大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1… 大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1964年4月16日)は、福岡県山門郡大和町(現在の柳川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は塩塚 又吉。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、90kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、上手投げ、突っ張り。 1911年(明治44年)6月場所、序ノ口で初土俵を踏んだ。5年後の1916年(大正5年)5月場所に十両昇進、その翌年、1917年(大正6年)5月場所には入幕を果たした。この場所、初日から勝ち続けて9連勝、千秋楽こそ預りとなったものの9勝1預無敗の堂々たる成績で優勝旗手となった(この場所、優勝は同成績の大関栃木山)。新入幕力士の無敗は1914年(大正3年)5月場所の前頭14枚目両國以来の快挙で、その後も1945年(昭和20年)11月場所の前頭10枚目千代ノ山を最後に出ていない。
小牛田山 金太郎(こごたやま きんたろう、1893年1月26… 小牛田山 金太郎(こごたやま きんたろう、1893年1月26日 - 1964年2月15日)は、宮城県遠田郡小牛田町(現在の美里町)出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は佐々木 金太郎。165cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。 1913年1月初土俵、1918年5月十両昇進。1919年5月新入幕し、1923年5月に廃業した。小兵ながら稽古熱心で、渡し込みや足取り等の奇手を多用し、10年で前頭2枚目まで進んだ。親思いの力士で、廃業後は両親と共に農業に従事した。
三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 … 三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 - 1951年4月22日)は、北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)出身で伊勢ノ海部屋(入門時は尾車部屋)に所属した大相撲力士。本名は小西 善七(こにし ぜんしち)。最高位は東関脇。明治時代以降初の北海道出身関取。 1892年11月26日に北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)で松前藩家臣、小西弥蔵の7人目の男児であることから「善七」と名付けられた。1901年に瀬棚に住んでいた兄に引き取られて運搬業を手伝っていたことで力が付き、米2俵を軽々持ち上げるほどの怪力で周囲を驚かせていたところ、地元の小料理屋「高砂」を経営していた相撲通の主人に見出され、力士を勧められた。
8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月… 8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月6日 - ? )は、大相撲の元三役格行司。三役格としての在位期間は1939年1月~1959年11月。本名、伊藤喜三郎。 東京生まれで本所の銭湯要湯の三男。伊勢ノ海部屋→錦島部屋所属。式守要人で初土俵。1902年1月番付行司欄に載る。のち式守喜三郎と改める。1913年春場所から1915年春場所まで兵役のためか番付から消える。1915年時点では青白房(十両格)であった。1918年夏場所2日目に本足袋(幕内格)に昇格。1919年春場所、式守要人に改名。1929年春場所、式守喜三郎と改める。1936年5月式守与太夫を襲名。 1939年1月三役格に昇進。
16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1… 16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1948年〈昭和23年〉12月3日)は、大相撲の立行司。本名は刀根亀吉、山形県山形市出身。 伊勢ノ海部屋所属、のち出羽海部屋。9代式守伊之助の弟子(のち養子)。わずか6歳で初土俵。松翁20代木村庄之助、21代木村庄之助の弟弟子。 出世は兄弟子の21代庄之助よりも早かったが、行司引退も45歳と早かった。その後、年寄・立田川を襲名して理事まで昇進した。1948年胃癌のため56歳で死去。 22代木村庄之助著『二十二代庄之助一代記』によれば、頭脳明晰で事務能力が素晴らしく、話のわかる人物だったが、太っていて行司にはやや不向きであったようである。
綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日… 綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日 - 1963年2月21日)は、青森県南津軽郡尾上町(現在の平川市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士。本名は斎藤 由之丞(さいとう よしのじょう)。身長173cm、体重90kg。最高位は張出前頭筆頭格。得意手は右四つ、吊り、投げ。 1913年1月に追手風部屋に入門して、同年1月場所に前相撲で初土俵を踏んだ。1916年1月場所には部屋付き親方であった湊川親方(関脇・綾浪源逸)の独立に伴い湊川部屋に移籍した。1919年1月場所に新十両、1922年1月場所で新入幕を果たした。右四つからの吊りや投げを得意とした相撲巧者だったが、取り口は地味だった。
大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - … 大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - 1938年1月22日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身で出羽海部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は天内 萬助(あまない まんすけ)。最高位は東大関。 1892年4月1日に青森県で生まれる。身体は小さいが無類の相撲好きで、1910年の夏に巡業が弘前へ来た際に土俵上にいた綾川五郎次の颯爽たる姿に憧れ、角界入りを決意した。そして1911年に周囲の忠告・制止を振り切って上京し若松部屋で入門を志願したが、あまりの小さい身体に一度は唖然とされるも、熱心さに根負けした若松が「暫くは置いておこう」と入門を許可、1912年1月場所で初土俵を踏んだ。
御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - … 御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - 1978年8月30日)は、茨城県水戸市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は田中 正夫。第19代横綱・常陸山谷右エ門の従弟(甥とも伝わる)。170cm、92kg。最高位は東前頭6枚目。 1910年6月初土俵、1917年5月十両昇進。1918年5月新入幕したが、この場所途中休場してからは成績不振に陥り、一度は幕下まで転落した。なお、御西山の四股名は常陸山谷右エ門が若い時分に名乗っていたものである。 1923年1月に廃業し剣道家に転向した。
両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 … 両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、秋田県仙北郡外小友村(旧:秋田県仙北郡南外村、現:秋田県大仙市)出身の大相撲力士。本名は伊藤 勇治郎(いとう ゆうじろう)(旧姓:西村)。最高位は東関脇。 まだ肌寒い1892年3月18日に秋田県仙北郡で生まれた。出身地である秋田県に入間川清藏一行が巡業に訪れた際に見出されてそのまま入門、両国国技館が開館した1909年6月場所で初土俵を踏んだ。小兵だが色白で均整のとれた筋肉質な体格は人気があり、さらに足腰の強さから稽古場では大錦卯一郎が相手でも勝てないほどだったという。この恵まれた体質と土俵度胸を生かして順調に出世すると、新入幕の1914年5月場所ではいきなり9勝1休の好成績を挙げ、幕内最高優勝を果たした。
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1… 栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 1892年2月5日、栃木県下都賀郡(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)の農家に長男として生まれる。遅くに誕生した男子だったことで「家を守り立てて欲しい」との願いから“守也”と名付けられた。幼少期から家業を手伝いつつ漢学塾に通いながら、自宅近所にあった岩船山の石を人力トロッコで渡良瀬川へ運ぶ仕事に従事し、強健な体になる。17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。
上州山 一(じょうしゅうざん はじめ、1892年(明治25年… 上州山 一(じょうしゅうざん はじめ、1892年(明治25年) - 没年不詳)は、群馬県前橋市若宮町出身の大相撲力士。本名は松本一。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 初め東京相撲の出羽海部屋に入門し碇野 一と名乗って1911年(明治44年)6月序ノ口についた。1914年(大正3年)1月場所前に廃業。 大阪相撲の藤嶋部屋に転じ上州山 常五郎で幕下に付け出された。1917年(大正6年)1月入幕、5月下の名を一に改める。徐々に力をつけ1920年(大正9年)5月小結、1922年(大正11年)1月関脇。この場所8勝2敗で5月には新大関となり9勝1敗で優勝を果たした。168cm90kgの小兵ながら組んで良し離れて良しの相撲巧者で知られた。
