水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日… 水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日(文久元年7月7日) - 1932年3月26日)は、日本の政治家。第3代神戸市長(在任:1905年9月27日 - 1909年)。神戸港の築港に取り組み、第一期工事を実現させた功績から「築港市長」と呼ばれる。肥後国(熊本県)出身。旧姓は斎藤。 斎藤能躬の子として、1861年8月12日(文久元年7月7日)、肥後国(熊本県)に生まれる。1892年(明治25年)3月、水上新平の養子となる。東京帝国大学卒業後、長崎県書記官、貴族院書記官、大蔵省参事官、神戸税関長、横浜税関長などを経て、1905年9月27日に神戸市長に就任。1905年3月17日に辞任した第2代市長・坪野平太郎の後任は市会内の進歩党、政友会による抗争が原因で難航し、2度の投票をもってしても決まらず、仲裁に入った神戸商業会議所会頭岸本豊太郎が兵庫県知事服部一三、大蔵大臣阪谷芳郎らと協議した結果候補に挙がったのが水上であった。
蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年… 蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年8月11日〉 - 昭和24年〈1949年〉1月8日)は肥後国(熊本県)出身の政治家、教育家。衆議院議員(立憲同志会)、熊本英学校校長。Ph.D. 肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)にて、阿蘇神社の直系として生まれる。幼名は三治兵衛。 熊本洋学校と同志社英学校を卒業後、1884年に渡米、留学。次いで1890年に渡英し、1891年に帰国。熊本英学校および熊本女学校の校長を歴任。 1896年、岐阜県で旧制中学校の校長に就任したが、1897年に辞職して上京。帝国教育会主幹として図書館の普及に尽力した。 1900年、政友会創立に参加。日露戦争後は立憲国民党や立憲同志会に所属。
野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元… 野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元年6月26日) - 1918年(大正7年)3月28日)は日本の政治家、公証人。衆議院議員(2期、憲政本党)。 1861年(文久元年)6月、陸奥国西白河郡滑津村(現中島村)にて生まれる。1878年(明治11年)に福島県師範学校(福島大学の前身校の一つ)を卒業する。小学校の教員として勤めたのち、東京法学校(現・法政大学)に学び、公証人となる。戸長、学務委員、福島県会議員などを経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。また、農業を営み、福島新聞社主を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
奥 繁三郎(おく しげさぶろう、1861年8月1日〈文久元年… 奥 繁三郎(おく しげさぶろう、1861年8月1日〈文久元年6月25日〉- 1924年〈大正13年〉9月8日)は、京都府出身の明治・大正時代の政治家。衆議院議長。関西法律学校(現:関西大学)卒。 山城国綴喜郡八幡(現:京都府八幡市)で、代々石清水八幡宮神官の奥家、季次の長男として生まれる。 1879年(明治12年)、京都府師範学校を卒業。小学校訓導兼校長を務めた。関西法律学校在学中に代言人試験に合格後、1888年(明治21年)に京都府会議員となる。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙に京都府第4区から出馬し衆議院議員に初当選。1901年(明治34年)12月、第6回総選挙京都府第4区選出の喜多川孝経の辞職に伴う補欠として当選。
戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6… 戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6月25日) - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の法学者・政治家。学位は、法学博士。 加賀国石川郡金沢城下下本多町(現・石川県金沢市下本多町)出身。戸水義の長男。帝国大学法科大学(現・東大法学部)卒業後、ヨーロッパに留学。帰国後、1894年(明治27年)に帝国大学法科大学教授に就任。ローマ法、民法学が専攻。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦時には富井政章らと「七博士意見書」を提出し、ロシア帝国へ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張。このことからバイカル博士と渾名されることになる。日露戦争末期の1905年(明治38年)に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。
大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろ… 大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろう、1861年8月1日(文久元年6月25日)- 1944年(昭和19年)11月15日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県会議長。長男の岳母は衆議院議員 牧口義矩姉。四男は衆議院議員 丸山豊治郎 弟笠原謙治郞養子。 越後国頸城郡梶村(新潟県中頸城郡梶村、旭村、吉川町梶を経て現上越市吉川区梶)で、素封家・大滝甚十郎の二男として生まれた。儒者に師事して漢学を修めた。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)梶村外23カ村戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により旭村会議員に就任した。
