青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2… 青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1925年(大正14年)7月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県南魚沼郡藪神村(大和村、大和町を経て現南魚沼市)出身。村会議員、南魚沼郡会議員。新潟県会議員、芹田耕地整理組合長、薮神信用販売購買組合理事となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において新潟10区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1925年死去。
坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(186… 坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。 1862年、越後国南蒲原郡加茂(現・新潟県加茂市)に生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。1917年、大橋図書館(現・三康図書館)館長。1918年、日本図書館協会会長。
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月… 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月18日(1862年2月16日) - 昭和2年(1927年)10月18日)は、新潟県出身の教育者、政治家。 越後国蒲原郡柄目木村(現在の新潟県新潟市秋葉区柄目木)に真柄家の子として生まれた。17歳で教員となった後に上京し漢学などを学んだ。帰郷後は五泉の歌川家に養子に入り、26歳で家を継いだ。 1902年、家塾『猶興社』を開設し、小学校を卒業したのち旧制中学に進めないような貧しい子供達への教育の場となった。1898年よりは当時の五泉町議会の政治家となり、織物業の振興を図り織物同志会を組織したり、五泉銀行の頭取を務めるなどした。1923年には五泉町教育会長となり、図書館を建設した。
大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろ… 大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろう、1861年8月1日(文久元年6月25日)- 1944年(昭和19年)11月15日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県会議長。長男の岳母は衆議院議員 牧口義矩姉。四男は衆議院議員 丸山豊治郎 弟笠原謙治郞養子。 越後国頸城郡梶村(新潟県中頸城郡梶村、旭村、吉川町梶を経て現上越市吉川区梶)で、素封家・大滝甚十郎の二男として生まれた。儒者に師事して漢学を修めた。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)梶村外23カ村戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により旭村会議員に就任した。
中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久… 中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久元年3月10日)- 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治期から昭和初期の林業家、政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡河原田町長。1914年(大正3年)五兵衛に改名した。 佐渡国雑太郡川原田町(新潟県佐渡郡河原田町、佐和田町を経て現佐渡市河原田本町)で、代々酒造業を営む中山家当主・中山五平の三男として生まれる。中山立恭、圓山溟北から漢籍を学び、その後上京して共立学校(現開成中学校・高等学校)で学んだ。兄・五兵衛が本間吾平の養子となり、1890年(明治23年)5月に家督を相続した。 河原田町会議員、同町長を務めた。1890年(明治23年)米の高騰で相川町で米一揆が起こり、川原田町貧民救助基金に寄付を行った。
大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年… 大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年3月12日〉 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋・大竹英治の六男として生まれる。若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ。1873年、新潟学校に入り、1874年に官立新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが、1876年8月に中退した。 1880年、中之島村会議員に就任(1912年まで在任)。南蒲原郡会議員、新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水路工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した。
内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6… 内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6年7月22日)- 1945年(昭和20年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。幼名・駒二郎、旧名・道二郎。明治期の石油産業の開拓者であり、日本石油を設立し「日本の石油王」と呼ばれた。 越後国刈羽郡石地村(現新潟県柏崎市西山町石地)で、代々里正を務めた名家の内藤久之、貞子夫妻の二男として生まれる。兄と姉が幼くして死去したため一人息子のように育った。柏崎県黌、横浜の高島学校、新潟英語学校で学んだが、退学して衰退した実家の再建のため懸命に働いた。 1879年(明治12年)4月、戸長に就任。1885年(明治18年)新潟県会議員に当選した。
高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年… 高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年3月7日) - 1915年(大正4年)5月29日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。 越後国頸城郡板倉村(現在の新潟県上越市)出身。板倉村会議員、中頸城郡会議員、新潟県会議員、同参事会員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立憲改進党系の高田新聞社社長を務め、上越電気株式会社取締役に選ばれた。
