広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年… 広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年2月12日)- 1904年(明治37年)7月29日)は、日本の法制官僚。官選秋田県知事。旧名・篤譲。 本籍・東京府。近江国犬上郡(後の日夏村字古屋、現:彦根市)で、浄土真宗・専精寺住職、広瀬天超の長男として生まれる。漢籍を学び、幕末には三条実美の知遇を得、諸藩の志士と交際した。廃藩置県後に上京し、1871年11月10日(明治4年9月28日)、正院十等出仕となる。 1874年9月、小野梓らが結成した啓蒙団体「共存同衆」に参加。1876年5月、法制局一等書記に就任。1880年9月、太政官権少書記官となる。以後、参事院議官補、法制局参事官、兼行政裁判所評定官などを歴任。
川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845… 川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845年1月28日) - 昭和2年(1927年)2月5日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和の旗本、大蔵省官僚、教育者。川路聖謨の孫に当たる。通称は太郎、諱は温、寛堂は号だが、伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという。 弘化元年(1844年)12月21日、江戸番町冬青木坂上に川路彰常の長男として生まれた。弘化3年(1847年)9月25日、2歳で父と死別し母も再婚して別離、大叔父の井上清直夫妻に引き取られ養育された。嘉永3年(1850年)2月27日に下総佐倉藩医鏑木仙安の手で牛痘を接種、嘉永4年(1851年)6月22日に6歳で奈良奉行を退任して江戸へ召還された祖父川路聖謨と面会して川路家に戻り、祖父の庇護を受けた。
大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈… 大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈1844年10月25日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月6日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位、勲二等。 周防国玖珂郡岩国城下錦見(山口県玖珂郡岩国町を経て現岩国市)で、岩国藩士・大谷権左衛門の長男として生まれる。文武を修め、1871年(明治4年)福岡県に出仕。福岡県権典事、大蔵権少丞、太政官少書記官、大蔵少書記官、大蔵権大書記官、内務権大書記官、内務省会計局長、同庶務局長、社寺局長心得、内務書記官・造神宮副使などを歴任した。 1914年(大正3年)に退官後は済生会理事長を務めた。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保… 三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保14年12月24日〉- 1905年〈明治38年〉8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った。 近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる。 幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した。1867年(慶応3年)には高野山で挙兵。戊辰戦争では各地に転戦し、功績があった。1869年(明治2年)には賞典禄として50石が与えられた。 兵部省に勤務したのち、1870年(明治3年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する。
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844… 井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉- 明治28年〈1895年〉3月17日)は、明治期の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は正三位勲一等子爵。 肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、藩校時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。 安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844… 秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844年(弘化元年6月)? - 1911年(明治44年)6月7日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。号は不羈斎(ふきさい)。 官立長崎師範学校、官立東京師範学校(筑波大学の前身の1つ)をはじめ、各地の県立師範学校・中学校校長を歴任した。 越後国長岡に生まれる。長岡藩校崇徳館初代都講秋山景山の嗣子・四郎左衛門の孫にあたり、四郎左衛門の婿養子・左内の養子となって秋山家を継いだ。安政初年(1855年頃)、幕府の老中を務めていた藩主牧野忠雅の命により小林見義、藤野善蔵、武謙斎の3名と江戸に遊学。儒学者・安井息軒の門に学んだ。また慶応2年(1866年)頃、帰郷していた長岡藩出身の幕臣・鵜殿団次郎(春風)と親しく交際。
野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
稲生 眞履(いのう まふみ/しんり、天保14年9月29日(1… 稲生 眞履(いのう まふみ/しんり、天保14年9月29日(1843年10月22日) - 大正14年(1925年)2月1日)は、明治・大正時代の宮内省官僚。通称は潜蔵。 三河国挙母城下の久保町(現・愛知県豊田市久保町)出身。挙母藩の儒者・竹村方斎に師事し、江戸に出てからは加藤張卿に学んだ。 維新後、奈良県庁に就職するが、すぐに宮内省に移り、奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)の学芸員となる。1900年(明治33年)、勲七等瑞宝章を受章。また、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の学芸委員に移り、特に刀剣や書画を始めとする古美術に精通した。 森永製菓を創立した一人である稲生平八は甥であり、三女季子は秋山真之の妻。
小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年1… 小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年10月5日(天保14年9月12日)- 1922年(大正11年)10月25日)は、幕末から大正期の薩摩藩士、漢学者、官僚、政治家。内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員。学位は、文学博士。幼名・善次郎、字・偉卿、号・桜泉。 大隅国大隅郡田代郷大禰田村(鹿児島県南大隅郡田代村、肝属郡田代村、田代町を経て現錦江町)で、薩摩藩士・小牧良助の二男として生まれた。江戸で塩谷宕陰に学び、藩校造士館の教員を務めた。 1869年(明治2年)議政官史官試補に就任し、小史、権大史を歴任。その後、官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事、文部大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、内閣書記官長などを歴任。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843… 渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。 明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / … 寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / てらじま しゅうすけ、1842年11月17日(天保13年10月15日)- 1910年(明治43年)7月30日)は、日本の官僚・政治家。諱・直方、通称・秀之助。 周防国熊毛郡原村(現周南市)で長州藩士・寺島太次郎直一、沢夫妻の長男として生まれる。下関戦争、禁門の変に参加した。 慶応4年1月12日(1868年2月6日)浪華隊隊長に就任。同年2月27日(3月20日)東征大総督・有栖川宮熾仁親王の副参謀を命ぜられ江戸に下り、上野戦争では団子坂口の諸藩兵の総指揮を担当した。同年7月2日(8月19日)奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀に任じられ奥州を転戦し、明治元年11月1日(1868年12月14日)京都に帰還した。
鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13… 鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。 陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。 明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842… 岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842年5月11日〉 - 1915年〈大正4年〉9月20日)は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる。土佐藩の横目職を務めた。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め、土佐藩の武器調達に尽力。 明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天… 瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天保13年1月15日)- 1913年(大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、号は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄。 日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した。大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱・三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。
