鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 19… 鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 1969年9月9日)は、日本の哲学者。 愛知県名古屋市出身。1930年東京帝国大学文学部哲学科卒。立教大学教授、武蔵高等学校教授、1951年金沢大学教授を経て、1965年九州大学文学部教授となる。昭和初期から実存主義哲学に着目し、ハイデッガー、ヤスパースらを紹介した。70年安保にむけての学園闘争のさなかの1969年9月9日、福岡市の博多東急ホテル浴室で、シャワー取り付け口にかけた布で首吊り自殺した。のち著作集全8巻が刊行された。
野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日… 野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の新聞記者、経営者。プロ野球中日ドラゴンズ球団社長を務めた。愛知県豊橋市出身。 第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、1936年に新愛知新聞社に入社。 新聞記者として勤務し、名古屋タイムズ社社長を経て、1962年には中部日本新聞社(現在の中日新聞社)取締役に就任。1964年には球団史上初めての中日ドラゴンズ球団社長に就任し、1967年までに務めた。 1989年4月11日食道ガンのために死去。81歳没。 著書に「天国と地獄の間」がある。
宮田 一松(みやた いちまつ、1908年〈明治41年〉3月2… 宮田 一松(みやた いちまつ、1908年〈明治41年〉3月21日 - 1986年〈昭和61年〉5月2日)は、愛知県出身の政治家。刈谷市長(4期16年間)を務めた。 1908年(明治41年)3月21日、愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町上)に生まれた。1920年(大正9年)3月、碧海郡刈谷町の刈谷町立亀城尋常小学校を卒業した。 宮田家は瓦製造業者であり、1933年(昭和8年)に宮政製瓦工場の営業主となった。1951年(昭和26年)には短期間だけ三州瓦工業組合理事長を務めている。1962年(昭和37年)12月には宮政瓦工業株式会社の取締役社長に就任した。1965年(昭和40年)2月に刈谷ライオンズクラブが設立されると、1966年(昭和41年)6月まで初代会長を務めた。
塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - … 塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - 2000年7月11日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1931年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1948年に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1967年に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格した。1977年4月から1987年4月までに会長を務めた。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1972年10月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年7月8日肺炎のために死去。92歳没。
高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4… 高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4日 - 1992年(平成4年)2月11日)は、昭和期の政治家。刈谷市長(1959年7月20日~1967年7月19日)。 1908年(明治41年)3月4日、愛知県一宮市に生まれた。父親は公務員。1930年(昭和5年)に明治大学政治経済学科を卒業し、愛知県庁に就職した。土木課、農林課、経済課、食糧課を経て、海部地方事務所長、渥美地方事務所長、中島地方事務所長などを歴任した。 愛知県額田地方事務所長を務めていた1956年(昭和31年)12月、1955年(昭和30年)から刈谷市長を務めていた竹中七郎によって刈谷市助役に起用された。刈谷市と愛知県のパイプ役を期待された人選である。
瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年… 瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年5月8日)は、日本の医学博士。 愛知県名古屋市生まれ。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第14回生。東京帝国大学医学部卒業。旧厚生省の初代母子衛生課長として母子健康手帳を創設し、東北大学医学部にて公衆衛生学教室を主宰。癌統計学の第一人者として知られ、いわゆる「瀬木の帽子」(胎児の基底顆粒細胞集団)の発見者でもある。1971年に退官。瀬木学園(現 愛知みずほ大学等)理事長、学長、高校長を歴任。
竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月… 竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月20日 - 1997年(平成9年)3月2日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂(ちくり)。文学博士。東京大学名誉教授。東京大学史料編纂所所長を務めた。 1907年(明治40年)12月20日、愛知県知多郡岡田町(現・知多市)にて、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれた。 岡田尋常小学校を経て、1920年、愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学。背が低く猛勉強をする竹内は、彼を気に入らない連中からいじめを受けたという。1924年、第八高等学校文科甲類に入学。在学中に同級生と史学研究会を結成し、その会報誌『瑞陵史叢』の創刊号に竹内の処女論文「有史以前の日本」を寄せている。
岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 20… 岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 2003年5月18日)は、愛知県豊橋市出身の詩人。 愛知県豊橋市岩田町に生まれた。名古屋電気学校を中退している。17歳から詩作を行い、1928年(昭和3年)に上京した。高村光太郎の知偶を得て、1929年(昭和3年)に高村や草野心平らと新詩人会を結成。1932年(昭和7年)に初の詩集『悲劇』を発表した。『日本未来派』を経て『オルフェ』同人。1932年頃には豊橋市に帰郷して社会教育活動を始め、豊橋勤労少年会主事、豊橋連合青年団主事を務めたのちに、1945年(昭和20年)に豊橋市役所に就職した。1954年(昭和29年)に『炎天の楽器』で第3回中部日本詩人賞詩人賞を受賞。
