小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久… 唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久2年3月8日) - 1920年(大正9年)6月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県飾磨郡谷外村(現・姫路市)に生まれる。東京専修学校(現・専修大学)で学ぶ。青森新報社に入社するも生家の事情により帰郷し兵庫県御用掛に出仕、上司の赤穂郡長就任とともに赤穂郡役所に転勤し郡長を補佐する書記となる。 1892年(明治25年)、相生村に村長として招聘される。神戸の繁栄を見た唐端は当時寒漁村だった相生村に造船所の設立を決断、1907年(明治40年)、神戸の財界人や地元有志から出資を募って播磨船渠株式会社を創立した。これは技術の未熟さから事業は高橋為久の播磨船渠合名会社に引き継がれたが、のちに鈴木商店による買収を経て1916年(大正5年)4月、鈴木商店による株式会社播磨造船所の設立に至る。
神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2… 神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2年2月21日)-1926年(大正15年)11月25日)は日本の実業家。 東京電燈社長。甲州財閥の重鎮。 1862年3月21日(文久2年2月21日)、甲斐国都留郡東桂村に出まれる。生家の没落により、苦学して和仏法律学校(現法政大学)を卒業する(1888年(明治21年))。山梨県会書記となるが、若尾逸平に認められて東京馬車鉄道の支配人に抜擢される。その後、日本鉄道の専務取締役を経て、甲州財閥系の東洋モスリンの設立に参画し専務取締役に就任する。 1911年(明治44年)に東京電燈に入社し、翌年佐竹作太郎のあとを受けて社長に就任する。折から激化していた東京の電力供給の覇権を争った三電抗争で東京電燈を勝利に導き、東京電燈の黄金時代を築いた。
宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年… 宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年2月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月2日)は、日本の銀行家・会社役員、新潟県の大地主、篤農家、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)・宇尾野友太郞の長男。1887年、東京高等商業学校を卒業する。新潟商業学校長となる。1893年、家督を相続する。 新発田倉庫、新潟貯蓄銀行各監査役、第四銀行取締役・同専務取締役をつとめる。 宇尾野家は古着商で、平凡な一庶民階級であったが、藤八は極めて堅実な人で、よく産を為した。第四国立銀行創設当時、支配人の白勢彦次郎に知られ同行に入り、累進して専務取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年… 飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1908年(明治41年)2月6日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 小松藩郷士・飯尾才右衛門、武川氏の長男として伊予国新居郡萩生村(中萩村、中萩町を経て現愛媛県新居浜市)に生まれる。尾埼山人について漢学を修めた。1888年(明治21年)新居郡会議員に当選したのを皮切りに、愛媛県会議員を務めた。1898年(明治31年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月8日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。 1888年(明治21年)5月、飯尾製糸場を設けて機械製糸を開始し、県内屈指の製糸工場となった。
井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 19… 井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 1925年9月11日)は、京都府船井郡世木村殿田にいた政治家・実業家。京都府会議員の在任中、八木町と富本村をつなぐ桂川(大堰川)のわたしにはじめて木橋を架設した。 1862年(文久2年)3月1日、良造は丸山小三太の三男として丹波国多紀郡栃梨村(現・兵庫県丹波篠山市栃梨)に生まれた。丸山家は篠山藩譜代の藩士で、側用人をつとめた上士の家柄であった。良造は、多紀郡篠山在の某塾(のちに鳳鳴義塾、現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)で学んだ。 1878年(明治11年)11月、良造は16歳の時、船井郡殿田村(現・南丹市日吉町殿田)の井尻家に養嗣子として迎えられた。
戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月… 戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月25日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲民政党)。横浜市会議員。横浜市参事会員。族籍は神奈川県平民。 甲斐国山梨郡下鍛冶屋村(のち山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋、現・山梨県甲府市)生まれ。戸井彦五郎の長男。3歳の時に母りんが亡くなり、専ら祖母ツネに養育される。 7歳より寺子屋に通い、9歳の時に初めて小学校が設けられて入学する。13歳の時に小学校を卒業して甲府の神道局(のち皇典講習所)に19歳まで修業する。20歳の時に神奈川県四等巡査を拝命する。 22歳の時に三浦郡役所準判任御用掛となる。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元… 川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。 村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎。 新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省。1886年在釜山領事館書記生。1889年在ウラジオストック貿易事務館領事館書記生。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年… 高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年) - 明治45年(1912年)2月22日)は、日本の実業家。読売新聞社社長などを務めた。 肥前国佐賀生まれ。佐賀藩士で、1885年に商法講習所(現一橋大学)を卒業し、三井物産入社。同期に藤瀬政次郎がいた。 1890年三井物産を退社。1892年兵庫県立神戸商業学校校長。同年愛知県名古屋商業学校校長。1897年依願退官。 日本郵船入社後、春日丸事務長などを経て、1909年日就社社長。1910年読売新聞社社長。1912年死去。社葬が行われた。 読売新聞社創業者の本野盛亨の甥にあたる。
豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - … 豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - 1920年〈大正9年〉9月29日)は、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)出身の医師・実業家・政治家。高遠電灯社長、高遠電気軌道創立者。立憲政友会所属。長野県会議員(2期)。 文久2年(1862年)、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)に生まれた。父親は高遠藩士の亀井則義であり、恕平は九男だった。親戚の豊島篤次は長崎県で官吏(裁判所刑事部)を勤めており、亀井恕平は豊島家に養子に入った。1878年(明治11年)4月には長崎中学校を卒業して長崎医学校に入学した。 1884年(明治17年)には医術開業試験に合格して医師開業免許を受け、三菱会社の高島炭鉱病院に勤務した。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 -… 伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 - 1926年〈大正15年〉6月11日)は、尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)出身の実業家。伊奈製陶所(伊奈製陶株式会社、INAXを経て、現在のLIXIL)を経営した。 初代伊奈長三郎(号は長三)は、常滑焼で知られる尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)の陶芸界で名を残し、4代まで伊奈長三郎を襲名した。文久2年(1862年)に生まれた伊奈初之烝は、それまでの伊奈家の家業だった陶芸には興味を向けず、近代的な窯業工場の経営を志向した。5代目伊奈長三郎は伊奈初之烝ではなく弟の伊奈伍助が襲名している。 設立年は定かでないが、伊奈初之烝は個人経営の伊奈製陶所を設立し、商号を「マルハ」として陶管の製造を開始した。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年1… 和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。 従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。 豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。 はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に寄食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。
笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(… 笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(文久1年11月10日) - 1929年(昭和4年)7月21日)は、日本の警察官、実業家。愛知郡長退官後に名古屋市東郊耕地整理組合長ほか複数の土地整理組合で幹部を務め、名古屋における土地整理事業の先駆者に位置づけられる人物である。石川電気鉄道社長。 会津藩藩士笹原八百吉の長男として若松栄町に生まれる。福島師範学校の前身校に学んで教職に就いたのち埼玉県で巡査となり、山梨県警察部警務課長を経て、静岡県警察署長まで昇進した。1904年(明治37年)に辞職後、賀茂郡、南設楽郡で郡長を務める。1913年(大正2年)3月に愛知郡郡長を辞任し、名古屋市東郊耕地整理組合長、八事耕地整理組合、港東土地区画整理事業組合及び音聞山土地区画整理事業組合の各副長として当時の名古屋市近郊の土地整理事業を推進した。
米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(186… 米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日) - 1919年(大正8年)7月20日)は、日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。米井商店(現・ヨネイ)、明治護謨製造所(現・明治ゴム化成)の創業者。 文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫田郡高倉村(現・岡山県津山市)で平民米井仲平、ツルマツの次男として生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。1887年大学卒業とともに同社に入社し、1897年(明治30年)1月には匿名組合磯野商会(創始者:磯野計、共同事業者:米井源治郎)を創立し、機械や鉱物、雑貨の輸入業を始める。
中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、… 中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、1861年10月13日〈文久元年9月10日〉- 1934年〈昭和9年〉3月25日)は、日本の政治家、実業家、官僚。大阪商船社長、衆議院議員、内務大臣、商工大臣、文部大臣を歴任。政友会。旧姓は斎藤。号は狸庵。加賀国(石川県)生まれ。 文久元年9月10日(1861年10月13日)、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に加賀藩士斎藤宗一・キン夫妻の五男として生まれる。 1882年(明治15年)、東京大学英法科を卒業後、1886年(明治19年)に東京帝国大学法学部選科を卒業する。大学院では商法を専攻する。 1886年(明治19年)、中橋徳五郎は判事試補となり、横浜陪審裁判所詰となる。
西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年… 西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年10月11日(文久元年9月8日) - 1939年(昭和14年)4月11日)は、高知県出身の衆議院議員、同志社第4代社長(現在の総長)。のちに日本を離れてアメリカや南米で農場を経営した。 土佐国高岡郡出間村(現・土佐市)で十寸弥と金の長男として生まれる。1875年陶冶学校、1876年立志学舎、1880年茂松法学校で学ぶ。1881年、請われて福島県三春の正道館講師を務める。1883年、山脇泰子と結婚、翌年息子清顕が生まれる。1886年、代言人試験に合格。1887年、代言業を始める。1890年神戸に転居、多聞協会で受洗。 板垣退助や片岡健吉などに従って、自由民権運動に参加。
