斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日… 斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日〈安政2年7月12日〉- 1910年〈明治43年〉5月6日)は、日本の外交官、農商務官僚、実業家。農商務次官。号・半狂学人、談笑門人。「斉藤」と表記する場合がある。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・眼科医、斎藤策順の息子として生まれる。沼津兵学校付属小学校、大学南校で学ぶ。1873年(明治6年)、大学南校が開成学校と改称して、1875年(明治8年)に卒業し、同年7月、文部省第一回海外留学生として渡米し、1878年(明治11年)6月、ボストン大学法科を卒業した。 1880年(明治13年)9月に帰国し、同年11月、外務省権少書記官に任じられ公信局勤務となる。
石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2… 石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2年6月10日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国石川郡金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、1878年(明治11年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌1879年(明治12年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした。
岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月2… 岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月29日) - 1928年(昭和3年)10月31日)は、日本の教育者・文部官僚。 越前藩出身。岡源太夫の五男。藩校で漢学を学ぶ。福井県師範学校変則生を経て、1877年(明治10年)に官立愛知師範学校を卒業。東京麹町清水小学校訓導、千葉県鶴舞小学校校長、茂原町中学校教諭を歴任した。1882年(明治15年)、東京師範学校(後の東京高等師範学校)を卒業。その後、徳島県師範学校一等教諭・学務課勤務、徳島県中学校一等教諭、高等師範学校助教諭・附属小学校主任、同教諭、女子師範学校教諭・同高等女学校主任、同教授・文部省普通学務局勤務、高等師範学校書記・教授、文部省普通学務局第一課長、宮城県尋常師範学校校長、東京府視学官・文部省視学官を歴任した。
川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年… 川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。 大隅国姶良郡、のちの鹿児島県姶良郡加治木村(加治木町を経て現姶良市)において、加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれる。 私学校に入学したが軍事教練一辺倒とその閉鎖性に嫌気がさし退学する。その際に生徒の自主性を理解しない西郷隆盛に罵倒され、故郷で村八分となった。 西南戦争時の1877年4月、警視庁警部補に任官した。沖縄県十等警部、大阪府十等警部を経て、1882年8月、石川県に転じ、警部補・高岡警察署詰となる。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月… 寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月2日(安政2年1月14日)- 1912年(大正元年)12月23日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。幼名・研輔。一時期、園田姓。 薩摩国伊佐郡大口郷(現:伊佐市)で、寺原用右衛門の三男として生まれる。園田家の養子となり一時期その姓を名乗るが、1878年から元の寺原に姓を戻した。 1874年8月、陸軍省十五等出仕となり、台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。1875年3月、警視庁十四等出仕となる。以後、少警部、中警部と昇進。鹿児島で私学校生徒の暴発の危険性が伝えられ、1876年1月、同郷の同僚である高崎親章、中原尚雄ら20名と共に帰郷したが、私学校の生徒らに捕らえられ拷問を受けた。
桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元… 桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元年12月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月21日)は、明治から昭和時代初期の官吏。宮中顧問官。旧姓は細迫。 長門国豊浦郡阿川村(豊北町を経て現下関市豊北町大字阿川)に生まれる。細迫礼介の長男。1884年(明治17年)5月、絶家桂庄左衛門の家を再興する。東京専門学校校外生となり、英法を学ぶ。宮内省華族局に出仕し、のち爵位局主事に就任。宮内書記官を兼ねたのち、東宮主事に転じ、東伏見宮別当を兼ね、東伏見宮別当泰宮御養育掛長兼宮中顧問官に就任した。墓所は多磨霊園。
川本 永守(かわもと えいしゅ、1855年(安政2年) - … 川本 永守(かわもと えいしゅ、1855年(安政2年) - 没年不詳)は、明治期の官僚、鉄道院参事 長門国豊浦郡幡生村(現・山口県下関市)生まれ。上京し慶應義塾へ入学し、小野梓の知遇を得て別科を卒業。 山陽鉄道に入り、下関の開発に従事。1906年(明治39年)、鉄道が国有となるに伴って鉄道院参事に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