和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延… 和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延元年7月14日〉 - 1919年〈大正8年〉7月18日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。号は吐雲。 但馬国(現兵庫県)出身。豊岡藩士・和田垣譲の次男。1881年東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、ケンブリッジ大学・ベルリン大学で学び、1883年に帰国。文部省御用掛を経て、1886年帝国大学法科大学教授となり、金井延とともに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入、自由主義経済学からの転換を促した。1891年法学博士。1898年の農科大学教授に転じる。また日本女子商業学校校長、東京商業学校校長として民間実業教育に尽力。
依田 銈次郎(よだ けいじろう、1860年8月26日〈万延元… 依田 銈次郎(よだ けいじろう、1860年8月26日〈万延元年7月10日〉 - 1933年〈昭和8年〉9月28日)は、日本の弁護士・内務官僚。政友会系官選県知事。 篠山藩士・依田秀実の長男として同藩江戸藩邸で生まれる。1876年に上京して芳野金陵塾や二松学舎に通った。一時帰郷後再び上京し、講法学舎に入ったが、舎監大岡育造と対立して退学し、斎藤孝治らとともに明治法律学校に入学。1882年、同校を卒業し代言人(弁護士)となり、自由民権運動に参画。 1894年、富山区裁判所判事となり、宮津区裁判所判事に異動。1898年、宮崎県警部長に転じた。以後、福島県警部長、奈良県警部長、高知県警部長、山口県警部長、山口県事務官・第四部長、新潟県事務官・警察部長、石川県事務官・内務部長、東京府事務官などを歴任。
比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万… 比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万延元年6月30日) - 1924年(大正13年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 武蔵国多摩郡三ツ木村(現東京都武蔵村山市三ツ木)出身。漢学と兵学等を学ぶ。農業と牧畜業に従事する。学務員、三ツ木村(のち村山村、村山町を経て、現・武蔵村山市)会議員、三ツ木村外三ヶ村長、神奈川県会議員、東京府会議員、同常置委員、同参事会員、所得税調査委員、地方衛生会委員、日本農民会北多摩郡支部長、東京物品火災保険(株)相談役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において東京13区から無所属で立候補したが落選。同年9月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して落選した。
青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6… 青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6月28日) - 1939年(昭和14年)6月28日)は、日本の政治家(衆議院議員)。 江戸の徳島藩邸で生まれた。廃藩後、徳島県名東郡住吉島村(現徳島市)に移った。藩校長久館、洋学所などで学んだ。 東京帝国大学法科大学を卒業後、地方裁判所検事、弁護士、地方裁判所検事正、控訴院検事、京都府書記官を歴任した。1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に立憲政友会より出馬するも一坂俊太郎に敗れ落選。しかし1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙で武市彰一と争い初当選した。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙にも出馬したが武市彰一に敗れ落選となった。
日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6… 日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての実業家。三越百貨店を創業し三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。 娘のシゲノは陸軍大将・緒方勝一の妻。 幕末の1860年(万延元年)に筑後国久留米藩士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。1876年(明治9年)18歳で江崎済の黒木塾にて学ぶ。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。 剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に福澤諭吉の著作を読んで傾倒し、上京して1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。
綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年… 綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1936年6月27日)は、日本の会衆派教会の牧師である。 1860年(万延元年)医師綱島行篤と母もんの二男として美作国真島郡新庄村に生まれる。大阪で、松村矩明に医学を学ぶ。1877年(明治10年)大阪で波花教会を設立するときに、牧師の沢山保羅より洗礼を受ける。同年同志社の神学部に編入し新島襄の教えに心酔する。 1879年(明治12年)、同志社在学中に上代知新と共に鳥取に派遣される。1880年(明治13年)6月に卒業して、西京第三公会(平安教会)の伝道師になる。日本組合基督教会の成立に伴い、各地に派遣され福島など東北地方の伝道などを行う。
