並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元… 並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元年8月11日)- 1926年(大正15年)6月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長、島根県能義郡安来町長。本家並河家14代当主。号・適處(てきしょ)。 出雲国能義郡安来町(島根県能義郡安来町を経て現安来市)で、本家並河家12代・三郎兵衛方月の二男として生まれた。山村勉斎に師事し漢学を修めた。1877年(明治10年)6月、本家並河家14代の家督を相続した。 安来村戸長、学務委員、所得税調査委員、安来町会議員、徴兵参事員、島根県会議員、同議長、安来町長、能義郡会議員、島根県農会長、地方森林会議員、能義郡教育会長などを務めた。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(… 司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(万延元年8月7日) - 1917年(大正6年)9月22日もしくは9月26日)は、大和国葛下郡(現在の奈良県葛城市)出身で小野川部屋、玉垣部屋、雷部屋、八角部屋に所属した力士。本名は勇川 政吉。7代大嶽、5代中立。身長不明、体重は70kg。最高位は西小結。 大坂相撲の小野川部屋から、1880年5月に三段目格で初土俵。1885年5月には新入幕を果たした。所属が八角部屋になったことから、四股名を鶴ヶ濱から司天龍に改めている。以後幕内20場所を務め、その間にはのちの横綱・小錦八十吉に幕内初黒星を付けた。1895年1月限りで引退し、年寄大嶽を襲名した。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万… 中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万延元年7月22日)- 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の政治家。衆議院議員、大日本国粋会・第2代会長。旧姓は小林。 1860年(万延1年7月)に丹波国南桑田郡にて生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 京都市会議員・参事会員、京都府会議員などを経て、1908年(明治41年)に第10回衆議院議員総選挙に当選する(以後2期当選、立憲同志会)。 1919年(大正8年)に大日本国粋会の設立に参加し、理事長に就任し、1929年(昭和4年)に会長に就任する。 1932年(昭和7年)10月27日に死去、72歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年… 高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) - 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年… 山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年9月1日) - 昭和2年(1927年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 美作国真島郡勝山(現在の真庭市)出身。1882年(明治15年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。代言人、弁護士として活動した。勝山町会議員、中国鉄道株式会社支配人、阿哲銀行頭取などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1916年(大正5年)の補欠選挙でも再選を果たした。
和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月… 和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月4日) - 1918年(大正7年)1月5日)は日本の気象学者、海洋学者。東京大学理科大学物理学科を卒業し中央気象台の前身である内務省地理局測量課気象掛に勤め、気象事業の統轄と気象の調査研究に一生をささげた。暴風警報や天気予報の創始者である。主な業績は1880年の富士山頂での気象観測、日本近海の海流調査、及び研究。また東京物理学講習所(現東京理科大学)の設立者の一人でもある。 1893年農商務省水産調査所の水産調査委員会会員として海流瓶による日本近海の海流調査を提唱し、1893,94,95年に海流瓶を放って親潮、黒潮の状況を調査した。科学的に日本近海の海流が調査されたのは初めての事だった。
木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9… 木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9月3日) - 1944年(昭和19年)6月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、法学者。正三位勲一等、法学博士。 文部次官、行政裁判所評定官、貴族院議員を歴任した。 薩摩藩士で、判事や神職を務めた木場清生(きよなり、木場伝内)の子。 東京大学卒。文部省に入り、伊藤博文政府団の一行に留学生として抜擢され、ドイツに留学、大日本帝国憲法作成に貢献する。ドイツではハイデルベルク大学にて、心理学、法学、政治学の博士課程を修了する。帰国後は文部大臣森有礼の下で、文部参事官として、近代国家としての教育制度の確立に尽力。高等教育会議、臨時教育会議の委員も務め、教育行政、学制改革にも携わる。
十二代 内ヶ﨑 儀左衛門(うちがさき ぎざえもん、安政6年8… 十二代 内ヶ﨑 儀左衛門(うちがさき ぎざえもん、安政6年8月22日〈1859年9月18日〉- 1898年〈明治31年〉7月14日)は、明治時代の日本の政治家・醸造家。宮城県黒川郡富谷村3代村長。第十二代内ヶ﨑家当主。諱は義隆のため、内ヶ﨑儀左衛門義隆とも呼ばれる。親族には衆議院議員の内ヶ﨑作三郎がいる。 安政6年8月22日(1859年9月18日)、陸奥国黒川郡富谷村(現在の富谷市富谷字町)に内ヶ﨑本家・第11代内ヶ﨑儀左衛門(内ヶ﨑儀左衛門義詮)の次男として生まれた。幼名は源六であったが、1885年(明治18年)に第11代内ヶ﨑儀左衛門が六十歳で亡くなると第12代内ヶ﨑儀左衛門を名乗った。 内ヶ崎酒造店の十二代目として醸造業を営みつつ、1894年(明治27年)10月から1898年(明治31年)4月まで富谷村長を務めた。