水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1… 水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1861年10月6日〉 - 1918年〈大正7年〉8月11日)は、明治・大正時代における日本の実業家、政治家である。信濃毎日新聞記者から政界に入って長野市会議員や衆議院議員(当選2回)を歴任し、実業界では長野市所在企業の役員や日本建築用製紙社長を務めた。 水品平右衛門は、文久元年9月3日(新暦:1861年10月6日)、水品平内の長男として生まれた。水品家は善光寺門前町の岩石町(現・長野市岩石町)に居を構える旧家で、綿商を家業とする。「平右衛門」のは当主が代々襲名した名である。 水品は加藤天山の門で学んだのち長野県師範学校に入り、さらに東京の尺振八塾で英学、明治法律学校で法学を専攻した。
11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日… 11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1933年(昭和8年)4月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・平八郎。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で、豪農・10代加賀美嘉兵衛の長男として生まれる。英学、漢学を修めた。 父とは政治姿勢を異にし自由民権運動に加わる。民権派機関紙『峡中新報』の株主総理として経営を行う。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、地方衛生会員、東八代郡会議員なども務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(山梨県第3区、無所属)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元… 高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1937年(昭和12年)12月12日)は、日本の実業家。茶人・高橋 箒庵(そうあん)としても知られる。 水戸藩士の高橋常彦の四男として生まれる。明治維新により生活困窮に陥り、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出される。3年奉公したが耐え難く実家に戻り、以降各所に居候しながら学ぶ。1878年(明治11年)ごろは水戸の漢学塾・自彊舎に通った。茨城中学卒業後地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。1881年(明治14年)慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、1882年(明治15年)5月に、友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった。
久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861… 久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861年10月1日〉 - 昭和6年〈1931年〉5月24日)は、日本の土木技術者(工学博士)、実業家、政治家。衆議院議員を4期務めた。故郷の群馬県沼田市に沼田公園を寄付し、沼田市名誉市民として顕彰されている。 上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に生まれた。父は沼田藩士の久米権十郎正章。幼少期に両親を喪ったため、継母に養育される。 1876年(明治9年)6月、上京して慶應義塾に学ぶ。1878年(明治11年)に工部大学校土木科に入学。 1884年(明治17年)に工部大学校土木科を優秀な成績(第一等及第)で卒業。卒業後は高島嘉右衛門の土木事業に参画したという。
秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年… 秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年8月21日)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・渡邊。 武蔵国多摩郡、のちの東京府北多摩郡三鷹村(現東京都三鷹市)で渡邊萬助の二男として生まれ、明治2年10月(1869年)秋本倉蔵の養嗣子となる。運送業に着目して事業を興した。その他、日本採炭(株)社長、武相甲信運輸組合長、東京府農工銀行監査役、田無銀行頭取、玉川水道(株)監査役、南洋製糖(株)取締役などを務めた。 政界では、武蔵野村会議員、村助役、村長、北多摩郡会議員、同参事会員、東京府会議員、同郡部会議長、同参事会員、徴兵参事員、普通水利組合議員、警視庁防疫評議員などを歴任。
大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろ… 大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろう、1861年8月1日(文久元年6月25日)- 1944年(昭和19年)11月15日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県会議長。長男の岳母は衆議院議員 牧口義矩姉。四男は衆議院議員 丸山豊治郎 弟笠原謙治郞養子。 越後国頸城郡梶村(新潟県中頸城郡梶村、旭村、吉川町梶を経て現上越市吉川区梶)で、素封家・大滝甚十郎の二男として生まれた。儒者に師事して漢学を修めた。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)梶村外23カ村戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により旭村会議員に就任した。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5… 荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5月16日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員(1911年 - 1918年)。日本統治時代の台湾で事業を興し財を成した。 仙台に町奉行であった荒井加右衛門の分家に生まれる。宮城県士族荒井盛行の長男。明治維新後、東京に出て法律とフランス語を学びながら新聞記者となる。1885年(明治18年)には大阪新報社編集長。中江兆民の門下となる。 日本銀行総裁で同郷の富田鉄之助に見い出されて日本銀行に入り、富田の秘書となったが、富田が日本銀行を去ると荒井も去った。その後、鐘淵紡績に入り、1890年(明治23年)には鐘淵紡績支配人となる。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5… 14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日)- 1910年(明治43年)12月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)。旧姓・矢田。 丹波国桑田郡、のちの京都府南桑田郡亀岡町(現亀岡市)で、素封家・矢田勘助の二男として生まれる。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した。 家業を継承しその発展に尽力。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた。
奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元… 奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元年3月9日) - 1922年(大正11年)1月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政会)、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭。 1861年(文久元年3月)、筑前国遠賀郡浅木村(現福岡県遠賀郡遠賀町)に生まれる。東京法学校(現・法政大学、明治23年)、英吉利法律学校、明治法律学校を卒業し、弁護士となる。福岡市会議員、同市参事会員を経て、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。 また、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭、博多電灯(後の九州電灯鉄道)・九州生命保険・鎮西倉庫各社の取締役、第十七銀行監査役などを務めた。
尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元… 尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元年3月7日) - 没年不明)は、日本の政治家(広島市会議員)、商人(醤油商)、醤油醸造家、実業家。第六十六銀行、尾道貯蓄銀行各取締役。(旧)広島銀行、中国紡績各監査役。広島桟橋監査役、同取締役。族籍は広島県平民。 広島県平民・尼子英次郎の長男。家は代々醤油醸造を業とし、「茶屋」と称する。漢学を学び、後に普通教育を受けた。商業に従事した。1881年、家督を相続した。銀行、会社の重役であった。第六十六銀行取締役兼広島支店長を務めた。 広島市胡町・恵美須神社の境内は、もと32坪2合9勺だったが、1909年6月、忠蔵が付近の地積42坪6合2勺を寄付したので74坪9合1勺となった。
村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文… 村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文久元年3月4日)- 1909年(明治42年)1月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡今治町長。 伊予国越智郡今治中浜町(愛媛県越智郡今治中浜町、今治町を経て現今治市中浜町)で、商家に生まれた。漢学、法律学、経済学を修めた。 中浜町会議員、今治町会議員を務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1894年(明治27年)9月まで在任。高須峯造の勧めで立憲改進党に所属した。1891年(明治24年)4月、今治町長に就任し1893年(明治26年)2月まで務めた。その他、連合町村会議員、所得税調査委員、学務委員などにも在任した。
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月3… 日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日) - 1934年(昭和9年)1月22日)は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。 書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する。 1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る。のち1901年(明治34年)工学博士。
平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、18… 平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、1861年4月3日〈文久元年2月24日〉 - 1937年〈昭和12年〉8月5日)は、日本の実業家、政治家。東京府西多摩郡青梅町長。平岡商店社長。青梅銀行頭取。武陽銀行専務取締役。青梅電気鉄道取締役。族籍は東京府平民。海軍少将平岡貞一の兄。 東京・青梅出身。先代・久左衛門の長男。1901年、家督を相続し前名・房五郎を改め襲名した。織物仲買業を営む。資産家として知られた。 武陽銀行、青梅電気鉄道創始の功労者であり、武陽銀行の重役だった。青梅町長を務めた。住所は東京府西多摩郡青梅町青梅上町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年… 林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年2月20日)- 1904年(明治37年)10月31日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡花徳村(鹿児島県大島郡花徳村、天城村、東天城村を経て現徳之島町花徳)で生まれた。今藤勇に師事し、漢学、数学を修めた。 経済界では、1896年(明治29年)1月、大阪第七十九国立銀行取締役に就任。以後、同行大島支店主任、鹿児島県農工銀行設立委員、大島興業社長を務めた。 政界では、1889年(明治22年)1月、大島郡第19学区学事委員に就任。同年7月、大島郡山村外五ヶ村戸長となる。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区、無所属)で当選し、その後立憲政友会に所属して、衆議員議員に1期在任した。