工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延… 工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延元年6月25日) - 1932年(昭和7年)10月2日)は、明治から大正時代の政治家、地主、醸造家。衆議院議員(1期)。 のちの青森県南津軽郡大杉村(のち浪岡町、現在の青森市)に生まれる。地主で酒造業を兼業した。青森県師範学校卒業。1890年(明治23年)青森県会議員に当選し、通算5期14年在任したほか、1898年(明治31年)には県参事会員も務めた。ほか、大杉村会議員、南津軽郡会議員などを歴任した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会非公認で出馬し当選。1914年(大正3年)には政友会を脱党し、翌年の第12回総選挙では落選した。
大島 道太郎(おおしま みちたろう、1860年8月4日〈万延… 大島 道太郎(おおしま みちたろう、1860年8月4日〈万延元年6月18日〉- 1921年〈大正10年〉10月5日)は岩手県盛岡市出身。冶金学を専門とする工学博士であり、日本近代製鉄の父と呼ばれた大島高任の長男にあたる。正三位。 盛岡藩士・大島高任の長男として生まれる。1870年(明治3年)大学南校に入学。1878年(明治11年)に東京帝国大学理学部に転じ、1879年(明治12年)4月にドイツへ自費留学する。1881年(明治14年)3月、同国フライベルク鉱山学校(後のフライベルク工科大学)を卒業し、冶金工師の学位を得て帰朝。道太郎は1890年(明治23年)2月に宮内省御料局技師に任じられ、生野支庁に勤めた。
坪野 平太郎(つぼの へいたろう、1859年8月31日(安政… 坪野 平太郎(つぼの へいたろう、1859年8月31日(安政6年8月4日)- 1925年(大正14年)5月29日)は、日本の教育者、政治家。第2代神戸市長(在任:1901年5月27日 - 1905年3月17日)。号は南陽(なんよう)。石川県出身。 1859年(安政6年)、石川県に生まれる。1886年(明治19年)に東京帝国大学法科卒業。病気療養のために安房郡北条(現:千葉県館山市)に滞在する。北条滞在中は同地に英語学校を開校し、英語やテニスを教えた他、房州が避暑避寒、海水浴に最適であることを全国に紹介したといわれる。その後は外交官(中国副領事)、逓信省参事官、逓信大臣(後藤象二郎)秘書官、神戸郵便電信局長、日本貿易銀行支配人、兵庫県立商業学校(後の兵庫県立神戸商業高等学校)校長を経て、1901年(明治34年)に第2代神戸市長に就任した。
藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8… 藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8月31日〉 - 1907年〈明治40年〉7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。 上野国山田郡浅原村(現・群馬県みどり市大間々町浅原)に生まれる。1874年(明治7年)に神奈川県横浜市の英学校・修文館で学び、1875年(明治8年)より、東京語学校等で学ぶ。 1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、S・R・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年(明治10年)7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。 1879年(明治12年)5月から農商業に従事。1880年(明治13年)新井毫らと盡節社を結成して国会開設運動を展開した。
新開 貢(しんがい みつき / しんかい みつぐ、1859年… 新開 貢(しんがい みつき / しんかい みつぐ、1859年8月27日(安政6年7月29日)- 1924年(大正13年)8月10日)は、日本の政治家。徳島県小松島市出身。 勝浦郡芝生村(現在の小松島市芝生町)で生まれる。徳島市佐古町の岡久塾で漢字を修めた。 1889年(明治22年)、勝浦郡選出の徳島県会議員となり、後に参事会員を兼ねた。1897年(明治30年)には徳島県会副議長に就任した。 1898年(明治31年)、憲政本党より衆議院議員総選挙に出馬し当選、2期を務めた。 1905年(明治38年)頃に満州に出向き、大連市で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
竹田 千代足(たけだ ちよたり、1859年8月23日(安政6… 竹田 千代足(たけだ ちよたり、1859年8月23日(安政6年7月15日) - 1923年(大正12年)10月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。愛知県養成学校(のち愛知第一師範学校、現・愛知教育大学)卒。戸長、六輪村(のち平和村、現・稲沢市)長、同村会議員、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、日光川倉庫(株)銀行頭取、尾三農工銀行、尾張銀行各取締役、名古屋米穀取引所監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年死去。
掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6… 掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6年7月25日)- 1916年(大正5年)2月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県北埼玉郡川俣村長。堀越と表記される場合がある。族籍は埼玉県平民。 武蔵国埼玉郡本川俣村(のち埼玉県北埼玉郡川俣村、現:羽生市)で、豪農・掘越庭七郎、りく夫妻の三男として生まれる。和漢学を修めた。 1874年、本川俣村戸長に就任。自由民権運動に加わり、1876年、埼玉郡羽生町に同志と民権結社通見社を創設した。1879年、国会開設請願書を元老院に提出。1881年、羽生領用悪水路連合会、島川路連合会、羽生中学連合会などの議長となる。同年に自由党が創設されると、1882年、通見社などを母体に自由倶楽部を結成し、これが立憲自由党埼玉部に発展し部理(理事)となる。
小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7… 小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7月23日)- 1939年(昭和14年)7月5日)は、明治から昭和前期の実業家、農業経営者、政治家。衆議院議員。 安房国安房郡南条村(千葉県安房郡南条村、豊房村南条を経て現館山市南条)で、農業・小原桂助、かよ の長男として生まれた。泰西法律学校で学んだ。農業を営む。 安房4郡勧業委員、安房郡相続税審査委員、同町村連合会議員を務めた。1890年(明治23年)3月、千葉県会議員に選出され、立憲改進党に所属し1894年(明治27年)9月まで在任した。1893年(明治26年)11月の立憲改進党全国大会に出席し、その他の出席者有志と同党千葉県支部設置を決議した。
内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6… 内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6年7月22日)- 1945年(昭和20年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。幼名・駒二郎、旧名・道二郎。明治期の石油産業の開拓者であり、日本石油を設立し「日本の石油王」と呼ばれた。 越後国刈羽郡石地村(現新潟県柏崎市西山町石地)で、代々里正を務めた名家の内藤久之、貞子夫妻の二男として生まれる。兄と姉が幼くして死去したため一人息子のように育った。柏崎県黌、横浜の高島学校、新潟英語学校で学んだが、退学して衰退した実家の再建のため懸命に働いた。 1879年(明治12年)4月、戸長に就任。1885年(明治18年)新潟県会議員に当選した。
大島 正健 (おおしま まさたけ、安政6年7月15日(185… 大島 正健 (おおしま まさたけ、安政6年7月15日(1859年8月13日) - 昭和13年(1938年)3月11日) は日本人の宗教家・教育者・言語学者。札幌農学校(現在の北海道大学)の第1期生であり、クラーク博士の教育指導を直接受けた一人となった。クラークの 'Boys, be ambitious' (青年よ、大志をいだけ) との言葉を後世に残す上で大きな役割を果たした。甥に大島正徳。 1859年(安政6年)、相模国高座郡中新田村(現在の神奈川県海老名市)の名主、大島彦三郎正博・その妻 縫(縫子)の四男(実質次男)として生まれた。幼名は金太郎。兄(三男、実質長男)の頼三郎正義が温厚でおとなしかったのに対し、金太郎は活発な性格であったという。
橋元 勗(はしもと つとむ、1859年8月11日(安政6年7… 橋元 勗(はしもと つとむ、1859年8月11日(安政6年7月13日) - 1917年(大正6年)4月18日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国珠洲郡野々江村(のち石川県珠洲郡直村、現・珠洲市)出身。普通学を学ぶ。製塩業を営み、石川県会議員、珠洲郡会議員、同参事会員、直村長となる。また、石川県勧業諮問委員、珠洲郡製塩同業組合長、大日本塩業調査委員、珠洲郡畜産組合会長を務めた。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川4区から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年に死去した。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858… 北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858年8月29日〉 - 大正15年〈1926年〉1月18日)は、明治から大正時代の日本の政治家、実業家。函館区長。通称は縫人、清次郎。 盛岡藩士・北守政智の長男として生まれ、1870年(明治3年)家督を相続し、盛岡藩権大属となる。当時、北守家は御新丸番頭家格で家禄は250石。同年免官し、1876年(明治9年)岩手県に出仕。地租改正係となる。その後、県税係を経て、1878年(明治11年)開拓使函館支庁に出向し、会計課配属となる。翌年の1879年(明治12年)民事課に転じ、1880年(明治13年)岩手県からの出向停止となり、開拓使に採用され准判任官に任官。
森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5… 森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5年7月18日) - 1899年(明治32年)2月23日)は熊本バンドの一人である。 1858年肥後国山鹿郡上永野村(現山鹿市)の熊本藩士の鈴木家に生まれ、森田家の養子になる。 藩校時習館で和漢の学問を修め、1871年熊本洋学校に入学。卒業後に洋学校の教師になる。1876年熊本バンドの盟友と共に、同志社英学校に入学する。卒業と同時に、同志社の教師になる。教師業の傍ら、『六合雑誌』に哲学と理学の論文を発表する。 イェール大学に留学し、ジョージ・トランブル・ラッドに師事する。ヘルマン・ロッツェの哲学の研究をし、ロッツェの形而上学と仏教の教義の比較研究で哲学博士号を取得する。