岡田 時太郎(おかだ ときたろう、1859年9月13日(安政… 岡田 時太郎(おかだ ときたろう、1859年9月13日(安政6年8月17日) - 1926年(大正15年)6月5日)は、日本の建築家。同郷でもある辰野金吾の門下生で、茨城県牛久市にあるシャトーカミヤや、長野県軽井沢町の旧三笠ホテル(いずれも国の重要文化財)の設計を手がけた。 唐津藩下に、辰野金吾生家のすぐ近くで生まれ育つ。1872年(明治5年)、唐津藩が設置した英語学校である耐恒寮に入学し、3年間英語を学ぶ。 1875年12月に大阪の英学校へ進学、翌1876年3月に造幣寮附属日進学校に入学した。日進学校では4年英語を勉強する。在学中の1876年5月に造幣寮に入官し、文書課詰となる。1877年10月に造幣局(この年1月11日に造幣寮より改称)貯蔵掛に移る。
響舛 市太郎(ひびきます いちたろう、安政6年8月17日(1… 響舛 市太郎(ひびきます いちたろう、安政6年8月17日(1859年9月13日) - 明治36年(1903年)7月4日)は、加賀国石川郡押野村(現在の石川県野々市市)出身で鯨波部屋(京都)から中立部屋、境川部屋を経て高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は河→井ノ口→河 市太郎(粂次郎とも)。最高位は関脇。身長173cm、体重114kg。所属は 京都相撲を経て東上し、怪力を活かした右ハズからの押しを武器に入幕3場所目には小結に昇進。相手に土俵際まで追い詰めさせてからのもうっちゃりも得意で、待ったを何度もすることから「待った博士」の異名も。愛嬌の無い容貌で人気に乏しかった。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1… 河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 昭和13年(1938年)4月4日)は、日本の医学者、眼科医。帝国大学名誉教授、医学博士。日本近代眼科の父。号は光堂。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通う。 東京大学医学部入学。首席で卒業。卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。 明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学に留学。明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。
大久保 彦三郎(おおくぼ ひこさぶろう、安政6年8月16日(… 大久保 彦三郎(おおくぼ ひこさぶろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 明治40年(1907年)7月19日)は、日本の教育者。四国最古の私立学校「忠誠塾」「盡誠舎」(後の尽誠学園)の創始者。香川県議会副議長。 讃岐国三野郡財田上村戸川(現・香川県三豊市財田町財田上字戸川)、大久保森冶の五男。大久保諶之丞の弟で剛石または在我堂と号した。次男は尽誠学園学園長を務めた大久保直広。 1878年(明治11年)に京都に上り、三国大学(幽眠)・松岡正貫の塾で国学・漢学を学ぶ。翌年に東京に上って三島中洲が設立した二松学舎に学ぶが、病気により帰郷。回復後、戸川に私塾「忠誠塾」を設立。1888年(明治21年)に京都で私塾「盡誠舎」を開いた。
中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8… 中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1905年(明治38年))は、メソジストの牧師。禁酒運動、廃娼運動に大きな働きをした。弘前ではリバイバル運動の先鋒だった。中田重治の実兄。 弘前藩足軽の父兵作、母千代の間に3人兄弟の長男として現在の青森県弘前市に生まれる。明治維新後、一家は南津軽郡大光寺村へ移住する。1875年、父の兵作が脳溢血で死去する。その後は弘前に戻り東奥義塾に通う。1878年、軍人養成所に入所して、西南戦争に出征するも、実戦に参加せずに1883年に弘前へ帰郷する。スパルタ式教育で弟の重治を教育する。 1884年(明治17年)軍隊へ戻り、金沢連隊の営所に転勤する。
三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月… 三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1933年(昭和8年)2月19日)は、日本の医師・医学者。医学博士。千葉医科大学(現千葉大学医学部)初代学長。第15回日本外科学会会長。尾張国(現愛知県)出身。 三輪徳寛の故郷尾張国海西郡早尾村(現・愛知県愛西市早尾町)は木曽川河口の立田輪中にあり、徳寛が生まれた安政年間は戸数70戸弱の集落だった。三輪家は早尾村で代々医術を生業とし、祖父三輪景之進は産科を、父三輪徳太郎(字大成)は眼科医を営んでいた。父徳太郎は京都にて眼科医として当時名高かった中目道純に学び、帰郷後の1851年嘉永4年に早尾で開業し評判を得、三輪家は裕福な家であった。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。
西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(… 西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(安政5年8月18日)- 1933年(昭和8年)12月15日)は、明治から昭和初期の大地主・実業家・政治家。衆議院議員、鳥取県東伯郡北谷村長。幼名・亀吉。「西金」と称され鳥取県政界の指導的存在であった。 伯耆国久米郡、のちの鳥取県久米郡北谷村(東伯郡北谷村を経て現倉吉市)で、大地主、庄屋・西谷萬市の長男として生まれる。1884年(明治17年)1月、家督を相続し金蔵に改名。漢学を修めた。農業を営む。 1879年(明治12年)三徳ほか21ヵ村戸長に就任。北谷村長、北谷村会議員、同議長、東伯郡会議員、同議長、数郡連合会議員、郡会大地主議員、衛生会委員、学務委員、徴兵参事員、所得税調査委員、日本赤十字社委員などを務めた。