関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政… 関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政5年10月28日)- 1924年(大正13年)11月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。号・剣山人。 越後国刈羽郡剣野村(新潟県刈羽郡枇杷島村大字剣野、柏崎町を経て現柏崎市剣野)で、関矢福右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)9月に家督を相続した。 柏崎県立学校などで学び、上條義塾の漢学教師を務めた。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)の高田事件で検挙された。その後、新潟市に移り、北越学館漢学教師を務め、東北日報、自由新報の記者となった。沿海州の漁業、ロシアとの貿易に着目して、北陸地方の発展のための必要性を訴えた。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) -… 久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) - 1923年(大正12年)6月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国魚沼郡小千谷町(のち新潟県北魚沼郡小千谷町、現・小千谷市)生まれ。漢学と英語を学ぶ。学務委員、小千谷町会議員、同助役、町村組合会議員、新潟県会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟7区から立憲改進党所属で立候補して初当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政… 初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政4年1月10日) - 1924年(大正13年)5月13日)は、日本の実業家、政治家。北海道の海運王と呼ばれた。 越後国刈羽郡宮川村(のち新潟県刈羽郡高浜町大字宮川、現柏崎市)で板谷善左衛門の四男として生まれ、兄・常太の養嗣子となる。 明治3年(1870年)北海道渡島国松前に渡り、1875年、小樽に移って海産物商に奉公した。1882年に独立して米穀雑貨の販売業を営む。1893年、小型汽船を購入し、これが海運業を営むきっかけとなった。1899年、兄・常太と板谷合名を創立し、物産販売、倉庫業、醸造業、海運業、鉱業、農業、漁業を営んだ。1912年、板谷合名を板谷商船に改組した。
山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3… 山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日) - 1919年(大正8年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚。 越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ。神奈川県立修文館で英語を学び、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1… 高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1月28日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)で高橋喜惣八の長男として生まれる。1875年(明治8年)小樽に渡り荒物商の店員となる。1878年(明治11年)に独立し合羽荒物雑貨商を開業し、さらに米穀海産委託問屋、味噌醤油製造、石炭販売、精米所、回漕業を営んだ。1896年(明治29年)弟・喜蔵と共に高橋合名会社を組織し代表社員に就任。事業を米雑穀業に転換した。第一次世界大戦により日本からヨーロッパへ菜豆類の輸出が急増した際に、大量の大豆を貯蔵し直輸出を行い、日本やロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称された。
小金井 権三郎(權三郎、こがねい ごんざぶろう、1856年(… 小金井 権三郎(權三郎、こがねい ごんざぶろう、1856年(安政3年8月) - 1925年(大正14年)7月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国古志郡長岡(のち新潟県古志郡長岡本町→長岡町、現・長岡市)生まれ。慶應義塾で学ぶ。巡査、小学校教員、時事新報社社員、写真用品製造(株)取締役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党所属で立候補したが落選。1894年9月の第4回衆議院議員総選挙で当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では自由党から出馬したが次点で落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から出馬したが落選した。
丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2… 丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2年10月9日)- 1920年(大正9年)3月17日)は、日本の実業家、篤農家、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡本郷村(後の北蒲原郡中条町大字本郷、現新潟県胎内市)で、丹後宗民の十二男として生まれ、1882年、丹後宗淳の後を相続した。家は医業を営む。 漢学塾に入り漢籍を学ぶ。経伝諸子百家の書を渉猟する。1873年、大学南校に入学する。東京大学文学部で学び、第一科を修める。病により退学して帰郷する。 帰郷後、町村会議員、北蒲原郡会議員、新潟県会議員、学務委員、徴兵参事員などを務めた。実業界では、農業、絵具塗料製造・販売を営み、蚕糸業組合長、中条共立銀行取締役などを務めた。
鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2… 鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1901年(明治34年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 佐渡国加茂郡河崎村(新潟県佐渡郡河崎村、両津市を経て現佐渡市)出身。1876年、新潟師範学校卒。卒業後は東京府雇、新潟師範学校教員、中学校教諭、新潟県会議員となる。また、雑誌「回天」を発行する。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において新潟9区から自由倶楽部公認で立候補して初当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙では独立俱楽部から立候補して再選した。1894年の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4… 目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日)- 1899年(明治32年)12月31日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した。 戸長を務める。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門、岡田龍松らと共に加わった。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任。
市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6… 市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6月)- 1923年(大正12年)7月25日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県加茂郡梅津村長、同県佐渡郡加茂村長。 佐渡国加茂郡梅津村(新潟県加茂郡梅津村、佐渡郡梅津村、加茂村、両津市梅津を経て現佐渡市梅津)で生まれた。圓山溟北に学んだ。農業を営む。佐渡三郡勧業殖産下掛を務めた。 1872年(明治5年)加茂歌代郷校読方補助に就任。以後、梅津戸長、地租改正下調役、第二十六区副大区長兼小六区長、佐渡三郡町村連合会議員、同議長、所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年(明治22年)梅津村長に就任。1900年(明治33年)新潟県会議員に選出され、海底電線の敷設、中等学校の拡充などに尽力した。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) … 佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) - 1924年(大正13年)2月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国岩船郡村上城下(のち新潟県岩船郡村上本町→村上町、現・村上市)生まれ。岩船郡会議員、新潟県会議員、村上鮭産育養所長、大日本水産会評議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟2区から自由党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。衆議院議員は1期務め、1924年に死去した。
飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月2… 飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日)- 1923年(大正12年)9月18日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。 越後国刈羽郡新道村、のちの新潟県刈羽郡日高村(高田村を経て現柏崎市新道)で、大地主・飯塚弥兵衛の長男として生れた。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ。1868年(明治元年6月)に家督を相続。農業を営む。 実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた。
高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月)… 高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月) - 1922年(大正11年)3月26日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 越後国蒲原郡別所村(新潟県中蒲原郡十全村、村松町を経て、現五泉市別所)に生まれる。大肝煎の兄・永三の跡を継いだ。 石油採掘および精製業に従事し、1897年(明治30年)5月、新津礦油を創立し社長に就任した。ほか、沼垂銀行取締役を務めた。 早くから自由民権運動に加わり、地方自治においては、十全村会議員、十全村長、新潟県会議員、同議長を歴任した。一時期、友人大竹貫一の意見を受けて中蒲原郡のため中立派に属した以外は、自由党系に所属して活動した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第3区から出馬し当選。
高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年1… 高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年12月17日) - 1922年(大正11年)9月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国三島郡宮川外新田(のち新潟県三島郡浦村→来迎寺村→越路町→長岡市)出身。漢籍を学ぶ。新潟県第十六区副長、学務委員、道半村(のち浦村)、宮川外新田戸長、のち宮川外新田外十二ヶ村戸長、三島郡所得税調査委員となる。また、第六十九国立銀行取締役、両毛鉄道(株)監査役、同取締役、関原銀行、沼垂銀行、北越倉庫各(株)取締役、与板銀行監査役を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党公認で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。
