阿久井 喜孝(あくい よしたか、1930年 - 2024年1… 阿久井 喜孝(あくい よしたか、1930年 - 2024年1月)は、日本の建築家。端島(軍艦島)の研究で知られる。 東京電機大学名誉教授。 岩手県に生まれる。岩手県立盛岡第一高等学校を経て、1956年に東京大学工学部建築学科を卒業し、東京大学大学院数物系研究科修士課程に進学する。1958年に修士課程修了後、丹下健三研究室を経て、1961年丹下健三・都市・建築設計研究所に入所する。 1963年から1965年まで、設計事務所を営む。その後1967年までヨーロッパに滞在し(チューリヒおよびベルリン)、都市デザイン活動に参加した。 1967年に帰国後、東京電機大学建築学科助教授(のちに教授に昇進)となり、教育研究とともに設計活動をおこなった。
戸尾 任宏(とお ただひろ、1930年 - 2011年)は、… 戸尾 任宏(とお ただひろ、1930年 - 2011年)は、日本の建築家。 1954年、東京工業大学理工学部建築学科卒業、1954年、坂倉準三建築研究所入所。1960年、渡欧。1961年〜1963年フランス、スペインのロマネスク建築を研究。1963年、坂倉準三建築研究所に復職、神奈川県立近代美術館を設計。 1966年〜1970年タイ国文部省職業教育施設改善計画のためバンコク事務所設立、タイ全土に農工業学校及び大学25校を設計管理。1985年、佐野市郷土博物館で日本建築学会作品賞を受賞。 2009年、三重県立熊野古道センターで日本建築学会作品選奨受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
番匠谷 尭二(ばんしょうや ぎょうじ、1930年 - 199… 番匠谷 尭二(ばんしょうや ぎょうじ、1930年 - 1999年)は、日本の都市計画家、建築家。 シリアの二大都市であるダマスカス、アレッポの現行都市計画の礎をつくった人物。 1930年、立教大学教授番匠谷英一の次男として誕生。 1953年東京工業大学工学部建築学科卒業。清家清に師事。 渡仏し、エコール・デ・ボザール、フランスのCIAM系アトリエ「ATBAT」に学ぶ。 その後北アフリカに渡り、アルジェの共生住宅集合住宅プロジェクト計画に参画。続いて1967年、国連開発計画UNDPの専門家として、シリアに赴任。1960年代にベイルート、ダマスカスの都市計画をミッシェル・エコシャールらとともに策定。
金窪 敏知(かなくぼ としとも、1930年〈昭和5年〉 - … 金窪 敏知(かなくぼ としとも、1930年〈昭和5年〉 - )は、日本の建設技官。国土地理院長を務めた。 仙台陸軍幼年学校を経て、1953年東北大学卒業、同年建設省入省。1984年国土地理院長。1986年建設省退官。
石福昭(いしふくあきら、1930年 - 2025年)は、日本… 石福昭(いしふくあきら、1930年 - 2025年)は、日本の建築家、設備エンジニア。 1959年、早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。その後1981年まで日建設計に勤務し技師長を務める。 1978年工学博士。 1981年から宇都宮大学教授に就任。 1990年から早稲田大学教授就任。建築設備綜合協会名誉会長。 設計に関わった作品として、東邦ガス本社ビル、中部電力本社ビル、パレスサイドビル、日本アイビーエム本社ビル、世界貿易センタービル、東京国際空港第一ターミナルビルなどがある。 著書である「大学課程 建築設備」は大学教育における建築設備の教科書として初版が発刊された1968から時代とともに刷新され続け、日本の建築教育に寄与している。
徳岡 昌克(とくおか まさかつ、1930年 - 2019年6… 徳岡 昌克(とくおか まさかつ、1930年 - 2019年6月26日)は、日本の建築家、徳岡昌克建築設計事務所主宰。 横浜市生まれ。1951年(昭和26年)、京都工業専門学校(現 京都工芸繊維大学)建築科卒。同年、竹中工務店大阪本店設計部入社。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)、同社を休職し、ワシントンD.C.ムーマ建築事務所・シカゴ C.F.マーフィー建築事務所(現 マーフィー・ヤーン建築事務所)勤務。1967年(昭和42年)から竹中工務店大阪本店設計部に復職。1968年(昭和43年)から1983年(昭和58年)まで同社の大阪本店設計課長・副部長・九州支店設計部長・大阪本店設計部副部長のほか、京都工芸繊維大学の非常勤講師を歴任。