高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(… 高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(安政5年7月17日)- 1926年(大正15年)6月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(5期)。 高橋佐十郎の子として、出雲松江藩領神門郡稗原村(島根県神門郡稗原村、簸川郡稗原村を経て現出雲市)に生まれる。奉緘斎の門に入り漢籍を修めた。農業を営む傍ら、1876年(明治9年)第四十八区戸長に就任し、1881年(明治14年)稗原村戸長に転じた。1884年(明治17年)郡民より推され、島根県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、簸川郡会議員、同議長、道路会議議員、郡農会長、郡蚕業同業組合長、郡青年農業団総裁を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第3区から出馬し当選。
田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23… 田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23日 - 1928年(昭和3年)10月18日)は、日本の実業家。参天製薬創業者。
紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年… 紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年7月14日〉 - 1947年〈昭和22年〉8月17日)は、日本の政治家、実業家。 1858年、長州藩の永代家老福原家の家臣の家に生まれる。 父は紀藤海蔵、兄に紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)、紀藤礼蔵らがおり、1878年(明治11年)に家督を相続し、前名の織人から織文に改名した。 長じて和仏法律学校に入学して法律学を修め、郷土の民政に参与した。1898年(明治31年)6月から1902年(明治35年)6月まで宇部村長を務めた。そのほか、厚狭郡会議員、山口県会議員などに選ばれ、地方政治に貢献した。一転して宇部村の実業が盛んとなったものの、殖産興業に必要な銀行がないことに憤りを感じ、1912年(明治45年)に宇部銀行を設立し、その初代取締役頭取に就任した。
藤田 達芳(ふじた たつよし、1858年8月7日(安政5年6… 藤田 達芳(ふじた たつよし、1858年8月7日(安政5年6月28日)- 1923年(大正12年)6月21日)は、明治から大正期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。塩業功労者。旧姓・小野。 伊予国新居郡松神子村(愛知県新居郡松神子村、神郷村を経て現新居浜市松神子)で、小野甚三郎の三男として生まれた。幼時に新居郡郷村(現:新居浜市)多喜浜塩田支配人の一人、藤田五郎の養子となる。泉川の遠藤石山に師事し漢学を修めた。その後、大阪で数学を学び詩文に親しみ、1889年(明治22年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業して帰郷した。 1893年(明治26年)多喜浜東浜産塩会社の設立に参画して重役となり、終生、塩業と係わった。
伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月… 伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月25日) - 1919年(大正8年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 士族・大矢益彦の二男として越後新発田藩領蒲原郡中高井村(新潟県中蒲原郡中高井村、根岸村、白根町、白根市を経て現新潟市南区)に生まれ、12歳の時北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)の伊藤退蔵の養子となる。。1883年(明治16年)7月、東京大学法学部を卒業し、判事となり、。東京始審裁判所刑事公判および会議局に職を得た。翌年仙台始審裁判所詰めとなる。1886年、東京控訴院評定官を経て、1892年(明治25年)東京控訴院部長なった。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7… 麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。
中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(185… 中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(1857年8月26日)- 1937年(昭和12年)4月11日)は、日本の医師、医学者。ジョン万次郎の子。 中浜万次郎の長男として江戸土佐藩邸中屋敷にて出生。明治5年(1872年)、横浜十全医院に入り医学を研修、翌6年(1873年)に大学東校に入り、明治14年(1881年)に(旧)東京大学医学部を卒業。 1881年(明治14年)に福島県医学校校長に任命され、その後、岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任。1885年(明治18年)10月、内務省の命により、衛生学に属する部分の研究のためドイツへ留学差遣される。1886年(明治19年)1月、ライプツィヒ大学衛生試験所の衛生学ホフマン教授に師事する。