行方 幹(1855年〈安政2年11月〉 - 1910年〈明治… 行方 幹(1855年〈安政2年11月〉 - 1910年〈明治43年〉1月22日)は、明治時代の官吏。幼名は豊太郎。 戸村藤兵衛の二男として、上総国武射郡上大蔵村(豊岡村、松尾町を経て現山武市)に生まれる。のち行方佐兵衛の養嗣子となる。漢学を修め、1871年(明治4年)16歳にして千葉県大書記官となり、千葉県雇吏、東葛飾郡書記、千葉県収税属、税務費会計主務、同副長、収税課地方税掛長、収税庶務課長、収税部税務課長を歴任した。1893年(明治26年)1月、千葉県香取郡長に就任し、以来長柄郡長、上埴生郡長、君津郡長、千葉郡長を経て、1902年(明治35年)5月、同県山武郡長に就任した。郡長在任中に死去した。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年1… 図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年11月23日〉 - 1922年〈大正11年〉7月1日)は、明治期日本の鉄道官僚。鉄道院計理部長などを歴任し、鉄道経理の確立を行った。 鹿児島市潮見町で生まれ、商法講習所(現一橋大学)で学んだ。1873年外務省入省。1876年から1878年までアメリカ合衆国で経理を学び、帰国後第五国立銀行入行。 1879年に工部省権少書記官任官以来、会計事務に従事し、日本における鉄道経理の確立を行った。 1884年鉄道局少書記官。1885年逓信省鉄道事務官。1890年鉄道局会計課長。1893年鉄道庁第三部長心得。同年逓信省計理課長。 1897年鉄道作業局計理部長。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(18… 井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(1854年5月6日) - 昭和9年(1934年)3月9日)は、明治時代から大正時代の官吏。徳島県阿波市出身。 嘉永7年4月10日(1854年5月6日)、阿波国阿波郡大俣村(現在の徳島県阿波市)で生まれる。徳島県庁に入り、海部郡長・麻植郡長・美馬郡長を歴任。1902年(明治35年)より名西郡長を務め、吉野川から水をひく麻名用水、板名用水の建設・整備に力を注いだ。 1934年(昭和9年)3月9日、79歳で亡くなる。没後、名西郡石井町の麻名用水土地改良区に銅像が建つ。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月… 牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。 肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。 1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。 1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
安岡 雄吉(やすおか ゆうきち、1854年4月21日(嘉永7… 安岡 雄吉(やすおか ゆうきち、1854年4月21日(嘉永7年3月24日)- 1920年(大正9年)11月1日)は、明治期の官僚、政治家。勲四等旭日章。大東亜戦争の際、終戦詔勅の起草文を刪修した陽明学者安岡正篤の祖父にあたる。 土佐国幡多郡中村(高知県中村市、現四万十市)出身。安岡良亮の長男として生まれる。上京して大学南校、慶應義塾に学ぶ。 1878年(明治11年)、内務省に入る、元老院御用掛を経て後藤象二郎の大同団結運動に参加。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に吏党系から出馬し、自由党の片岡健吉・林有造を破るが、松方内閣が行った選挙干渉が問題となり、訴訟の結果当選無効となってしまった。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年… 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年3月8日)- 1916年(大正5年)11月16日)は、日本の内務官僚。内務次官、錦鶏間祗候。幼名・虎之助、号・陽山。 上総国夷隅郡作田村(現在のいすみ市)出身。名主・吉原重郎の三男として生まれ、吉原白水の養嗣子となる。大多喜藩校、東金郷校、荻野山中県興譲館で学ぶ。教員となり、1874年5月、山梨県白井学校訓導試補に就任。以後、小学岩崎学校、小学梁木学校、小学松島学校で勤務。 1876年(明治9年)7月、司法省法学校生徒となる。1885年(明治18年)4月、判事補に任官し司法権大書記官となり、同月、高知始審裁判所詰。1886年(明治19年)8月に辞任。
若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元… 若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元年1月10日〉 - 1924年〈大正13年〉4月5日)は、日本の実業家、官吏。農商務省商工局長。逓信省電務局長。電信協会会長。無線電信講習所初代所長。族籍は東京府平民。 兵庫県城崎郡豊岡滋茂町(現・兵庫県豊岡市元町)の人。若宮正海の長男。成長して興国寺に入り仏典を修める。また池田草庵に就き漢籍を学ぶ。自由党総理板垣退助に従い民権自由を唱道する。 明治の初め大阪師範学校に入り、卒業すると教員になる。辞して東京に出て1881年に初めて内務省に出仕する。工部省の官吏となり逓信省が新設されるとこれに転じる。1883年に駅逓局に転じ逓信省書記官に進み兼ねて秘書官となる。
安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7… 安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7年1月1日)- 1924年(大正13年)7月30日)は、日本の検察官・官僚・政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員、横浜市長、京都市長。 土佐藩士・安藤常三郎の長男として安芸郡羽根村(現室戸市)に生まれる。1873年に上京し、ニコライ塾に入り、その後、東京外国語学校に移りロシア語を学んだ。中江兆民からフランス語も学んだ。 1876年4月、勝海舟の推薦で外務省に出仕し、ロシア帝国サハリンのコルサコフ領事館書記一等見習となる。1878年、サンクトペテルブルク公使館書記生となり、サンクトペテルブルク大学で法学、行政法などを履修した。1882年から同大学の日本語教官となった。