梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11… 梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。 1922年(大正11年)11月19日午後5時15分、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。 京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月1… 二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月18日 - 2002年(平成14年)7月6日)は、日本の元皇族、元華族夫人。皇族時代の名と身位は恭仁子女王。 1917年(大正6年)5月18日午後4時、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第3女子として誕生。御七夜の5月24日に「恭仁子」と命名された。京都府立京都第一高等女学校卒業。1938年(昭和13年)12月9日、五摂家のひとつ二条弼基公爵への降嫁の勅許が下りた。1939年(昭和14年)3月23日、婚姻に先立ち勲二等宝冠章を受章する。同年4月2日、二条弼基に降嫁した。
武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、190… 武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女、山階宮武彦王の妃。 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保… 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、明治政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(183… 伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。 京都(山城国)粟田(現京都市東山区)生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。 維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。
阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末の公家、明治時代初期の官僚… 阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末の公家、明治時代初期の官僚、華族。麝香間祗候。 京都で非参議阿野実典の長男として生まれる。文政10年(1827年)3月22日に元服、昇殿を許される。天保14年(1843年)1月14日侍従 。左近衛権少将を経て、安政3年(1856年)12月22日左近衛中将に任じられる。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件にその名を連ねている。文久2年(1862年)8月16日には三条実美ほか公卿13名の連名で幕府にこびへつらう「四奸二嬪」(岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子)を弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した。同年11月4日参議、同時に議奏および国事御用掛を拝命する。
綾小路 有良(あやのこうじ ありかず)は、幕末の公家、明治期… 綾小路 有良(あやのこうじ ありかず)は、幕末の公家、明治期の雅楽家・華族。子爵。 山城国京都で、侍従・綾小路俊賢の長男として生まれる。安政5年11月7日(1858年12月11日)元服して昇殿を許され従五位上に叙せられた。文久2年12月7日(1863年1月26日)侍従に任じられ孝明天皇、明治天皇に仕える。左近衛権少将、侍従、兼雅楽助、神楽御人数、兼次侍従・雅楽助、式部寮御用掛、侍従、兼大伶人などを歴任し、1873年9月27日に家督を相続した。 1884年7月8日、子爵を叙爵。1886年、御歌所参候となり、雅楽部長、式部職主事などを務め、1886年から歌会始で披講の発声を担当した。三オクターブの声域があったと言われている。