染宮 修支(そめみや しゅういち、1964年7月11日 - … 染宮 修支(そめみや しゅういち、1964年7月11日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(投手)。1984年の登録名は染宮 修一(読み同じ)。 千城台西中学校から千葉商業高へ進み、1年春の県大会では決勝で登板し準優勝。3年夏はチームが決勝進出するも故障で登板できずに敗退。転校した浦和商業高(定時制)から、1983年オフにドラフト外でヤクルトスワローズに入団。武器は146㌔の速球とスライダー。 プロ2年目の1985年にイースタンリーグで防御率2.03を記録し、最優秀防御率を獲得。同年一軍初登板。1989年限りで現役を引退。家業を継いでいる。
月山 栄珠(つきやま えいじゅ、1964年2月19日 - )… 月山 栄珠(つきやま えいじゅ、1964年2月19日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 中学までは投手だったが、印旛高進学後に捕手に転向した。高校では、後に阪神タイガースに同期入団する佐藤文男とバッテリーを組む。1981年のセンバツに出場し3番打者として活躍、準決勝の上宮高戦でレフトラッキーゾーンに本塁打を打った。決勝戦ではPL学園高に敗れたが月山は超高校級捕手として注目を集めた。 元々は、早稲田大学へ進学する予定だったが、1981年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受け入団。この後、佐藤はドラフト外で阪神に入団している。またチームメイトで1番打者の二塁手の村上信一は阪急ブレーブスに入団した。
勝呂 壽統(すぐろ ひろのり、本名:勝呂 博憲(読み同じ)、… 勝呂 壽統(すぐろ ひろのり、本名:勝呂 博憲(読み同じ)、1963年9月23日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手)、指導者。本名を登録名にした時期もある。NPB・独立リーグ・巨人女子などで2026年3月末までコーチを務めた。現在は読売巨人軍の球団関係者である。 中学1年の時にリトルリーグで全国優勝を経験する。千葉商業高校では2年春の千葉県大会で準優勝する。卒業後、日本通運 (浦和)に進む。日通は都市対抗の常連チームであり、1986年の大会では、山越吉洋(本田技研から補強)と二遊間を組み活躍。同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受け、一時は入団を保留していたが、1987年の都市対抗に出場し、シーズン後に巨人と契約を結んだ。
正村 公弘(まさむら やすひろ、1963年9月7日 - )は… 正村 公弘(まさむら やすひろ、1963年9月7日 - )は、東京都出身の日本の元社会人野球選手(投手)、野球指導者。 現役時代は投手として、東海大浦安高校、東海大学、NTT東京でプレー。大学の同期に渡辺伸治(捕手)がいる。 社会人時代のNTT東京では、技巧派左腕として活躍し、コーチ兼任を含めて34歳まで現役生活を送る。 現役引退後の2003年からは、北東北大学野球連盟所属の八戸大学硬式野球部(後に八戸学院大学に改称)のコーチに就任。2012年からは監督に就任。監督在任中には、同大学を全日本大学野球選手権(2012年、2019年)、明治神宮野球大会(2013年)に導き、またコーチ時代から秋山翔吾や髙橋優貴、大道温貴、松山晋也ら多くのプロ野球選手を育成した事に携わり、同大学を全国レベルの強豪校に引き上げた。
後関 昌彦(ごせき まさひこ、1963年8月5日 - )は、… 後関 昌彦(ごせき まさひこ、1963年8月5日 - )は、千葉県鎌ケ谷市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。左投左打。 習志野高では2年生の時、控え選手ではあるが1980年夏の甲子園に出場。2回戦で東北高の中条善伸に完封を喫する。 1981年オフに、ドラフト外でヤクルトスワローズに投手として入団し、入団後に野手に転向。 1983年にはイースタン・リーグのベストナイン(一塁手)に選出される。一軍では左の代打要員としての出場が主であったが、1988年には17試合に一塁手、左翼手として先発出場。しかし同年オフ、谷宏明との交換で近鉄に移籍。 1989年には指名打者、一塁手として14試合に先発するが、その後は出場機会が減少。
村上 眞一(むらかみ しんいち、1963年7月13日 - )… 村上 眞一(むらかみ しんいち、1963年7月13日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)・コーチ。1993年までの登録名は「村上 信一」(読み同じ)。 印旛高では、同期の佐藤文男、月山栄珠のバッテリーを擁し、一番打者、二塁手として1980年秋季関東大会決勝に進出。高崎高を5-2で破り優勝。 翌1981年春の選抜への出場を決める。選抜では準決勝に進み、笘篠誠治のいた上宮高を降す。決勝ではエース西川佳明をはじめ吉村禎章、若井基安らを擁するPL学園高を相手に9回まで1点リードするが、土壇場で同点に追いつかれ、西川の右前打でサヨナラ負けを喫する。同年夏も県予選準決勝に進むが、銚子商に敗退。