巽 和夫(たつみ かずお、1929年(昭和4年)10月31日… 巽 和夫(たつみ かずお、1929年(昭和4年)10月31日 - 2012年(平成24年)11月6日)は、日本の建築学者。専門は建築社会システム、特に建築生産論やハウジング論。京都大学名誉教授、福山大学名誉教授。巽和夫建築研究所代表取締役。 1929年10月、京都府京都市に生まれる。1953年に京都大学工学部建築学科(西山夘三研究室)を卒業し、1962年には同大学院工学研究科博士課程を修了。工学博士。この間、京都大学工学部助手や建設省建築研究所研究員を務める。 1966年より京都大学工学部に助教授として奉職し、1968年には教授に昇任する。大学着任後、建築における生産性や資源問題に着目して「ハウジング論」という研究領域を開拓し、多くの研究者との共同研究により「高層集合住宅研究」、「都市型ハウジングシステム研究」などを推進。
大河 直躬(おおかわ なおみ、1929年4月24日 - 20… 大河 直躬(おおかわ なおみ、1929年4月24日 - 2015年9月13日)は、日本の建築学者、千葉大学名誉教授。専攻は日本建築史。日本中世大工の生産・組織生活を明らかにし、民家の形式美を研究した。 金沢市生まれ。東京大学工学部建築学科卒、1958年同大学院数物系研究科建築学博士課程満期退学、1962年「中世建築の制作組織に関する研究」で工学博士。千葉大学工学部教授、1995年定年退官、名誉教授。
降幡 廣信(ふりはた ひろのぶ、1929年4月7日- )は、… 降幡 廣信(ふりはた ひろのぶ、1929年4月7日- )は、日本の建築家。降幡建築設計事務所代表取締役会長。信州大学工学部社会開発工学科建築学コース非常勤講師。全国各地で建築に関する賞を数多く受賞している。長野県南安曇郡温村(安曇野市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡田 光正(おかだ こうせい、1929年3月29日 - )は… 岡田 光正(おかだ こうせい、1929年3月29日 - )は、日本の建築学者。工学博士(京都大学)。大阪大学名誉教授、元大阪工業大学建築学科教授。日本建築協会元編集理事。 専門は、建築人間工学・群衆安全工学(特に災害の避難シミュレーション・安全性評価や群集流動、滞留人口など)、建築計画・都市計画。 高知県に生まれる。1952年京都大学工学部建築学科卒業。のちに、工学博士(京都大学)。清水建設勤務を経て京都工芸繊維大学講師、1962年大阪大学工学部助教授。1967年同大学工学部教授。1992~1997年大阪工業大学工学部建築学科教授。 建築人間工学・群衆安全工学のパイオニアである。大阪大学工学部をメインに41年の長きにわたり教育・研究に従事、建築・都市人間工学領域(講座)を担当。
山田 修(やまだ おさむ、1929年1月31日- )は、日本… 山田 修(やまだ おさむ、1929年1月31日- )は、日本の建築家、韓国古文化研究家。 兵庫県伊丹市出身。1950年神戸工業専門学校卒。大阪市立工芸高等学校教諭。韓国古文化研究会主宰。1979年日本建築士連合会長賞受賞。大阪市立大学生活科学部・大阪市立デザイン教育研究所講師。修(しゅう)建築事務所主宰。伊丹市図書館協議会委員、伊丹市美術館協議会委員。1987年韓国観光公社賞、1998年釜山広域市建築士会功労牌、2002年駐大阪大韓民国総領事感謝状。
中原 暢子(なかはら のぶこ、1929年1月5日 - 200… 中原 暢子(なかはら のぶこ、1929年1月5日 - 2008年7月5日)は、埼玉県出身の建築家。国際女性建築家会議日本支部初代会長。日本文化の造詣が深い。茶人であり、彫刻による仏像制作など巾広い趣味人である。 「木村別邸」「Kビル」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
長島 正充(ながしま まさみつ、1929年 - 2010年)… 長島 正充(ながしま まさみつ、1929年 - 2010年)は、日本の建築家。 東京都生まれ。旧制第一高等学校を経て、1953 年 東京大学工学部建築学科卒業。1956年 東京大学大学院数物系研究科修土課程修了。丹下研に所属。1961年からURTEC。この頃、秋田の家と写真家の家を発表。1973年独立、長島建築研究所代表取締役。1979 年聖グレゴリオの家設計で、JIA25年賞受賞 1989年 新高松空港旅客 ターナル設計。他代表作にパティオ北新宿、東久留米のセミナー施設、香川育英会東京学生寮(1994年)他。 訳書にジョン・J・フルーイン『歩行者の空間 - 理論とデザイン』(鹿島出版会)がある。