松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年… 松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年6月25日) - 1911年(明治44年)2月1日)は明治時代の日本の化学者。理学博士。 第三高等中学校(京都大学の前身の一つ)教頭、文部省専門学務局長、東京化学会(日本化学会の前身の一つ)会長、東京帝国大学(東京大学の前身)農科大学長・総長を歴任した。 以上のことから文展審査員となっている。 弟は国文学者の和田万吉。 また、松井は8男8女の計16子をもうけているが、8男で山上家の養子となった山上八郎は、日本の甲冑についての研究で知られている。
木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(… 木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(安政4年6月27日)- 1930年(昭和5年)9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市)出身。農業を営む。明石郡松蔭村(現・明石市)戸長、大久保村会議員、明石郡会議員、兵庫県会議員、同県農会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫7区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では兵庫5区から政友本党公認で立候補したが落選した。1930年に死去した。
赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6… 赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6月19日) - 1896年(明治29年)3月8日)は、岡山県士族の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4… 芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4年6月18日)- 1928年(昭和3年)4月30日)は、明治期の地主・銀行家・政治家。衆議院議員、京都府天田郡初代中六人部村長。号・光月。元首相の芦田均の父。 丹波国天田郡宮村(京都府天田郡中六人部村字宮を経て現福知山市)で、大地主、大庄屋・芦田治左衛門の長男として生まれる。綾部藩の近藤寡斎、沢井広重などに師事し、綾部藩郷学校・広畔堂で修学。その後、京阪に遊学した。 1875年(明治8年)3月、豊岡県の天田郡宮村用掛に就任し、さらに同県第十七大区四小区副戸長を務めた。1876年(明治9年)天田郡が京都府に編入され、同年10月、天田郡第一区副区長兼学区取締となる。
加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月… 加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月16日) - 1907年(明治40年)9月23日)は、東京生まれの教育者であり、東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人である。 1857年(安政4年)6月16日、江戸(現・東京)に生まれた。東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(18… 土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(1857年8月4日) - 昭和11年(1936年)12月7日)は、山梨県出身の郷土史家。号は夏堂。 甲斐国八代郡白井河原村(後の東八代郡中道町、現在の甲府市白井町)に生まれ、徽典館で修学。その後教職に就き明治12年(1879年)に西八代郡富里村の市瀬学校校長心得となった後、同郡内、車田村の車田学校、三沢村の三沢学校、久那土村の久那土尋常小学校(現在の身延町立久那土小学校)、高田村の高田尋常小学校の各校長を務めている。明治31年(1898年)6月には宮城県の徴任に応じ、登米郡米山村(現在の登米市)の米岡小学校及び同郡南方村(現在の登米市)の南方小学校の校長となった、明治41年(1908年)12月に山梨県に帰郷後、明治42年(1909年)4月に西八代郡大塚村(現在の市川三郷町)の大塚尋常小学校(現在の市川三郷町立大塚小学校)校長を務め、大正2年(1913年)11月に退職するまでの36年間、西八代郡教育会長、宮城県登米地域の教育講習会長など教育関係の役職を務め教育界に貢献している。
岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年… 岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の政治家、鉄道実業家である。 尾張国海東郡津島村(現在の愛知県津島市)で生まれる。1865年に中島郡の忍順寺に入って、服部諦信と改名し、約7年間修業した。1879年に愛知県師範学校を卒業した後に宮口学校、飛島学校などで教鞭を取った。1882年に岡本家の養子となり、岡本清三と名乗る。1886年に津島村会議員に就任し、1890年から1903年6月までに愛知県会議員を務めた。1890年の第3回内国勧業博覧会で電車を見たのを機に愛知県での電気鉄道敷設に奔走し、1894年に愛知馬車鉄道の取締役に就任し、名古屋電気鉄道取締役と尾西鉄道取締役も務めた。
角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安… 角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1919年(大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人・政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人(弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等は正六位、勲四等。 農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。 その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた。
