケア師、ケアマネージャー、非営利一般社団法人「大慈学苑」創設者で代表を務める。2020年4月よりテレフォン人生相談パーソナリティも務める。ライフサポートクリニックに勤務。 看護師。僧侶。二児の母。東京都中野区生まれ。 専修大学法学部卒業後、法律事務所で働く。長男が重度のアレルギーがあることがわかり、「息子専属の看護師になろう」と決意し、看護学校で学ぶ。看護師、看護教員の免許を取得。 夫のがんが再発。夫は、「がんを積極的に治療しない」方針をかため、自宅での介護生活をスタートする。延命治療を望まなかったため、自宅で夫を看取るが、この際にどうしても、科学だけでは解決できない問題があることに気づく。
小堀 光實(こぼり こうじつ)は、日本の天台宗の僧侶。三千院… 小堀 光實(こぼり こうじつ)は、日本の天台宗の僧侶。三千院門主。前比叡山延暦寺大霊園園長。 1953年(昭和28年)10月、小堀光詮の長男として大津市に生まれる。大正大学仏教学部を卒業した。 1963年(昭和38年)、出家得度した。 1979年(昭和54年)、寂光院の住職に任じられた。 2013年(平成25年)6月22日に父・光詮が遷化すると長男として喪主を務めた。 2014年(平成26年)、延暦寺執行となり、2020年(令和2年)まで務めた。 2021年(令和3年)11月1日、三千院の門主となり、父と親子二代で門主を務めることになった。
大谷 祥子(おおたに しょうこ)は、箏曲演奏家、本願寺裏方、… 大谷 祥子(おおたに しょうこ)は、箏曲演奏家、本願寺裏方、僧侶、一般財団法人本願寺文化興隆財団理事、ジャポニスム振興会副会長、東京藝術大学卒、第40回(令和3年度)京都府文化賞功労賞受賞者。 箏を宮城会大師範である祖母岩井敏子から手ほどきを受け、その後仙場澄子、小橋幹子、砂崎知子に箏、三絃を、吉村七重に20絃を師事。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、京都大学文学部佛教学聴講生を経て、声明・教義を大谷暢順本願寺法主に師事、2010年に剃髪し本願寺裏方として初の僧侶、霊楽院観祥尼となる。仏教、音楽研究、日本とフランスの音楽による交流事業に携わる。 本願寺裏方、一般財団法人本願寺文化興隆財団理事、吉崎御坊蓮如上人記念館館長。
佐々木 良法(ささき りょうほう)は、浄土宗の僧侶、浄土宗南… 佐々木 良法(ささき りょうほう)は、浄土宗の僧侶、浄土宗南米開教区総監である。ブラジル サンパウロ市出身。 前浄土宗南米開教区総監、佐々木陽明の長男。サンパウロ市生まれの日系ブラジル人2世。サンパウロ州立大学文学部を卒業後、米国のマサチューセッツ大学教育学部大学院で学び、1993年12月に浄土宗の僧籍を登録、度蝶を得た。その後、佛教大学仏教学科専攻科を終え、同大学院修士課程を修了。1997年にマリンガ日伯寺主任となり、2016年9月には南米浄土宗教団の理事長に就任し、2017年1月にブラジル仏教連合会の理事となった。2016年5月1日に浄土宗南米開教区総監に就任。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
水無 昭善(みずなし しょうぜん)は、スカイコーポレーション… 水無 昭善(みずなし しょうぜん)は、スカイコーポレーション所属のタレント、僧侶、生年月日、本名など未公表。 幼い頃から寺に出入りし、15歳の時に仏門に入る。和歌山県・高野山で修行を重ね、2007年から自身が設立した祥炎山不動院の住職を務めている。 2009年10月19日放送回のフジテレビのバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「ホントに来てくれるかな?○○すぎるっ!ホニャララさん」というコーナーで、「おネエすぎるお坊さん」と募集がなされた。翌週の10月26日にその結果が発表されたが、集まったのは彼だけだった。彼の話によると、知人の僧侶に騙されて、出演させられた。この出演が話題になり、番組内では「水無昭善さんに聞いてみよー!」という彼が出演者の質問に答えたり、悩み相談をする緊急コーナーが作られた。
関 信三(せき しんぞう、天保14年(1843年) - 明治… 関 信三(せき しんぞう、天保14年(1843年) - 明治13年(1880年)4月12日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶である。真宗大谷派安休寺の末子として生まれる。法名は猶龍。 三河国幡豆郡一色村(現西尾市)生まれ。明治5年(1872年)明治政府の命を受けキリスト教の内情を探るべくキリスト教徒の中に長期にわたり潜入。これは、破邪顕清正運動と呼ばれた活動で、キリスト教が日本に良からぬ影響を与えるのではという危惧から信者たちの監視をしていたもの。彼は長崎、横浜で日本最初のキリスト者たちのグループの中にいたのち横浜弾正台(警察機構)のスパイという扱いになり、これが1872年まで続いた本人は、この初期の活動について自ら語ったり、書き残したものはない。