大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年… 大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年)11月25日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第26代横綱。本名は細川 卯一郎(ほそかわ ういちろう)。 1891年(明治24年)11月25日に大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)で宮師の長男として生まれる。当時の力士としては珍しく旧制天王寺中学校卒業で、非常に頭が良かった。さらに運動神経抜群だったことから陸軍幼年学校を受験したが、体重超過で不合格となってしまった。ある日、常陸山谷右エ門に対して入門を願う手紙をローマ字で書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感激し、出羽海部屋へ入門、1910年(明治43年)1月場所で初土俵を踏む。
大ノ高 純市(おおのたか じゅんいち、1891年8月10日 … 大ノ高 純市(おおのたか じゅんいち、1891年8月10日 - 1948年4月30日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身で高砂部屋、振分部屋に所属した力士。本名は中村 佐助。168cm、88kg。最高位は西前頭10枚目。 郷里の先輩浪ノ音健藏を頼って入門し、浪ノ音が振分部屋するとその傘下に入った。1911年6月場所に初土俵、1916年5月場所十両昇進。1917年5月場所新入幕。右四つから押して食い下がるのを得意とした。幕内に都合7場所在位したが、体力不足のため勝ち越すことが出来ず、1921年1月場所で十両に陥落し、その後も不振が続いた。1921年5月場所のみ岩木山と改名。四股名を大ノ高に戻した1922年1月場所5戦全敗となったのを最後に廃業した。
石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 -… 石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 - 1943年7月12日)は、現在の東京都千代田区出身で雷部屋に所属した力士。本名は石濱 曻之助(いしはま しょうのすけ)。168cm、81kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。俳優の石濱朗は甥にあたる。 1906年5月場所に初土俵。横綱梅ヶ谷の薫陶を受け、1910年6月場所に19歳で十両昇進。1911年6月場所に20歳で入幕した。小兵で非力ながら前さばきがうまく、出足早の速攻と左四つからの上手投げを武器とした。1915年6月場所には東張出前頭17枚目で8勝2敗の成績を収めるなど、前頭筆頭まで躍進した。1918年5月場所に27歳で廃業し、相場師に転じた。
大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 -… 大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 - 1933年5月15日)は、秋田県能代市出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は宮腰 粂藏(のちに錦島姓)。最高位は西関脇。現役時代の体格は175cm、113kg。得意手は左四つ、寄り。 明治時代に幕内力士だった7代錦島に入門し、1905年(明治38年)1月場所に序ノ口から初土俵を踏む。実力は高く18歳2か月で迎えた1909年(明治42年)6月場所に「能代潟」の四股名で十両昇進、翌1910年(明治43年)6月場所、19歳2か月で入幕、師匠の現役時代の四股名だった「大蛇潟」に改めた。当時は年2場所時代で、彼に近いスピードでの若年昇進といえばのちの第33代横綱武藏山が挙がるが、大蛇潟の入幕は武藏山よりも3か月早いものだった。
西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11… 西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11月2日 - 1933年7月28日)は、鹿児島県西囎唹郡西国分村(現・鹿児島県霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。第30代横綱。本名は松山 伊勢助(まつやま いせすけ)。 1890年に鹿児島県で生まれる。子供の時から剛力で鳴り響いたため、二代目西ノ海嘉治郎に見出されたことから上京、鹿児島県出身の力士が多く所属する井筒部屋に入門した。1910年1月場所で源氏山大五郎と名乗って初土俵を踏むと順調に昇進、序二段、三段目、幕下で5戦全勝を記録し、十両2場所目の1915年5月場所でも6勝無敗1分を記録。1916年1月場所に新入幕を果たすとこの場所は9勝1敗の好成績で、1918年5月場所で関脇に昇進する。
岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。
一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 -… 一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 - 1945年12月14日)は、秋田県北秋田郡森吉町(現・北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は久住 政五郎。174cm、92kg。最高位は東前頭4枚目。 1909年1月初土俵、入門時は仙台地方の草相撲の大関で、上京して横綱常陸山の門弟となる。地道に昇進して1916年1月十両昇進。2場所連続で勝ち越して1917年1月入幕。右四つからの上手投げを得意技とする相撲巧者で、堅実な取り口には定評があった。1918年5月場所には自己最高位の東前頭4枚目まで進んだ。しかし以降は振るわず、1920年5月場所十両に陥落し、翌1921年1月場所で廃業した。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1… 白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1971年11月17日)は、宮城県桃生郡矢本町(現・同県東松島市)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。本名は奥田 亮二。身長173cm、体重90kg。現役引退後は、年寄として後進の指導につとめた。 19歳の時に尾車部屋へ入門し、1910年1月場所で初土俵を踏んだ。「白岩」の四股名は、故郷に大きな白い岩があったことに因む。 昇進は順調で、1915年6月場所で新十両に昇進した。その直後、師匠が亡くなり、所属力士らは峰崎部屋に預けられる。その間、1919年1月場所で新入幕した。 もろはずにかかっての押しを得意としたが、地味な取り口であった。入幕後十両に落ちることもなく、39歳まで現役で取っていたこともあり、元々の老け顔もあって周囲からは「白岩老」と呼ばれることもしばしばだった。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日… 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 - 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (横綱)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。
瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2… 瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2月11日 - 没年不詳)は、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身の大相撲力士。本名は安永 要藏。身長176cm、体重105kg。大阪相撲では関脇を務めたが東西合併で十両に編入されその後は入幕できなかった。 当初は東京相撲の雷(元初代梅ヶ谷)の門に入り1910年(明治43年)6月序ノ口についた。その後大阪相撲に移り藤嶋部屋から陣幕部屋の所属となった。1919年(大正8年)1月新入幕、その場所8勝2預で優勝を飾った。1920年(大正9年)1月には関脇に進むが大きく負け越しその後は平幕に低迷した。1923年(大正12年)1月関脇に返り咲き勝ち越し。
稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日… 稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日 - 1978年5月7日)は、現在の千葉県市川市河原出身で濱風部屋、千田川(大阪相撲)に所属した力士。本名は雪吹 光之助(旧姓:及川)。身長173cm、体重94kg。東京相撲での最高位は東前頭14枚目(1916年5月場所)。 1911年2月に初土俵を踏み、1915年6月十両昇進。1916年5月に入幕したが1勝8敗1預の大負けだった。翌場所(1917年1月場所)は十両に落ち、2場所とも十両にあったが不振が続いた。場所後の巡業では出羽海部屋一行に加わったが、同年12月巡業先の埼玉県大宮で酒の席で暴行事件を起こした。一行の組長の入間川(元小結両國のち6代出羽海)は稲葉嶽をその場で破門を宣言した。