野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(186… 野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、郡会議員、町会議員。中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。 元米子市長野坂寛治の父。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。 地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。 明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。 明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延… 中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延2年1月18日) - 1906年(明治39年)11月7日)は、高知県出身の政治家、実業家。 1861年(万延2年)、土佐国長岡郡大津村字田辺島(現高知県高知市大津)で、郷士・中澤愿一、以登の長男として生まれた。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 自由民権運動に従事し、板垣退助らの知遇を得る。1891年、県会議員に当選。更に同参事会員などを務めた他、実業界に於いては、土佐紙業組合頭取などを務めた他、1902年には高知銀行(現・四国銀行)頭取に就任。1905年、衆議院議員に当選(高知県郡部選出、立憲政友会)。 その他、高知商工会議所会頭、土陽新聞(高知新聞)専務、土佐農工銀行頭取なども務めた他、国道高知ー徳島線の開通、平山発電所の建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに大きな貢献を果たし、若くして高知県政財界のリーダーとして重きをなしたが、1906年、上京中に急性化膿中耳炎のため46歳で急逝した。
中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万… 中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日)- 1940年(昭和15年)8月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県氷上郡久下村長。 丹波国氷上郡谷川村(兵庫県氷上郡久下村谷川、山南町谷川を経て現丹波市山南町谷川)で、農業、製油業・中川音蔵の長男として生まれる。1884年(明治17年)3月、家督を相続し、農業、製油業、鉱業を営む。 1882年(明治15年)4月、太田村外17ヶ村戸長役場用掛に就任。以後、氷上郡町村連合会議員、同郡全町村組合会議員を歴任。1893年(明治26年)5月、久下村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。
小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日… 小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日(万延元年12月17日) – 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の実業家、官僚。安田財閥の幹部。 1860年、出羽国新庄藩の代官職を代々務める小笠原家の次男として出生。栃木県師範学校卒業後、中江兆民の仏学塾にて歴史、法律、哲学を研究し、1889年に明治法律学校を卒業。大蔵省銀行局に出仕し、銀行業界の監督、向上に尽力。1893年の商法施行により、私立銀行の監督権が大蔵省に帰すると、その任に当たった。 四大財閥のひとつで、当時、日本最大の金融資本を誇った安田財閥の創設者である安田善次郎の知遇を受けたことにより、1894年、安田銀行に入行。
飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1… 飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1月20日(万延元年12月10日)- 1915年(大正4年)7月31日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国筑波郡真瀬村(若森県筑波郡真瀬村、新治県筑波郡真瀬村、茨城県筑波郡真瀬村、真瀬村真瀬、谷田部町真瀬を経て現つくば市真瀬)の旧家に生まれた。秋場桂園、村田雷蔵らから漢学、法律学を学んだ。農業を営む。 筑波郡福岡村外二カ村連合戸長、筑波郡書記、登記所書記、学務委員などを務めた。1892年(明治25年)茨城県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任し、同常置委員も務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で初当選し、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
石濱 豊蔵(いしはま とよぞう、1861年 - 1910年)… 石濱 豊蔵(いしはま とよぞう、1861年 - 1910年)は、日本の実業家。 丸石製薬創業者で、石濱純太郎の父。淡路松帆(淡路市)の人。豊蔵の父は広瀬淡窓の咸宜園(大分県日田市)で漢学を、長崎で蘭学を学んだ勝蔵。豊蔵は、オランダ人薬学者のドワルスに製薬法を学んだ西山良造の門に入って製薬業を修得、明治21年(1888年)、大阪淡路町にガレヌス製剤の製造販売会社「丸石商会」を設立、明治35年(1902年)には大阪製薬同業組合初代組長となった。また明治30年(1897年)、10歳の純太郎を泊園書院(現・ 関西大学)に入学させる。 豊蔵の死後、会社は井上治兵衛が引き継ぎ、昭和11年(1936年)丸石製薬株式会社となり現在に至っている。
岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) … 岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) - 1912年(明治45年)3月12日)は、明治期の実業家、白木屋呉服店主。岩橋リボン製織所創設者。 紀伊国和歌山(現和歌山県和歌山市)出身。維新後に大蔵大輔、第四十四国立銀行頭取となった紀州藩士・岩橋徹助(徹輔)の息子。慶應義塾に入学し大学部を卒業(『慶應義塾入社帳』第一巻586頁,第五巻246頁)。父が華族の援助を受けて道内各地で企てた「開進社」に参加して北海道開拓を研究し、明治24年、開拓は保護政策を排し、自由開拓、随意移住に任すべきを主張した著書を公にした。開進社の事業は失敗したが、その志は長く残った。 白木屋呉服店主を経て帽子用リボン等を製織する岩橋リボン製織所を渋沢栄一が出資して組織し、1896年匿名組合となる。
大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈… 大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈1860年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉12月30日)は、明治から昭和初期の実業家。王子製紙 (初代)はじめ数多くの製紙会社に関わったことから「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。位階勲等は正五位勲三等。 江戸時代の撃剣の免許取りで農民の出ながら武蔵国川越藩の剣術師範となった大川平兵衛は平三郎の祖父にあたる。 大川平三郎は、川越藩三芳野村(現・埼玉県坂戸市横沼)で剣術道場を構えていた大川修三の次男として生まれる。道場は修三の父で撃剣の免許を取得した大川平兵衛の興したものである。平三郎の母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子である。
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。