田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 194… 田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 1941年2月12日)は、日本の俳優である。本名田村 邦夫(たむら くにお)。日本大学相撲部出身、157cmの短躯ながら90kgの巨漢俳優として知られる。 1907年(明治40年)7月15日、愛知県名古屋市長久寺町(現在の同市東区白壁)に生まれる。 1920年(大正9年)、旧制・名古屋中学校(現在の名古屋高等学校)に入学、バスケットボールおよび柔道において、学生選手として活躍した。1925年(大正14年)、同校を卒業して、東京に移り、日本大学専門部商科(旧制大学専門部)に進学、相撲部に所属して大毎大会(現在の全国学生相撲選手権大会)等で活躍し、その一方で日本大学劇研究会にも所属して演劇にも関わった。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月2… 木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月27日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の内務官僚、造園家。 官庁技師として造園と都市計画行政の実務に携わる一方で東京大学農学部旧農学科のほか、千葉大学園芸学部、東京農業大学旧農学部造園学科で講師を務めている。国土開発調査会常任幹事、財団法人国土計画協会理事長を歴任。晩年は日本庭園研究に関する著述を多く残す。
丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月… 丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月4日 - 1995〈平成7年〉12月26日)は、詩人・丸山薫の妻。詩人としてまだ収入の乏しかった時期の丸山を、マネキンとしての仕事で支えた。昭和初期のマネキンの事情を綴った書籍『マネキン・ガール』の著者として知られる。旧姓は高井。 1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった。
乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
中野 四郎(なかの しろう、1907年(明治40年)1月25… 中野 四郎(なかの しろう、1907年(明治40年)1月25日 - 1985年(昭和60年)10月21日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(通算13期)、国土庁長官、碧南市長などを歴任した。 愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に中野久吉、さだ夫妻の四男として生まれる。生家はどじょう屋。小学校卒業後農機具店に奉公に出るが、13歳の時単身上京し、新聞配達などをしながら私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校・高等学校)で学ぶ。1923年9月に同校を中退。 愛知県出身のジャーナリストで衆議院議員でもあった鈴木正吾の紹介で、大正デモクラシー期を代表する論客の一人であった茅原華山の門下生となる。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。
徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1… 徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1日 - 没年不明)は、日本の女優。日活向島・帝国キネマ・新興キネマにそれぞれ所属した。 愛知県名古屋市出身。椙山高等女学校卒業後、1923年(大正12年)に日活向島からデビュー。1930年(昭和5年)に帝国キネマに移籍、新興キネマをへて1935年(昭和10年)まで活躍した。 その後は満洲に渡ったとされるが、詳細は不明。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 19… 松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 199… 遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 1997年6月)は、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)出身の詩人・児童文学作家。児童文学同人誌『若木』を主催。 1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで三好町立三好中学校で教員を務めながら画家としても活動した遠藤稲子は妹。遠藤栄の詩「逝く春」をイメージした油彩の大作「逝く春」なども描いている。 1906年(明治39年)3月17日、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)に生まれた。父は駐在所の巡査を務めていた遠藤寅吉、母はたい。姉に君代、妹に稲子がいる。明治末期には新城町からたいの故郷である岡崎市に転居し、1912年(大正元年)に岡崎で尋常小学校に入学した。
横超 慧日(おうちょう えにち、1906年2月21日 - 1… 横超 慧日(おうちょう えにち、1906年2月21日 - 1996年1月17日)は、日本の仏教学者。専門は中国仏教。 1906年(明治39年)2月21日に愛知県丹羽郡千秋村浮野の真宗大谷派願行寺の住職である横超日南の次男として生まれる。 第八高等学校卒業後、東京帝國大学(印度哲学科)に入学。常盤大定に師事した。1928年(昭和3年)に大学院に進学。1931年(昭和6年)に卒業。東方文化学院(終戦後の昭和23年に東京大学東洋文化研究所に改組)の研究員となる。 1934年(昭和9年)に選ばれて中国の地を初めて踏む。この時の同行者に仁井田陞・青山定雄らがいた。 1939年(昭和14年)に小島常次郎の長女多祢子と結婚。
稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月… 稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月11日 - 1980年(昭和55年)10月19日)は、日本の女性アナウンサー。民放初の女性アナウンサー。 1906年(明治39年)2月11日、愛知県碧海郡高浜町(のち高浜市)において長女の林千代子として生を受ける。5歳で中西家に養子に出され、中西千代子となる。中西家は叔母の家にあたる。 1922年(大正11年)愛知県立第一高等女学校本科(のちの愛知県立明和高等学校)を卒業し、同校専攻科英語科に進む。しかし、養父が事業に失敗したことから学校を中退し、養家のためになればと、偶然新聞広告で見かけたという名古屋中央放送局の女子アナウンサーに応募した。
芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)… 芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)は、日本の教育者。 愛知県碧海郡明治村(安城市根崎町)に生まれる。名古屋市立城山中学校など、名古屋市内の小中学校長を歴任する。また、その後、中京女子大学において教授を務める。作文教育の実践、名古屋方言の研究において成果を残す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1… 伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(2期)。 急逝した夫の伊藤好道の地盤を継いで政治家の道を歩んだ。衆議院議員、愛知県会議員を務めた本多鋼治は義兄。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市昭和町4丁目)に雑貨商の成瀬保吉の三女として生まれる。旧姓は成瀬。挙母第一尋常小学校(現・豊田市立挙母小学校)から、「山の学校」と呼ばれた挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)に進んだ。『改造』『解放』など大正デモクラシーを支えた雑誌に親しむ。当時、挙母町には書店は一軒しかなく、そこから西加茂郡全域に毎月配本される4冊の『改造』のうち1冊を伊藤がとっていたという。
内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 19… 内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 1989年10月3日)は、日本の中国思想史学者。 1905年、愛知県岡崎市生まれ。同志社大学文学部を卒業。卒業後は同志社大学講師となった。1957年に学位論文『中国農村の分家制度』を同志社大学に提出して法学博士号を取得。その後、助教授、教授に昇進。1976年に同志社大学を定年退任し、名誉教授となった。 専門は中国の制度史・法制史。
杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 20… 杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 2004年2月10日)は、日本の洋画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー。
岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984… 岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984年1月4日)は、愛知県名古屋市出身のボクサー。日本ボクシング草創期の強豪。のち不二拳を設立、ピストン堀口の師としても知られる。 東洋商業学校卒業後、渡辺勇次郎の日本拳闘倶楽部に入門、1924年には同倶楽部主催のフライ級タイトル決定戦に勝ち、フライ級チャンピオンとなる。1926年には靖国神社相撲場での第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、1928年、アムステルダム五輪にはバンタム級として2回戦から出場したが、初戦で敗退した。 その後は日本拳闘倶楽部の師範としてピストン堀口らを育てたが、のちピストンと共に独立、不二拳(現不二ボクシングジム)を設立した。
門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月1… 門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月15日 - 1974年12月20日)とは元宝塚少女歌劇団(元月組主演男役クラス・元月組・星組組長)の人物である。愛知県名古屋市出身[4]。宝塚歌劇団時代の愛称はチャマさん。
小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1… 小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1905年4月22日 - 1988年12月14日)は、日本の工学者、航空機技術者である。斬新な真空チューブ列車を考案した。 愛知県名古屋市出身。東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。三菱重工業名古屋航空機製作所に就職し、第二次世界大戦中は四式重爆撃機「飛龍」を開発した。 1949年より名城大学理工学部教授に就任し、1971年から1972年まで学長を務めた。 1949年に『音速滑走体の構想』を発表した。1959年から愛知県の鍋田干拓地(現・弥富市)や農学部のあった鷹来キャンパス(春日井市)で実験をおこなった。真空パイプの中を走らせることで空気抵抗を減らす超音速滑走体の研究を進めた。
黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 -… 黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 - 1994年(平成6年)1月2日)は、愛知県海部郡蟹江町出身の建築家。愛知県総務部営繕課に勤務した後に独立して黒川建築事務所を設立し、公共建築を多く手掛けた。建築家の黒川紀章と黒川雅之と黒川喜洋彦は息子。 1905年(明治38年)3月、愛知県海部郡蟹江町蟹江新田に生まれた。1924年(大正13年)、旧制私立東海中学校を卒業した。 1927年(昭和2年)3月には名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)建築科を卒業。卒業設計は「或美術協会」の洋画自由研究所である。卒業後には愛知県総務部営繕課の建築助手となった。昭和塾堂(1929年)の設計主任は足立武郎であり、実施設計は黒川が担当した。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999… 三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。 愛知県中島郡小信中島村(現・一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた。父は吉田永三郎、母は菊。母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性股関節脱臼(現・発育性股関節形成不全)を患っており、両親に抑圧されて育った節子も、この大きなショックから当時興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。戦前・戦後の画壇における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
