小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安… 重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安政元年10月27日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月5日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→無所属)。 出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌1881年(明治14年)7月、山形県会議員に選出された。1886年(明治19年)2月26日から1887年(明治20年)12月7日まで同副議長を務めた。
藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永… 雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永6年1月5日)- 1911年(明治44年)1月2日)は、明治期の政治家、教育者。衆議院議員、山形県山形市長(第2代)。 出羽国村山郡、現在の山形県山形市で山形藩士の家に生まれる。漢学、英学を修めた。 小学校教員、南村山郡学務委員、戸長などを歴任。山形市助役に就任。濱村勘太郎初代市長の辞職に伴い、1894年(明治27年)12月10日、第2代山形市長に就任し、1901年(明治34年)11月9日まで在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で山形県山形市選挙区より立憲政友会所属で立候補したが次点で落選。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙では無所属で出馬して初当選。
宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4… 宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4月15日) - 1893年(明治26年)2月13日)は、日本の刑法学者、政治家。明治法律学校(のちの明治大学)創設者の一人。衆議院議員。 ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。ボアソナード起草にかかる旧刑法下で、フランスの刑法理論である新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献し、「東洋のオルトラン」と呼ばれた。なお、オルトランはボアソナードの師である。 その後、宮城の刑法理論は、資本主義の発達に伴う累犯の増加に対応できないとして新派刑法理論の立場から批判された[誰によって?]。 民法典論争では、梅謙次郎と共に施行断行派に与したが、その最中腸チフスのため42歳で急死した。
戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永… 戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永5年3月3日) - 1923年(大正12年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 山形県出身。山形県議、同常置委員、同参事会員、米沢市議、同議長となる。また、山形運輸(株)社長、山形商業会議所会頭、山形米穀生糸株式取引所理事長を務めた。 米沢市の生まれ。父は米沢藩士の戸狩権之助(同名)で、父の名を襲名している。1879年に山形県会議員に当選し8期を務める。1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。その後3回落選した。 1898年の第6回衆議院議員総選挙において山形1区から憲政党公認で立候補して初当選する。以来当選7回。
白田 省吾(しらた せいご、1852年3月19日(嘉永5年2… 白田 省吾(しらた せいご、1852年3月19日(嘉永5年2月29日)- 1915年(大正4年)6月7日)は、明治から大正初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、山形県会議長、山形県東村山郡蔵増村長。 出羽国村山郡、のちの山形県東村山郡蔵増村(蔵増村大字蔵増、天童町を経て現天童市大字塚野目)で、白田弥右衛門の長男として生れた。年少の頃、館林藩漆山陣屋の藩士から漢学、剣術を学び、その後、天童藩士、剣術指南役・大武平蔵につき一刀流の修行を行い、父弥右衛門から珠算を学んだ。 1879年(明治12年)1月、北蔵増村用掛に就任。以後、同戸長、蔵増村長、同村会議員、東村山郡会議員、同参事会員、同議長などを務めた。
黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852… 黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852年3月5日) - 昭和3年(1928年)1月16日)は、江戸時代から昭和時代にかけての書家。庄内藩士。鶴岡町会議員、金融機関済急社社長(第3代)、松ヶ岡開墾場総監督。出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。別名は与八郎、馨、聚、敬治、子芳、東瀛。 庄内藩家老・酒井了明の3男として生まれ、後に黒崎友信の養子となる。 藩校致道館で学び、戊辰戦争の際には農兵小隊長として出陣。1870年には酒井忠篤に従い、鹿児島に赴き練兵を学ぶ。帰郷後、松ヶ岡開墾場の経営に従事。この間に黒崎たき(14歳)と結婚した。 研堂は幼き頃から書をよくし、1886年に斯界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡を来訪した際に入門した。