田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安… 田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安政5年8月17日)- 1939年(昭和14年)1月19日)は、明治・大正期の政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡水代村(大平村、大平町を経て現栃木市)で、農業・田村政七の長男として生まれる。松本暢に学んだ。1882年(明治15年)7月、家督を相続。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)自由党に入党した。1884年(明治17年)官吏侮辱被告事件に関与したが免訴となり、加波山事件に連座し投獄された。同年、栃木県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任し、1890年(明治23年)副議長となった。 大同団結運動に加わり、下野有志懇親会の発起人に就任。
熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月… 熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月21日(安政5年8月15日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北村。 筑後国三潴郡、のちの福岡県久留米市で久留米藩士・北村養啓の二男として生まれ、三潴郡木室村中木室(現大川市)の熊本謹蔵の養子となる。和洋学を修めた。 1886年(明治19年)福岡県の花筵業振興のため合資会社共産社を設立。花筵の製造、販売に従事し、染料の改善、染釜の改良などにより製品の品質向上に尽力した。また、筑後茣蓙商同業組合頭取、福岡県花筵同業組合長などを務めた。その他、三潴銀行取締役、福岡県農工銀行監査役にも在任した。
10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日… 10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日(安政5年8月14日)- 1934年(昭和9年)4月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・林。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の二男として生まれ、のちの岐阜市玉井町の材木商・9代桑原善吉の婿養子となる。1889年(明治22年)7月、家督を相続した。 家業の材木商「桑善」を営む。1877年(明治10年)10月に創立した第十六国立銀行(後の十六銀行)の経営に参画し、重役を経て頭取に就任した。また、岐阜電気取締役、岐阜貯蓄銀行頭取、岐阜材木同業組合長、第4代岐阜商業会議所会頭、岐阜県地方森林会議員などを務めた。
荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈185… 荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈1858年9月19日〉 - 1920年〈大正9年〉7月22日)は、明治から大正前期の公証人、政治家。衆議院議員。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 上野国邑楽郡石打村(群馬県邑楽郡石打村、高島村大字石打、中島村、邑楽村を経て現邑楽町石打)で、名主・荒井源十郎、みね の長男として生れた。英僊三から読書、習字を学び、1874年(明治7年)に上京して飯田章湖の塾に入門して漢学を修めた。 帰郷して、1880年(明治13年)蜂巣長五郎を招聘し幽谷義塾を開き、主として英学、漢学、数学を郷土の子弟に教えた。1881年(明治14年)再度上京して明治法律学校(現明治大学)で法律学、経済学を学んだ。
川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5… 川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1930年(昭和5年)3月26日)は、明治から昭和時代初期の政治家、畜産家。衆議院議員(1期)。 遠江国、のちの静岡県山名郡於保村(磐田郡於保村を経て現磐田市)出身。畜産業を営み、興農社、畜産組合、共同競馬会などを創立したほか、獣医養成所、水産物製造伝習所を設立した。ほか、副戸長、村長、静岡県会議員、同参事会員、磐田郡会議員、地方森林会議員を歴任した。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(… 深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1907年(明治40年)2月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 河内国交野郡尊延寺村(のち大阪府北河内郡氷室村→津田町、現・枚方市)に生まれる。漢学を学ぶ。農業を営み、商業に従事する。学務委員、勧業委員、衛生委員、茶業組合会議員、町村組合会議員、地方教育会頭、氷室村長、北河内郡会議員となる。また、山城起業銀行、河内酒造会社各取締役を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において大阪6区から無所属で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では大阪府郡部から帝国党公認で立候補したが落選した。