村上 信一(むらかみ しんいち、1963年7月13日 - )… 村上 信一(むらかみ しんいち、1963年7月13日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。1994年からの登録名は「村上 眞一」(読み同じ)。
酒井 勉(さかい つとむ、1963年6月27日 - )は、千… 酒井 勉(さかい つとむ、1963年6月27日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。 中学2年まで捕手を務めていたが、この年に投手へ転向する。 東海大浦安高校では、1981年夏の千葉大会準々決勝に進むが、銚子商に完封負け。東海大学へ進学。同期に関根勝美(朝日生命)、2年下に荻原満など好投手がおり、あまり出番はなかった。首都大学リーグでは在学中6回の優勝を経験。リーグ通算11試合登板し1勝1敗。他の大学同期に渡辺伸治がいる。 大学からの卒業後に日立製作所へ入社すると、1988年の都市対抗野球に出場した。日立では通算33勝を挙げた。同年のNPBドラフト会議で、阪急ブレーブスの買収によって創設されたばかりのオリックス・ブレーブスから1位で指名。
和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県… 和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 阪神タイガース監督退任後は、阪神球団オーナー付シニアアドバイザーを経て、2017年11月1日から球団本部付テクニカルアドバイザー(TA)、一軍・二軍打撃巡回コーディネーターを務め、2026年より一軍ヘッドコーチに就任する。 1985年に阪神へ入団してから、阪神一筋フランチャイズ・プレイヤーとして他球団へ移籍することなく2001年まで現役生活を送った。 現役引退後は、一軍・二軍でのコーチを経て、2012年から2015年まで一軍の監督を歴任。阪神において、選手・コーチ・監督時代を通じて、31シーズン連続で現場で従事した人物は、和田が初めてである。
森 忠仁(もり ただひと、1962年6月2日 - )は、千葉… 森 忠仁(もり ただひと、1962年6月2日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は日本プロ野球選手会事務局長を務める。 千葉商業高校から、1980年オフにドラフト外で阪神タイガースに入団した。 はまれば飛ばす力があったが確実性に乏しく、現役6年間で一軍で記録を残すことなく引退した。 引退後は証券会社、保険代理店と一般企業に就職し、保険代理店時代にプロ野球選手会の松原徹(後の事務局長)から「プロ野球界出身で一般の企業社会での経験もある人物」を探していたことで声をかけられ、事情により一度は話が流れたが、松原が事務局長に就任した2000年に再び声をかけられ、プロ野球選手会に転職した。
小林 徹(こばやし とおる、1962年4月29日 ‐ )は、… 小林 徹(こばやし とおる、1962年4月29日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。千葉県出身。現役時代は投手。 習志野市の生まれ。習志野三中で野球を始め、習志野市立習志野高等学校では石井好博の指導を受けた。1年時の6月に不祥事が発覚して、7月から1年間の対外試合禁止処分を受けた経験がある。1980年、3年生の時に4番エースとして第62回全国高等学校野球選手権大会に出場した。青山学院大学でも投手を務めた。 1985年に商業科教諭として船橋市立船橋高等学校に赴任し、同校の野球部コーチとなった。1990年からは監督に就任。1993年に甲子園春夏連続出場し、1996年からは3年連続で選手権大会出場を果たした。
山岡 勝(やまおか まさる、1961年12月11日 - )は… 山岡 勝(やまおか まさる、1961年12月11日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 佐倉高では、1978年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、関根浩史のいた千葉工に惜敗。進学希望だったが、1979年オフにドラフト外で高校の先輩である長嶋茂雄監督の読売ジャイアンツに入団。 1986年に有田修三との2対1の交換トレードで、淡口憲治と共に近鉄バファローズに移籍。「背負い投げ投法」と言われた豪快なフォームから投げ下ろすオーバースローからの重い速球とカーブやシュートを投げる、武器の本格派投手として期待されていたが、プロで勝ち星を挙げることなく1991年限りで現役を引退した。 引退後、長嶋監督の下で2008年まで読売ジャイアンツの打撃投手を務めていた。
関根 浩史(せきね ひろふみ、1961年9月14日 - )は… 関根 浩史(せきね ひろふみ、1961年9月14日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉工業高では、エースとして1978年秋季県大会1回戦で完全試合を達成し、準決勝では佐倉高の山岡勝、決勝では千葉商の高田博久に投げ勝って優勝すると関東大会に進むが、1回戦で巨摩高にコールド負け、春の選抜出場を逸する。 高校卒業後、社会人野球の日産自動車に進む。1982年の都市対抗野球では池田親興、森岡真一との投の三本柱で準決勝に進み、優勝した住友金属の石井毅投手に抑えられ敗退、自身は先発したが3回途中で降板した。同年の第27回アマチュア野球世界選手権大会の日本代表に選出される。秋の日本選手権では2回戦で優勝したヤマハ発動機と対戦し、先発の池田が崩れると3番手として5回から登板してチームは9回表、同点に追いつくがその裏にサヨナラ負け。
