須田 剛史(すだ たけし、1983年4月14日 - )は日本… 須田 剛史(すだ たけし、1983年4月14日 - )は日本の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 前橋FC、前橋育英高等学校出身。高校時代は佐田聡太郎らとともに活躍、高校1年時に平成13年度全国高等学校総合体育大会出場、第56回国民体育大会群馬県国体選抜、第80回全国高等学校サッカー選手権大会に出場しベスト4進出した。 2002年高校卒業後、サンフレッチェ広島に入団する。プロ同期入団は、佐田、茂木弘人、西村英樹。Jリーグでの出場機会はなく、その後本人の希望で2年で引退し青山学院大学へ進学する。 大学を卒業後は映画配給会社に勤務し、2009年から毎日コムネット社員として働いた後、2016年からは日本サッカー協会に所属している。
青木 剛(あおき たけし、1982年9月28日 - )は、群… 青木 剛(あおき たけし、1982年9月28日 - )は、群馬県高崎市出身の元サッカー選手。主なポジションはボランチ(ディフェンシブ・ハーフ)、ディフェンダー(センターバック、サイドバック)。元日本代表。鹿島Ascendia所属プロフットゴルフ選手。 高校時代は2年次に全国大会ベスト4。しかし、この時はボランチの位置に松下裕樹(現・群馬)や茂原岳人(元・柏)が居たため、センターバックでの出場となった。 2001年に鹿島アントラーズへ入団。2008年、日本代表候補トレーニングキャンプメンバーに初選出され、8月20日のキリンチャレンジカップ2008・ウルグアイ代表戦の日本代表メンバーにも初選出された。
柳澤 宏太(やなぎさわ こうた、1982年4月8日 - )は… 柳澤 宏太(やなぎさわ こうた、1982年4月8日 - )は、群馬県伊勢崎市出身のプロサッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはDF(センターバック)。現在は高校教師。
岩丸 史也(いわまる ふみや、1981年12月4日 - )は… 岩丸 史也(いわまる ふみや、1981年12月4日 - )は、群馬県藤岡市出身の元サッカー選手。現役時のポジションはゴールキーパー(GK)。 前橋育英高校時代に茂原岳人らとともに高校選手権でベスト4まで進み、2000年に茂原とともに神戸に入団。しかし、掛川誠の前に出場機会に恵まれなかった。 2003年、大分戦でリーグ初出場のチャンスを得るも、守備陣のミスなどで8失点という大量失点の苦いデビュー戦となった。2004年は掛川の負傷離脱時にスタメンの機会を得て、6試合に出場。シーズン後半は磐田にレンタル移籍し、7試合に出場したが、佐藤洋平からはポジションを奪えなかった。2005年はJFLからJ2に昇格したザスパ草津にレンタル移籍。
茂原 岳人(しげはら たけひと、1981年10月6日 - )… 茂原 岳人(しげはら たけひと、1981年10月6日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 前橋育英高校時代に松下裕樹らとともに高校選手権でベスト4を経験し、2000年にヴィッセル神戸に入団。 2002年、川崎フロンターレにレンタル移籍し、石崎信弘監督に見いだされ主力ボランチとして活躍。これが認められ2004年に柏レイソルに移籍するも池谷友良および早野宏史両監督ともにレギュラーを固定できなかったこともあり出場機会に恵まれなかった。2005年、小野剛監督から誘いを受けサンフレッチェ広島に移籍し、右MFのレギュラーとして活躍した。 2006年には柏レイソルに復帰するもすぐ川崎フロンターレにレンタル移籍として復帰する。
佐藤 正美(さとう まさみ、男性、1981年8月26日 - … 佐藤 正美(さとう まさみ、男性、1981年8月26日 - )は、神奈川県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。 神奈川県出身で、小学生のころより群馬県高崎市で育つ。 2000年、前橋育英高等学校からJ2の横浜FCに加入。2003年9月より期限付き移籍で横河武蔵野FCに在籍。 2004年に当時JFLのザスパ草津に移籍。2005年はJ2で27試合に出場。しかし、期待された右サイドからの攻撃が揮わず、5得点に終わった。2006年は主将に任命された。しかし2007年オフに戦力外となり草津を退団、その後移籍先を模索したが見つからず現役引退を表明した。 引退後はザスパのアカデミーなどでコーチを務め、2018年にザスパクサツ群馬トップチームのコーチに就任した。
小松原 学(こまつばら まなぶ、1981年4月2日 - )は… 小松原 学(こまつばら まなぶ、1981年4月2日 - )は、群馬県邑楽郡邑楽町出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者、スポーツトレーナー。ポジションはフォワード。 1998年にベルマーレ平塚ユースからトップチームに昇格し、同年4月11日のセレッソ大阪戦でJリーグ最年少出場記録(当時)を樹立。さらに世代別代表に飛び級で選ばれるも、ケガに泣かされ出場機会には恵まれなかった。 2003年はケガのリハビリも兼ねて、FC湘南大磯でプレーし、翌年群馬FCホリコシに移籍。 2004年シーズン終了後、古巣である湘南ベルマーレから練習参加の誘いがあったためホリコシを退団し、テスト生として参加するも不合格。その後ホリコシに復帰し、アマラオと2トップを組み、攻撃陣を牽引した。