大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安… 大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安政5年8月8日)- 1917年(大正6年)2月25日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪府堺市長。 和泉国大鳥郡堺甲斐町西四丁(現堺市堺区)で、代々具足屋の屋号で両替商を営んだ大西家当主・先代大西五一郎の長男として生まれる。大和国の儒学者谷三山に漢籍を学んだ。 1881年(明治14年)大西銀行を設立して頭取に就任し終生在任した。1886年(明治19年)3月、家督を相続し五一郎を襲名した。堺商業会議所副会頭、大阪電機製造取締役、大阪電気信託取締役、市立堺商品陳列所長、第5回内国勧業博覧会評議員などを務めた。 1879年(明治12)堺区学区取締に就任。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月… 高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月2日) - 1943年(昭和18年)12月23日)は、陸奥国泉藩(福島県)出身の医学者、細菌学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府医学校第2代校長、台湾電力(台電)初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから『台湾医学・衛生の父』として知られているほか、戦前台湾の民主化運動(zh:臺灣民主化)を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた。 陸奥国菊多郡泉藩松小屋村(現在の福島県いわき市泉地区・渡辺町松小屋)で出生。 東京大学医学部(現・東京大学大学院医学系研究科・医学部)在学時に高木は先輩の北里柴三郎(1853-1931)と交流もあった。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日… 團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 -… 磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 - 1897年〈明治30年〉12月14日)は、日本の明治期の実業家。明治屋を創業した。 安政5年8月(1858年9月)、美作国津山(現在の岡山県津山市)で、父の津山藩士・磯野湊と母・常の次男として生まれる。磯野家と母の実家の太田家は、ともに藩内で最上格の御譜代(明治維新時は35家)に含まれていた。幼少期は四書五経を学び、明治元年(1868年)に10歳で神戸に出て、箕作麟祥の塾で英学を学んだ。翌明治2年(1869年)3月に麟祥が上京したため、計は津山に戻っている。 津山で数ヶ月間過ごした後、藩の留学生として上京すると箕作秋坪の三汊学舎に入塾して英語を学び、秋坪の助手的な役割を務めるようになった。
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月… 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は、日本の応用化学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。福岡藩の貢進生として1870年に大学南校入学。ロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事して理化学を学び、1878年東京大学化学科卒業。その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだほか、現地の縫製会社で働いて実地研修をした。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に親戚の判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。商工局第三課長時代に、新しく農商務大臣に就任した後藤象二郎が局長人事に不満をもったことから1893年に退職し無職となったが、1894年に大阪府立商品陳列所長となり、大阪府の工業顧問にも就任した。
伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年… 伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年8月5日)- 1895年(明治28年)2月5日)は、明治時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 盛岡藩目付役の父、伊東元右衛門の子として盛岡に生まれる。幼くして藩校作人館に入り和漢学を修め、大清水の小原洋学塾で学び、上京したのち岩手県聴訴課に奉職する。法律に目覚め、官を辞して法学を研究し、1875年(明治8年)代言人となった。翌年、協同社を、1878年(明治11年)には改進社を設立、さらに同社を合併し自由党盛岡支部を設立するなど自由民権運動に傾倒するが、1884年(明治17年)政談演説会で黒田内閣顧問の職務を誹毀したとして侮辱罪に問われ重禁錮2ヶ月罰金10円に処された。
青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9… 青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 大正10年(1921年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 豊前国小倉城下(現在の福岡県北九州市小倉北区)に、小倉藩士鎌田思誠の四男として生まれ、青柳彦蔵の養子となった。法律学を学んで、代言人となった。福岡県会議員に選出され、参事会員も務めた。 1900年(明治33年)、衆議院補欠選挙で当選。第7回衆議院議員総選挙、第8回衆議院議員総選挙でも再選された。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年… 高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年9月20日〉 - 1923年〈大正12年〉5月20日)は、明治時代から大正時代の鉄道員・鉄道官吏。新橋停車場の下級駅夫より鉄道院副参事まで累進した最古参の鉄道員として知られた。初代東京駅長。名は「ぜんいち」とも。 三河国渥美郡西伊古部村(現・豊橋市伊古部町)にて、河合善七(福井県平民)の次男として生まれ、幼くして同郡赤沢村(現・豊橋市赤沢町)の高橋祐二の養子となり、のち高橋さくと婚姻した。 数え14歳で海軍を志して上京、早稲田の北門社に入塾したが、新橋・横浜間の汽車を見物したの機に、1873年(明治6年)につてを得て新橋停車場(のち汐留駅)の下級駅夫として雇われた。
