開心 栄(かいしん さかえ / えい、1901年12月12日… 開心 栄(かいしん さかえ / えい、1901年12月12日 - 没年不明)は、新潟県燕市出身で宮城野部屋に所属した元大相撲力士。本名は野沢 国栄。最高位は十両8枚目。 宮城野部屋に入門し、1917年5月、初土俵を踏む。1924年5月、「弥彦山」の四股名で十両に昇進したが、1勝5敗と負け越し、幕下に落ちた。「開心」に改名後の1927年10月再十両、この場所も2勝5敗4休と負け越し、再び幕下に落ちた。1930年5月に十両復帰。この場所と翌10月場所も続けて負け越し、幕下に落ちた後の1933年5月に廃業した。
5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治… 5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治34年)9月27日 - 1984年(昭和59年)5月18日)は大相撲の元三役格行司。所属は伊勢ノ海部屋→鏡山部屋→伊勢ヶ濱部屋。青森県八戸市出身。本名は岡村熊太郎。 初め伊勢ノ海部屋に入門するが、のち5代鏡山(元幕下金木山)の養子となる。しかし、鏡山部屋は1944年11月場所限りで伊勢ヶ濱部屋へ吸収合併された。 1913年(大正2年)1月、「式守熊太郎」の名で初土俵。1926年1月、4代式守与之吉襲名。1933年1月十両格、1938年1月に5代式守勘太夫を襲名。1940年5月幕内格、1951年5月に年寄・6代鏡山を襲名し二枚鑑札。三役格の定員増加により1956年5月、三役格行司に昇格。
綾ノ浪 俊一郎(あやのなみ しゅんいちろう、1901年8月2… 綾ノ浪 俊一郎(あやのなみ しゅんいちろう、1901年8月25日 - 1984年7月1日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で湊川部屋、追手風部屋、再度湊川部屋に所属した力士。本名は鈴木 俊一郎(すずき しゅんいちろう)。身長170cm、体重94kg。最高位は東前頭7枚目。得意手は突っ張り、押し。 1921年1月場所に初土俵。この間親方が亡くなり、後継が決まるまでのあいだ追手風部屋に預けられ、1929年1月場所に十両昇進、新設された湊川部屋に戻って1930年5月場所に新入幕。春秋園事件に加担し、1932年1月場所に脱退(番付からは削除され、実質的最終場所は1931年10月場所)した。脱退後は青森市で酒屋を経営した後、再び上京して江東区深川で飲食店「角力屋」を経営した。
24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ… 24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ、1901年8月15日 - 1973年9月19日)は、大相撲の立行司。本名:緑川 義。千葉県出身。通称は「総髪庄之助」、「山伏庄之助」、「緑川庄之助」など。「由井正雪」とも。 体が大きかったため力士を勧められるも8歳だったため行司として入門。1910年1月初土俵。1911年5月序ノ口に付き、最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守義(義松とする資料も有)と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代の幕開けから1965年にスタートした部屋別総当たり制直後まで、数々の名勝負を裁いた。
柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 … 柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 - 1979年1月20日)は、新潟県古志郡(現在の長岡市)出身で山科部屋に所属した大相撲力士。本名は青柳 政一。身長174cm、体重86kg。関脇まで昇進したが、現役引退後は廃業してしまった。 最盛期でも86キログラムという軽量だったので、最初は新弟子検査にも通らなかったが、増量して合格、山科部屋から1917年1月場所に初土俵を踏んだ。昇進は順調で、1921年5月場所には新十両、1922年5月に入幕した。出足を利用しての吊り技が得意であった。新入幕の場所に7勝2敗1預と健闘し、幕内上位に進出。新小結となった1924年5月場所には、横綱西ノ海と預りの熱戦を含め7勝3敗1預の好成績をあげ、翌1925年1月場所には関脇に昇進した。
玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
錦華山 大五郎(きんかざん だいごろう、1900年8月26日… 錦華山 大五郎(きんかざん だいごろう、1900年8月26日 - 1967年10月21日)は、兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)出身の元大相撲力士。本名は濱野 平蔵(はまの へいぞう)。 1900年8月26日に兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)で生まれる。当初は小野川部屋(大坂相撲)に入門して幕下まで昇進したが、1927年の東西合併興行によって東京相撲の三段目に編入された。四股名を捩った「喧嘩山」の愛称のように上突っ張りが得意だったが四つに組まれると力を発揮できず、それが出世を遅くした。 1929年5月場所で新十両昇進、1931年5月場所で新入幕を果たした。この時は連合側に所属していたが、1932年1月場所の番付では出羽海方へ移動した。