高田 博久(たかだ ひろひさ、1961年7月16日 - )は… 高田 博久(たかだ ひろひさ、1961年7月16日 - )は、千葉県市原市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉商業高では、2年秋の県大会決勝で千葉工の関根浩史と投げ合って完封勝利したが、関東大会は初戦敗退。1979年夏の千葉県大会準々決勝に進出。エース銚子利夫を擁する市立銚子高と対戦するが、延長16回の熱戦の末、銚子にサヨナラ本塁打を喫し敗退。 高校卒業後は、青山学院大学に進学。しかし東都大学野球リーグでは、1981年春季リーグでチームが二部リーグに降格。以後も低迷が続き、一部昇格はならなかった。1983年秋季リーグで二部優勝に貢献、MVP、最優秀投手を受賞した。1学年下に小川博がいる。 大学卒業後は、社会人野球の日本楽器に入団。
板沢 峰生(いたざわ みねお、1961年7月4日 - 198… 板沢 峰生(いたざわ みねお、1961年7月4日 - 1980年12月3日)は、千葉県東葛飾郡流山町(現在の流山市)出身のプロ野球選手(内野手)。 我孫子高では、2年次の1978年に当時1年生であった和田豊と三遊間を組んで夏の甲子園に出場した。 1979年オフ、チームメイトの仲野和男(外野手)と共にドラフト外で西武ライオンズに入団した。 1年目の1980年、二軍でイースタン・リーグ公式戦39試合に出場、打率.238、2本塁打、9打点の成績を残し、守備でも堅実なフィールディングを見せ注目されていた。しかし千葉県の自宅に帰省していた同年オフの12月2日、突然気分が悪くなって我孫子市の病院に入院し、急性心不全のため翌3日に死去した(19歳没)。
長冨 浩志(ながどみ ひろし、1961年6月10日 - )は… 長冨 浩志(ながどみ ひろし、1961年6月10日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉日大一高ではエース兼四番打者として、1979年夏の甲子園千葉県予選で準決勝に進出するが、習志野高にコールド負け。 高校卒業後は国士舘大に一般入部。東都大学野球リーグでは二部リーグが長く、一部リーグ出場は3シーズンにとどまる。7季連続の入替戦登板も経験。4年次には主将として春季二部リーグに優勝、二部MVP、最優秀投手となる。入替戦で専大を降し、一部リーグに昇格するが、秋季リーグは振るわず最下位で残留を決めた。1983年秋にロッテオリオンズのドラフト3位指名を受けるも入団拒否。 大学卒業後、電電関東(2年目からNTT関東)に入社。
髙野 光(たかの ひかる、1961年5月20日 - 2000… 髙野 光(たかの ひかる、1961年5月20日 - 2000年11月5日)は、東京都江東区出身のプロ野球選手(投手、右投右打)、コーチ。現役時代は主にヤクルトスワローズでプレー。引退後は日本・韓国・台湾の球団でコーチを務めた。 東海大浦安高2年生の1978年には第60回全国高等学校野球選手権千葉大会で準決勝に進むが銚子商業に敗れ、ベスト4。 1980年に東海大学に進学。首都大学野球リーグでは在学中に5回優勝。同期の内田強とバッテリーを組み、3年秋の1982年明治神宮大会では準決勝で木暮洋投手擁する早大を完封。決勝でも7回から救援に立ち、大商大の川原新治と投げ合い勝利投手となり優勝を飾る。翌1983年の同大会でも初戦完封の後、準決勝で小早川毅彦、2年西川佳明投手らを擁する法大に完投勝利。
仲野 和男(なかの かずお、1961年4月26日 - 201… 仲野 和男(なかの かずお、1961年4月26日 - 2018年8月19日)は、千葉県出身のプロ野球選手(外野手)。 日本野球機構パシフィックリーグ統括兼パシフィックリーグ運営部長。公益財団法人日本プロスポーツ協会評議員。 我孫子高では、2年次の1978年に夏の甲子園に出場。1学年後輩に和田豊がいる。 1979年オフ、チームメイトの板沢峰生内野手と共にドラフト外で西武ライオンズに入団。 一軍公式戦出場のないまま、1982年に現役を引退した。 1988年1月にパ・リーグ事務局に入局し、2012年1月からパ・リーグ統括を務めていた。 2018年8月19日に拡張型心筋症及び心臓弁膜症のため死去。57歳没。
大野 雄次(おおの ゆうじ、1961年2月2日 - )は、千… 大野 雄次(おおの ゆうじ、1961年2月2日 - )は、千葉県富津市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。