菅沼 五郎 (すがぬま ごろう、1905年 - 1999年4… 菅沼 五郎 (すがぬま ごろう、1905年 - 1999年4月19日)は、愛知県出身の日本の彫刻家である。 菅沼五郎は、1905年、愛知県豊橋市の銀行家の家庭に生まれ、上京して東京美術学校で朝倉文夫に彫刻を学んだ。池袋モンパルナスの一画にあった貸しアトリエ「桜ヶ丘パルテノン」を仕事場にする。1941年、『婦』で第4回新文展の特選を受賞。 1950年、彫刻部を新設した二紀会に加盟し、翌年には彫刻部新委員を引き受けている。1952年、池袋モンパルナスで交流の深かった童画家黒崎義介が藤沢市鵠沼海岸が転居した後を追うように自らも鵠沼に転居した。土地は父親が金鵄勲章受章記念に購入してあった別荘地だという。
水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985… 水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985年2月12日)は東京電力の第5代社長(1971年 - 1976年 )。
大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 … 大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 - 1998年3月19日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1953年)(学位論文「株式会社法変遷論」)。京都大学名誉教授。最高裁判所裁判官。1973年勲一等瑞宝章受章、1977年日本学士院会員、1985年文化功労者、1993年文化勲章受章。愛知県蒲郡市出身。竹田省門下。弟子に上柳克郎、河本一郎、龍田節、川又良也など。 旧制岡崎中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。旧制第八高等学校(現名古屋大学)卒業。大学在学中に高等文官試験の行政科と司法科に合格。1928年に京都帝国大学法学部卒業。山田正三学部長の勧められて、京都帝国大学法学部助手となる。
穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 19… 穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 1995年12月10日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。 父は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三。兄は「アジア学生文化協会」などの設立者で社会教育家の穂積五一。義父は愛知県知事を1期務めた小畑忠良。新城市長の穂積亮次は子。 愛知県八名郡七郷村(現・新城市)出身。旧姓は鈴木。生まれる前の1904年6月27日に父を亡くした。 旧制愛知県豊橋中学校を経て、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業。同年東京帝国大学に入学。共に入学した兄の穂積五一は国家主義者らからなる「帝大七生社」に所属していたが、左翼の「新人会」とも交流し、両者の仲介も行った。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月2… 杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月28日 - 1980年(昭和55年)9月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(3期)、愛知県議会議員(2期)、安城町議会議員(安城市議会議員)(1期)などを歴任した。位階は従五位。 愛知県出身。福釜信用組合の前身である報恩社の設立者、杉浦彦次(ひこじ)の長男として生まれた。愛知県立安城農林高等学校卒業。1929年(昭和4年)3月、東京農業大学農学部卒業。 アメリカ合衆国農務省昆虫局嘱託、全国販売農業協同組合連合会(全販連。全国農業協同組合連合会の前身)の農畜特産課長などを務め、戦時中は海軍省兵備局からバンコクに派遣され、農作物の現地指導にあたった。
浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月… 浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月9日 - 1984年〈昭和59年〉4月27日)は、日本の宗教家。妙信講(現:冨士大石寺顕正会)の創立者。 1904年(明治37年)、愛知県西尾市に生まれ、1923年(大正12年)、19歳で上京する。1926年(昭和元年)12月、22歳の時に白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。 1936年(昭和11年)、白須郁三と共に妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、信徒総代となった。その後再び妙光寺に移る。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5… 熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5月 - 1982年5月7日)は、日本の植物学者。愛知県出身。 息子は地球科学者の熊澤峰夫。妹は熊沢光子。 1904年 (明治37年) 5月に、愛知県名古屋市で生まれた。父親は地方裁判所判事を歴任後弁護士を開業した。東海中学校、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)を卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)理学物植物学科に進学。1929年に同大卒。 1933年から旧制第四高等学校(現:金沢大学)に植物学の講師として勤務。翌1934年には同大教授となり、1942年まで勤務した。 その後旧制第八高等学校に勤務。集団遺伝学者の木村資生は、1942年に同校で熊沢の指導を受けた。