大潮 清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 -… 大潮 清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 - 1979年3月29日)は、福岡県三潴郡(現在の大川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は石橋 清治郎(いしばし せいじろう)。現役時代の体格は身長184cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は東関脇。二枚鑑札で年寄・陸奥を襲名。 陸奥部屋に入門、1919年1月場所に初土俵を踏む。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新十両が1928年3月、新入幕は1932年1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に春秋園事件が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東前頭2枚目と幕内上位に進出することになった(事件前の番付は東前頭12枚目だった)。
錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 -… 錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 - 1960年3月1日)は、鹿児島県姶良郡福山町(現霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は豊平 才蔵。最高位は関脇(関西角力協会では大関をつとめた)だった。現役時代の体格は176cm、111kg。得意技は押し、寄り、掬い投げ。 井筒部屋に入門し、1917年5月場所に初土俵をふむ。1923年5月、新十両、1925年1月に新入幕を果たす。出足早く、攻めの相撲で鳴らした。1925年5月場所には、前頭12枚目で10勝1敗の好成績を挙げたが、優勝は同じ平幕でも上位の大蛇山酉之助に奪われた。そこから上昇気流に乗り、1927年10月には新小結、1928年には関脇に昇進した。
栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 -… 栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は室井 昇二。最高位は十両10枚目。 栃木県那須郡黒磯町(のち黒磯市、現那須塩原市)出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年「那須昇」の四股名で序ノ口に就く。1929年5月十両に昇進。この場所4勝7敗と負け越し、同地位の翌9月場所でも2勝9敗と負け越し、この場所で廃業した。
朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 … 朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 - 1937年12月1日)は、現在の大阪府東大阪市出身で朝日山部屋、出羽海部屋、再度朝日山部屋に所属した力士。本名は塚本 亀太郎。身長167cm、体重98kg。最高位は西前頭6枚目。 大阪相撲の朝日山部屋に入門、1919年5月に初土俵を踏む。朝潮を名乗り1923年5月に入幕を果たしたが、その場所前に起きた紛擾事件(龍神事件)で場所は中止、彼も一時廃業して東京に移った。東京では出羽海部屋に身を寄せ、1924年1月十両格付出で東京の土俵に上ったが、さすがに東京では朝潮の名は名乗れず朝千鳥と名乗った。すると、すぐに大阪への復帰が認められ、1924年1月の大阪相撲に、朝潮の名で幕内格で復帰した。
清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 -… 清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 - 1967年7月5日)は、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は長尾 米作(ながお よねさく)。最高位は東大関。 1900年1月13日に、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)で農家を営む家に長男として生まれる。隣家は江戸相撲の名大関だった柏戸利助の生家で、米作少年の父親も地方相撲の強豪だったことから、米作自身も宮相撲で活躍、1916年の夏に二十山の一行が巡業へやってきた際に父親に伴われて入門、1917年に上京して同年1月場所で初土俵を踏んだ。「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と宮相撲で大関を務めていた時に名乗っていた名前から付けた。
荒熊 谷五郎(あらくまたにごろう、1899年12月13日 -… 荒熊 谷五郎(あらくまたにごろう、1899年12月13日 - 1979年9月23日)は、現在の兵庫県加古川市出身で陣幕部屋に所属した力士。本名は前田 熊次(まえだ くまじ)。身長174cm、体重113kg。東京での最高位は東前頭6枚目(1928年1月場所)。得意手は右四つ、寄り。 1918年に大坂相撲の陣幕部屋に入門、1922年に入幕、1924年には大関に昇進し、大坂を代表する力士のひとりとなった。 1927年1月大坂相撲より加入の形で東京で新入幕となったが、大坂の大関が東京では前頭9枚目にランク付けられた。それでも、1927年5月場所には8勝2敗の好成績を挙げたり、1928年5月場所には同じ大坂出身の横綱・宮城山を破る金星を挙げた。
稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1… 稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1963年7月20日)は、熊本県熊本市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は古閑 勉。173cm、94kg。最高位は東前頭14枚目。 1919年1月初土俵、出世は速く、序ノ口から7場所目の1923年5月に十両昇進。土俵上の駆け引きに熟練するところがあり、柔軟な取り口はうまく、四つに組んでの投げにも無理がなく、寄り身も速かった。1926年5月に入幕するも、幕内では全く通用せず、対戦相手の為すがままに取られて11戦全敗を喫し十両に陥落。幕内在位はこの1場所に終わり、十両陥落後も勝ち越せず、1928年3月廃業。