石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天… 石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天保12年12月28日) - 1930年(昭和5年)10月20日)は、幕末の小倉藩士、明治期の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員。錦鶏間祗候。 豊前国企救郡(現・福岡県北九州市)において小倉藩士の家に生まれる。第二次長州征討において長州藩との停戦に尽力した。 明治2年(1869年)、明治政府に出仕し民部官書記となる。以後、民部兼大蔵大録、監督大佑、庶務大佑、土木権正、土木権頭、内務権大書記官などを歴任し、1877年、初代の内務省土木局長に就任。「土木の石井」と称された。その後、西南戦争時に熊本県権令心得として務めた。 1884年2月に岩手県令に就任。
芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保1… 芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保12年12月10日〉- 1920年〈大正9年〉1月10日)は、日本の官僚・政治家。旧姓は原田、高橋、幼名は賢吉。号は越山。栄典は従一位勲一等伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。東京府知事では市区改正や築港に尽力し、第1次山県内閣の文部大臣では教育勅語の制定に関与した。 阿波国麻植郡山川町(現:徳島県吉野川市)で医師であった原田民部の5人兄弟の末子として生まれる。
建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12… 建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12年12月1日) - 1908年(明治41年)2月16日)は、幕末の小倉藩士、明治期の官僚・外交官・実業家。大阪府知事、元老院議官。旧名・牧野弥次左衛門。 豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870年)、イギリスに留学し法律学を学んだ。 1877年(明治10年)11月、宮内省御用掛三等侍補心得となる。以後宮内権大書記官、兼太政官権大書記官を歴任。1879年(明治12年)、グラント前米国大統領の来日に当たり接伴掛を務めた。 1880年(明治13年)5月、大阪府知事に就任し約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。
足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈18… 足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈1841年11月5日〉 - 1907年〈明治40年〉4月19日)は、日本の武士(鳥取藩士)、官僚、華族。男爵。字は興卿、通称は八蔵。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟。 因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる。文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された。第二次長州征討が始まり、慶応2年7月(1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前、京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ。
成川 尚義(なりかわ なおよし / なるかわ ひさよし、18… 成川 尚義(なりかわ なおよし / なるかわ ひさよし、1841年10月4日〈天保12年8月20日〉 - 1899年〈明治32年〉11月27日)は、日本の内務・大蔵官僚、政治家。三重県知事(官選第5代)、貴族院勅選議員。幼名:禎三郎。 上総国山辺郡白幡村(現千葉県山武市)に、伊志田治平(石田治平)の次男として生まれる。同郡本須賀村・成川家の養子となり名を尚義と改める。 幕末の動乱期に勝海舟のもとで事態の収拾に奔走した。新政府軍の江戸城入城後、追及を受けて自首するが、沈着冷静な対応により釈放された。その際、刑法官判事・中島錫胤からの熱心な勧めを受けて出仕することを決意した。 明治2年(1869年)、若森県大参事に就任。
渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(… 渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(天保12年8月1日) - 1913年(大正2年)10月19日)は、幕末の勤王家、明治期の内務官僚、政治家、実業家。茨城県参事、御影町長、衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂の国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた。 明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県大参事、甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年… 船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。
岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11… 岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11年6月10日〉- 1915年〈大正4年〉2月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。貫堂と号し、素水を俳号とする。栄典は正二位勲一等男爵。 明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を務める。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け、初代北海道庁長官となる。 土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。1869年(明治2年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(184… 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保1… 香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保10年11月15日〉- 1915年〈大正4年〉3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。生年は1841年(天保12年)という説もある。 下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。
中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保1… 中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保10年9月9日) - 1903年(明治36年)1月24日)は、日本の政治家、大蔵・内務官僚。群馬県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名は豊作、別名は平太夫、少介。 豊後国日田出身。町年寄・中村善右衛門の子。咸宜園に入り広瀬淡窓に学んだ。明治元年(1868年)、日田県諸取調掛となり、同県大属、大分県権典事を歴任。1874年頃に大蔵省租税大属に転じ、租税寮七等出仕、大蔵省権少書記官、同権大書記官などを務めた。1886年、大蔵省主税局長に就任。 1891年4月、群馬県知事に就任。廃娼の方針を維持し、水利組合の設置や、養蚕糸業の振興に尽力した。1896年1月に知事を退任し、同年1月31日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天… 山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日〈1839年6月21日〉 - 1894年〈明治27年〉6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵。 「尚芳」の読みは「なおよし」とされることが一般だった。しかし、当時の官僚たちの履歴資料が『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所属)として1995年に刊行され、そこに載っていた読みが「ますか」であった。同資料は掲載された人々自身の閲読を経ていることから信頼性は高く、「ますか」の読みが併記されることが増えている。 幼少のころから佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の命令により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や英語を学んだ。
松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年… 松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日) - 1907年(明治40年)10月20日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。 周防国、現在の山口県防府市三田尻出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。 明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1… 渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1月23日 ) - 1924年(大正13年)1月29日)は、日本の官僚、政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、正三位・勲二等、錦鶏間祗候。旧姓・田中[3]、諱・正範、旧名・六之助、六之介[4]。安芸国(現広島県)出身。
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8… 長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の官僚、医師。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5… 渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5月1日〉 - 大正2年〈1913年〉11月10日)は、日本の官僚・政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。兄とともにほぼ同時期に華族に列したが、兄が男爵どまりであったのに対し子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。