小久保 純(こくぼ じゅん、1980年9月8日 - )は、群… 小久保 純(こくぼ じゅん、1980年9月8日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手。現役時のポジションはMF。 前橋育英高校時代に高校選手権でベスト4を経験し、その後東海大学を経てJ2モンテディオ山形に入団。2004年に地元・群馬県を本拠にするザスパ草津(当時JFL)に入団。23試合に出場して2得点を挙げる。J2昇格後の2005年は20試合に出場した。2006年シーズンから群馬県1部リーグ(当時)・図南SC群馬(現・tonan前橋)でプレーし、2008年シーズン終了後に現役引退。 現在は、セレッソ大阪のスクールコーチをしている。
大島 秀夫(おおしま ひでお、1980年3月7日 - )は、… 大島 秀夫(おおしま ひでお、1980年3月7日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(FW)。 1998年に前橋育英高校から横浜フリューゲルスに入団。当時のレシャック監督の抜擢により、開幕戦にスタメン出場するなど順調な滑り出しを果たした。しかし、クラブが横浜マリノスに吸収合併されたため、同期入団である遠藤保仁や辻本茂輝らとともに京都パープルサンガへ移籍した。京都では思い通りの活躍が出来ず、2000年のシーズンオフに京都からゼロ円提示を受けて事実上の戦力外になる。しかし、2001年に移籍したモンテディオ山形ではレギュラーに定着し、2004年には22得点を挙げ、川崎フロンターレの我那覇和樹と並びJ2の日本人得点王(得点ランク2位タイ)となった。
勝見 壮史(かつみ そうし、1979年8月12日 - )は、… 勝見 壮史(かつみ そうし、1979年8月12日 - )は、群馬県前橋市出身の元サッカー選手。朝日新聞記者。 現役時代のポジションは、DF。 的確なコーチング、ポジショニング、カバーリングで勝負し、ヘディングに自信を持つ。 大学時代の同期に野嶋良がいる。 現役引退後、朝日新聞の記者となり、2016年頃からスポーツ部の記者として署名入り記事を執筆するようになった。
岡田 直彦(おかだ なおひこ、1978年12月30日 - )… 岡田 直彦(おかだ なおひこ、1978年12月30日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 前橋育英高校を卒業後、1997年にジャパンフットボールリーグのコンサドーレ札幌に入団。1998年にJリーグに昇格、1999年にJ2リーグに降格した。しかし、出場機会を多く得ることはできず、1999年のシーズン終了後に引退した。
新井 健二(あらい けんじ、1978年5月19日 - )は、… 新井 健二(あらい けんじ、1978年5月19日 - )は、埼玉県出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 2001年に立正大学からアルビレックス新潟に入団。1年目の開幕戦から先発メンバーに名を連ね、しばらくレギュラーに定着していた。しかし徐々に出場機会を減らすと、2004年からはシンガポールに創設されたばかりのアルビレックス新潟シンガポールに期限付き移籍で加入。2年間にわたってキャプテンを務めた。 2006年にシンガポール・アームド・フォーシズFC(SAFFC)から外国人助っ人としてオファーを受け、完全移籍した。同年、守備の要としてチームのリーグ最少失点に貢献し、チームはリーグ優勝した。
松本 大樹(まつもと だいじゅ、1977年12月9日 - )… 松本 大樹(まつもと だいじゅ、1977年12月9日 - )は、日本の群馬県出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 群馬県立前橋商業高等学校から1996年にガンバ大阪に入団。1997年5月31日にJリーグ初出場を果たす。2000年から大宮アルディージャに移籍。2002年9月14日にJリーグ初ゴールをマーク。2004年限りで引退。通算成績はJ1で13試合に出場・J2で60試合に出場、1得点である。 引退後も大宮に残り、普及部コーチを経て2007年より強化部でスカウトを担当。2014年からは強化部長、2015年からは強化本部長(強化本部の新設に伴う)を務めた。2017年11月5日、監督の伊藤彰とともに解任が発表された。