開月 勘太郎(かいげつ かんたろう、1899年2月2日 - … 開月 勘太郎(かいげつ かんたろう、1899年2月2日 - 1966年7月16日)は、福岡県鞍手郡若宮町(現在の宮若市)出身で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は花田 勘太郎(はなだ かんたろう)。身長169cm、体重90kg。引退後は年寄として弟子を育てたこともあった。 1916年に当時の尾車部屋に入門する。その後、兄弟子の三杦磯善七に従って、所属部屋はしばしば変った(尾車→峰崎→片男浪→伊勢ノ海→花籠)。幕内在位時の所属部屋は伊勢ノ海部屋であったが、三杦磯の引退とともに興した花籠部屋に移籍し、そこで現役を終えた。 169cmという小柄で、体重も90kgという軽量で、右四つから食い下がる相撲を得意とした。
長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9… 長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9日 - 没年不明)は、岐阜県羽島市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は吉村 彦三郎。最高位は十両11枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、「長良川」の四股名で1918年5月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進、3勝6敗と負け越し、幕下に落ちる。1925年5月再十両となるも1勝4敗1預と負け越し再び幕下に落ちた。「金華山」と改名後の1927年1月、十両に復帰したが2場所連続で負け越し、四股名を「長良川」に戻した後の同年10月は3勝8敗と負け越し、1928年10月に廃業した。 長良川→金華山→長良川
晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 … 晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 - 1970年12月23日)は、現在の高知県土佐市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中西 弥太郎(なかにし やたろう)。176cm、86kg。最高位は東前頭12枚目。得意技は突っ張り、右四つ、下手投げ。 祖父や父の影響を受けて子供の時から土地相撲で活躍した。1915年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げていき、1923年1月場所で十両昇進。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の関取であった。十両昇進後は苦戦していたが、1928年5月場所に新入幕を果たした。しかし、幕内は2場所しか務められず、現役晩年は十両で相撲を取り続けた。
若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 … 若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 - 1974年1月28日)は、富山県富山市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松井 芳之助。171cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 1914年5月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1919年1月十両昇進。1924年5月入幕し、1925年1月場所初日には横綱常ノ花を破る殊勲の星を挙げた。1926年5月に廃業。廃業後は映画出演の傍ら素人相撲の指導者も務めた。
山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 … 山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 - 1972年5月27日)は、大阪府大阪市大淀区(現在の北区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は山田 善次郎(やまだ ぜんじろう)。最高位は東関脇。現役時代の体格は173cm、107kg。 魚屋の次男に生まれ、関西大学専門部に進んで学生相撲で活躍、大学を中退して同郷の横綱大錦卯一郎を慕って出羽海部屋に入門した。四股名の山錦は本名と大錦の名から一文字ずつ取ったものである。1917年5月場所に初土俵を踏む。その後1922年1月場所に十両に昇進して2場所で通過、1923年1月場所で新入幕を果たす。 1927年10月場所で自己最高位の関脇に昇進したのをはじめ常に幕内上位で活躍、前頭5枚目で迎えた1930年5月場所では3日目に新大関玉錦に初黒星をつけると10日目に横綱宮城山も破り11戦全勝で平幕優勝を果たし、同時に平幕全勝優勝の第1号となった。
9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月… 9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月21日-1969年11月16日)は元行司である。本名は櫻井福太郎。 房錦勝比古は実子。29代木村庄之助の養父。 高砂部屋から若松部屋に所属してた。 1910年春場所、式守福太郎という名前で初土俵。 1915年に木村福太郎に改名するが、1年で式守福太郎に戻す。 1922年に式守真之助、1936年に7代目式守錦太夫に改名し、1940年頃に幕内格。 この頃、房錦の父となり、房錦を育てた。 1956年夏場所で三役行司昇進。三役格筆頭までいった。 1961年名古屋場所、9代目式守与太夫を名乗るが、病気で休場が続き同年秋場所、廃業した。63歳だった。