田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979… 田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979年)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の実業家。名古屋市南区の機械製造会社である太平製作所社長。1963年(昭和38年)に名古屋市に土地と建物を寄付し、同施設は翌年に名古屋市南図書館として開館した。「蛇々子」の俳号をもつ俳人としても知られる。 1904年(明治37年)に印刷工の息子として愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。父親は刈谷町にある太田商事の印刷部主任を務めた人物である。 享栄貿易学校(現・享栄高等学校)を卒業し、名古屋市西区の木工所に勤めた。やがて名古屋市南区戸部町の機械製造会社である太平製作所に転職し、1943年(昭和18年)に39歳で社長となった。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983… 神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。 神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。 1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した。
加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978… 加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978年2月4日)は、日本の校閲者。 愛知県西加茂郡高橋村(現・豊田市)出身。1926年名古屋新聞(中部日本新聞)に入り、1928年朝日新聞に入って東京本社校閲部次長、1949年出版校閲部長から文芸春秋の出版物校正を担当するなど「校正の神様」といわれた。
土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月2… 土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月20日 - 1974年〈昭和49年〉1月27日)は日本の実業家。名古屋鉄道社長など歴任。勲一等瑞宝章受章。 1903年6月、愛知県中島郡一宮町(現在の一宮市)に生まれる。旧制愛知県第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)・第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、1928年京都帝国大学を卒業し、(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道、愛知電気鉄道との合併を経て(現)名古屋鉄道となる)へ入社。1945年11月には運輸部長、同年12月に運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長に就任。 1946年5月同社取締役、1949年6月常務取締役、1953年2月専務取締役、1955年1月取締役副社長を経て、1961年12月2日取締役社長に就任。
梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 19… 梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 1989年5月23日)は、日本の自動車技術者。元豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。 愛知県知多郡内海町(現南知多町)生まれ。味噌醤油醸造業米沢屋を営む名家で兄は町長を務めた。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)第4学年を修了し、第八高等学校卒業後、東北帝国大学工学部機械工学科に進学するが結核患い休学となる。その後東北帝国大学講師を辞し、妻が経営するバーのマスターを務めていたが、1936年に豊田自動織機製作所に入社し、自動車部嘱託技師となる。1945年東北帝国大学工学博士。1950年からトヨタ自動車工業取締役を務め。初代トヨタ・クラウン、初代トヨタ・コロナの開発指揮を行った。
福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006… 福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006年8月14日)は、日本の昭和期の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。現在の経世会の祖先にあたる周山会の一味だった。 愛知県蒲郡市出身。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)を卒業後、商工省に入省。官僚生活を経て1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧愛知5区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で出馬し初当選した。保守合同後は自民党に所属し、通算当選6回。文部・運輸政務次官などを歴任した。1973年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1975年からは参議院議員を1期務めた。
叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15… 叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、天台宗の僧侶。千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。無動寺谷明王堂輪番、比叡山延暦寺執行として弟子育成と比叡山の復興に尽力、叡山の傑僧と言われた。 愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。1910年(明治43年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正について得度。同年、愛知県龍光寺住職稲田祖珪の養子となり、名を賢一から祖賢と改名する。 1918年(大正7年)、愛知県の中学校から、比叡山中学校に転校する。1922年(大正11年)、天台宗西部大学に入学。
篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日… 神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉1月22日)は、愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)出身の農業技術者・政治家。愛知県議会議員(2期)。蒲郡みかんの発展に貢献した。 1903年(明治36年)1月2日に愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)に生まれ、愛知県立蒲郡農学校(現・愛知県立蒲郡高等学校)を卒業した。 蒲郡におけるウンシュウミカン栽培の発展に傾注し、1933年(昭和8年)には母樹園(現・愛知県農業総合試験場蒲郡支所)の設立に関与した。また、1933年(昭和8年)には神ノ郷に農業用ため池の白龍池が造成されたが、神田はこの難事業の会計係を担っている。