小川 史(おがわ ひろし、1960年6月6日 - )は、千葉… 小川 史(おがわ ひろし、1960年6月6日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。 浦安高校ではエースで中心打者として活躍した。1978年の夏の県大会で準決勝に進出するが、和田豊らのいた我孫子高に敗退した。高校通算打率.475を記録している。 1978年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団した。西武時代は行沢久隆、石毛宏典などの台頭で目立つ活躍はなく、1982年オフに金銭トレードにて南海ホークスへ移籍した。 1984年シーズン中盤から内野の控えとして一軍に定着、福本豊が通算1000盗塁を決めた際の遊撃手で二塁への送球を受けていた。1986年には遊撃手のレギュラーを獲得し、規定打席(35位、打率.248)にも到達した。
菊池 総(きくち さとし、1960年4月2日 - )は、日本… 菊池 総(きくち さとし、1960年4月2日 - )は、日本の野球選手(投手)。投手としては小柄ながら、キレの良いスライダーとシュートを駆使しソウル五輪代表にも選ばれた。 印旛高校では1977年秋季関東大会県予選でエースとしてチームを支え、同校に初優勝をもたらした。続く関東大会でも決勝で前橋高を完封し優勝。春の選抜初出場を決め、防御率0.38の成績で、江川卓にも匹敵するとの高評価を得ている。翌1978年の第50回選抜高等学校野球大会に出場。1回戦で西田真次、木戸克彦のバッテリーを擁するPL学園と対戦し、緊張もあって4点を奪われ完封負けに終わった。同年夏の甲子園県予選では準々決勝で小川史を擁する浦安高に延長10回サヨナラ負け、甲子園には出場できなかった。
荻原 修(おぎわら おさむ、1960年3月22日 - )は、… 荻原 修(おぎわら おさむ、1960年3月22日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 京葉工業高から、1977年オフにドラフト外で日本ハムファイターズに入団する。 オーバースローから、カーブ、シュート、ナックル、フォークを武器とする。 1983年に一軍デビューを果たすが、1984年限りで現役を引退した。
田村 藤夫(たむら ふじお、1959年10月24日 - )は… 田村 藤夫(たむら ふじお、1959年10月24日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 習志野市立大久保小学校5年生の時に近所の少年野球チームに入り、その時から捕手を務める。習志野市立第二中学校野球部監督から、家の近くの習志野高校よりも関東一高を薦められて同校に進学。 関東第一高校では、エースとして2年次の1976年に秋季東京大会で準決勝に進むが、弓田鋭彦(早大 - 日本石油)・谷田部和彦(早大 - 拓銀)・川又米利らを擁する早実に敗れる。3年次の1977年には捕手へ転向し、夏の全国選手権東東京大会でも準々決勝へ進出するが、またも早実に大敗したため甲子園出場には届かなかった。
野崎 進(のざき すすむ、1959年9月28日 - )は、千… 野崎 進(のざき すすむ、1959年9月28日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 登録は右投げであったが、左右両方で投球・打撃が可能な選手であった。 千葉商業高では主将兼エース、第59回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦で松本正志がエースの東洋大姫路高と対戦し0-4で敗れる。野崎は、この試合左打席で4打数3安打だった。右投げの投球では、縦のカーブを武器にした。 1977年オフ、高校の先輩である小川善治二軍監督の勧誘もあってドラフト外でヤクルトスワローズに入団。一軍公式戦はおろか二軍戦での登板もないまま、1978年限りで現役を引退。1980年まで打撃投手をつとめた。
尾上 旭(おのうえ あきら、1959年4月22日 - 202… 尾上 旭(おのうえ あきら、1959年4月22日 - 2022年11月20日)は、千葉県旭市出身のプロ野球選手(内野手)。 小学4年から野球を始め、飯岡中学時代に投手から内野手に転向。 銚子商業高では1976年に中堅手として夏の甲子園に出場、準々決勝に進むが桜美林高に敗れる。チームメートに1年先輩の宇野勝がいた。1977年には遊撃手として春の選抜に出場、2回戦で智辯学園高の山口哲治に抑えられ敗退 。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは1979年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝する。1981年の日米大学野球選手権日本代表に選出された。リーグ通算108試合出場、394打数105安打、打率.266、14本塁打、43打点。
田中 幸雄(たなか ゆきお、1959年2月27日 - )は、… 田中 幸雄(たなか ゆきお、1959年2月27日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1986年から1989年にかけて同一チームに同姓同名の田中幸雄(内野手、同時在籍時の表記は「田中雄」)が在籍し、投手の田中幸の方が内野手の田中雄より背が高かったため(190cm)、オオユキと呼ばれた。 流山高校では園芸科で、高校3年秋には実物鑑定の全国大会に出場した。野球部では、ポジションは遊撃手と三塁手で、高校2年秋からは主将を務めた。部員は10名程度で、大会前にはサッカー部など他の部から補強し、夏の地方大会は3年連続で1回戦で敗退と、「甲子園とはまったく別の世界」だった。 高校3年の春の大会で宇野勝のいる銚子商業と対戦し、0対8でコールド負けしたが、身長180センチの田中が銚子商監督の斉藤一之の目に留まる。
宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉… 宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・コーチ・野球解説者・YouTuber。愛称はうーやん。 NPBにおける、史上初(現在まで唯一)の遊撃手としての本塁打王獲得者。 銚子商業高校では遊撃手、3番打者として活躍。1975年秋季関東大会県予選決勝に進むが、習志野高の鵜野稔に完封を喫し春の選抜出場を逸する。1976年の夏の甲子園に出場。エース佐藤斉(住金鹿島)の投打にわたる活躍もあり準々決勝に進むが、この大会に優勝した桜美林高の松本吉啓(明大 - 明治生命)に抑えられ敗退。2学年上に土屋正勝、1学年上に篠塚利夫、1学年下にプロで同僚となる中堅手の尾上旭がいた。
石原 修治(いしはら しゅうじ、1958年5月25日 - )… 石原 修治(いしはら しゅうじ、1958年5月25日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)。流山市議会議員。 流山市立八木北小学校、流山市立常盤松中学校、千葉県立我孫子高等学校をそれぞれ卒業。 1976年ドラフト2位で近鉄入団。6年目の1982年に初めて一軍に昇格、6月には中堅手、右翼手として5試合に先発出場、初本塁打も放った。入団時は内野手であったが俊足を評価されて、1983年に外野手転向。しかし伸び悩み、1987年限りで現役引退。 2015年4月、流山市議会議員一般選挙で初当選。2019年4月、2度目の当選。
黒田 真治(くろだ しんじ、1958年1月2日 - )は、千… 黒田 真治(くろだ しんじ、1958年1月2日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)。 下総農業高では2年夏の県大会準決勝へ進むが石毛宏典のいた市立銚子高に敗れた。1975年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに入団。同期のドラフト外入団組には、外園正や平田薫、ドラフト指名組には篠塚利夫、中畑清、山本功児らがいた。 一軍公式戦出場のないまま、1980年に現役を引退。その後は、打撃投手に転向した。 山際淳司のノンフィクション小説「スローカーブを、もう一球」の「背番号94」のモデルとして有名である。 全国野球振興会会員である。
遠藤 伸久(えんどう のぶひさ、1957年11月5日 - )… 遠藤 伸久(えんどう のぶひさ、1957年11月5日 - )は、千葉県旭市出身の元プロ野球選手(投手)。 市立銚子高では2年生の時、1974年の秋季関東大会県予選準々決勝で千葉商からノーヒットノーランを記録。県予選決勝に進出するが小川淳司を擁する習志野高に敗退。翌1975年夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが、君津高に敗れた。1年上のチームメートに石毛宏典、同期には投の二本柱であった銚子洋二(早大、銚子利夫の兄)がいた。 本格派左腕と期待され、1975年オフにドラフト外で阪神タイガースへ入団。なかなか一軍に上がれなかったが、プロ5年目に永射保、村田辰美らの投法をヒントに、フォームをオーバースローからサイドスローに改造。
小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は… 小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・監督・コーチ、野球評論家。現役引退後に、東京ヤクルトスワローズの一軍監督を2期(通算6年半)歴任。1期目と2期目の間(2015年 - 2017年)にはシニアディレクター、2期目終了後の2020年から2025年までゼネラルマネージャーを務めていた。 中学校在学中は三塁手だったが、目立った実績を残せないまま地元校の習志野高に進学。大柄な体格と強肩の持ち主であったため、進学の直後は捕手に回っていた。チーム内から故障者が出たのをきっかけに、1年時の秋から投手に転向。「肋間神経痛を抱えていても走り込みを休めなかった」というほどの猛練習を経て、エースの座をつかんだ。
中島 克介(なかしま かつすけ、1957年7月25日 - )… 中島 克介(なかしま かつすけ、1957年7月25日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。 横芝敬愛高では投手として活躍。甲子園には出場できなかったが、1975年春季関東大会に進出。2回戦(初戦)で横浜商業高に敗退。 高校卒業後は、社会人野球の川崎製鉄千葉に入社。内野手に転向し、1980年の都市対抗野球では本田技研鈴鹿との1回戦で本塁打を放つ。準々決勝に進むが新日本製鐵釜石に惜敗。同年の社会人ベストナイン三塁手部門を獲得している。 1982年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受け入団。 社会人屈指の内野手として期待されたが一軍に上がれず、1986年に代打、外野手、指名打者としてシーズン終盤の6試合に出場するが、同年限りで現役を引退。