松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 201… 松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 2011年8月4日)は、群馬県桐生市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。 2002 FIFAワールドカップ日本代表メンバー。 小学1年の時、兄の影響でサッカーを始める。地元の天沼FCには小学3年から始める規定のところを特例で入団した。当時できたリフティングは最高で16回。他にも野球・バドミントン・水泳・ラグビーと様々なスポーツに挑戦するが、負けず嫌いの性格からどうしても一番になれないサッカーに夢中になっていった。 中学まではFWの選手だった。当時U-15日本代表の監督であった小嶺忠敏が山田耕介(当時前橋育英高等学校監督)にいいDFがいないかを相談した際に、FWでありながらDFとしての適性も持つ松田が推薦されたことをきっかけに、その後のDF人生がスタートした。
清水 範久(しみず のりひさ、1976年10月4日 - )は… 清水 範久(しみず のりひさ、1976年10月4日 - )は、群馬県群馬郡榛名町(現:高崎市)出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 榛名町立第一小学校時代にサッカー部に入部してサッカーを始め、榛名町立榛名中学校に進学後、強豪校ではなかったものの、県内サッカー協会関係者の目に留まりトレセンで県選抜に選出されたのをきっかけに県内での知名度が上がる。その後群馬県屈指の強豪・群馬県立前橋商業高等学校(ライバルの前橋育英高等学校の同級生には松田直樹がいた)に入学しレギュラーの座を獲得。持ち前のスピードがスカウトの目に留まり、1995年にジュビロ磐田に入団した。
笠原 宗太(かさはら そうた、1976年5月9日 - )は、… 笠原 宗太(かさはら そうた、1976年5月9日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元ヴァンフォーレ甲府の笠原恵太は実兄。引退後は地元群馬で体育科の教師としてサッカー部の指導にあたっている。 高校時代は前橋育英と並ぶ、群馬県のサッカーの名門である群馬県立前橋商業高等学校のサッカー部に所属。小柄ながらもスピードをいかし、快速フォワードとして他チームに恐れられていた。ユニフォームが白黒のストライプだったこともあり『ゼブラの弾丸』という異名で呼ばれていた。 高校卒業後は筑波大学に推薦で進学しサッカー部で活躍した。筑波大学を卒業したのち、大塚製薬を経て、2000年にJ2の水戸ホーリーホックに入団。
上村 祐司(かみむら ゆうじ、1976年3月16日 - )は… 上村 祐司(かみむら ゆうじ、1976年3月16日 - )は群馬県出身の元サッカー選手。 岡本隆吾、斉藤雅人らとともに、親会社のNTTに所属しながらプレーした社員選手。 NHKのアナウンサーに「うえむら」と読み間違われた事がある。
須永 純(すなが じゅん、1975年4月27日 - )は、群… 須永 純(すなが じゅん、1975年4月27日 - )は、群馬県出身の元プロサッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 前橋商業高校を卒業。須田剛史は高校の後輩にあたる。順天堂大学を経て1998年に水戸ホーリーホックに入団し、全試合にフル出場するが1年で退団しそのまま現役を引退した。 引退後には、市川三中サッカークラブコーチ、順天堂大学蹴球部コーチ、ジェフユナイテッド市原・千葉育成部コーチ、明海大学監督などを歴任し、2003年より千葉の育成部に復帰。 2006年より、U-21日本代表やJFAアカデミー福島でGKコーチを務めた。 2016年、千葉に再び戻りU-18コーチとなる。
佐藤 一樹(さとう かずき、1974年6月27日 - )は、… 佐藤 一樹(さとう かずき、1974年6月27日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手、指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代は主に右アウトサイドを務めた。 1990年に群馬県立前橋商業高等学校に入学しサッカー部へ入部。在学中に日本ユース代表としてAFCユース選手権に出場。同期には麻生浩志がいた。1993年、筑波大学に進学。1995年には同期の興津大三、吉成浩司と共にユニバーシアードに出場し、優勝に貢献。厳しかった高校時代にメンタルの強さを、自由が多かった大学時代に自分で考えることの大切さを身に着けたと述懐する。 1997年、横浜フリューゲルスに入団し、同年8月の鹿島戦でJリーグデビューを飾った。
真下 佐登史(ましも さとし、1974年3月6日 - )は、… 真下 佐登史(ましも さとし、1974年3月6日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元サッカー選手・サッカー指導者。 専修大学卒業後、モンテディオ山形に加入。 1999年3月14日のJ2第1節ベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)、途中出場のファーストタッチでゴールを決めた。これが山形のJリーグ初得点となった。 J2初年度である1999年は18得点を挙げ、大分トリニータの神野卓哉に次ぐ得点ランキング2位に入る活躍を見せた。 2000年5月7日のJ2第11節浦和レッドダイヤモンズ戦(山形県総合運動公園陸上競技場)で先制ゴールを決めた。試合は1-0で山形が勝利し、浦和に初黒星をつけた。しかしこの年は怪我の影響もあって前年の活躍から一転、2得点に終わりシーズン終了後に戦力外通告を受けた。
