和田 正信 は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。備前… 和田 正信 は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。備前国岡山藩家老。
職業が武将:13人
和田 正信 は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。備前… 和田 正信 は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。備前国岡山藩家老。
龐 統 は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。… 龐 統 は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。字は士元 。道号は鳳雛。諡は靖侯。荊州南郡襄陽県の出身。「臥龍 」「伏龍 」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛 」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族兄は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。
橋本 正督(はしもと まさたか)は、南北朝時代の武将。楠木氏… 橋本 正督(はしもと まさたか)は、南北朝時代の武将。楠木氏同族橋本氏棟梁。民部大輔。槌丸城(土丸・雨山城)の城主。父は橋本正茂?。南朝の後村上天皇の治世の中後期、楠木正儀・和田正武に次ぐ有力武将として活躍(1354頃–1369)。正儀離反後、和泉国(大阪府南西部)の守護兼国司に昇り、河内国の正武と共に南朝軍主力となる(1369–1374頃)。南朝没落後は北朝に帰順(1374頃)。のち南朝に帰参して橋本正督の反乱(1378–1380)を起こし幕府の細川業秀に大勝したが、将軍・足利義満の親征の名義のもと山名氏清に討たれた。反乱は室町幕府管領の細川頼之が失脚した康暦の政変(1379)の原因の一つとなった。
井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にか… 井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
浅井 道忠(あさい みちただ)は、戦国時代から安土桃山時代に… 浅井 道忠(あさい みちただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。同時代の資料中では忠久の名しか確認ができていない。 三河国碧海郡箕輪村(現在の愛知県安城市)の土豪出身とされる。 始め水野信元に属し、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは今川義元の討死を松平元康に知らせたと伝わる。岡崎城への退却の際には道案内と警護を務め、その忠節により所領を安堵された。 以降は長らく奉行として領国内の内政に関わる。主に三河国(後に甲斐国)を中心として訴訟や町普請などに携わっていたようである。なお、小栗吉忠や子の道多と共に、俗に三遠奉行と称されたと伝わるが、当時はそのような役職であったわけではない。
佐々木 道彭(ささき どうほう)は、南北朝時代の武将。室町幕… 佐々木 道彭(ささき どうほう)は、南北朝時代の武将。室町幕府出雲国守護代、北朝三河守。名字は上郷とも号す。山名氏に仕え、和泉国守護・山名氏清と共に平尾合戦(1382年)で南朝の名将・楠木正儀を破り、南北朝内乱の終結の一翼を担った。後、軍記物語『明徳記』の有力武将「上郷入道」や、系図類に伝わる上郷氏の祖「上郷 通清」(かみのごう みちきよ)のモデルになった。通清は塩冶高貞(『太平記』『仮名手本忠臣蔵』で著名)の甥とされ、また、15世紀初頭に塩冶氏を再興した後塩冶氏の祖・塩冶満通の父と伝わる。そのため、塩冶 通清(えんや みちきよ)とも呼ばれる。 出雲国(島根県東部)の守護職は鎌倉時代においては宇多源氏の名門・佐々木氏の庶流である塩冶氏が相伝した(出雲源氏)。
黒川 晴氏(くろかわ はるうじ)は、戦国時代から安土桃山時代… 黒川 晴氏(くろかわ はるうじ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。陸奥黒川氏第9代当主。陸奥国黒川郡鶴楯城主。月舟斎と号す。黒川景氏の孫。 大永3年(1523年)、陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の子として生まれる。将軍・足利義晴より偏諱を拝領して晴氏と名乗り、永禄11年(1568年)に兄の第8代当主・稙家が死去すると家督を相続して黒川氏第9代当主となった。 黒川氏は斯波一門・最上氏の分家にあたり、奥州探題大崎氏(最上氏の本家)に属していたが、16世紀初期には伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達一門の飯坂家から養子を迎えており(第6代当主・景氏。晴氏の祖父)、加えて稙宗が大崎氏を実質的に従属させたことで、晴氏の代には黒川氏は半ば独立した地位を保ちつつも、大崎・伊達氏に両属する状態にあった。
伊達 政宗(だて/いだて まさむね)は、出羽国(山形県)と陸… 伊達 政宗(だて/いだて まさむね)は、出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県・福島県)の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩(宮城県・岩手県南部)の初代藩主である。 永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国館山城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗(てるむね)と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は御幣(梵天丸)。生誕地は通説では館山城であるが米沢城とする学説もある。 幼いころ疱瘡(天然痘)を患い、右目を失い隻眼となる。 天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽… 山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる。
長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、戦… 長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての 大名・武将。長宗我部氏第21代当主。長宗我部国親の長男。 国司家である土佐一条氏を追い出し、土佐国を統一。その後、阿波国や讃岐国、伊予国の土豪らを倒して、四国の統一を果たした。 しかし、豊臣秀吉の四国征伐によって降伏し、土佐一国の領有を許された。その後、秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。 内政面では、検地を行ったほか、分国法である「長宗我部元親百箇条」を定めた。 天文8年(1539年)、長宗我部国親の嫡子として、土佐国長岡郡の岡豊城で生まれる。母は本山氏の娘・祥鳳玄陽。土佐守護・細川晴元の偏諱を受け、元親と名乗る。
川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、戦国時代の武将、安土桃山… 川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、戦国時代の武将、安土桃山時代の小大名、後に江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の初代当主。 弘治元年(1555年)、室町幕府13代将軍・足利義輝の奉公衆・川勝継氏の嫡男として、丹波国の桑田郡中山または北桑田郡美山町(現南丹市)静原の島城に生まれた。 父と同じく義輝に仕えるが、足利将軍家の没落後は、織田家に転じた。 天正5年(1577年)、織田信長に従って紀州征伐に参陣した。戦功によって感状を賜る。 その後、豊臣秀吉の馬廻を務めて、「秀」の一字を拝領して秀氏と称した。 天正10年(1582年)9月9日、丹波国何鹿郡内に3,535石を秀吉より与えられた。父継氏の家督を継ぎ、丹波内1万石余を領していたとされる。
永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期に… 永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井宗家初代。 永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の愛知県碧南市音羽町)に生まれる(愛知県東浦町緒川の説もある)。 天正4年(1576年)、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。
船越 景直(ふなこし かげなお)は、戦国時代から江戸時代初期… 船越 景直(ふなこし かげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、江戸幕府の旗本。淡路国荘田主。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉。 天文9年(1540年)、船越景綸の子として誕生。 はじめ父とともに守護細川氏に仕えたが、のち安宅冬康、次いで三好長治に属した。 その後、羽柴秀吉に属し、天正10年(1582年)9月5日、所領を安堵された。 翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに従軍し、同年8月21日に河内国内に替え地を与えられた。 翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、文禄元年(1592年)の文禄の役では御弓鉄砲衆として175名を率いて肥前国名護屋城に駐屯した。