加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4… 加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4年6月19日) - 1915年(大正4年)4月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 工藤重助の二男として鶴岡に生まれ、幼くして田川郡松尾村(山形県東田川郡広瀬村、羽黒町を経て現鶴岡市羽黒町松尾)の加藤三七の養子となる。後田村の岡部宥盈につき和漢学を、父に算学や珠算を学ぶ。諸国を遊学したのち、1879年(明治12年)後田村外8箇村戸長を経て、1889年(明治22年)山形県会議員に当選する。県議会では議長を歴任した。この間、村会議員、東田川郡会議員を歴任した。1893年(明治26年)から1897年(明治30年)まで広瀬村長を務め、私立庄内中学校商議員会会頭を務め、乾田馬耕の普及に尽くした。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月… 佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月17日(嘉永3年4月6日)- 1909年(明治42年)10月27日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・市助。号・栗園(りつえん)。 出羽国置賜郡成田村(山形県西置賜郡成田村、長井村を経て現長井市成田)で、先代・佐々木宇右衛門の息子として生まれた。 佐々木太右衛門、佐々木忠右衛門と協力して桑畑10町歩を設けた。1873年(明治6年)製糸工場を開設し、製糸業の発展に尽力した。また、明治初期に森鉱山を開いてその経営に当たった。 政界では、1879年(明治12年)1月に山形県会議員に選出され、1880年(明治13年)1月、病のため辞職した。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2… 多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2年7月14日)- 1919年(大正8年)6月9日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。蚕糸業功労者。山形県における機械製糸業の先駆者であり、世界的人気を博した生糸ブランド「羽前エキストラ」の生みの親として知られる。 出羽国置賜郡漆山村(山形県東置賜郡漆山村、宮内町を経て現・南陽市漆山)で、資産家である3代目・多勢長兵衛の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月に分家した。 明治維新後、日本の主要輸出品であった生糸の品質向上のため、兄の4代目・多勢長兵衛とともに先進技術の導入に奔走する。1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場を視察して機械製糸の技術を習得し、1873年(明治6年)には漆山に初の機械製糸工場を建設した。
小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年… 小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年4月22日)- 1926年(大正15年)10月1日)は、明治期の政治家、官僚。衆議院議員、官選県知事。 出羽国南置賜郡米沢上花沢中町において米沢藩士の家に生まれる。明治5年(1872年)、海軍少尉となる。1876年、愛知県三等警部に転じた。以後、石川県警部長、徳島県警部長、青森県警部長、検事、警視庁警視、警視総監官房第一部長などを歴任。 1896年4月、福島県知事に就任。同年12月に同知事を退任。1897年6月14日、台湾嘉義県知事に就任し、1898年3月15日まで在任した。 1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に山形県第二区から憲政党に所属して出馬し当選。
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月… 平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。
加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1… 加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1月25日) - 1892年(明治25年)2月13日)は、日本の治水家。鶴岡家中新町(現・鶴岡市)出身。
五十嵐 力助(いがらし りきすけ、1849年(嘉永2年4月)… 五十嵐 力助(いがらし りきすけ、1849年(嘉永2年4月)- 1902年(明治35年)7月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 米沢藩士。戊辰戦争では藩の散兵隊に入り三越を転戦した。1877年(明治10年)頃より自由民権を訴えた。米沢中学舎長、士族会議長を経て、1879年(明治12年)山形県会議員に当選し、同議長を歴任した。のち耶麻郡長となったのち岐阜県に奉職し、庶務課長および学務課長を務めた。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では山形県第2区から出馬し当選。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を2期務めた。
内村 良蔵(うちむら りょうぞう、1849年(嘉永2年) -… 内村 良蔵(うちむら りょうぞう、1849年(嘉永2年) - 1910年(明治43年)9月19日)は、明治時代前半期の日本の教育者、文部官僚。旧名公平(きみひら)。東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長を務めた。 嘉永2年(1849年)、米沢藩医内村慶玄の嫡子として米沢元籠町に生まれる。幼名は洋庵。慶応3年(1867年)6月、同藩の平田道策(東助)らとともに慶應義塾に入社したが、江戸の情勢が緊迫すると帰藩を命じられた。戊辰戦争後、米沢で渡辺洪基、樫村清徳から英学を学び、さらに明治2年(1869年)5月頃から東京麻布の藩邸で慶應義塾教員吉田賢輔の指導を受けたのち、同年中に平田とともに大学南校に入学。