小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は… 小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の高校野球指導者。旧姓は斉藤。 元プロ野球選手・監督の森繁和ははとこにあたる。またタレントの小倉優子は親戚。 一宮町立一宮中学校時代はエースで4番。同級生にタレントのあご勇がいた。 日大野球部に在籍していた6歳上の兄の勧めで東京都にある日大三高に進学。高校では内野手だったがレギュラーにはなれなかった。日本大学では野球部には入らなかったが、高校野球の指導者を志し、母校である日大三高のコーチを務めていた。 大学卒業後の1981年に関東一高野球部監督に就任。1985年夏の甲子園に甲子園初出場しベスト8に進出した。1987年・春の甲子園では下手投げの平子浩之投手(東洋大-日本通運)と三輪隆捕手のバッテリーを擁し準優勝に導く。
土屋 正勝(つちや まさかつ、1956年11月6日 - )は… 土屋 正勝(つちや まさかつ、1956年11月6日 - )は、千葉県旭市出身の元プロ野球投手。 叔父は千葉県立銚子商業高等学校が1965年に木樽正明を擁して夏の甲子園で準優勝した際の左翼手で、その祝賀パレードを見たことが野球を始めるきっかけとなった。そのときの憧れから土屋も銚子商に進学し1973年春から4期連続で甲子園に出場を果たす。1年秋の県大会では木更津中央高の古屋英夫と投げ合うと、古屋は途中降板したが延長14回を投げて完投勝利で優勝。関東大会では準決勝で江川卓が先発した作新学院を相手に2番手で登板したが完封負け。2年春の選抜は控え投手として出場。1回戦で報徳学園に大敗するが、この試合でリリーフに立ち甲子園初登板。
石毛 宏典(いしげ ひろみち、1956年9月22日 - )は… 石毛 宏典(いしげ ひろみち、1956年9月22日 - )は、千葉県旭市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家、YouTuber。 日本における独立リーグの創設者・運営者としても知られ、IBLJを設立し、初代代表取締役を務めた。愛称は「ミスターレオ」「ハチ」。 現役時代は主に西武ライオンズで活躍し、1996年に福岡ダイエーホークスで現役引退後、同球団の二軍監督・オリックス・ブルーウェーブの監督などを経て、2004年に四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)を創設し、2009年創設の関西独立リーグ (初代)でも最高顧問を務めた。 2009年より城西国際大学客員教授。
中村 典夫(なかむら のりお、1956年4月4日 - )は、… 中村 典夫(なかむら のりお、1956年4月4日 - )は、千葉県市原市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 千葉商業高から、1974年の新人公募テストに合格し、ドラフト外で阪神タイガースに入団。 1年目の1975年からウエスタン・リーグで46試合に出場したが、一軍出場は遠く、1979年に4試合に出場したのみであった。同年に選手寮「虎風荘」の寮長に就任し、1980年限りで現役を引退。 引退後は1981年に二軍サブマネージャーを務め、安藤統男二軍監督を影で支える。安藤の野球に精通し「影の二軍監督」との異名をとり、1982年からは25歳で二軍守備・走塁コーチに就任。1984年まで務め、以後はフロントに入った。
古屋 英夫(ふるや ひでお、1955年8月1日 - )は、千… 古屋 英夫(ふるや ひでお、1955年8月1日 - )は、千葉県富津市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。 現役時代は日本ハムファイターズの主力選手として活躍。小柄ながらがっしりした体格で、長打力を持ち合わせていたことからボンバーという愛称で知られた。 富津市で漁師の家庭に生まれる。小学校3年生の時に肋骨にカリエスが見つかって摘出手術を行ない、回復のため父親の勧めで野球を始めた。優れた野球の才能を見せて6年生の頃から中学の練習にも参加し、天羽中学に進むと投手で四番打者を務めている。 複数の高校野球部から誘いを受け、木更津中央高校に進学。高校でも1年生の秋からエース、四番打者となる。1972年夏の甲子園県予選では2回戦で成東高の鈴木孝政と投げ合い、4-5で惜敗。
掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、… 掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、新潟県三条市生まれ、千葉県千葉市中央区出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球解説者・評論家、タレント、YouTuber。大阪府豊中市在住。阪神タイガース現役時代から(4代目)「ミスタータイガース」と称された。 1988年の現役引退後は、野球解説・評論活動を経て、2013年シーズン終了後にゼネラルマネジャー(GM)付育成&打撃コーディネーター→球団本部付 - (Development Coordinator〈略称:DC〉)として阪神に復帰。2016年から2シーズンにわたって二軍監督を務めたのち、2017年11月1日から2年間、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(Senior Executive Advisor〈略称:SEA〉)として活動した。
岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日… 岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日本のアマチュア野球指導者、体育学者(国際武道大学教授)である。 1955年4月6日、千葉県銚子市出身。 1971年に千葉県立銚子商業高等学校に入学。銚子商時代には斎藤一之の指導を受け、3年生だった1973年の第55回全国高等学校野球選手権大会では六番・一塁手として出場。大会2回戦では江川卓擁する作新学院高等学校と対戦して、雨中の熱戦の末に延長戦で勝利した試合にフル出場した選手でもあった。 高校卒業と同時に東海大学に進学し、硬式野球部に入部。同期には遠藤一彦、石井昭男がいた。大学3年及び4年時には首都大学野球リーグ戦の2年連続春秋連覇を経験した。
岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日… 岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日本の体育学者(国際武道大学教授)、アマチュア野球指導者である。
森 繁和(もり しげかず、1954年11月18日 - )は、… 森 繁和(もり しげかず、1954年11月18日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 マネジメント契約先は吉本興業グループの芸能事務所・吉本興業株式会社。 愛称は「モリシゲ」。 市原市の科学技術工業高校では2年次の1971年からエースとなり、夏の県大会ベスト8。3年次の1972年では春の千葉県大会2日目に八千代高から16奪三振を記録するが、同日には成東高の鈴木孝政も市川工戦で16奪三振をマーク。同年に廃校が決定するが、夏の千葉大会で佐倉高に敗退後、同大会で審判の判定に不服を訴えて抗議した様子が駒澤大学・藤田俊訓学監の目に留まり、駒大高校へ転校。
鈴木 孝政(すずき たかまさ、1954年7月3日 - )は、… 鈴木 孝政(すずき たかまさ、1954年7月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 蓮沼小学校、蓮沼中学校から成東高校へ進学、中学時代はサイドスローだったが高校ではオーバースローに変更。鵜沢達雄の後継として、速球を武器に1年秋からエースの座に着く。 1971年には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進む。しかし練習時に負傷し、先発を控えの及川投手に譲りリリーフに回るが、竜ヶ崎一高に1-2で惜敗した。 1972年の春季関東大会では準決勝で日大三高の待井昇に投げ勝つ。しかし決勝では登板せず、後にプロで同僚となる田野倉利男のいた早実高に敗退し準優勝にとどまる。同年夏は県予選準決勝で銚子商の根本隆と投げ合い0-1で完封負け、甲子園には出場できなかった。
根本 隆(ねもと たかし、1954年6月14日 - )は、千… 根本 隆(ねもと たかし、1954年6月14日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)。大洋ホエールズ、西武ライオンズに所属した。引退後は西武の打撃投手、スコアラーを務める。 銚子商では1971年、2年の時にエースとして夏の甲子園に出場。1回戦で竹内広明投手を擁する深谷商、2回戦で鶴崎茂樹投手を擁する筑紫工を、いずれも延長10回サヨナラ勝ちで降し準々決勝に進むが、郡山高に9回サヨナラ負け。この大会の県予選準決勝(東関東大会県代表決定戦)では、勝浦高を相手にノーヒットノーランを記録。 秋の県大会準決勝では成東高の鈴木孝政と投げ合って完封勝利すると決勝も延長12回を完封して優勝。続く関東大会でも全3試合を投げ切って1失点で優勝に貢献した。
荒井 信久(あらい のぶひさ、1954年3月19日 - )は… 荒井 信久(あらい のぶひさ、1954年3月19日 - )は、千葉県山武市出身の元アマチュア野球選手(捕手)、元指導者。 千葉県山武郡松尾町(現在の山武市)出身。成東高校では、のちに中日に入団する1年下の鈴木孝政とバッテリーを組む。1971年には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進むが、竜ヶ崎一高に1-2で惜敗し、甲子園への出場を果たすことができなかった。 高校卒業後に明治大学に入学。東京六大学野球リーグでは、同期でエースの丸山清光や名取和彦とバッテリーを組み、1975年に春秋季連続優勝を飾る。同年の第4回日米大学野球選手権大会日本代表にも選ばれた。同年の明治神宮野球大会に出場、決勝で中畑清を打の主軸とする駒大を降し優勝を果たした。
