黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、188… 黒河内 四郎(くろかわち しろう/くろこうち しろう、1882年(明治15年)7月 - 1960年(昭和35年)6月3日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省工務局長を最後に退官し、東京高速鉄道技師長として現在の銀座線新橋、渋谷間の開通に貢献。第31代土木学会会長、初代日本保線協会会長。 福島県士族香川源左衛門の次男として若松町に生まれ、同士族黒河内源治の養子となる。1901年(明治34年)会津中学を卒業。大島破竹郎が同級生である。二高を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学を卒業。席次は29名中3番である。 逓信省鉄道作業局に入り、生涯にわたる鉄道への関わりが始まる。1915年(大正4年)に米国留学し、帰国後は工務局保線課に配属され、保線業務、軌道の改善に努めた。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日… 田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日 - 1943年(昭和18年)12月23日) は、日本の動物学者。 福島県石城郡三阪村(現在のいわき市)に生まれる。東京帝国大学の学生時代からサンショウウオを研究していた。内務省時代に史蹟名勝天然記念物調査の考査員を務めた。
君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月… 君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、日本の土木工学者。工学博士、九州帝国大学教授。日本における道路研究の先駆者であり、その著書『君島大測量学』と『河海工学』は戦前土木名著100書に選ばれている。 福島県若松町諏訪町四谷の旧会津藩士君島勝平の次男として生まれる。1895年(明治28年)会津中学を一回生として卒業する。松江春次、森俊六郎、平石弁蔵らが同級生で、特選生として野口英世が通学しており、のちに留学先で再会している。二高第二部工科を首席で、1901年(明治34年)には東京帝国大学を19名中首席で卒業した。 大学院在学中に『道路学一斑』を著し、母校の講師や助教授、独国、仏国、米国での留学を経て、1911年(明治44年)、新設された九州帝国大学の工学部教授に就任。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月2… 久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月26日 - 1939年(昭和14年)11月12日)は、日本の医学者・歌人・俳人。医学博士。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学、現・九州大学)教授。 明治7年12月26日、陸奥国二本松藩の藩士久保常保の子として現在の福島県二本松市に生まれる。戊辰戦争の当時、猪之吉は6歳、実兄たちは、二本松藩士久保長一郎常保(父親と同名のため父親と誤認されるが、実兄である)、二本松少年隊の久保鉄次郎13歳と久保豊三郎12歳として知られる。猪之吉は兄の豊三郎と共に二本松の戦いに参加したいと母親に懇願したが、懐妊中の母は猪之吉を無言で抱き締めていたと伝わる。
新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永… 小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永6年2月22日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、福島県出身の法律家、衆議院議員(第2回、第3回)。福島民報初代社長(在任:1892年 - 1896年)。旧姓・今江。 陸奥国安達郡、のちの福島県安達郡二本松町(現二本松市)で二本松藩士・今江又兵衛の子として生まれる。12歳の時に二本松藩士の小笠原是馬助の養子となる。1875年に上京し、翌年の9月に司法省法学校の第二期生として入学する。その後、1884年7月に修業年限8年(予科4年、本科4年)を終え、法律学士の称号を得る。検事試補となり、千葉始審裁判所に勤務し、1885年12月に検事として任命される。
加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年… 加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年11月19日) - 1877年(明治10年)11月18日)は、幕末から明治時代の国学者・歌人。通称は弥三郎または弥助。号は萩園。 陸奥国白河(現在の福島県白河市)にて加藤美方と母緑川氏の子として生まれる。幼少より勉学を好み、後に江戸に出て、岸本由豆流に国学を学ぶ。歌道や書に長けていたという。 明治維新後、歌人としての名声が高く、多くの門人を抱えた。この中には伊東祐命や中島歌子などがいる。1877年(明治10年)11月18日逝去。享年68歳。墓所は深川の臨川寺。妻は三宅氏で、子供はなく養子を関氏よりとった。 顕彰碑が向島区の牛嶋神社に建立された。