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげも… 告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげもり りょう、1853年12月21日(嘉永6年11月21日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、明治から大正期の内務官僚。官選県知事。 伊予国宇和島城下御殿町(現愛媛県宇和島市)出身。宇和島藩士・告森桑圃の長男として生まれる。1873年、神山県に出仕。以後、兵庫県、広島県、長崎県、愛媛県、京都府で勤務。 1887年5月、愛媛県東宇和郡長に就任。以後、兼西宇和郡長、京都府参事官、岐阜県参事官、埼玉県書記官、岡山県書記官、徳島県書記官などを歴任。 1908年3月、鳥取県知事に就任。倉吉中学校・県立商業学校の新設、農事試験場拡張、耕地整理事業、因伯牛の改良などを推進。
関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(… 関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(嘉永6年10月5日)- 1917年(大正6年)11月24日)は、明治から大正前期の官吏・政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡奥戸村長。 武蔵国葛飾郡曲金村(東京府南葛飾郡奥戸村大字曲金、奥戸町大字曲金、東京市葛飾区を経て現東京都葛飾区)で、代々里正を務めた関根家に生まれる。和漢学、武術を修めた。父に代わって里正を務めた。 1876年(明治8年)内務省に出仕。以後、鹿児島県属、大蔵省属、福井県属、熊本県徴収課長、逓信属などを歴任した。 1889年(明治22年)奥戸村長に就任。1892年(明治25年)東京府会議員に当選し、大隊区徴兵参事員も務めた。
大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9… 大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9月16日)- 1899年(明治32年)3月14日)は、明治期の日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡瀬名方中勝村(鹿児島県大島郡中勝村、龍郷村を経て現龍郷町中勝)で生まれた。造士館、駒場農学校、専修学校で学んだ。 埼玉県属に就任。その後、内務属に転じ、佐賀県東松浦郡長に就任した。 1887年(明治20年)、奄美大島の黒砂糖を鹿児島商人が独占していることを批判した「大島郡糖業意見」を発表した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区)で初当選し、以後、第4回総選挙まで再選され、最後に公同会に所属して衆議員議員に連続3期在任した。
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(185… 村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。
広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 -… 広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 - 大正3年(1914年)4月15日)は、明治・大正期の官吏、法学者、儒学者。衆議院議員(5期)、国民協会所属。号は、濠田(ごうでん)。 豊後国日田郡豆田町(現大分県日田市)に儒学者・広瀬青邨の長男として生まれる。 家塾の咸宜園で漢学を修め、朝吹英二が証人となり、明治8年(1875年)慶應義塾本科に入学し、明治11年(1878年)に本科を卒業した。在学中から碩学の士とうたわれ、刑法、治罪法などの法律学を研究。千葉県属から司法省属、大審院書記を経て内務省に入る。帰郷して、大分県教英中学校長、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託等を歴任し、明治40年(1907年)に日田町長(四代目)に就任。
高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4… 江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日〉- 1932年〈昭和7年〉8月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部・内務官僚、政治家。号は狂塢。 文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城・栃木・愛知・広島各県知事、貴族院議員、文部大臣、皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。 周防国岩国藩出身。岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)。1870年(明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び、翌年より開拓使仮学校、大学南校、工部省工学寮などに学ぶ。1874年(明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官、参事官、普通学務局長を歴任。
鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年… 鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年4月24日〉 - 1914年〈大正3年〉9月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選大分・群馬・滋賀・高知県知事。幼名・半造。 日向国児湯郡南高鍋村(現:高鍋町)で、高鍋藩士・鈴木定信の長男として生まれる。 1877年6月、警視局警部補となり、同年7月、新撰旅団第1大隊第4中隊左半隊長として西南戦争に出征。戦後、同年11月に退職。1878年10月、兵庫県十等警部に任官。以後、豊岡警察署長、警察本署第1部長などを歴任。 1886年4月に高知県警部となるが、翌月に富山県警部・警察本署第1部長兼第4部長に転じた。以後、富山県警察本部第1課長、兼巡査教習所長、兼富山警察署長、富山県射水郡長などを歴任し、1889年3月、富山県警部長に就任。