野老 正昭 (ところ まさあき、1929年 - 2011年6… 野老 正昭 (ところ まさあき、1929年 - 2011年6月)は、日本の建築家。 妻はインテリアデザイナーの野老春子で、一人息子にアーティストの野老朝雄がいる。 慶應義塾大学工学部(現理工学部)予科終了。 1953年、日本大学旧工学部建築学科卒業。 1956年から1958年まで、竹中工務店東京支店設計部に勤務する。この間、東京貿易会館、沖電気高崎工場、外務省庁舎の設計に従事した。 1958年に独立し、野老設計事務所を創立。1966年から日本大学生産工学部建設工学科、1977年から日本大学理工学部建築学科で建築設計の非常勤講師を務める。2001年には全日本建築士会連合会から会長表彰を受ける。その他1998年からは東京都建築物応急危険度判定士を、また日本建築家協会建築図集の初代図書刊行委員長を務めた。
松本 哲夫 (まつもと てつお、1929年 - 2023年2… 松本 哲夫 (まつもと てつお、1929年 - 2023年2月1日)は、日本の建築家、インテリアデザイナー、工業デザイナー。元、剣持デザイン研究所代表取締役。千葉大学都市・建築系同窓会では後進を育成するための「松本塾」を開催するなどしていた。鉄道車両のデザイン組織TDO(Transportation Design Organization)メンバーの一員であった。 デザイナーとしての仕事は建築や家具、輸送用機器まで多岐に渡る。剣持勇デザイン研究所時代には剣持勇とともにヤクルトの容器や農民車コマツを手掛け、鉄道車両では「快適公共空間としての鉄道車両」をモットーにJR東日本651系電車(1988年)、JR東日本251系電車(1990年)、新幹線300系電車量産車(1992年)、新幹線400系電車(1992年)を担当した。
阪田 誠造(さかた せいぞう、1928年(昭和3年)12月2… 阪田 誠造(さかた せいぞう、1928年(昭和3年)12月27日 - 2016年(平成28年)7月21日)は、日本の建築家。 大阪府大阪市出身。1951年(昭和26年)、早稲田大学理工学部建築学科卒業。同年坂倉準三建築研究所入所。 1969年(昭和44年)の坂倉準三死去に伴い、西沢文隆らと共に坂倉建築研究所を設立し、取締役東京事務所長、1985年(昭和60年)から1999年(平成13年)まで代表取締役、1999年(平成13年)以後は最高顧問を務めた。 1990年(平成2年)から1991年(平成3年)まで新日本建築家協会副会長、1993年(平成5年)から1999年(平成11年)まで明治大学理工学部建築学科教授を務めるなど、建築界の発展や教育にも貢献した。
田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故… 田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故人)は日本の建築学者、建築家。専門は設計計画、建築計画。鹿児島大学助教授、第一工業大学教授を歴任。 鹿児島県南さつま市の旧日置郡金峰町出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校、旧一中49回生)を経て、鹿児島県立工業専門学校(鹿児島大学工学部の前身)建築科を1949年卒業(第2回卒業生)。鹿児島工専助教授の東洋一(後に東京都立大学教授)の推薦により、1951年~1955年に東京大学工学部建築学科丹下健三研究室で、研究生として建築計画・都市計画を専攻。丹下のもとで、成城の丹下邸や旧東京都庁の設計に携わる。1955年芦原義信研究所勤務。
奥村 昭雄(おくむら あきお、1928年10月2日 - 20… 奥村 昭雄(おくむら あきお、1928年10月2日 - 2012年12月27日)は、日本の建築家。屋根で集めた太陽熱を床下に送るOMソーラーの考案者。 東京府に生まれる。1952年東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科を卒業。1956年吉村順三設計事務所入所。1964年、東京芸術大学美術学部建築学科助教授。1973年、同教授。東京芸術大学名誉教授。 2012年12月27日、虚血性心不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 昌二(はやし しょうじ、1928年9月23日 - 201… 林 昌二(はやし しょうじ、1928年9月23日 - 2011年11月30日)は、日本の建築家。日建設計で、チーフアーキテクトとして活躍。1971年にはポーラ五反田ビルで日本建築学会賞作品賞を受賞した。夫人は建築家の林雅子。