桜井 義起(さくらい よしおき、旧字体: 櫻井 義起、184… 桜井 義起(さくらい よしおき、旧字体: 櫻井 義起、1849年(嘉永2年6月) - 1940年(昭和15年)5月18日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出羽国置賜郡米沢(現・山形県米沢市)に生まれる。大阪府西成、東成、住吉各郡長、徳島県警察部長、徳島県書記官、内務書記官、西成鉄道(株)専務取締役、同社長、北英(資)業務担当社員、大阪自動車(株)社長となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において大阪8区から無所属で立候補して当選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙で落選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再び立候補したが落選。1940年に死去した。
曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。
初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847… 初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847年4月19日(弘化4年3月5日)- 1904年(明治37年)2月15日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・今吉。 出羽国田川郡新堀村(のち山形県東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・阿部彦太郎の二男として生まれ、同村の本家・阿部孫右衛門の養子となる。 東田川郡新堀学校世話掛、飽海郡南山牛場看守人、余目勧業区連合村会議員、新堀学校通学村連合会議員、学務委員、山形県会議員、東田川郡勧業会員、新堀村長、東田川郡会議員、同郡参事会員などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に山形県第三区から出馬して当選。
森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月1… 森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月16日〉 - 1908年〈明治41年〉12月31日)は、日本の政治家。山形県南村山郡東村長。山形県会議員。 現在の上山市菖蒲出身。森作右衛門の長男として出生。1891年(明治24年)5月18日に南村山郡会議員選挙に東村選挙区から立候補して、当選。その後、1893年(明治26年)、1897年(明治30年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)、1907年(明治40年)の選挙でも当選した。 1899年(明治32年)9月25日に山形県会議員総選挙に南村山郡選挙区から憲政党公認で立候補して、当選を果たした。1903年(明治36年)は立憲政友会公認で立候補して、再選を果たした。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - … 氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - 明治44年(1911年))は、江戸時代から明治時代の人物。庄内藩士、官吏、初代西田川郡長。
鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保1… 鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保14年3月24日) - 1892年(明治25年)10月2日)は幕末から明治初期の僧、社会事業家。孤児や貧しい子供たちの養育などで知られ、育てた子供の数は200人とも言われる。 1843年(天保14年)、出羽国村山郡(後の山形県東村山郡大郷村、現・山形市)生まれ。7歳で出家して陸奥国安達郡大玉村(現・福島県大玉村)の相応寺で修行、13歳からは京都の智積院で修行、その後は安達郡岩代町(現・二本松市)の東福寺、次いで息王寺の住職となり、1868年(明治元年)からは安積郡郡山町(現・福島県郡山市)の如宝寺の住職となる。 当時の郡山地域は戊辰戦争などで荒れ果てており、生まれたばかりの子供を育てられない家庭も多かったため、そうした子どもたちを引き取り、寺にて自費で育てて教育したり、「門前縞」という織物を教えたという。
小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保… 小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保14年3月13日) - 1910年(明治43年)7月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友直。 大組頭小野寺惣三郎の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡飛鳥村(山形県飽海郡南平田村、平田村、平田町を経て現酒田市)に生まれる。1868年(明治元年)家督を相続し肝煎、ついで戸長となり、1882年(明治15年)から1902年(明治35年)まで20年間に渡り山形県会議員を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では山形県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 この間、区書記兼村長、学務委員、町村連合会議員、山形県参事会員、南平田村会議員、飽海郡会議員、同議長、郡教育会議員、地方森林会議員など多くの公職を歴任した。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