久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(… 久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(嘉永3年3月15日)- 1928年(昭和3年)1月18日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。号・雲堂。 越後国三島郡小島谷村(新潟県三島郡小島谷村、島田村、和島村を経て現:長岡市)で、素封家の旗本知行所代官・久須美毅堂(左衛門)の長男として生まれる。 長岡藩需士、大瀬虎治・田中春回に漢籍を、1870年(明治3年)に上京して島田重礼に学んだ。 1875年(明治8年)柏崎県第二大区副大区長に就任。1876年、久須美家当主、叔父・三郎が死去したため家督を相続。1884年(明治17年)吉田村他14ヵ村戸長となる。三島郡参事会員、新潟県会議員、同副議長も務めた。
相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年… 相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年6月23日)- 1929年(昭和4年)11月22日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県北蒲原郡五十公野村長。 越後国蒲原郡新発田(新潟県北蒲原郡新発田町を経て現新発田市)で、相馬善右衛門、よし の長男として生まれる。農業を営む。 用掛小区長、副大区長、学務委員、五十公野村長、北蒲原郡会議員、同議長、新潟県会議員、同副議長などを務めた。憲政本党に所属していたが、1901年(明治34年)の増税案に対して党議と意見が不一致のため離党し、同志と共に新潟進歩党を組織した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から同志倶楽部所属で出馬して初当選。
本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) -… 本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) - 1919年(大正8年)3月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・野口。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡津有村の野口家に生まれ、幼くして東頸城郡菖蒲村(元保倉村、大島村字菖蒲を経て現上越市)の本山家の養子となる。十一大区副長、村会議員を経て、1879年(明治12年)新潟県会議員に当選。1882年(明治15年)病を理由に議員を辞すが、1884年(明治17年)県議に返り咲く。翌年再び県議を辞し実業界に入り、新潟農工銀行監査役などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第7区から出馬し当選。
8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろ… 8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろう、1847年6月6日(弘化4年4月23日) - 1917年(大正6年)2月26日)は、明治時代の地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。族籍は新潟県平民。幼名は千吉、のち宗輔と称した。第四国立銀行設立者。 越後国蒲原郡天王新田(新潟県北蒲原郡天王新田、天王村、中浦村、福島村、豊浦村、豊浦町を経て現新発田市)出身。1871年(明治4年)以降、新潟県第二十二大区小八区天王新田用掛、同県第二十二大区長、天王村長を歴任する。第四銀行の発起人に名を連ね、1874年(明治7年)初代頭取に就任した。 また、新潟県下第一の大地主であり、1890年(明治23年)には新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(… 小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(1846年1月20日) - 明治24年(1891年)4月4日)は、幕末期の越後長岡藩士、明治期の官吏、衆議院議員。 新潟町奉行を務めた長岡藩士小林又兵衛の第7子で、「米百俵」で知られた小林虎三郎の弟。藩校の崇徳館に学ぶ。戊辰戦争で敗北し、江戸に出て、明治3年(1870年)慶應義塾に入学。卒業後に大蔵省紙幣寮(現・国立印刷局)の官吏となる。第六十九国立銀行設立に尽力した。その後、文部省・工部省などを転々とし、当時工部省にいた伊藤博文と共に高島炭鉱の後藤象二郎への払い下げを決定した。 明治8年(1875年)東京に在住していた旧長岡藩士と共に育英事業団体「長岡社」を創設、商人や農民も受け入れて広く人材の養成に努めた。
西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化… 西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化2年10月15日)- 1924年(大正13年)9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 越後国蒲原郡下田郷福岡新田(現:新潟県三条市)で、地主・西潟浅五郎の長男として生まれる。目黒市左衛門、村松藩士・山上謙之助から漢籍を学ぶ。慶応2年(1866年)1月から3月にかけて東山・東海・南海・山陽・畿内・北陸を旅行して見聞を広めた。慶応4年8月29日(1868年10月14日)鹿峠・長沢組一揆の際に、百姓惣代として請願十ヶ条を纏め村松藩と交渉を行った。 明治5年9月(1872年10月)地主惣代として壬申地券交付取調、1874年、地租改正掛、1876年、第十八大区小八区村位等級調査委員となり地租改正事業で実績を残した。
初代 五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1845年(弘化2年… 初代 五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1845年(弘化2年10月) - 1911年(明治44年)3月20日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。貴族院多額納税者議員。諱は信澄、号は梅雨山人。 越後国蒲原郡金屋村(新潟県北蒲原郡金屋村、笹岡村、笹神村を経て現阿賀野市)出身。19歳の時、父が没し家督を相続する。 1870年(明治3年)越後府により治河会議所会計方試補に任ぜられ、1872年(明治5年)小区戸長となった。1875年(明治8年)第22大区長を最後に官職を辞した。 1879年(明治12年)同志と共に第百十六国立銀行を設立し、頭取に就任した。1897年(明治30年)私立銀行に転換後は取締役を務めた。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年… 小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年(天保14年3月)- 1915年9月6日)は、幕末の庄屋、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡小吉村長。大河津分水路建設の功労者。 越後国蒲原郡東中村(現:新潟市西蒲区東中)で庄屋の家に生まれる。長善館で漢学を学び、京阪地方を遊学。15歳で家督を相続した。 明治2年(1969年)大河津分水路工事用弁掛に就任。その後、新潟県会議員、小吉村長などを歴任。1880年、国会開設懇望協議会で国会開設懇望上申書の起草委員、同本部長に就任。西蒲原郡自由党を組織し、北辰自由党理事、越佐同盟会評議員などを務め、山際七司を補佐して県内の自由民権運動などを推進した。
鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12… 鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12年9月18日)- 1895年(明治28年)4月30日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県会議長。幼名・保逸郎(ほいちろう)、号・竹外。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村代石、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、庄屋・鈴木三郎右衛門の長男として生まれる。同村の高島道隆に師事し漢学を修めた。 父の死去により家督を相続し戸長、副大区長を務めた。地租改正反対運動に加わった。1877年(明治10年)八木原繁祉らと高田町(現上越市)士族らを中心に新潟県初の民権結社・明十社を結成した。1879年(明治12年)府県会規則による新潟県会が開設され、初の県会議員に当選。
遠藤 吉平(えんどう きっぺい、1841年5月5日(天保12… 遠藤 吉平(えんどう きっぺい、1841年5月5日(天保12年3月15日) - 1932年(昭和7年)8月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、初名・富次郎。 越後国蒲原郡笹口浜(新潟県東蒲原郡築地村、中条町を経て現胎内市)で、廻船業・佐藤六右衛門の二男として生まれる。安政2年(1855年)商船に乗組み蝦夷地、樺太の航海に従事し、その後、箱館の漁業家・中川勇助のもとで5年間働いて帰郷。慶応元年3月(1865年)先代・遠藤吉平の養子となる。養父の死後に家督を相続し吉平と改名した。 1877年(明治10年)、一家で函館に移住し、海陸物産商を開業。函館商業会議所特別議員、函館共立 (株) 社長、北海道セメント監査役、百十三銀行監査役、函館船渠監査役、北海道馬車鉄道取締役などを務めた。
磯部 八五郎(いそべ はちごろう、1841年(天保12年2月… 磯部 八五郎(いそべ はちごろう、1841年(天保12年2月) - 1911年(明治44年)10月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 佐渡国雑太郡、のちの新潟県雑太郡国中村(佐渡郡国中村などを経て現佐渡市)出身。郷学校を設立し、教導職試補、訓導、雑太郡書記、皆川、国中各村会議員、新潟県会議員、佐渡郡参事会員、同郡徴兵参事員、佐渡養蚕伝習所長となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政本党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
岡田 龍松(おかだ りゅうまつ、1841年(天保10年10月… 岡田 龍松(おかだ りゅうまつ、1841年(天保10年10月) - 1913年(大正2年)7月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国魚沼郡中条村(のち新潟県中魚沼郡中条村、現・十日町市)出身。1872年、柏崎県第5区副戸長、1875年、新潟県第12大区長、1879年、中魚沼郡長、1881年、新潟県会議員、徴兵参事員、1897年、中魚沼郡会議員となり、議長代理となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において新潟7区から進歩党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選する。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1913年に死去した。
室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839… 室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839年10月20日) - 明治36年(1903年)6月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)、愛媛県知事。名は方義、字は子成、号は桜蔭。 越後国高田本誓寺町(現在の新潟県上越市)の商人市郎右衛門の長男として生まれる。倉石侗窩の私塾・文武済美堂に学ぶ。塾生には前島密がいた。慶応2年(1866年)、京都に上って勤王の志士たちと交わった。戊辰戦争中の明治元年(1868年)7月、新政府軍が高田城下に入ると、新政府軍に入り北陸道官軍御用掛を務め、さらに親兵隊の方義隊(後に居之隊)を組織し戦闘に参加した。 明治3年(1870年)には高田藩の民政属吏聴訟断獄掛、ついで藩校修道館助教授を務めた。
松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天… 松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天保10年3月2日) - 1913年(大正2年)9月23日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 越後国刈羽郡柏崎村(現新潟県柏崎市)の町年寄の家に生まれた。原修斎に学び漢学を修めた。町年寄を務め、その後、柏崎県に出仕し学区取締に就任。1879年(明治12年)新潟県会議員に当選し、初代議長となった。ほか自由民権を唱え、北辰自由党に加わった。実業家としては柏崎活版印刷社長などを歴任した。1889年(明治22年)鈴木昌司、西潟為蔵、山際七司らと越佐同盟会を結成し評議員に就任。1890年(明治23年)6月に県会議員を辞職し、同年7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第6区から出馬し当選。