槇 文彦(まき ふみひこ、1928年〈昭和3年〉9月6日 -… 槇 文彦(まき ふみひこ、1928年〈昭和3年〉9月6日 - 2024年6月6日)は、日本の建築家(一級建築士)。位階は従四位、文化功労者。日本芸術院会員。 1928年(昭和3年)、東京都生まれ。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。1941年(昭和16年)慶應義塾幼稚舎卒業。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学工学部予科を中退し、建築学科のある東京大学工学部建築学科に入学、1952年(昭和27年)卒業。 丹下健三の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国に留学。クランブルック美術学院およびハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。ハーバード大学院時代はホセ・ルイ・セルトのスタジオで学ぶ。
神谷 宏治(かみや こうじ、1928年8月7日 - 2014… 神谷 宏治(かみや こうじ、1928年8月7日 - 2014年10月2日)は日本の建築家、都市計画家。丹下健三の下で浅田孝、大谷幸夫、磯崎新らと共に都市と建築の設計に従事し、丹下が主宰したURTEC((株)都市・建築設計研究所)の初代代表取締役(1961-1971)として活躍。丹下の最高傑作と目される国立代々木競技場(1964)の設計チーフを務めた。退社後、日本大学教授としてコーポラティブハウスを発展させたコープタウンの普及に尽力し、丹下の建築哲学の継承という難題に貴重な手がかりを与えた。日本建築学会特別賞(国立代々木競技場)、建築業協会賞(香川県立体育館)、科学技術庁長官賞(万国博大屋根の巨大架構)。
林 雅子(はやし まさこ、1928年7月11日 - 2001… 林 雅子(はやし まさこ、1928年7月11日 - 2001年1月9日)は、北海道出身の日本の建築家。女性建築家の草分け的存在である。夫は建築家の林昌二。 日本女子大学家政学部住居学科では彼女を記念して「林雅子賞」を設けている。
山梨 清松(やまなし せいしょう、1928年6月8日 - 2… 山梨 清松(やまなし せいしょう、1928年6月8日 - 2015年2月10日)は、日本の建築家。(株)綜合設計事務所 代表取締役会長。(社)日本建築士会連合会理事、副会長、顧問。(社)日本建築家協会理事。静岡県建築士会会長。(財)静岡県建築住宅まちづくりセンター理事長。日本大学(非常勤講師)等を歴任した。 日本大学理工学部卒業(1952年)、卒業設計「空港の設計」卒論「明治以降の構造の変遷史」、東京大学大学院建築学科博士課程修了(1957年)、丹下健三研究室所属(大学院の同期は槙文彦、神谷宏冶))。 丹下研究室(1952~57年)では、図書印刷原町工場、丹下健三自邸などの設計に参画した。 山梨が丹下健三自邸の基本設計を担当したことについては、藤森照信が「X-Knowledge HOME特別編集no.5(2005年8月発行エクスナレッジ)に、『丹下健三自邸の謎』p38-43という論文が掲載されている。
田島 稔(たじま みのる、1928年〈昭和3年〉6月 - … 田島 稔(たじま みのる、1928年〈昭和3年〉6月 - 2023年〈令和5年〉1月14日)は、日本の建設技官。国土地理院長を務めた。 1928年に栃木県栃木市に生まれる。1952年3月東京大学理学部地球物理学科卒業後、同年4月建設省地理調査所勤務。1967年2月理学博士(東京大学)。1982年11月国土地理院長。1984年11月同院を退職。1985年6月学校法人中央工学校理事を経て学校法人中央工学校・中央実務専門学校校長。
