神谷 桂二郎(かみや けいじろう、1979年4月18日 - … 神谷 桂二郎(かみや けいじろう、1979年4月18日 - )は、日本の教育家・音楽家。富山県青年議会議員。 富山県富山市出身。生家は富山県の造り酒屋。国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊として、開発途上国で活動。ドミニカ共和国では、政府のプロジェクトに協力。現地の国立音楽学校にピアノを数多く寄附し、同国の音楽教育の発展に貢献した。ベリーズに赴任の後、ブータンに赴任。ブータンではツェリン・トブゲの要請に応え、国王の結婚祝賀曲を作曲。ブータン国民から好感をもって受け取られ、同国の国会開会式に来賓として招聘された。。2012年、東日本大震災被災者に向けた国際チャリティソング(40カ国以上参加)『Light of Life』を作曲。
大西 浩次(おおにし こうじ、1962年6月 - )は、日本… 大西 浩次(おおにし こうじ、1962年6月 - )は、日本の写真家・教育者・天文学者。国立長野工業高等専門学校工学科リベラルアーツ教育院教授。 富山県黒部市出身。1985年、東北大学理学部物理学第2学科卒業。1992年、東北大学理学研究科物理学第2専攻同博士課程後期課程修了、博士(理学)。郵政省通信総合研究所科学技術特別研究員、同COE研究員を経て、1996年に長野工業高等専門学校一般科講師、1998年に助教授。2002年より2003年まで国立天文台客員助教授。長野工業高等専門学校一般科准教授を経て、2008年より教授。2022年より同工学科リベラルアーツ教育院教授を務める。 重力レンズ(マイクロレンズ)や系外惑星探査を専門とする研究者として、天文の教育と普及にも精力的に取り組む。
杉田 久信(すぎた きゅうしん、1948年 -2013年 )… 杉田 久信(すぎた きゅうしん、1948年 -2013年 )は、富山県富山市出身の教育者。2005年より富山市立山室中部小学校校長。 1971年、富山大学教育学部(教育学専攻)卒業。1998年、富山市立水橋西部小学校校長。2000年、富山市立五福小学校校長。 基礎学力の徹底を掲げ百ます計算や百人一首の音読、暗誦などを生徒に課している。特に音読を重視しており、杉田によれば音読の反復練習には以下のような効果があるとのことである。 その他「繰り返しによる暗記は、単なる知識の記憶に留まらず、頭の質をも変えてしまう」と述べ暗記の重要性を強調している。
柳澤康信(やなぎさわ やすのぶ 1947年12月16日 - … 柳澤康信(やなぎさわ やすのぶ 1947年12月16日 - )は、日本の生態学者、教育者、理学博士。愛媛大学名誉教授。愛媛大学教授、同大学学長を歴任した。2016年から岡山理科大学学長を務め、2021年から倉敷芸術科学大学学長を兼任。2022年から同大学学長専任となる。 富山県射水市出身。専門は生態学(行動生態学)。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日… 大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日 - 2007年(平成19年)5月24日)は教育者で、大宅壮一の妻、大宅壮一文庫の理事長を務めた。 三女は評論家の大宅映子。富山県魚津市出身。 旧姓、奥田。富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。4人の子供に恵まれた(大宅歩、映子のほか二女。)。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来、終生務めた。 1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。
川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月2… 三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月25日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。柔道7段。 富山県上新川郡新庄町(現富山市)で生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1919年(大正8年)武道専門学校を卒業し、1921年(大正10年)同校研究科を修業した。 富山県立神通中学校(現富山県立富山中部高等学校)教諭に就任して1945年(昭和20年)まで在任し、柔道、野球の指導に努めた。その後、町立滑川薬業学校(現富山県立滑川高等学校)長、和合中学校長、呉羽中学校長を歴任。労働運動に加わり、呉羽中学校長在任中の1949年(昭和24年)に富山県教職員組合執行委員長に就任し、県全官公庁労働組合協議会議長も務めた。
守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)… 守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)2月11日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、日本の教育者。 石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身。1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業。大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した。奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事、1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった。退官後は郷里滑川町の公民館長、教育長を務めた。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。
松村 精一郎(まつむら せいいちろう、嘉永2年(1849年)… 松村 精一郎(まつむら せいいちろう、嘉永2年(1849年) - 1891年(明治24年)5月10日)は明治時代の漢学者、聾啞教育者。越中国福光町(富山県南砺市)出身。幼少時奇病により聾啞者となる。稲坂謙吉、中村正直等に学び、金沢に聾学校金沢盲啞院を創立したが、2年で廃校となり、その後福光、富山、金沢で漢詩文を教え、また一時期富山で『中越新聞』客員を務めた。 嘉永2年(1849年)越中国砺波郡福光村新町(富山県西砺波郡福光町新町村44番地)旧家松村与三郎の次男として生まれた。5歳で宮永菽園に経史の句読を学んだが、6歳で天然痘に罹患、奇病を併発し、7年間病床に伏した結果、聴覚・発話・歩行に障害を負った。
阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保… 阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保6年12月13日)- 1916年(大正5年)5月12日)は、幕末から明治期の医師、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・佐渡、幼名・捨五郎、通称・正頴、字・士栗。号・酔夢、六無斎。衆議院議員としては野村脩造を名乗った。 越中国射水郡高岡(現富山県高岡市)で、漢方医・8代佐渡養順の息子として生まれる。魚津町(現魚津市)の漢方医・阿波加家の養子となる。春日寛平、緒方洪庵、華岡鹿城、山岡民部などに師事し、医学、蘭学を修めた。 1858年(安政5年)魚津で開業し、コレラの治療に従事した。1872年(明治5年)病院・好生舎を設立。1876年(明治9年)新川県新川郡医務取締に就任。