澤田 博之(さわだ ひろゆき、1974年1月29日)は、群馬… 澤田 博之(さわだ ひろゆき、1974年1月29日)は、群馬県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。京都パープルサンガでの登録名は「澤田博行」だった。 本田技研在籍時の1992年にU-20日本代表に選出され、その年のアジアユース選手権に出場した経験を持つ。 1993年に浦和レッドダイヤモンズへ移籍。NICOSシリーズ(2ndステージ)から右サイドバックのレギュラーの座を掴みリーグ戦11試合に出場したが、1994年度は構想外となり出場機会に恵まれず、この年限りで退団した。 1995年から1996年まで京都パープルサンガ (現:京都サンガF.C.)に所属。1998年から2004年まで図南SC群馬(現 tonan前橋)でプレーした。
笠原 恵太(かさはら けいた、1973年6月14日 - )は… 笠原 恵太(かさはら けいた、1973年6月14日 - )は、群馬県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。元水戸ホーリーホック所属の笠原宗太は実弟。 前橋商業高校時代は同校の中心選手として活躍主将を務める。卒業後、サッカー推薦で筑波大学に入学して同大サッカー部に所属し、その人柄や人望の厚さで主将を務める。1996年にコンサドーレ札幌に入団し、「37」の背番号で活躍する。その後、ヴァンフォーレ甲府へ移籍して活躍した。 現役引退後の2000年に群馬県高等学校教員に採用され、群馬県立桐生高等学校に赴任し、サッカー部監督に就任。2005年4月より群馬県立高崎高等学校に異動し、サッカー部監督に就任。2014年から母校である群馬県立前橋商業高等学校のサッカー部監督となっている。
鳥居塚 伸人(とりいづか のぶひと、1972年8月7日 - … 鳥居塚 伸人(とりいづか のぶひと、1972年8月7日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 群馬県立前橋商業高校時代に1学年先輩の服部浩紀らとともに高校選手権でベスト4を経験し、その後東海大学に入学。中心選手として大車輪の活躍を見せ、大学卒業後はコスモ石油に加入。 1997年、コンサドーレ札幌に入団。念願のJリーガーとなったが、第3節柏レイソル戦での幻のVゴール(一度は認められたが相手の抗議で覆されている)を除けば持ち味を出し切れず1998年限りで戦力外通告を受け退団。 1999年からは地元・群馬県の社会人チームの図南SC(現:tonan前橋)に移籍し、チームの精神的支柱としてチームを引っ張り、当時群馬県社会人サッカーリーグ1部に所属していたチームの関東リーグ昇格に大きく貢献した。
吉澤 英生(よしざわ ひでお、1972年4月10日 - )は… 吉澤 英生(よしざわ ひでお、1972年4月10日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはディフェンダー。 高校卒業後の1990-1991年シーズンから本田技研工業サッカー部(現・Honda FC)で12年プレーし、引退後の2002年から3年間コーチ、2005年からは2年間監督を務めた。 2007年からFC琉球の監督に就任したが1年で退任。 2008年から当時北信越リーグ1部所属の松本山雅FC監督に就任、2009年には第33回全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝しJFL昇格に導いたものの、2011年6月に成績不振により監督を解任された。
服部 浩紀(はっとり ひろき、1971年8月30日 - )は… 服部 浩紀(はっとり ひろき、1971年8月30日 - )は、群馬県前橋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。バルセロナオリンピック予選日本代表。 群馬県立前橋商業高校では全国高等学校サッカー選手権大会で2年連続ベスト4に入った。1990年に筑波大学へ進学して蹴球部に入部。同期の藤田俊哉や大神友明とともに関東大学サッカーリーグ戦1部での連覇や総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでの優勝に貢献した。バルセロナ五輪の他、全日本ユース代表やユニバーシアード日本代表などにも選出された。 1994年に横浜フリューゲルスにフォワードとして入団。しかしアマリージャや前園真聖、エバイールなど錚々たるFWを揃えるチームの中でなかなかスタメンを勝ち取ることが出来なかった。