菊竹 清訓(きくたけ きよのり、1928年4月1日 - 20… 菊竹 清訓(きくたけ きよのり、1928年4月1日 - 2011年12月26日)は、日本の建築家。一級建築士、博士(工学)。 福岡県久留米市出身。1944年、早稲田大学専門部工科建築学科入学。1945年に久留米駅舎コンペで1等、1948年に広島平和記念カトリック聖堂コンペで3等を獲得するなど、在学中から既に活躍していた。1950年、早稲田大学理工学部建築学科卒業、同年竹中工務店勤務。1952年村野・森建築設計事務所を経て、1953年に菊竹清訓建築設計事務所を開設。 1960年代後期から70年代にかけ、独自のデザイン論である『代謝建築論 か・かた・かたち』を掲げ、黒川紀章らとともに建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとするメタボリズムを提唱する。
池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2… 池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2017年5月20日)は、日本の建築家、早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員。 東京都渋谷区生まれ。明治学院中学校、早稲田大学高等学院を経て1951年早稲田大学理工学部建築学科卒業、1953年同大学院工学研究科建設工学専攻建築計画専修修了、山下寿郎設計事務所勤務、1956年早大理工学部建築学科今井兼次研究室助手、1964年には、多摩美術大学美術学部で講師を務め、1965年早大理工学部建築学科専任講師、1966年助教授、1971年教授、1974年日本建築学会賞、1988年池原義郎・建築設計事務所設立、日本芸術院賞、1989年日本芸術院会員。1995年早大名誉教授。
小林 美夫(こばやし よしお、1928年 <昭和3年> 3月… 小林 美夫(こばやし よしお、1928年 <昭和3年> 3月25日 - 2017年 <平成29年> 10月5日)は、日本の建築家、教育者。勲等は瑞宝中綬章。位階は従五位。学位は工学博士。株式会社アトリエ・K主宰、日本大学名誉教授。 1950年、日本大学卒業後、日本放送協会建築部に採用された。1958年には母校である日本大学の講師に就任し、1973年より理工学部教授に就任した。日本大学では長く後進の育成にあたった。 また、自身の建築設計事務所としてアトリエ系建築設計事務所「アトリエ・K」を主宰した。 主要な作品としては、岩手県営体育館、秋田県立体育館、日本薬学会長井記念館、東京薬科大学八王子キャンパス、静岡県立大学などが挙げられる。
今里 隆(いまざと たかし、Takashi Imazato、… 今里 隆(いまざと たかし、Takashi Imazato、1928年2月21日 - )は建築家。杉山隆事務所代表。東京生まれ。吉田五十八(日本芸術院会員、東京藝術大学名誉教授)に師事した。東京美術学校在学当初から吉田五十八研究室で設計活動に従事。近代数寄屋建築を確立した建築家吉田五十八から基礎を学び、現代に活かした日本建築を追求し作品造りをする。 1945年に東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)建築科入学、海軍電測学校へ動員後、1949年に東京美術学校を卒業。1949年から1964年まで、吉田五十八研究室に勤務。1964年に杉山隆建築設計事務所創設 現在に至る。1970年、今里広記の養子となる。
堀田 英二(ほった えいじ、1928年1月21日 - 199… 堀田 英二(ほった えいじ、1928年1月21日 - 1999年10月11日)は、日本の建築家。今井兼次に師事。代表作に、1960年代の日本における高級集合住宅の先駆けであり、ヴィンテージマンションとして近年再評価される「ビラ・ビアンカ」がある。 東京都出身。1952年に早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業した。 大学卒業後は、山下寿郎設計事務所、山脇巌設計事務所に勤務。1959年に堀田英二建築設計事務所を設立し独立した。独立後、施主である興和商事の石田とともにヨーロッパ各国の建築視察を行い、帰国後の1964年に代表作となるビラ・ビアンカやビラ・ローザを設計した。 その後佐藤武夫設計事務所に一時期在籍後、再び堀田英二建築設計事務所を設立、そのあとAVA INTERNATIONALに名称を変更した。