若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政… 若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政4年8月2日)- 1938年(昭和13年)5月3日)は、日本の速記者である。幼名は銓太郎。 武蔵の埼玉郡加須に生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中の1882年(明治15年)に田鎖綱紀に師事し、彼が開いた日本傍聴筆記法講習会の記念すべき第一回講習生して加入した。これにより、卒業後の1884年(明治17年)に埼玉県議会の議事記録に携わる。 その後は矢野龍渓が著した『経国美談』の後編や三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』の速記したものを版にする事にも携わり、速記物の実用化に貢献した。これにより若林は多くの速記者の育成や、1890年(明治23年)には帝国議会における衆議院の常任速記者としても活動した。
植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政… 植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政4年8月2日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は日本の実業家、政治家。島原鉄道および口之津鉄道(のちに島原鉄道に合併)、温泉軽便鉄道(のちの雲仙鉄道)、小浜鉄道(同)を設立し、島原半島内の鉄道網の整備を進め、のち初代島原市長を務めた。号「鉄狂斎」。 1857年、肥前国高来郡多比良村(長崎県南高来郡多比良町、国見町を経て現雲仙市国見町)で、酒造業を営む植木直平の子として生まれる。肥前鹿島の谷口藍田に漢学を、長崎の中島広行に国学を学んだ。 1874年(明治7年)、父の没後家業を継ぐ。1879年(明治12年)頃から副業として山野の開墾や海面埋め立てにより農地を造成しクワや果樹の栽培を手がけ、養蚕製糸業を営む。
渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9… 渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9月15日) - 大正8年(1919年)6月29日)は、日本の冶金学者。 長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。
木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7… 木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7月26日〉- 1917年〈大正6年〉8月10日)は、日本の宮内官、政治家、華族(侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎。 長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を襲爵()。1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した。 1871年(明治4年)、アメリカ合衆国に留学。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月… 渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は日本の翻訳家、著作家、教師、ジャーナリスト、自由民権家として明治期に活躍した人物である。渋江抽斎の実子で、本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。森鷗外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であるというのが一般的な評価である。 渋江は親交の深かった多くの民権家が民権運動後期に至り、アジアへの国権拡張を主張する中で、誰もが唱えなかった植民地問題について深い理解があった。多くの自由民権思想家が自国民の自由民権だけを意識してきたのに対して、渋江は代表作『万国戦史』の編纂をとおして戦史思想を展開し植民地政策に反対を唱えた。
山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年… 山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年7月25日)- 1932年(昭和7年)12月17日)は、明治から昭和初期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 若狭国遠敷郡小浜酒井町(福井県遠敷郡小浜町を経て現小浜市酒井)で、小浜藩士・山口甚太夫の三男として生れる。 1886年(明治19年)代言人試験に合格し、1893年(明治26年)弁護士登録を行い、大津、京都で開業。その後、帰郷して1895年(明治28年)4月、小浜町会議員となる。遠敷郡会議員、同参事会員にも在任。1897年(明治30年)8月、福井県会議員に初当選し、1908年(明治41年)3月まで通算5期、10年6ヵ月在任した。
10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(… 10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(安政4年7月22日) - 1915年(大正4年)12月31日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長、北海道河西郡帯広町長。旧姓・富永、初名・守次郎。 淡路国津名郡(後の鮎原村、現洲本市)で富永包方の二男として生まれる。徳島藩校で漢学、撃剣を修め、その後英語を学んだ。1877年、洲本町の商人・9代奥野小四郎の死去に伴い、その養嗣子となり10代小四郎を襲名。 1881年、淡路汽船 (株) を起こし翌年社長に就任。淡路紡績 (株) 社長、淡路製陶 (株) 社長などを務めた。その他、洲本町長、洲本町会議員、洲本商工会会長、津名郡会議員、同郡会議長、同郡参事員、徴兵参事員、兵庫県会議員などを歴任。