米倉 誠(よねくら まこと、1970年12月28日 - )は… 米倉 誠(よねくら まこと、1970年12月28日 - )は、群馬県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィルダー。 前橋商業高校時代、1学年後輩の服部浩紀らと高校選手権でベスト4に進出し、1989年に日本サッカーリーグ(JSL)1部のチームがあるNKKに入社。その後、NKKを退社し、トヨタ自動車に入社。レギュラーとしてJSL、天皇杯などに出場した。 1992年のJリーグ創設に伴い、請われて名古屋グランパスエイトに入団。得意のスルーパスとミドルシュート、そして臨機応変なプレースタイルが買われ、中西哲生や小倉隆史らとともにチームの中心選手となった。1996年、セレッソ大阪に移籍後もレギュラーを務めた。
山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )… 山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手(元日本代表キャプテン)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはMF、主にボランチ。 1984年、前橋育英高等学校入学。1985年、鳥取国体に群馬県代表として出場。1987年1月、全国高校サッカー選手権大会に出場。 1987年4月、東海大学に入学。1988年、全日本大学サッカー選手権大会で優勝(東海大学はこの年が同大会へ初出場であり、この年を含めて6年連続で決勝に進出した)。関東選抜(対関西選抜戦)に選出され、同試合にてMVPに選出される。また、1学年下で礒貝洋光、澤登正朗が加入し、ポジションを守備的ミッドフィルダーに移す。
小島 伸幸(こじま のぶゆき、1966年1月17日 - )は… 小島 伸幸(こじま のぶゆき、1966年1月17日 - )は、群馬県前橋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。ポジションはゴールキーパー(GK)。同志社大学商学部卒業。サッカー解説者、アドバイザーとしても活動している。 小学4年生の時にサッカーと出会い、小学5年生から本格的にサッカーを始める。新島学園高等学校時代にGKに転向した。同志社大学を経て、1988年に日本サッカーリーグのフジタ(後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ)に加入。フジタ時代は古島清人の控えに甘んじたが、ベルマーレ平塚となりJリーグ昇格1年目の1994年、不調の古島に代わる形で試合に出場し、正GKとして定着した。
菅原 宏 (すがはら ひろし、1963年8月28日 - ) … 菅原 宏 (すがはら ひろし、1963年8月28日 - ) は、群馬県前橋市出身の実業家、元サッカー選手およびサッカー指導者である。 中学までは野球部に所属していたが、群馬県立前橋商業高等学校ではサッカー部に所属した。高校卒業後は教師になるために体育学部のある大学への進学を希望していたが、高校3年時に土木工事業を営んでいた実父が倒れたため、跡を継ぐべく足利工業大学工学部土木工学科に進学した。 大学に通う傍ら、前橋商OBのクラブとして1982年に創設された図南クラブ(現:tonan前橋)の運営に携わった。大学卒業後の1986年4月に池下工業(株)に入社したが、1987年に実父が死去したため、家業の菅原土建(株)(現商号は(株)菅原、本社:群馬県前橋市)に入社。
奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、… 奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、群馬県出身のサッカー指導者。 前橋市立第五中学校 - 習志野市立習志野高等学校 - 東海大学。習志野高では第50回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝。大学卒業後の1977年、群馬県立前橋商業高等学校に着任し、サッカー部監督に就任。全国高校サッカー選手権大会10回出場。第67、68回全国高等学校サッカー選手権大会では服部浩紀、鳥居塚伸人らを擁して2年連続ベスト4。サッカー不毛の地であった群馬県をサッカーどころへと押し上げた。前橋商監督時代は山田耕介監督率いる前橋育英高と並んで群馬の双璧を築く。 前橋商業で27年間、サッカー部を指導したのち群馬県立藤岡工業高等学校教頭、前橋市立前橋高等学校教頭、校長を歴任。
藤口 光紀(ふじぐち みつのり、1949年8月17日 - )… 藤口 光紀(ふじぐち みつのり、1949年8月17日 - )は、日本のサッカー選手。元日本代表。群馬県勢多郡粕川村(現・前橋市)出身。日本プロサッカーリーグ元理事。浦和レッドダイヤモンズ(株式会社三菱自動車フットボールクラブ)前社長。現在広島経済大学教授。 群馬県勢多郡粕川村(現・前橋市)に、藤口末光(日本選手権十種競技優勝者、群馬県体育協会副会長)の長男として生まれる。 新島学園高等学校サッカー部で活躍。3年時には群馬県代表として国体に出場する。頭脳明晰で知られ、1年の浪人後慶應義塾大学文学部に合格。慶應義塾大学体育会ソッカー部で1年生からレギュラーを獲得し、1969年に大学選手権優勝。在学中に日本代表に選出された。