加勝山 鹿治(かしょうざん しかじ、1889年(明治22年)… 加勝山 鹿治(かしょうざん しかじ、1889年(明治22年)10月9日 - 1914年(大正3年)9月20日)は、高知県安芸市出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は寺尾 鹿治(てらお しかじ)。最高位は東前頭14枚目。 1889年10月9日に高知県安芸市で生まれる。旧制安芸中学2年生のとき、相撲が強かったことで高知市の商家に引き取られて相撲に専念し、ここで腕を上げて1907年5月場所で初土俵を踏み、1912年1月場所で新十両昇進、1913年5月場所では十両優勝を果たした。小柄な力士の多かった当時としても体格は恵まれていなかったが、相撲巧者で、いつも前髪がすり切れているほどの稽古熱心が実って1914年1月場所で新入幕を果たしたが、幕内では在位2場所で各場所1勝ずつしか挙げられず、巡業中だった同年9月20日に、新潟県南蒲原郡三条町(現:三条市)にて心臓脚気により死去、24歳没。
緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1… 緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1928年10月14日)は、現在の千葉県市原市出身で二十山部屋に所属した元力士。本名は鈴木 勇作。167cm、109kg。最高位は東前頭17枚目。 1903年1月13歳で入門。1905年1月場所序ノ口に付き、最初「槙ノ嶌」を名乗って着実に出世した。1910年1月場所新十両昇進、一時番付に「牧ノ嶌」と書かれたこともあった。1913年1月場所幕下に陥落したが、1914年1月場所に十両に復帰した。1915年1月場所、再び幕下に陥落していたが、この場所から四股名を「緋縅」と改めて翌1915年6月場所で再び十両に復帰し、そこで4勝1敗の好成績を残して1916年1月場所で新入幕を果たした。
釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月… 釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月15日 - 1966年7月18日)は、山形県山形市釈迦堂出身で山科部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は川鰭 庄太郎(旧姓富塚)。8代山響。174cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 1906年1月初土俵。当初は最上山を名乗ったが、出身地の釈迦堂から釋迦ヶ嶽と改名した。目立つ力士ではなかったが力が強かった。1913年1月十両昇進。1914年5月入幕し、平幕を上下した。1917年1月場所千秋楽に鳳から小手投げで金星を獲得。現役時代に元十両・嶽ノ越の山響の未亡人と結婚。1922年1月十両に陥落し、ここで負け越したのを最後に引退し、山響を襲名。
21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日… 浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日 - 1945年10月30日)は、新潟県三島郡(現在の小千谷市)出身で浦風部屋に所属した大相撲力士。本名は滑川 丑五郎(なめりかわ うしごろう)、旧姓は丸山。身長171cm、体重101kg。得意手は左四つ、吊り。最高位は関脇。 新潟県出身。板前修業に上京するも県人の財閥より体格より勧められ、相撲界へ浦風部屋へ入門。1906年5月序ノ口。1911年2月十両に昇進、1913年1月新入幕。6勝2敗1分1預で優勝旗手となる。均整の取れた体格で、吊りをはじめとする派手な取り口は「浦さま」と呼ばれた美貌とあわせ、女性に人気が有った。大物食いとしても鳴らして花形力士。
大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 … 大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 - 1963年8月7日)は、現在の宮城県石巻市出身で尾車部屋、峰崎部屋に所属した力士。本名は阿部 吉太郎(あべ きちたろう)。4代尾車。176cm、98kg。最高位は東関脇。 石巻中学校1年で同郷の尾車から勧誘され、「将来は師名を継がせる」という証文を貰って入門した。1906年5月序ノ口、1911年6月十両昇進。1912年5月新入幕、1916年5月新横綱西ノ海を破り8勝1敗1預で、翌1917年1月関脇昇進。地味な風貌であったが大錦を破ったり横綱栃木山の預かりの相撲を取るなど大物食いとして上位で活躍。1922年5月に引退し、尾車を襲名。勝負検査役や木戸部長を務め、1961年1月71歳で定年退職。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5… 土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5日 - 1960年3月26日)は、高知県香美郡赤岡町(現在の香南市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は永森 役太郎(ながもり やくたろう、旧姓は岡本)。身長164cm、体重94kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ、波離間投げ。最高位は前頭筆頭。 1907年(明治40年)1月場所に幕下付出で初土俵を踏むと、1908年(明治41年)5月場所に新十両、1910年(明治43年)1月場所に新入幕した。黒髪豊か、大銀杏が似合う好男子で、二字口(徳俵)いっぱいまで下がって仕切り、相手の懐に飛び込んで攻め立てる取り口だった。また技を多く持ち、奇手で相手を苦しめた。
錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - … 錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - 1929年6月8日)は、現在の香川県坂出市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は野口 慶祐。174cm、112kg。最高位は東前頭11枚目。 角界入門以前には上京して砂糖屋で働いていたが、主人の紹介で井筒部屋に入門。1916年1月幕下付出で初土俵、1918年1月十両昇進、5月に十両優勝し、1919年1月に新入幕を果たした。体格にも恵まれ、上突っ張りを得意として、出足も速く、腰も良いため、早くから将来の三役と期待されていた。しかし新入幕場所の直前に腸チフスに罹り、連続休場し十両に陥落。結局幕内では1日も出場できなかった。その後、2度目の十両優勝を果たすも再入幕はならず、1922年1月廃業した。
達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 … 達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 - 1945年11月10日)は、現在の山形県長井市出身で千賀ノ浦部屋・芝田山部屋・出羽海部屋に所属した力士。本名は梅津 源之助。5代君ヶ濱。176cm、94kg。最高位は東前頭2枚目。 1904年5月、元大関大達の千賀ノ浦部屋から梅川の四股名で初土俵。間もなく師匠が亡くなって芝田山部屋(当時の師匠は3代芝田山(最高位幕下の松ヶ枝))に移籍。入幕を目前にしてこれまた師匠が亡くなったため出羽海部屋に移籍。1915年1月新入幕。立ち合いからの突っ張り一本の相撲で幕内を通算13場所務めたが、この間、1917年5月に達ノ矢と改名している。1921年5月引退し、その後は自身との稽古中の負傷が元で死亡した元小結大ノ川の年寄名跡である君ヶ濱を5代目として襲名し、その遺族の扶養を引き受けた。
藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日… 藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日 - 1966年2月22日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は飯田 繁治。14代春日山。174cm、94kg。最高位は西関脇。 1908年1月初土俵、1913年5月十両昇進。1917年5月入幕し、前頭2枚目で迎えた1919年春場所において横綱栃木山に勝利、生涯唯一の金星を獲得した。この場所は5勝5敗の成績だったが、同年5月に関脇昇進。しかし10戦全敗に終わってこの関脇が現役唯一の三役経験となり、以降は三役に戻る事無く前頭の上位と下位を往来している。 1925年1月に引退し14代春日山を襲名。しかしこの頃辺りから伊勢ノ海一門の勢いに翳りが見られ、1946年に伊勢ノ海一門が消滅すると14代春日山は同年11月に部屋を閉じて弟子を全て立浪部屋に譲渡移籍。
立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - … 立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - 1972年11月7日)は、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 祐治郎。身長170cm、体重86kg。最高位は西前頭13枚目。立汐唯五郎は実弟。 浪ノ音健藏に見出され入門。1906年5月に初土俵を踏み、1910年6月十両昇進した。1911年10月、岐阜県内での巡業中に八甲山純司が締めていた化粧廻しを見て「そんな化粧廻しはみっともないぜ」と言ったのに対し、八甲山は「お前に言われる筋合いはない」と反論されたのに腹を立て、取組で土俵に上がった八甲山に剃刀を手にした立汐は土俵に乱入してその場で八甲山のマゲをつかんで切り落とし、さらに右腕に長さ10cmの切り傷を負わせるトラブルを起こした。
若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - … 若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - 1941年11月12日)は、現在の栃木県栃木市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は北条 義(旧姓岡本)。4代富士ヶ根。167cm、96kg。最高位は西小結。得意技は押し、右四つ、寄り。 1905年5月場所初土俵、その後一時病気で帰京し、大坂相撲の朝日山部屋で修業した後再び東上。広い肩幅、重い腰を利した右差しからの寄りで、1913年1月場所に新入幕、「若湊」と改名した後の1919年1月新鋭常ノ花を破るなど5勝5敗、翌1919年5月場所に小結昇進。1922年1月場所限りで引退し、4代富士ヶ根を襲名。弟子は冨士ヶ嶽孝一郎を育てた。協会内では理事を務め、金庫番となった。
寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日… 寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日 - 1948年4月5日)は、富山県礪波郡(現小矢部市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は土谷 爲治郎(つちや ためじろう)。最高位は西前頭9枚目(1916年5月場所)。現役時代の体格は166cm、90kg。得意手は突っ張り、押し。 四股名の由来は師匠の友綱が「体は小さいが、寒の玉子のようにじっと辛抱すれば必ず出世する」という願いを込めて名付けたものだという。その願い通り、初土俵からちょうど9年後に当たる1912年1月場所に見事入幕を果たした。幕内での活躍は少なく、幕内で勝ち越した場所はなく、十両との往復が続いたが、愛嬌のある人気力士だった。
敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - … 敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - 1957年1月29日)は、現在の富山県富山市出身で友綱部屋に所属した力士。本名は持田 猪之助。9代熊ヶ谷を襲名し、熊ヶ谷部屋を経営した。身長170cm、体重96kg。最高位は東前頭4枚目。 1907年5月新序、1912年1月十両昇進。1916年5月入幕し7勝3敗の成績。右四つからの寄りや櫓投げを得意とし、1917年5月最高位の前頭4枚目、新大関栃木山戦で土俵際でうっちゃりを見せ、40分の協議ののち預かりとなる相撲を取り3勝6敗1預。その後は後援会の幹事の頼みで会員の寡婦と握手をさせられた事が刑事問題となり、不振となった。1921年1月幕下に陥落して引退し熊ヶ谷を襲名、長く理事、監事を歴任した。
小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)1… 小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)10月15日 - 1943年(昭和17年)3月3日)は、山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は後藤 鶴松(ごとう つるまつ)。最高位は小結。 1887年10月15日に山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)で生まれる。上京して二十山部屋へ入門後、1901年5月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地に因んで「山泉」と名乗った。当初は苦戦して出世まで時間が掛かったが、両國國技館(初代)のこけら落としとなった1909年6月場所で新入幕を果たし、この場所で7勝2敗1預の好成績を収めると、1910年1月場所では梅ヶ谷藤太郎(2代)を破って金星を獲得するなど、上位に通用するまでに力を付けた。
大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5… 大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5日 - 1942年7月12日)は、現在の滋賀県草津市出身で八角部屋、雷部屋に所属した大相撲力士。本名は川合 文治郎。3代八角。最高位は西関脇。178センチメートル、103キログラム。 尋常小学校を卒業後、実家の飲食店を手伝っていたが、巡業でやってきた東京相撲の関係者の目にとまり勧誘される。入門をめぐっては先代大鳴門の八角と、元横綱初代西ノ海の井筒の間で争いが起こったが、結局八角に入門する。 1902年5月場所、「司天龍」の四股名で初土俵。1908年5月場所で十両に昇進すると、4勝1敗1分4休、5勝1敗2分1預1休と続けて2場所で入幕を果たす。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 -… 玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 - 1941年9月13日)は、福井県大野郡(現大野市)出身で大嶽部屋から雷部屋を経て中村部屋に所属した大相撲力士。本名は縁本 七郎。身長171cm、体重90kg。最高位は関脇。 大嶽部屋に入門し、初め狼を名乗って1904年1月序ノ口となったが翌年脱走。その後小嵐の名で大坂相撲の雷部屋に加入し、1908年1月場所まで大坂相撲を務めて十両まで進む。その後東京相撲に戻ったが、同名力士がいたため改名を考え、イギリス製のラージ自転車にちなんで羅亜地山と改名届を出したが、広告的な四股名は受け入れられないとして協会から却下され、やむを得ず龍田川という四股名を付けた。
梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日… 梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日 - 1926年4月5日)は、現在の福井県福井市出身で雷部屋に所属した力士。本名は山田 市五郎(五郎とも)。164cm、105kg。最高位は東前頭4枚目。 1903年5月初土俵、1908年5月十両昇進。1909年6月新入幕。色白で端正な顔立ちが女性に人気があったが、前頭4枚目に躍進したあとは幕内下位に低迷。病を得て十両に陥落した。1915年1月廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1… 鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1956年11月16日)は、千葉県印旛郡大森村(現:千葉県印西市大森)出身で宮城野部屋(一時期勝ノ浦部屋)に所属した大相撲力士。第24代横綱。現役引退後は年寄として後進の指導につとめた。本名は瀧田 明(たきた あきら)。 1887年4月3日に千葉県印旛郡大杜村(現:千葉県印西市大森)で米屋「米庄」を営む家に生まれる。父親の滝田丹治は大の相撲好きが高じて玉垣部屋へ入門、三段目まで進んだが家業を継ぐために廃業した。そんな父を間近で見て育った明も相撲好きになったが、廃業後も田舎相撲に熱中し過ぎて財産を失った挙句、家業の米屋を廃業せざるを得なくなってしまった父は自身の二の舞を演じさせまいと明を船橋の呉服屋へ奉公に出して相撲の道に進ませぬように図った。
19代 式守 伊之助(じゅうきゅうだい しきもり いのすけ、… 19代 式守 伊之助(じゅうきゅうだい しきもり いのすけ、1886年〈明治19年〉12月15日 - 1966年〈昭和41年〉12月14日)は大相撲の立行司である。茨城県那珂郡勝田村(現・ひたちなか市)出身。本名:高橋金太郎。 幼少期は茨城県水戸市に住む。小さい頃から相撲好きで居住地の近くに住む相撲好きの和菓子屋永寿堂(現、茨城県水戸市本町の天保元年創立。油屋老舗)の2代目、稲葉角之助に可愛がられ、角之助の援助を受け都内の相撲部屋を訪問した際に「体が小さいから相撲取りは無理。でも行司でどうか。」と提案を受け、力士は断念したが、そのまま当時の峰崎部屋に入門し、角之助の援助を受け続けた上で行司の修行に入った。
鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日… 鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日 - 1922年10月4日)は、徳島県吉野川市鴨島町出身で中川部屋に所属した力士。本名は藤井 利助。171cm、100kg。最高位は西前頭5枚目。 同郷の7代中川(元幕内鬼鹿毛)のもとに入門、1905年1月初土俵。初め鬼見嵜と名乗ったが、幕下時代の1910年6月に鳴門洋と改名している。1913年1月新十両昇進。1915年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り・押しを得意としていた。幕内での勝ち越しは1915年6月の4勝2敗1預3休のみであったが、東西制の恩恵を受け、最高位は前頭5枚目で、幕内に10場所在位した。1918年1月から師匠の四股名の鬼鹿毛を襲名したが、その頃から病気に罹り振るわず、1920年1月十両に転落してその場所限りで廃業、2年後に没した。
櫻川 五良藏(さくらがわ ごろぞう、1886年5月17日 -… 櫻川 五良藏(さくらがわ ごろぞう、1886年5月17日 - 1924年2月25日)は、現在の青森県黒石市出身で立田山部屋に所属した力士。本名は木村 慶次郎。身長167cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目。 郷里にいた頃は裁判所の職員をしながら教員を目指していた経歴を持つ。1903年1月に初土俵を踏み、1911年2月十両昇進。1912年1月入幕を果たし、2枚目まで躍進するが三役昇進はならなかった。十両に陥落してからは振るわず、1917年1月廃業した。櫻川五良藏の四股名は講談の登場人物の名から付けた。
山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 … 山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 - 1951年7月24日)は、現在の富山県高岡市出身で稲川部屋に所属した大相撲力士。本名は山田 清太郎。最高位は西前頭13枚目。168cm、92kg。 1908年1月、幕下付出で初土俵。1911年6月新十両。1912年5月場所、宇都宮新八郎と6勝1預かりと6戦全勝の土つかず同士で千秋楽に対戦、これに勝って7勝1預かりで十両優勝を果たす。翌1913年5月場所では宇都宮とともに新入幕となるが、直前の東西合併相撲で大坂相撲の力士2名に暴行され重傷を負ってしまう。このため新入幕場所は初日から休場、5日目から途中出場するも1勝2敗1預かりで9目から再休場。