岡田 新一(おかだ しんいち、1928年1月9日 - 201… 岡田 新一(おかだ しんいち、1928年1月9日 - 2014年10月27日)は、日本の建築家、都市計画家。日本芸術院会員。茨城県水戸市生まれ。 1945年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。同期に建築学者の鈴木成文がいる。旧制静岡高等学校を経て、1955年に東京大学工学部建築学科を卒業。1957年に東京大学大学院修士課程を修了し、鹿島建設に入社した。 その後留学。1963年にイェール大学建築芸術学部大学院を修了し、帰国後の1969年、独立して岡田新一設計事務所を設立した。 2014年、呼吸不全のため死去。享年87(満86歳没)。
西村 蹊二(にしむら けいじ、1928年〈昭和3年〉 - … 西村 蹊二(にしむら けいじ、1928年〈昭和3年〉 - 2010年〈平成22年〉8月31日)は、日本の建設技官。国土地理院長を務めた。 1951年東京大学理学部地理学科卒業、同年建設省入省。1980年11月国土地理院長。1982年11月建設省退官後、日本測量協会副会長・関東支部長、日本地図調製業協会会長などをを務めた。
竹ノ内 洋一郎(たけのうち よういちろう、1927年12月1… 竹ノ内 洋一郎(たけのうち よういちろう、1927年12月11日 - )は、日本の建築家。
宮本 忠長(みやもと ただなが、1927年10月1日 - 2… 宮本 忠長(みやもと ただなが、1927年10月1日 - 2016年2月25日)は、日本の建築家。 長野県須坂市生まれ。1951年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、佐藤武夫建築事務所に勤務した。1964年に郷里に戻り、1966年に宮本忠長建築設計事務所を設立した。その後、長野県建築士会会長、日本建築士会連合会会長、国土交通省中央建築士審査会委員、長野市都市景観賞審査委員等を歴任した。2016年2月25日に胆管腫瘍のため死去。
金谷 英一(かなたに えいいち、1927年8月15日 - )… 金谷 英一(かなたに えいいち、1927年8月15日 - )は、日本の建築生産・建築環境工学者。建築設備士。工学博士(京都大学)。大阪工業大学名誉教授。元建築学教室担当。空気調和・衛生工学会特別会員・元理事。 専門は、建築環境工学、建築生産/建築設備。 1951年京都大学工学部建築学科卒業。1954年京都大学大学院工学研究科特別研究生前期修了(指導教授:建築環境工学の第一人者で日本建築学会会長を務めた前田敏男)、のちに工学博士(京都大学)。1955年大阪工業大学工学部建築学科に講師として着任、建築学教室を担当。1964年同学科助教授を経て、1974年同学科教授。1995年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部建築学科にて40年の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築環境工学および建築生産/建築設備の研究育成に貢献した。
中村 昌生(なかむら まさお、1927年8月2日 - 201… 中村 昌生(なかむら まさお、1927年8月2日 - 2018年11月5日)は、日本の建築家、建築史家(日本建築史)。京都工芸繊維大学名誉教授、福井工業大学名誉教授。京都伝統建築技術協会を設立、理事長を務める。専攻は日本建築。工学博士。 愛知県出身。それまで建築史研究の対象としてはまれであった茶室や数寄屋建築を本格的に研究し、研究によって得られた知見を生かして設計活動を行った。また、桂離宮修理事業をはじめ、伝統建築の保存に貢献した。 1927年、愛知県名古屋市生まれ。彦根工業専門学校建築学科(現滋賀大学)を卒業した後、京都大学工学部の研修員となる。同大学助手等を経て、1973年、京都工芸繊維大学教授。
鈴木 成文(すずき しげぶみ、1927年7月30日 - 20… 鈴木 成文(すずき しげぶみ、1927年7月30日 - 2010年3月7日)は、日本の建築学者である。東京大学名誉教授、元神戸芸術工科大学長、専門は建築計画学。
滝沢 健児(たきざわ けんじ、1927年〈昭和2年〉6月15… 滝沢 健児(たきざわ けんじ、1927年〈昭和2年〉6月15日 - 2013年〈平成25年〉5月2日)は、日本の建築家。 1927年、長野県更埴市(現千曲市)出身。早稲田大学大学院修了後、吉阪隆正主宰のU研究室の創設メンバーとして1954年から1964年まで在籍。この時期に関わった代表作に「浦邸」(『吉阪隆正の方法 浦邸1956』斉藤祐子編著、住まい学大系064:住まいの図書館出版局、1994に詳しい)がある。ほかに、「ヴィラ・クゥクゥ」、「富山市立呉羽中学校旧校舎」、「大学セミナー・ハウス」などを担当した。 1965年に自身の建築設計事務所を開設、更埴市庁舎などを設計している。国士舘大学教授も務めた。