須賀 忠芳(すが ただよし、1968生まれの⭐️お兄ちゃん⭐… 須賀 忠芳(すが ただよし、1968生まれの⭐️お兄ちゃん⭐️ (昭和43年)7月3日 - )は、日本の教育学者。福島県二本松市出身。東洋大学国際地域学部国際観光学科教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
渡部 茂己(わたなべ しげみ)は、日本の法学者。法学修士。常… 渡部 茂己(わたなべ しげみ)は、日本の法学者。法学修士。常磐大学国際学部教授。専門は国際法・国際組織法。 常磐大学国際学部教授。国際学部学部長 法政大学社会学部(1990年より)・中央大学法学部(2000年より)・二松学舎大学国際政治経済学部(2002-2009)・筑波大学(2005-2007) ・東京外国語大学 および同大学院(2010-11) ・青山学院大学大学院国際政治経済学研究科(2012年) ・日本大学大学院法務研究科(2012年より) 各兼任講師。 日本国際連合学会(理事)・国際法学会・日本国際政治学会(元評議員)・世界法学会・環境法政策学会・日本平和学会所属。
植村 恒三郎(うえむら つねさぶろう、1882年 <明治15… 植村 恒三郎(うえむら つねさぶろう、1882年 <明治15年> 2月 - 1945年 <昭和20年>) は、日本の林学者。専門は、林政学・森林経理学。入会権について史的研究を行い、川瀬善太郎に続き入会権公有論を唱える。また樺太に設けられた九州帝国大学の演習林の指導、調査報告を行った。「本邦に於ける林野の入会関係に就て」で林学博士(東京帝国大学)。九州帝国大学教授、同名誉教授。 旧会津藩藩士の植村家に生まれる。会津中学、一高を経て、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学林学科を18名中首席で卒業。大学院を経て盛岡高等農林教授となる。在任中に森林政策、森林行政、木材商況、経理、外国語などを担当し、またドイツに留学している。
神村 栄一(かみむら えいいち、1963年9月 - 2025… 神村 栄一(かみむら えいいち、1963年9月 - 2025年10月は、日本の心理学者。新潟大学教授。 福島県会津若松市生まれ。1986年筑波大学第二学群人間学類卒業。1991年同大学院心理学研究科博士課程単位取得満期退学。1994年「ストレス対処の個人差に関する臨床心理学的研究」で筑波大学より博士(心理学)の学位を取得。1991年早稲田大学人間科学部助手、1994年筑波大学文部技官、助手、1995年新潟大学助教授、2008年准教授、2012年人文社会・教育科学系教授。臨床心理士・専門行動療法士。専門は認知行動療法。
西山 千春(にしやま ちはる)は、日本の免疫学者、分子生物学… 西山 千春(にしやま ちはる)は、日本の免疫学者、分子生物学者。東京理科大学先進工学部生命システム工学科教授。学位は博士(農学)(東京大学)。専門は免疫学、分子生物学であり、特に転写因子による免疫細胞の分化・機能調節メカニズムの研究で知られる。 福島県いわき市出身。主にアレルギー反応に関与するマスト細胞(肥満細胞)や抗原提示細胞における遺伝子発現制御の解析を行っている。高親和性IgE受容体(FcεRI)の遺伝子発現メカニズムの解明や、転写因子PU.1などが免疫系の恒常性維持に果たす役割について多くの研究成果を上げている。2005年に日本農芸化学奨励賞、2019年に日本食品免疫学会賞を受賞した。 主な研究テーマは「免疫細胞の分化および機能発現を制御する転写調節機構の解明」である。
長谷川 史彦(はせがわ ふみひこ)は、日本の化学者。東北大学… 長谷川 史彦(はせがわ ふみひこ)は、日本の化学者。東北大学名誉教授。独立行政法人製品評価技術基盤機構理事長。 福島県いわき市出身。1979年(昭和54年)、東北大学工学部を卒業。1981年(昭和56年)3月、東北大学大学院工学研究科資源工学専攻博士前期課程を修了し、同年4月から東北大学選鉱製錬研究所助手として勤務した。1985年(昭和60年)、新日本製鐵に入社し、同社の第一次技術研究所や先端技術研究所で勤務した。1993年(平成5年)には新エネルギー・産業技術総合開発機構に出向し、産業技術開発部国際共同研究課主査を務めた。その後、新日本製鐵技術開発企画部部長代理を務め、2000年(平成12年)4月に東北大学未来科学技術共同研究センター(NICHe)の助手に就任し、その後、助教授、副センター長、教授、センター長を歴任。
佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 -… 佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 - 1908年〈明治41年〉12月4日)は、江戸時代末期から明治時代の漢学者、役人、教育者。佐原貞一とも称した。号は豊山、晩年は蘇楳。旧名は金上佐輔(字は業夫)、金上盛備の子孫とされる。明治維新当時は上野国吉井藩の侍講・藩学教授。生年については諸説あり。 陸奥国会津藩若松城下馬場町の商人徳兵衛の長男に生れた。少年期より学問に没頭、18歳の頃から江戸へ遊学し、広島藩儒官の金子霜山、幕府儒官の杉原心斎、同郷の儒者添川廉斎に師事。この頃、祖先が蘆名氏末期の津川城主金上盛備であると知り、金上佐輔と名乗り始めたという。 文久2年(1862年)に外国奉行池田長発に侍講として招かれ、翌文久3年12月から元治元年7月(1864年2月から8月)には池田を正使とする横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節団)に従者として加わり、第二帝政期のフランスへ渡った(後年、その日記を『航海日録』としてまとめた)。