本間 耕曹(ほんま こうぞう、1842年(天保13年6月)‐… 本間 耕曹(ほんま こうぞう、1842年(天保13年6月)‐ 1909年(明治42年)12月18日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。浮世絵の蒐集家、浮世絵商。 現在の山形県酒田市において生まれる。本間家4代目の本間光道の三男であった本間光和の次男として出生、幼名を友三郎と言った。 早くから江戸へ出ており、江川太郎左衛門の塾で洋学や剣術を学んだ。また、一時は長崎の砲術家の高崎四郎右衛門のもとで塾頭を務め、蝦夷地の北方警備の任にあたった。戊辰戦争を前にサハリンから帰郷する際にはアカハネ・スネルの船で酒田に戻るが、その折に、スネルとの知遇を得て、本間家の銃器購入のため働いたほか、仙台藩、米沢藩、会津藩などの兵器の買い入れにも携わった。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838… 朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838年説も) - 1882年4月4日)は、山形県鶴岡市出身(生地は現在の新潟県村上市)の大相撲力士。本名は本間→佐藤 庄蔵、本間姓の前の苗字は不明。最高位は大関。現役時代の体格は180cm、113kgと伝わる。 越後国の農家に生まれ、漁師に奉公に出された。庄内藩出入りの船人足として働いていたところが藩主の目に止まり、藩主の勧めで同郷の立田川(7代、元関脇常山五良治)に入門した。初土俵は万延元年(1860年)10月場所、幕下二段目に付け出された。最初の四股名は「由良ノ海庄蔵」だが、文久2年(1862年)2月に朝日嶽と改名した。朝日嶽の名は地元の名山大朝日岳に因んだ。
芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 -… 芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 - 1906年〈明治39年〉8月28日)は、置賜県参事、裁判官、大審院判事。 米沢藩に生まれる。藩主上杉斉憲御近習、刑法局、藩庁大属、権小参事などを経て、1871年(明治4年)11月に権参事、1872年(明治5年)11月に参事となる。1873年(明治6年)5月、参事を免官され、1875年(明治8年)、判事に任官されると、1877年(明治10年)、名古屋裁判所判事、1882年(明治15年)、秋田始審裁判所判事長・同所長、1887年(明治20年)、第一期東京重罪裁判長、1888年(明治21年)、東京控訴院評定官、1889年(明治22年)、福井重罪裁判長を歴任し、のちに大審院判事となった。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2… 松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2月 )- 1913年(大正2年)12月17日)は、幕末の新庄藩士。明治期の内務・警察官僚、政治家。衆議院議員。幼名・錞太郎、直。号・芝山隠士。 出羽国最上郡新庄(山形県最上郡新庄町を経て現新庄市)で、新庄藩士の家に生まれた。江戸に出て昌平黌で学び、1861年10月(万延2年9月)に帰郷した。 戊辰戦争で新庄藩は新政府軍に加わり、二番銃隊斥候役として従軍し庄内藩攻略など各地を転戦した。1872年(明治2年2月)大学本校に入り1870年(明治3年)大学少舎長に就任。同年に卒業して帰郷し、藩校明倫堂の講師に就任。1871年(明治4年9月)新庄県13等出仕となり、新庄県が山形県に編入され同年11月、山形県権少属に就任し、1873年(明治6年)7月まで在任した。
相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4… 相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、幕末期の庄内藩銃隊頭。明治期の地方官吏、郡長。通称は文八郎。 相良守峯(ドイツ文学者)、相良守次(心理学者)は孫に当たる。 天保8年3月(1837年4月)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の3男として生れ、のちに兄八十吉(守均)の跡を継いだ。安政2年(1855年)選ばれて砲術修業のため江川太郎左衛門の塾に入門した。慶応4/明治元年(1868年)の戊辰戦争では、庄内軍の銃兵部隊を指揮する立場で転戦し、4月の清川口の戦いに銃兵指図役として従軍したのをはじめ、銃隊頭として長岡藩支援のため北越戦争にも参戦した。
小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3… 小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3月〉 - 1885年〈明治18年〉11月2日)は、日本の司法官僚、元老院少書記官。幼名は勇之進。出羽国米沢出身。
吉江 磨磋記(よしえ まさき、天保6年(1835年)8月20… 吉江 磨磋記(よしえ まさき、天保6年(1835年)8月20日 – 明治45年(1912年)6月)は、幕末から明治期にかけての上山藩士、官僚、陸軍関係者。西南戦争および日清戦争に関与し、叙位叙勲を受けた。 天保6年(1835年)8月20日、出羽国上山にて佐々木家に生まれる。幼名は儀作(用作)、のち喜吉と称し、壮年期には伝五右衛門を名乗った。俳人としての号は何人、珍茶。父は佐々木儀左衛門、母は美代である。13歳のとき上山藩士吉江家を継ぎ、吉江姓を称した。 人となりは謹直で思慮深く、特に理財に長じていたとされる。戊辰戦争に際し、明治元年(1868年)、奥羽諸藩同盟が官軍に抗する情勢下において、早くから時局の困難を看破し、軍資金を徴収して事変に備えるべきことを建言した。
岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835… 岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835年4月9日) - 大正9年(1920年)12月9日)は、上野館林藩士。通称は鈕吾。別名に斯波弾正。江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係であったため、勤王活動家として活動した。尊皇派の公家高松実村(高松保実の継嗣)の家老職を名乗り、偽勅使事件(高松隊)の中心人物の一人として、信濃国や甲斐国で諸大名や町家から金品を接収した。事件後は謹慎処分で済まされた。 安政元年(1854年)から明治2年(1869年)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述した。
菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(18… 菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(1833年12月23日) - 明治31年(1898年)5月24日)は明治時代に活躍した日本画家。 天保4年(1833年)11月13日に出羽国置賜郡白龍時庭村(現・山形県長井市時庭)において菅原道栄(号・源龍斎)の長男として生まれた。本名は源暁。明治15年(1882年)から道雄の名を、明治17年(1884年)から白龍の号を本名とした。大岳、泰嶽、梵林、日本橋隠士、爽気龍人、五石十水楼、和楽斎など20を超える号をもつ。家は代々続いた真言宗の修験で、地元の諏訪神社に仕えていた。また、村に学校を開き子供たちに漢籍、手習いなどを教えていたので、白龍も父から書、習字などを学んだ。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
菊地 新学(きくち しんがく、天保3年(1832年) - 大… 菊地 新学(きくち しんがく、天保3年(1832年) - 大正4年(1915年)4月17日)は、明治時代の写真師。菊地常右衛門の子。同じく写真師の菊地宥清の父。オリエンタル写真工業の社長を務めた菊地東陽の祖父。昭和期の実業家の菊地友雄の曽祖父。北海道旭川で最初の写真館を開業し、日露戦争に従軍した写真師中鉢直綱の祖父。 出羽国天童に生まれる。江戸で写真術を学び、明治元年(1868年)山形初の写真館を開く。技量を磨くため同8年(1875年)に再び上京。横山松三郎や清水東谷に師事。翌年の同9年(1876年)から山形県令の三島通庸の命を受け、画家の高橋由一と共に県下の近代化促進事業を撮影。日本における土木・建築記録写真の先駆者となった。
石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月… 石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月25日)- 明治14年(1881年)10月17日)は、庄内藩士、大泉藩権少参事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明… 伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明治3年(1870年))は、出羽庄内藩領の酒田(現在の山形県酒田市)出身の儒学者。 田原藩家老渡辺崋山に見出され、以降田原藩藩儒として仕える。家老渡辺崋山、藩医鈴木春山とともに田原の三大山と謳われた。崋山の影響を受けた鳳山は、ペリー来航時には「鎖港攘夷の策はとるべきではなく、開港進取の策こそ守るべき」と積極的開国を主張し、欧米文化の摂取を主張した。 儒学者としては、京都、江戸、酒田などに私塾を開塾した。孫子の注解書である著書『孫子詳解』は高い評価を得ている[誰によって?]。
堀内 素堂(ほりのうち そどう、享和元年(1801年) - … 堀内 素堂(ほりのうち そどう、享和元年(1801年) - 安政元年3月13日(1854年4月10日))は、江戸時代の医者。諱は忠寛(ただひろ)、幼名忠公(ただきみ)、素堂は号。贈従五位(昭和4年)。
門屋 養安(かどや ようあん、寛政4年(1792年) - 明… 門屋 養安(かどや ようあん、寛政4年(1792年) - 明治6年(1873年))は、日本の医師。 寛政4年(1792年)、新庄藩(現在の山形県新庄市)に生まれる。院内銀山のお抱え医者であり、銀山の経営そのものにも参画し、並行して宿屋も経営するなど生涯の大部分を院内銀山で過ごし、明治6年(1873年)、院内銀山で82歳で没した。天保6年(1835年)から明治2(1869年)までの35年間書きつづった『門屋養安日記』が残っている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年… 小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年7月25日〉 - 天保10年5月17日〈1839年6月27日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。 天明7年(1787年)出羽庄内藩給人組外・小関知義(弥五兵衛)の次男として鶴岡に誕生。幼少期に火傷を負って足が不自由となる。 文化元年(1804年)江戸に上り、吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学と医学を学ぶ。 文政4年(1821年)故郷の鶴岡に帰り医者を開業するが、翌文政5年(1822年)には蘭学者・大槻玄沢の紹介で仙台藩医学館の教師に着任する。翌文政6年(1823年)長崎に赴いてシーボルトの下で学ぶ。