松浦 邦男(まつうら くにお、1927年3月21日 - 20… 松浦 邦男(まつうら くにお、1927年3月21日 - 2019年9月18日)は、日本の建築学者。京都大学名誉教授。工学博士。 京都大学建築学教室で、後に第18代京都大学総長となる前田敏男に師事し、建築環境工学、特に光環境(照明)を研究する。相互反射をはじめとする照度計算方法の発展に尽力し、1995年に国際照明委員会 (CIE) 賞を受賞。また、2006年には「建築環境工学、特に光環境工学の研究・教育とその発展に対する貢献」に対して日本建築学会賞大賞を受賞している。2007年、瑞宝中綬章受章。 この間、日本建築学会理事、照明学会副会長、日本照明委員会副会長などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
遠藤 楽(えんどう らく、1927年3月13日 - 2003… 遠藤 楽(えんどう らく、1927年3月13日 - 2003年7月24日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトから直接教えを受けた最後の日本人であり、親子二代にわたりタリアセンにてライトの薫陶を受けた。日本国内に、北は青森県八戸市から南は鹿児島県まで300件を超える建築作品を残した。 遠藤新と都の次男として東京府豊多摩郡和田堀町(現・東京都杉並区)に生まれる[要出典]。 1946年3月に自由学園男子部高等科を卒業して、和泉工務所に入社した。1949年、遠藤新建築教室(遠藤新建築創作所、新建創)に移る。[要出典] 1957年3月から、アメリカ合衆国ウィスコンシン州のタリアセンにて、フランク・ロイド・ライトに学ぶ。
稲田 尚之(いなだ ひさゆき、1927年3月6日 - 200… 稲田 尚之(いなだ ひさゆき、1927年3月6日 - 2003年3月13日)は、日本の建築家、京都市立芸術大学名誉教授。 東京美術学校油絵科卒。京都市立芸術大学美術学部環境デザイン学科教授、同名誉教授(1993)、大阪芸術大学環境計画学科教授(1993-2003)。宝塚武庫川ロータリークラブ会長(1988-89)。戦後の個人住宅、公共施設、ゴルフ場などの独創的な設計で活躍し、その作品の多くが雑誌「新建築」に採り上げられる。 版画家稲田年行の弟。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
柴田 陽三(しばた ようぞう、1927年1月22日 - 20… 柴田 陽三(しばた ようぞう、1927年1月22日 - 2003年9月5日)は、日本の建築家。株式会社観光企画設計社の創業者。 1927年に、京都に生まれる。 1947年に、坂倉準三建築研究所に勤務する。1952年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業する。1960年、ホテルオークラ建築部長として、設計監理に従事する。 1962年9月21日、観光企画設計社を創立し、代表取締役に就任する。ホテルの建築設計で、有名になる。1985年、交通文化賞を受賞する。1989年、藍綬褒章を受章する。 2003年9月5日、胸膜炎のため死去。
末松 政孝(すえまつ まさたか、1927年 - )は、日本の… 末松 政孝(すえまつ まさたか、1927年 - )は、日本の建築家。安岡清則と末松安岡設計を主宰。 東京都生まれ。1952年、日本大学旧工学部建築学科卒業。1952年、鹿島建設設計部勤務。1958年、吉村順三設計事務所。1962年、末松設計事務所設立。1974年から1984年、日本大学理工学部非常勤講師。1984年から1993年まで、日本大学生産工学部非常勤講師。1998年に末松安岡設計に改称。代表作にM氏邸 粕谷の家、S邸、矢来町の家(以上住宅)科研薬化工京都研究所、T山荘、北沢バルブ本社ビルなど。
白濱 謙一(しらはま けんいち、1926年(大正15年)8月… 白濱 謙一(しらはま けんいち、1926年(大正15年)8月25日 - 2010年(平成21年)1月6日)は、昭和期の建築家である