田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保… 田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保10年9月)- 1909年(明治42年)9月19日)は、幕末の村役人、明治期の政治家、実業家。衆議院議員。号・晴雲。 越後国蒲原郡大野地村(新潟県蒲原郡大野地村、北蒲原郡大野地村、堀越村大野地、水原町を経て現阿賀野市大野地)で、庄屋を務める田辺家に生まれた。大野地村庄屋を務めた。 明治維新後、新潟県地券下掛、第二大区小二区戸長、副大区長、地租改正実地検査顧問などを務めた。 政治活動に熱心で立憲改進党に所属し、1888年(明治21年)新潟県会議員に選出され、同常置委員、同副議長を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第2区、立憲改進党)で当選し、その後、進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した。
松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)… 松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)- 1915年(大正4年)2月21日)は、幕末の村役人、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡恋ヶ浦村長。 佐渡国雑太郡真野村背合(新潟県雑太郡真野村、佐渡郡真野村、真野町を経て現佐渡市背合)で、松本与三兵衛の息子として生まれた。圓山溟北に漢学を、堀口松庵に書法を学んだ。 相川奉行所教導職事務掛、浦役人を務めた。明治維新後、滝脇背合村戸長、大小外6ケ村戸長、小学区学務委員、恋ヶ浦村長などを務めた。1893年(明治26年)新潟県会議員に選出された。また、真野村会議員にも在任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、立憲改進党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11… 笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11月) - 1898年(明治31年)11月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国頸城郡潟町村(のち新潟県中頸城郡潟町村→大潟町、現・上越市)生まれ。農業を営み、郷長、第七大区長、新潟県会議員、第百三十九国立銀行取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において新潟8区から立憲自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して落選した。落選から間もない11月に死去した。
岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4… 岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4月11日) - 1922年(大正11年)1月7日)は、明治期の政治家、実業家。第十三大区長、南魚沼郡長、衆議院議員。法師温泉創業者。その生涯から「上越線の父」と言われている。田中角栄が最も尊敬した郷土の先達と言われる。幼名は大次郎。 昭和6年には、以下のような歌が小学校で合唱されたという。 光り輝く文化の花は 上越線をば開通せしむ 花も蒔かずば咲かれもすまい 蒔いた父こそ岡村貢 明治十余のその昔より 清水、三国の草踏みわけて 一生涯と全財産を 捧げて祈る涙の跡よ
前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日〈天保6年1月… 前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日〈天保6年1月7日〉- 1919年〈大正8年〉4月27日)は、日本の官僚、政治家、教育者。位階勲等爵位は正二位勲二等男爵。本姓は上野。幼名は房吾郎。名(諱)は巻退蔵、密。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。 越後国出身。日本の近代郵便制度の主要な創設者の一人であり「日本近代郵便の父」と呼ばれ、大蔵省駅逓頭(後の郵政大臣・現総務大臣)、逓信省次官を務めた。今も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。また、東京専門学校及び早稲田大学の建学に深く関わり、早稲田大学第2代校長を務め、校賓の名誉を受けている。早稲田大学正門横にある「早稲田大学教旨」の碑文は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)… 後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)- 1897年(明治30年)10月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。名・畯、字・士喜、号・稼亭。五郎次の表記有り。 佐渡国加茂郡、のちの新潟県加茂郡新穂村(佐渡郡新穂村舟下を経て現佐渡市)で生まれた。北君養、圓山溟北に師事し漢学を修めた。 戸長、学区取締兼衛生取締、村長、新潟県会議員、佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)監事などを務めた。教育振興、相川鉱山開発などに尽力した。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、大手倶楽部)で当選し、その後、進歩党に所属して、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1897年10月に死去した。
安孫子 石太郎(あびこ いしたろう、生年不明 - 1906年… 安孫子 石太郎(あびこ いしたろう、生年不明 - 1906年〈明治39年〉)は、日本の商人(柏屋、荒物小間物商並びに蝋燭製造)、政治家。新潟県北蒲原郡水原町長。名は石、字は頑夫、通称は石太郎、号は城南。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)の人で、安孫子貽堂の孫。諏訪山の大野耻堂塾に学ぶ。更に東京へ出て安井息軒に就いて2年学んで帰郷する。後に再び上京し、大野楳華に、次いで中村敬宇の同人社に投じ2年留まる。 両親が高齢のため遂に郷里の営業に戻ることとなり、推されて町長となり、又郵便局長となる。 安孫子家は水原の安孫子氏の一族に相違ないが、何処から分かれた家かはっきりしない。蝋燭を製し紙を売って生業とし、傍ら質屋を営んだ。
菊田 真紀子 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員… 菊田 真紀子 は、日本の政治家。中道改革連合所属の衆議院議員(9期)。同党議員総会長兼常任幹事会議長。