関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月1… 関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月16日〉- 1934年〈昭和9年〉4月21日)は、日本のジャーナリスト、政治家、弁護士。東京日日新聞社長、衆議院議員、貴族院議員。 江戸で紀州藩士関平兵衛の次男として生まれる。築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。 1883年(明治16年)、東京大学法学部法律科を卒業後、東京日日新聞入社。東京専門学校・英吉利法律学校の各講師、東京日日新聞記者、日報社社長などを務め、後に弁護士となり東京弁護士会長も務めた。さらに、東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油の各社長などを歴任。 政界にも進出し、麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任。
松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856… 松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856年9月27日) - 昭和14年(1939年)4月22日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 遠江国豊田郡美川村(現在の静岡県袋井市)に金井文平の二男として生まれ、長上郡五島村(現在の浜松市中央区)の松島五右衛門の養子となった。東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)、静岡県会議員に当選した。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に当選。以後、当選回数は6回を数えた。 また、静岡民友新聞社を創設し、社長を務めた。
松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月… 松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月17日(安政3年8月19日)- 1938年(昭和13年)1月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、札幌市会議長。 但馬国出石郡水上村(現兵庫県豊岡市)で、庄屋・松田甚次郎の長男として生まれる。 1881年6月、徳島県属に任じられ、以後、大蔵省属、根室県収税属、北海道庁属を歴任し、1891年に退官。実業に従事した後、1897年、北海道庁属に再任され、さらに台湾総督府新竹県属、台北県属を務め、1898年に退官した。 その後、札幌に移り、実業界に入った。1907年、札幌木材 (株) 取締役に就任。以後、札幌調帯 (株) 取締役社長、定山渓鉄道 (株) 取締役社長、札幌商業会議所第3代会頭などを歴任。
高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安… 高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安政3年8月18日)- 1921年(大正10年)11月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長、兵庫県赤穂郡坂越村長。 播磨国赤穂郡坂越村(兵庫県赤穂郡坂越村、坂越町を経て現赤穂市坂越)で、油製造業、廻船業、塩業・高川定十郎の息子として生まれた。室井源仙に師事し、漢学、習字、算数を修めた。その後、赤穂郡北野中村の鍋島智成から漢籍を学んだ。 1877年(明治10年)坂越村小学校教員となり数年間在任。1883年(明治16年)3月、赤穂郡全町村連合会議員に就任。1885年(明治18年)12月、兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。
山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3… 山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日) - 1919年(大正8年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚。 越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ。神奈川県立修文館で英語を学び、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた。
藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3… 藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3年8月12日) - 1920年(大正9年)1月30日)は、明治から大正時代の政治家。薬剤師。衆議院議員。 美濃国可児郡、のちの岐阜県可児郡兼山町(現可児市)出身。東京薬学校を卒業し、薬剤師として薬種問屋および各種薬品の製造販売業を営む。 区長、戸長、岐阜県会議員を歴任した。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政… 浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政3年8月9日) - 1932年(昭和7年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 越中富山藩領婦負郡笹倉村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市)で、大地主・浅野為都(ためと)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)以降、笹倉村会議員、同議長、速星村会議員、同村長、富山県会議員(3期)、婦負郡会議員、同議長代理、速星村農会長、同学務委員などを歴任した。 1906年(明治39年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。