茂木 計一郎(もぎ けいいちろう、1926年4月18日 - … 茂木 計一郎(もぎ けいいちろう、1926年4月18日 - 2008年12月13日)は、日本の建築家。東京芸術大学名誉教授。芸大での教育と合わせて茂木建築設計事務所にて各種の設計活動を行った。代表作に学陽山勧行寺(監修)、江戸川区小岩アーバンプラザ、セントピアあわら、下田市市民文化センター、その他住宅作品などを多数手がけており、研究はイタリア、中国(また陶器などを収集)、日本では奈良、京都、また馬籠、妻籠など各地のデザイン調査研究に従事。 神奈川県横浜市に生まれる。1954年 東京芸術大学美術学部建築科卒業。1956年 東京大学大学院数物系研究科修士課程修了。丹下健三研究室在籍。修了後も東京大学建築科丹下健三研究室にて研究及び設計活動に従事。
鬼頭 梓(きとう あずさ、1926年1月15日 - 2008… 鬼頭 梓(きとう あずさ、1926年1月15日 - 2008年8月20日)は日本の建築家。男性。
宮内 嘉久(みやうち よしひさ、1926年1月4日 - 20… 宮内 嘉久(みやうち よしひさ、1926年1月4日 - 2009年12月13日)は、日本の建築評論家、建築批評家、建築史家、編集者、建築ジャーナリスト。 東京生まれ。旧制府立高等学校を経て東京大学第二工学部建築学科卒業。 雑誌「新建築」(1957年のいわゆる「新建築問題」で退職)、雑誌「THE JAPAN ARCHITECT」(新建築社、1956年の創刊時の担当)、雑誌「国際建築」(美術出版社、1968年廃刊)、「建築年鑑」(美術出版社、1969年まで)などを編集する。 その他にも、1956年に大谷幸夫らと五期会を設立、1958年に宮内嘉久編集事務所を開設、1969年にAF(建築戦線)を結成する。
大沢 弘(おおさわ ひろし、1926年 - ?)は、日本の建… 大沢 弘(おおさわ ひろし、1926年 - ?)は、日本の建築家。逓信技師・日本電信電話公社の建築担当として活動。 長野県出身。旧制飯田中、第一高等学校を経て、1948年東京大学卒業後、逓信省営繕部を経て日本電信電話公社建築部に配属。大手町電電ビル別館で、1969年 日本建築学会賞(作品)受賞。他の代表作に自邸、1990年竣工の立正佼成会神戸教会(監修)1973年竣工の東京データ通信専用局舎など。 著書に、『建築家のスケッチ集』(1977年 日本建築学会)など。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
木村 俊彦(きむら としひこ、1926年 -2009年5月2… 木村 俊彦(きむら としひこ、1926年 -2009年5月27日 )は、建築構造家。建築家前川國男のアトリエ出身。半世紀に亘って数多くの建築作品に携わり、1980年代より槇文彦、篠原一男、磯崎新、原広司、安藤忠雄ら著名建築家の作品の構造設計を手掛けた。
進来 廉(すずき れん、1926年 - 2009年5月4日)… 進来 廉(すずき れん、1926年 - 2009年5月4日)は、日本の建築家。IAAプロフェッサー。国際建築家連合副会長(UIA)などを歴任。フランスに渡りル・コルビュジエのアトリエに学んだ最後の日本人建築家。その後もジャン・プルーヴェやシャルロット・ペリアンといったフランス人建築家に師事。ペリアンとは協働して作品を残す。玄・ベルトー・進来は実子。 1950年、東京大学工学部建築学科を卒業し、前川國男建築設計事務所に勤務。前川國男の下で神奈川県立図書館・音楽堂、下関市庁舎の設計に携わる。 1955年からフランスに滞在し、ル・コルビュジエの下で修行。その後コルビュジェの紹介によりジョルジュ・キャンディリスのアトリエで働く。
山田 幸一(やまだ こういち、1925年10月30日 - 1… 山田 幸一(やまだ こういち、1925年10月30日 - 1992年7月30日)は、建築学者。 1925年、京都市で由緒ある左官屋に生まれた。京都帝国大学工学部建築学科で学び、戦後の1949年に卒業。一級建築士として、鹿島建設に勤務。一方で、京都大学大学院特別研究生として学んだ。 1953年、大阪市立大学講師に就いた。1961年、学位論文『日本壁の歴史的研究』を京都大学に提出して工学博士号を取得。1963年、助教授昇格。1968年、関西大学工学部教授となった。大学では、日本建築史だけでなく、一般構造学、建築設計製図の講義や演習なども担当。また関西大学が企画した日印共同「伝祇園精舎発掘プロジェクト」にも参加した。