横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8… 横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8月21日) - 昭和9年(1934年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 播磨国加西郡賀茂村(現在の兵庫県加西市)出身。兵庫県姫路師範学校を卒業後、小学校教員となるが、大阪に出て緒方義塾で薬学を学んだ。1885年(明治18年)より神戸市に薬局を開業し、後に兵庫県薬剤師会会頭、神戸薬業組合長を務めた。また神戸市会議員、同議長、兵庫県会議員、同参事会員に選出された。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回まで3回連続当選を果たした。 その他、神戸商業会議所理事となり、神戸瓦斯株式会社・神戸電気株式会社(後の神戸市電)・兵庫電気軌道株式会社(現在の山陽電気鉄道)の設立にも関わった。
川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年… 川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年7月18日) - 1920年(大正9年)3月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 相模国高座郡下土棚村(神奈川県高座郡六会村を経て現藤沢市)出身。漢学、数学を修める。小学校教員、村会議員、神奈川県会議員を歴任した。ほか、生糸製造業に従事し県製糸同業組合長、相州大成、相模肥料各社長、藤沢町外六ケ村産業組合長を務め、模範共同揚返所を創立した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から立憲同志会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政… 根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 没年不詳)は、明治時代の事業家。 1856年、東京府士族根岸勝平の次男として生誕。1880年に家督を相続。東京帝国大学予備門卒業。 千代田鋳工、東京缶詰、東神火災保険、日仏シトロエン自動車で社長、日本商船基隆支店助役、日本郵船ロンドン支店助役などを経て、日本郵船、揖斐川電気の重役。 1918年(大正7年)に東京動産火災保険の発起人・社長となる(翌年には反町茂作が社長に就任)。
大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3… 大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3年7月13日) - 1905年(明治38年)3月31日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 江戸、のちの東京市小石川区小日向台町(現東京都文京区小日向)に生まれる。1870年(明治3年)横須賀製鉄所技術伝習生を経て、1872年(明治5年)大学南校に入り、1875年(明治8年)司法省法学校正則第1期補充生となった。1876年(明治9年)司法省御用掛となるが翌年1月に廃官となる。1880年(明治13年)代言人免許を取得し、横浜代言人組合に加入。1882年(明治15年)同会長に就任した。1886年(明治19年)5月、尾上町に横浜法律学校を創立し校主を務めた。
千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安… 千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安政3年7月12日) - 1938年(昭和13年)10月18日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大日本帝国海軍軍人。衆議院議員。 苗木藩留守居役・千早正理の次男として、美濃国恵那郡日比野村(岐阜県恵那郡苗木村、苗木町、中津川町を経て現中津川市)に生まれる。1878年(明治11年)海軍主計学校を卒業する。同年、兄の千早正路が割腹自殺する。 海軍省に出仕し、1886年(明治19年)供給課長を経て累進し海軍大主計(大尉相当官、後の主計大尉)に進んだ。このころ、同じ海軍主計学舎第一期卒業生の飯村知、加唐為重とともに軍を辞め、生命保険会社設立を企画するも断念(加唐はその後帝国生命保険を設立)。
樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7… 樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7月11日) - 1933年(昭和8年)11月10日)は、青森県出身の政治家、実業家。 安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(浪岡町を経て現青森市)に山内伝三郎の三男として生まれた。 一代で財を築き、当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与。 明治25年に町会議員に当選して以来、20年にわたって町会・市会議員を務め、明治43年には市会議長に就任。明治45年には衆議院に当選(政友会)。 この間、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽力。 大正10年青森貯蓄銀行(のち,みちのく銀行)を設立,頭取となる。他に、第五十九銀行監査役,青森電灯取締役などもつとめた。