真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 … 真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 - 1944年3月7日)は、宮城県栗原郡栗駒町(現栗原市)出身で尾車部屋、峰崎部屋、片男波部屋、伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は石川 三郎治。174cm、85kg。最高位は東前頭5枚目。 1916年5月尾車部屋より初土俵、その後兄弟子の三杦磯と行動をともにした。1920年5月十両昇進。1922年1月入幕し、この場所は優勝旗手を務めた。立合いの駆け引きがうまく、よく言えば「後の先」、悪く言えばペテン立ちの傾向があった。1927年10月に廃業してブラジルに渡り、料理店を経営。またブラジル相撲協会を立ち上げた。 陸奥ノ山→真砂石(1924年5月)
潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1… 潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1937年11月6日)は、青森県西津軽郡木造町(現・つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 義夫。現役時代の体格は身長170cm、体重90kg。最高位は西前頭11枚目(1930年1月場所・3月場所)。得意手は突っ張り、左四つ、寄り、足癖。 旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業し、小学校の代用教員をしていたという、角界では異色の経歴を持つ。遠縁に幕内力士立汐祐治郎・立汐唯五郎の兄弟がいた。3代高砂(元大関2代朝潮)に入門して1917年1月場所で初土俵。6年後の1923年5月場所に十両昇進、1928年3月場所で入幕した。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
外ヶ濱 弥太郎(そとがはま やたろう、1897年8月27日 … 外ヶ濱 弥太郎(そとがはま やたろう、1897年8月27日 - 1966年5月30日)は、現在の青森県弘前市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は斉藤 弥作。174cm、92kg。最高位は東前頭筆頭。引退後は3代峰崎から13代千賀ノ浦を襲名し、年寄として後進の指導につとめた。 1916年1月入間川部屋より初土俵、その後千賀ノ浦部屋に移り1924年5月新入幕、その後出羽海部屋に移籍した。幕内では金星を3つ獲得した。春秋園事件の際に一時脱退したが、その後復帰。1934年1月に引退し、3代峰崎、13代千賀ノ浦と改め、桟敷部長、理事、監事の要職を長年務め、1962年8月停年退職。 ※さらに朝響、大蛇山、琴ヶ浦、若太刀と引分が1つずつある。
大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1… 大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1936年6月8日)は、大阪府堺市出身で小野川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は中辻 佐太郎。173cm、94kg。最高位は西前頭11枚目(ただし番付削除の為、番付上の最高位は東前頭12枚目) 大坂相撲の小野川部屋に入門、1913年5月場所初土俵。1917年6月新十両、1918年1月新入幕。1月場所前に入営し、2年間の軍隊生活を経て1920年1月に断髪姿で帰参。1923年5月に大関に昇進した。しかし、その時に起きた紛擾事件(龍神事件)に関与して一時脱退、その後一度十両格で復帰するも再び脱退し、そのまま東西合併を迎えた。 その後東京の出羽海部屋にうつり、1928年1月十両格付出で東京の初土俵という形で角界に復帰した。
乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 -… 乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。浦風部屋所属。本名は宮城 定吉。最高位は十両6枚目。 秋田県秋田市出身。浦風部屋に入門し、1914年1月、初土俵を踏む。1925年1月、「羽後錦」の四股名で十両に昇進したが、2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。「乙女川」に改名後の1928年1月再十両。同年5月、10月と5勝6敗に終わり、再び幕下に落ち、1929年3月に廃業した。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。
一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日… 一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日 - 1962年9月9日)は、北海道亀田郡七飯町出身で井筒部屋に所属した力士。本名は大塚 善作(旧姓佐々木、高橋)。175cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。引退後は7代九重を一時期襲名し、後進の指導につとめた。 1916年1月初土俵、1922年5月十両昇進。1924年5月入幕した。オートバイの運転が得意だった。1928年10月を以て引退、九重を襲名する。1930年10月株の持ち主である同じ部屋の大関豊国が引退したために、廃業した。 ※預りが白岩に1つ、引分が綾鬼に1つ、若常陸に2つある。 大江嶽→一ノ濵(1920年5月)
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29… 太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。最高位は東大関。 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしてくれたため、友綱部屋への入門を許可された。
朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1… 朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた。 同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。 1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。
桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897… 桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年)1月2日 - 平成5年(1993年)8月24日)は、大正時代の大相撲力士。春日山部屋→立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。 千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身。高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名。
高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 … 高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 - 没年不明)は、和歌山県和歌山市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は宮尾 三郎。176cm、94kg。最高位は西前頭6枚目。得意技は右四つ、寄り、投げ。 早稲田実業高校に在学中、自ら角界に飛び込んだインテリ力士。 1912年5月初土俵、1919年5月十両昇進。1922年1月入幕を果たす。病気療養中に家族とともに関東大震災に遭遇し、本人以外の家族は全員死亡したため、悲嘆に暮れてしまい、1924年1月場所前に27歳の若さで廃業した。被災当時、義両親、二人の義姉、妻と二人の子供がいたが、妻は翌月に第三子の出産を控えていたという。 廃業後は家族の冥福を祈るため、高野山で出家得度を受け、満州にいる兄の元に身を寄せ、その後、四国巡礼のお遍路さんになったというが、その後の消息は不明。
泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 -… 泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 - 1937年12月17日)は、現在の大阪府高石市出身で井筒部屋、猪名川部屋、再度井筒部屋に所属した力士。本名は山条 藤太郎(やまじょう とうたろう)。176cm、105kg。最高位は西前頭7枚目。得意手は右四つ、寄り、押し。 1912年1月場所に井筒部屋より初土俵を踏むが、番付につく前に、すぐに大坂の猪名川部屋に移籍する。その後、1916年5月場所に東京に復帰し、幕下付出で再登場した。1922年1月場所に十両昇進。1926年5月場所に新入幕、上位にはあがれず1928年1月場所に廃業した。
吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 … 吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 - 1956年2月6日)は、富山県下新川郡(現・黒部市)出身で春日山部屋、立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大上戸 要次郎。最高位は西前頭筆頭(1932年2月場所、3月場所)。現役時代の体格は175cm、92kg。得意手は左四つ、押し、のど輪、うっちゃり。元前頭清惠波の岳父であり養父でもある。 細身ながら筋骨隆々とした体格で、力も腰も強かった。地味ながら堅実な取り口で、左四つ得意だが腕職を活かしたのど輪押しも強く、また土俵際でのうっちゃりもあった。特にうっちゃりに関しては左四つからの独特の型であり、これが双葉山に伝授されたという。横綱常ノ花との相性が良く、初顔合わせで押し倒して破ったのをはじめ3勝(いずれも金星)を挙げている。
剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 -… 剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg。 富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した。その風格について「古武士」と評されたこともある。 右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった。 1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。
桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - … 桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - 1955年1月7日 )は、青森県東津軽郡野内村(現在の青森市)出身で入間川部屋に所属した元大相撲力士。本名は根井 蔵次郎。最高位は東十両5枚目。 1916年入間川部屋に入門、同年5月場所「中ノ汐」の四股名で初土俵を踏む。翌1917年1月場所から「桂川」に改名した。1921年1月場所新十両。この場所は3勝2敗と勝ち越した。場所後の台湾巡業に向かう途中、左目が急に痛み出し、急遽治療のため日本に戻った。診察の結果原因は不明だった。その後は治療に専念したが5月場所は全休。病状が悪化しついに失明した。失明により相撲が取れなくなったため、この場所限りで廃業した。
紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - … 紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - 1967年12月9日)は、埼玉県北埼玉郡(現在の鴻巣市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は岡戸 孝市(おかど こういち)。最高位は小結。身長171cm、体重90kg。引退後は年寄として後進の指導につとめた。 大相撲常設館落成の1909年6月場所に友綱部屋から初土俵を踏む。祖父の兄弟は杣ヶ花渕右エ門。 若い頃はなかなか出世せず、神経痛に苦しんだ時期にはフグで自殺を図り自ら捌いて食したが、死なないどころか逆に毒が薬になったのか神経痛が治り、それ以降地力を増して1914年5月新十両、1916年5月新入幕を果たし1920年1月と1921年5月は小結を務めた。
宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ、1895年2月27日 -… 宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ、1895年2月27日 - 1943年11月19日)は、岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市)山目町出身で出羽ノ海部屋、高田川部屋(大坂)に所属した大相撲力士。第29代横綱。本名は佐藤 福松(さとう ふくまつ)。大阪相撲最後の横綱でもある。 1895年2月27日に岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市)山目町五代で生まれる。幼少期から大きな体格で、馬車が溝に落ちて動かなくなると、やすやすと持ち上げて父を助けたという。家業だった乗合馬車と農業を手伝いながら村相撲で活躍していたところ、1909年に常陸山谷右エ門の一行が岩手へ巡業に来た際に力士に憧れ、志願して入門した。 同年6月場所において、故郷・岩手県に因んだ「岩手川」の四股名で初土俵を踏んだ。
伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - … 伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - 1930年1月16日)は、現在の滋賀県近江八幡市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は坂本 末吉。8代藤島。189cm、116kg。最高位は西前頭11枚目。 長身で骨格も発達した巨人型の体躯で、上背を利しての突っ張りは強烈であった。1918年5月幕下付出で初土俵、1921年1月十両昇進。1922年1月新入幕したが、病気の為に十両と幕内を往復。1923年1月場所前に起きた三河島事件では横綱・大関を除く全力士が協会と対立したが、ひとり師匠に反旗を翻すのを拒んだという意志強固な性格の持ち主であった。1926年5月に引退し藤島を襲名したが、1929年1月に廃業した。
逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - … 逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - 1947年5月5日)は、鹿児島県姶良郡蒲生町西浦出身で井筒部屋に所属した力士。本名は川原林 盛吉。173cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。 1911年2月初土俵。突き、押しを主体とする相撲で序ノ口から7場所目の1914年1月に十両昇進。11場所目の1916年1月入幕した。前頭筆頭まで躍進したが怪我をしてからは振るわず、1922年1月十両に陥落し、1922年5月廃業。
光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 -… 光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 - 1941年11月24日)は、秋田県由利郡子吉村(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は小番 貞藏。身長178cm、体重94kg。最高位は西小結(1926年1月場所)。得意技は突っ張り、押し、寄り。引退後は年寄待乳山として後進の指導につとめた。四股名の命名者は須藤善一郎。 横綱大砲の待乳山部屋に入門。1914年1月場所に初土俵をふんだ。その後、師匠の死のために出羽海部屋に移籍した。1919年1月に新十両、1922年1月場所に入幕した。突き押し得意であったが、幕内中堅力士として腰を据えていた。1925年が最盛期で、1月場所は8勝2敗、5月場所には大関太刀光を引き落としに破る殊勲の星も含めて7勝3敗1分と連続して勝ち越し、1926年1月場所に小結に昇進した。
太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月2… 太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月25日 - 1964年8月4日)は、現在の島根県安来市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した力士。本名は野津 貞助(旧姓草間)。8代木村瀬平。174cm、88kg。最高位は西前頭3枚目。 1913年1月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1922年1月新入幕。突っ張りと左四つからの寄りを武器に幕内を5場所務め、1923年1月場所に最高位である西前頭3枚目まで番付を上げるが、その後病気がちで休場も多く、最後は十両であった。1925年1月に引退して8代木村瀬平を襲名した。1947年11月廃業。 1937年2月、師匠の太刀山の還暦土俵入りでは露払いを務めた。
射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日… 射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日 - 1956年2月3日)は、富山県高岡市出身で稲川部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松崎 健次(まつざき けんじ、旧姓:麻井)。最高位は小結。元幕内鯱ノ里の養父。現役時代の体格は身長173cm、体重90kg。得意手は上突っ張り、右四つ。 1911年6月初土俵。小兵だが、動きの速さと回転の速い上突っ張りに加え、足取りの奇襲や引き技を見せた。1920年1月新入幕。しばらく下位に低迷したが、1924年5月場所6日目には当時最強の呼び声高い横綱栃木山を突っ張りから足取りを繰り出したのち突き出しで破り金星を獲得、喜びの余りに我を忘れて二字口へ躍り出た。
楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - … 楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - 1973年7月16日)は、秋田県仙北郡南外村(現在の大仙市)出身で湊川部屋(入門時は追手風部屋)に所属した力士。本名は佐藤 政吉(さとう まさきち)。171cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は右四つ、押し。 入門する前は盛岡高等農林学校で相撲選手として活躍していたが、郷里の地主と父に勧められて追手風部屋へ入門、1914年1月場所で初土俵を踏む。1916年に湊川部屋独立に際して移籍、1918年5月場所十両昇進。1923年1月場所に入幕、勝率4割程度ながら筆頭まで進んだ。前捌きのうまさが知られていた。1927年の師匠の死去により、部屋の後継候補にも目されたがかなわず、1927年10月場所限りで廃業した。
浪泉 藤市(なみいずみ とういち、1893年12月10日 -… 浪泉 藤市(なみいずみ とういち、1893年12月10日 - 1965年3月25日 )は、青森県南津軽郡大杉村(現青森市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は成田 藤一。最高位は西十両3枚目。 浪ノ音の振分部屋に入門。翌1911年2月場所で「浪泉」の四股名で初土俵を踏む。1914年5月場所十両に昇進した。この場所では0勝4敗1預の成績に終わり、幕下に落ちた。1915年6月場所で再十両となったがここでも2勝3敗と負け越し、再び幕下に落ちた。投げに拘る相撲から一気に寄るという取り口に変えてから3度目の十両昇進となった1916年5月場所で3勝1敗1預と初めて勝ち越した。翌場所も3勝2敗と勝ち越し1917年5月場所自己最高位となる西十両3枚目まで躍進した。
清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日… 清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身で楯山部屋に所属した大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。5代伊勢ヶ濱。最高位は東関脇。 1893年11月1日に秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。 1917年5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ・下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。
鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日… 鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日 - 1939年1月16日)は、奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)出身で荒磯部屋(当初は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は西本 増太郎。身長178cm、体重105kg。最高位は西小結。得意手は右四つ、吊り、泉川、突っ張り。 1911年(明治44年)2月場所に「大鶴」の四股名で初土俵を踏んだが病に罹り帰郷、間もなくして「若ノ川」の四股名で大坂相撲に出ていた。1912年(明治45年)5月場所で東京相撲に復帰し三段目から再出発、一旦序二段に陥落した場所もあったが、三段目に復帰し、幕下へと番付を上げていき、1918年(大正7年)1月場所で新十両。
駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 … 駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 - 1959年2月24日)は、現在の宮城県大崎市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は高橋 徳治郎。10代大嶽。180cm、96kg。最高位は東前頭2枚目。 旧制古川中学(現・宮城県古川高等学校)を中退し、同郷の大関駒ヶ嶽國力を頼って入門。所属は井筒部屋であったが、駒ヶ嶽の内弟子であった。1911年2月初土俵、1915年1月十両昇進。1917年1月新入幕した。四つに組むと勝ちみに乏しい相撲振りであったが、上背を利しての突っ張り・叩き込み・引き落としには威力があった。1919年5月場所には横綱鳳を外掛けから浴びせ倒して現役時代唯一の金星を獲得している。
千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 -… 千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 - 1933年1月16日)は、千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は玉ノ井 俊治(たまのい としじ)(旧姓:宍倉)。最高位は東大関。 1893年4月10日に千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)で生まれる。子供の頃から相撲好きで、地元で開かれていた宮相撲に参加しては大関を張って活躍していたため、1910年に同郷の二十山を頼って二十山部屋へ入門、1911年6月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。宮相撲で大関を張っていた実力は伊達ではなく、幕下時代の1913年5月場所では、それまで無敗の快進撃を続けていた栃木山守也に初黒星を付けて話題を集めた。