丸山不二夫(まるやま ふじお、1948年〈昭和23年〉 - … 丸山不二夫(まるやま ふじお、1948年〈昭和23年〉 - )は、日本の哲学者、IT教育者。大学院時代の専門は数理哲学。稚内北星学園大学初代学長。元早稲田大学客員教授。IT関連のコミュニティーの組織者としても知られている。日本Javaユーザ会、日本Androidの会初代会長。クラウド研究会代表。IT技術者の情報共有コミュニティー「マルレク」、学生向けのディープラーニングの開発・教育のコミュニティー「MaruLabo」を立ち上げ、現在はそれらを統合した一般社団法人MaruLaboを主な活動としている。 秋田県大館市出身。東京大学教育学部卒業。1981年(昭和56年)一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。
鎌田 典三郎(かまた のりさぶろう、1928年11月10日 … 鎌田 典三郎(かまた のりさぶろう、1928年11月10日 - 1999年3月20日)は、日本の音楽家、音楽教育者。秋田県生まれ。 秋田県南秋田郡払戸村(1956年琴浜村に合併後、町制施行で若美町となり、2005年に男鹿市に合併)生まれ。朝鮮清州師範学校音楽科卒。海軍生活の後、当時の男鹿町の小学校で教鞭をとる。 同じく秋田出身の石井漠に見出されて上京し、1951年、東京都大田区の大田区立西六郷小学校に赴任した。 1955年、放課後、音楽室で歌唱指導を始めたのを元にし、ウィーン少年合唱団を模して、合唱団を結成した。これが、西六郷少年合唱団(のちの西六郷少年少女合唱団)である。 1960年代、各合唱コンクールにおいて、優秀な成績を修めた。
成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5… 成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5月6日 - 2001年(平成13年)4月15日)は秋田県能代市出身の木工家、著述家、教育者。 秋田県立能代工業学校木材工芸科を卒業後、海軍省艦政本部に就職。その後東京高等工芸学校卒業ののち、日本楽器に就職。大日本帝国陸軍航空技術予備役少尉。 軍隊からの復員を果たした後、故郷へ戻り1953年(昭和28年)3月まで秋田県立能代工業高等学校木材工芸科教師を努める。1958年(昭和33年)4月より千葉大学工業短期大学部木材工芸科講師に就任した。その後1978年(昭和53年)に千葉大学建築工学科講師を経て、1985年(昭和60年)2月14日工学博士を取得し、教授に昇格。
中川 利三郎(なかがわ りさぶろう、1920年2月28日 -… 中川 利三郎(なかがわ りさぶろう、1920年2月28日 - 1997年4月22日)は日本の教育者、政治家、文学者。元衆議院議員(日本共産党公認、3期)。柔道7段。 秋田県秋田市出身。秋田市立川尻小学校を経て秋田市商業学校(現秋田市立秋田商業高等学校)卒業。京都の紡績工場に勤務後、立正大学高等師範科卒業。 戦後は秋田市立高等学校の教師を経て、1951年に教職を辞し秋田市会議員選挙に日本社会党再建派から出馬。この時は落選するものの4年後に秋田市議となり2期務める。初出馬の際に推薦されたことから共産党との縁ができ、市議在任中の1961年12月に日本共産党に入党。1963年から秋田県議3期を経て、1972年に行われた第33回衆議院議員総選挙の秋田県第1区に、日本共産党から立候補し初当選を果たす。
鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日… 鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日 – 1970年(昭和45年)8月30日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 秋田県南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)で生まれる。1926年(大正15年)秋田県師範学校を卒業し、さらに同校専攻科を1933年(昭和8年)に卒業した。1926年に小学校教員となり、1946年(昭和21年)高清水小学校長、1947年(昭和22年)高清水中学校長に就任。1946年、秋田県教職員組合が結成され初代委員長に就任し4期在任した。 1947年、秋田県議会議員に当選して連続3期在任した。1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に秋田県地方区から日本社会党公認で出馬して初当選。
滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 19… 滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 1992年12月13日)は、日本の教育者、教育学者。 秋田県湯沢市生まれ。生家は旧士族で父親は道太郎。両親ともに教師。教員準備場から秋田師範学校に進んだ。父の指導を受け自由律俳句に親しみ、俳号は三千夫。万葉研究家境田四郎教諭のもと、文学教育の重要性に目覚め、専攻科を卒業。秋田師範付属小学校の訓導時代の1930年『北方教育』を創刊し、生活綴方運動を展開し「東京綴方の会」に参加。1932年上京し成蹊学園訓導となり、日本大学卒業。また教育科学研究会言語教育部会に参加。戦後、1946年児童雑誌『銀河』創刊に参加、1957年成蹊学園教育研究所長、1966年東京成徳短期大学教授、東京教育大学教授として国語教育、児童文化を研究。
栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 197… 栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 1977年)は、北海道の農業教育者。農業専門学校『八紘学園(はっこうがくえん)』の創設者。 1896年、秋田県雄勝郡川連村の農家に生まれる。1919年、22歳のとき、80人ほどの北海道移住団の団長を引き受ける。移住先は、十勝支庁芽室町上美生である。200haほどの土地の開墾に成功する。北海道庁により功労賞が授与される。 1924年、北海道庁の移民招致係の嘱託となる。北海道移住の宣伝映画を、制作費1800円で製作する中心人物となる。 農業教育の必要性を感じ、独学で教員資格を入手し、札幌の日本殖民学校農学科の主任講師となる。講師として経験を積むうち、農業専門学校の創立を考えはじめる。
丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23… 丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23年)3月9日 - 1965年(昭和40年)1月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡亀田町長。 秋田県由利郡亀田町字六呂田(岩城町亀田字六呂田を経て現由利本荘市)で生まれる。1911年(明治44年)秋田県師範学校本科を卒業した。 秋田県公立小学校訓導となる。築山小学校に勤務していた1919年(大正8年)5月、秋田県青年教育者同志会(小原國芳系)を結成し、飯坂兵治の白楊会(手塚岸衛系)と共に秋田県の大正自由教育運動を主導した。1920年(大正9年)4月、秋田県女子師範学校附属小学校長に転任。自由教育運動の実践のため1921年(大正10年)10月、金浦小学校長に左遷された。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年… 狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。号は君山。
藤井 帰一郎(ふじい きいちろう、1860年(万延元年11月… 藤井 帰一郎(ふじい きいちろう、1860年(万延元年11月) - 1942年(昭和17年)9月18日)は、日本の教育者。現在の秋田県大仙市内小友出身。 内小友村宮林新田村出身で、小松清兵衛の次男。1878年(明治11年)、秋田師範学校の第一期生。郡内(現在の秋田県の市町村)の小学校訓導を歴任し、六郷町本道町の町医者・藤井玄瑞(げんずい)の養子となり、1883年(明治16年)12月、長女タケと結婚。1887年(明治20年)に六郷町上町(かみまち)に分家。 1884年(明治17年)、独立新校舎が建った六郷小学校へ着任し、1889年には校長となった。以来、1922年(大正11年)までの約43年間に県の視学官なども歴任しながら、3度に渡り、六郷小学校の校長を務めた。
栗林 新一郎(くりばやし しんいちろう、明治39年(1906… 栗林 新一郎(くりばやし しんいちろう、明治39年(1906年) - 昭和58年(1983年)は、昭和の教育者。秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の郷土史家。「栗林文書」の発掘と整理に尽力した。 栗林治郎作(栗林呉服)の縁者と言われ、六郷町馬町に栗林十蔵の長男として生まれた。大曲農業学校を卒業後に、秋田師範学校を卒業し、小学校の教師となる。1965年(昭和40年)、湯沢市立湯沢西小学校の校長を最後に退職。赴任先々では、郷土の歴史を踏まえた教育実践を展開し、ふるさと教育の先駆者といえる実績を、各地域で残した。 翌66年(昭和41年)には、町と協議し、六郷町史編纂委員会を発足し、初代会長に就任。同時に、戦後初となる六郷図書館の初代館長となり、本の整理をした。