渡辺 進(わたなべ すすむ、1952年8月25日 - )は、… 渡辺 進(わたなべ すすむ、1952年8月25日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、コーチ。 銚子商業では1970年、四番打者、遊撃手として夏の甲子園予選東関東大会に進出。準決勝で鉾田一高の、後にプロで同僚となる梶間健一を打ち崩し、決勝ではエース鵜沢達雄を擁する成東高に9回サヨナラ勝ち。夏の甲子園に出場し、高知商を破って2回戦に進出するが、この大会に準優勝したPL学園の新美敏に完封負け。 1971年のドラフト4位でヤクルトアトムズに入団。 1976年には開幕から遊撃手として起用され、69試合に先発出場。その後も水谷新太郎、永尾泰憲とレギュラーを争う。 1978年の阪急ブレーブスとの日本シリーズは2試合に出場した。
髙浦 美佐緒(たかうら みさお、1952年7月20日 - )… 髙浦 美佐緒(たかうら みさお、1952年7月20日 - )は、千葉県木更津市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 本名同じ。1984年までの登録名は「高浦 美佐緒」、1985年から1992年の登録名は「高浦 己佐緒」、2010年から2014年の登録名は「髙浦 己佐緒」(いずれも、読みは同じ)。選手時代の愛称は「タカ」。 本名および2010年以降の登録名に使われる「高」の字は、異字体の「髙」(はしごだか)であるが、「高」に差し替えられることもある。 千葉商業では3年次の1970年に春の選抜で甲子園初出場を果たし、2年生エースの永島時郎(日本通運)とバッテリーを組んで準々決勝に進出するが、広陵高の佐伯和司に0-1で完封負けを喫した。
鵜沢 達雄(うざわ たつお、1952年7月13日 - )は、… 鵜沢 達雄(うざわ たつお、1952年7月13日 - )は、千葉県東金市出身の元プロ野球選手(投手)である。大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズ、西武ライオンズに所属した。 成東高では2年生からエースとして活躍。1969年には夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、千葉商に敗退。1970年夏は市原高戦でノーヒットノーランを達成、東関東大会決勝まで勝ち進むが、渡辺進遊撃手のいた銚子商に1-2xで9回サヨナラ負け、甲子園には出場できなかった。 同年ドラフト4位で大洋に入団。速球派右腕と期待され、2年目の1972年に5勝をあげるが、その後は伸び悩む。1978年オフに基満男との交換トレードで、根本隆と共に西武に移籍した。
前川 善裕(まえかわ よしひろ、1952年4月29日 〜 )… 前川 善裕(まえかわ よしひろ、1952年4月29日 〜 )は、昭和期の社会人野球選手(外野手)である。 千葉県出身。東葛飾高では投手として活躍。1968年秋季関東大会県予選では安房農に延長12回敗退するが、参考記録ながら23奪三振を達成。これは現在でも千葉県高校野球連盟記録となっている。1年生ながら同年12月には千葉県高校選抜チームのフィリピン遠征に参加。東葛飾高は進学校で強豪とは言えず、前川のワンマンチームという色彩が強かった。1970年夏の甲子園県予選では準々決勝まで進出するも、一宮商に0-5で敗退。その実績もあり、前川は知人の紹介で早稲田大学のセレクションを受験し合格。 早稲田大学第二文学部に進学はしたものの、甲子園に出場したメンバーばかりに圧倒され、入学するとすぐに外野手に転向することを決意。
豊倉 孝治(とよくら たかはる、1951年5月10日 - )… 豊倉 孝治(とよくら たかはる、1951年5月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉県立安房高等学校では、1968年秋季関東大会県予選準決勝に進むが銚子商に敗退。その後も県予選で敗れ甲子園には届かなかったが、高校時代はノーヒット・ノーランを2回達成。1968年には千葉県選抜の一員としてフィリピンに遠征し、最高殊勲選手にも選ばれた本格派投手であった。日本軽金属へ進むが1年目の10月に退職すると1970年ドラフト会議で西鉄ライオンズから3位指名を受け入団。 1年目の1971年にルーキーながらオープン戦に出場し、スライダーやカーブを武器に好投する。4月21日には近鉄を相手に先発し、鈴木啓示と投げ合うが2回3失点で降板。
町田 公雄(まちだ きみお、1951年3月5日 - )は、千… 町田 公雄(まちだ きみお、1951年3月5日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 銚子商では1968年の春の甲子園に出場、準々決勝に進出するが倉敷工に敗退。同年夏の県大会でも決勝に進むが、千葉商に敗れ甲子園出場を逸する。高校の同期生に市原明、杉山茂がいる。 卒業後は日本石油に進み、1969年から都市対抗野球大会の常連として活躍。1971年の同大会ではチームの準々決勝進出に貢献。1972年の日本産業対抗野球大会は五月女豊の好投もあって勝ち進み、決勝で鐘淵化学を降しチームの初優勝に貢献、優秀選手に選出された。この時のチームメイトに秋元国武、磯部史雄らがいた。1973年の産業対抗は準決勝で熊谷組に敗退。