金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853… 金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853年3月13日〉- 1942年〈昭和17年〉5月16日)は、日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵。 大日本帝国憲法、皇室典範を筆頭に近代日本の諸法典を整備した。明治の元勲として、司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。教育者としては帝国大学法科大学や慶應義塾で法学を講じ、日本法律学校(現:日本大学)初代校長、二松學舍舎長などを務めた。
横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5… 横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5年9月15日)- 1914年(大正3年)3月24日)は、明治時代の政治家、台湾総督府官僚。自由民権運動家。衆議院議員(4期)。旧姓は土屋で諱は龍、字は雲卿。号は鉄研。通称名は三子。 下野国那須郡黒羽(黒羽県、栃木県那須郡黒羽町を経て現大田原市)で、黒羽藩士土屋新二郎の二男として生まれ、のち同国大田原藩領芳賀郡祖母井村(祖母井町を経て現芳賀町)に移り住む。幼くして大田原藩の儒臣・金枝柳村の門に入り漢籍を修める。1874年(明治7年)横堀源平の養子となり、1876年(明治9年)3月1日家督を相続した。1878年(明治11年)芳賀郡書記を経て、1879年(明治12年) 栃木県会議員に当選し、同議長を務め、常置委員、地方勧業諮問会員、地方衛生会員などを歴任した。
九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日〈1852年9… 九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日〈1852年9月12日〉? - 昭和6年〈1931年〉8月18日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。旧姓星崎。男爵。号は成海。先祖に戦国武将の九鬼嘉隆がおり、隆の字は九鬼家当主に代々受け継げられた字である。 摂津国三田出身。慶應義塾に学び、福澤諭吉の薫陶を受けた。のち文部省に出仕し、若くして文部少輔(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。
山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月… 山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月13日〈嘉永5年5月26日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾。 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身。山崎直高の長男として生まれる。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める。
荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852… 荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852年6月5日〉 - 1903年〈明治36年〉10月11日)は、明治時代の官僚、政治家。内務省などで務め、福井県知事も務めた。 長州藩領の長門国大津郡向津具村(現・山口県長門市)出身。諸官を経て、1892年11月16日に牧野伸顕の後をついで、内務省衛生局長から福井県知事に任ぜられた。荒川は県知事として、濃尾地震の被害による道路などの修復に県から全額支出させた。また、県内の女子の就学を奨励した。1897年4月6日まで務めた。 1898年、内務省県治局長に任ぜられるがまもなく辞任。その後帝国党の組織に尽力した。1903年10月11日に病死し、同日に位を一級進めて正四位に叙される。
小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月… 小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月4日〉- 1906年〈明治39年〉11月4日)は、日本の幕末から明治期の武士(沼田藩士)、官僚(官選和歌山・徳島・富山・大分・岐阜県知事、検事)、弁護士、関西法律学校初代校長。 江戸見坂の沼田藩邸で小倉久彝(ひさつね)の長男として生まれた。明治3年(1870年)、大学南校貢進生となり、明治5年(1872年)に司法省明法寮に転入。1876年(明治9年)、岸本辰雄・宮城浩蔵とともにフランスへ留学し、法学者エミール・アコラス(フランス語版)に師事した。1878年(明治11年)に帰国した後、司法省御用掛兼太政官御用掛として民法典編纂に携わり、また司法省法学校速成科の講師となる。
阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23… 阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23日) - 大正11年(1922年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。群馬県知事、千葉県知事(2期)、富山県知事、新潟県知事、東京府知事(2期)を歴任。衆議院議員(2期)、貴族院議員、日本赤十字社特別社員を務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。陸奥国岩手郡盛岡出身。邸は荏原郡大井町元芝にあった。 南部藩士阿部雄平の子として生まれる。4つ年下の原敬とはいわゆる幼馴染の間柄であり、後に原に郵便報知新聞入社を勧めたのも阿部であったとされている。戊辰戦争後に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学び、苦学の末に卒業して1874年に岡山県職員として採用され、後に工部省職員、鉄道事務官を経て内務省に移籍して社寺局長にまで昇った。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月2… 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。 1861年(文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年… 寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 信濃国水内郡飯山に後の旧飯山藩士(長野県士族)寺田覚の長男として生まれ、慶応3年、寺田勘兵衛の養子となり家督を相続。1871年、飯山県文学助教兼学監となり、司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後、警察は内務省に移り、兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長、新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日、鳥取県知事に就任。
遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年… 遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年12月23日) - 明治37年(1904年)6月15日)は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 嘉永4年(1851年)、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3… 安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3年12月12日〉- 1932年〈昭和7年〉4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。 薩摩藩士・新納一角の二男として薩摩国給黎郡喜入郷中名村麓(現在の鹿児島市喜入中名町)に生まれ、安楽兼通の養子となる。1871年(明治4年)4月、御親兵徴士として上京。1873年(明治6年)10月に除隊し帰郷したが、1874年(明治7年)11月に再上京した。 1875年(明治8年)3月、警視庁警部補に任官。以後、石川県三等警部兼金沢警察署長、石川県警察本署長、警視庁品川警察署長、高知県警察部長、熊本県警察部長、熊本県書記官などを歴任。
永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年… 永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年10月15日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・愛野。 肥前国藤津郡、のちの佐賀県藤津郡南鹿島村(鹿島町を経て現鹿島市)で、鹿島藩士の愛野家に生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永田佐次郎と共に副島の警護に当たった。1877年(明治10年)東京の同人社を卒業した。 勧農局雇となり、その後、内務省取調局御用掛を務めた。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、沖縄県属となる。
波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永… 波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永3年10月10日〉- 1922年〈大正11年〉8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。 1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。 1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。
椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永… 椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日) - 1935年(昭和10年)9月10日)は、幕末の桑名藩士、明治期の教育者・内務官僚。三重県師範学校長、官選県知事、小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫。 江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び、1874年1月、同校を卒業。 1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。
横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9… 横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9月14日) - 1923年(大正12年)2月24日)は、明治・大正時代の司法官僚、法律家。法学博士。司法次官、検事総長、大審院院長(現在の最高裁判所長官)等を歴任。法典調査会第三部長(刑法起草責任者)。和仏法律学校(現在の法政大学)校長。位階勲等は正二位勲一等。爵位は男爵。 肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村(現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり親友となった。横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。 中津市学校を経て、1872年に上京し数え年23歳で慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。