大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2… 大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2008年11月4日)は、日本の経営者。ダイハツ工業社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1937年に京都帝国大学工学部応用物理科を卒業し、同年にダイハツ工業に入社。 1971年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1986年9月に副社長を就任。1988年6月に社長に昇格し、1992年6月には会長に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2008年11月4日心不全のために死去。83歳没。
難波 喜造(なんば きぞう、1924年11月30日 - 20… 難波 喜造(なんば きぞう、1924年11月30日 - 2005年10月14日)は、日本の教育学者、国文学者。元神戸大学、早稲田大学教授で日本文学協会創立メンバー。専門は国語教育学。 大阪府出身。天王寺中学校(現天王寺高校)卒業後、高知高等学校(現高知大学)理学部に入学し、文学部に編入・卒業した。卒業後、東京帝国大学(現東京大学)文学部に入学・卒業し、同大学院に進学・満期退学後は都立高校国語科教諭として、東京都立赤城台高等学校、東京都立大学附属高等学校へ赴任した その後、奈良教育大学助教授・同教授を務め、教授時には奈良教育大学附属小学校長を併任した。神戸大学教育学部教授、佛教大学文学部教授を歴任後、早稲田大学大学院客員教授となり国語教育学を講じた。
木崎 良平(きさき りょうへい、1924年11月17日 - … 木崎 良平(きさき りょうへい、1924年11月17日 - )は、日本の西洋史学者、立正大学名誉教授。日露交渉史を研究した。 1924年、大阪府守口市生まれ。召集をへて、戦後京都大学西洋史学科を卒業。 1951年、鹿児島大学文理学部助教授に着任。1964年、学位論文『ルーシ」という語の意味に関する歴史的一考察』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1965年より鹿児島大学教養部教授、1971年より教養部長を務めた。1976年、立正大学教授となった。1995年に立正大学を定年退任し、名誉教授となった。
江村 利雄(えむら としお、1924年(大正13年)10月2… 江村 利雄(えむら としお、1924年(大正13年)10月24日 - 2019年(令和元年)10月24日)は、日本の政治家。位階は正五位。 大阪府高槻市長を務めた。学校法人常翔学園評議員会議長。 高槻市出身。摂南工科専門学院(のち大阪工業大学専門学院、1979年廃止)土木科卒業後、大阪府庁に入庁。水道部参事兼上水課長、水道部技術長、水道技術管理者などを経て定年退職。大阪府庁を退職後、高槻市助役に就任。 1984年(昭和59年)、高槻市長選挙に立候補し初当選。1988年(昭和63年)、高槻市長選挙で2度目の当選。1992年(平成4年)、高槻市長選挙で3度目の当選。1996年(平成8年)、高槻市長選挙で4度目の当選。
坂井 利之(さかい としゆき、1924年10月19日 - 2… 坂井 利之(さかい としゆき、1924年10月19日 - 2017年8月16日)は、日本の情報処理工学者。京都大学名誉教授、龍谷大学名誉教授。専門は、情報通信工学、情報工学、情報学。工学博士(京都大学、1954年)。 大阪府高槻市生まれ。文字や音声などを認識する技術、パターン認識の研究・開拓の先駆者とされ、情報処理学会や国際パターン認識連盟(英語版)の会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
川上 貢(かわかみ みつぐ、1924年9月6日 - 2012… 川上 貢(かわかみ みつぐ、1924年9月6日 - 2012年3月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。主に鎌倉時代から室町時代にかけての貴族住宅の研究である『日本中世住宅の研究』によって、書院造に到る寝殿造の変遷を解き明かした。 1924年9月6日、大阪府大阪市に生まれた。1931年4月、東淀川区中津尋常高等小学校に入学。1936年、都島区都島小学校へ転校。1937年4月、大阪市立都島工業学校建築科に入学。しかし戦局の悪化にともなって1942年12月に繰り上げ卒業。 1943年4月、大阪理工科大学予科に進学。1945年4月、同学理工学部応用化学科に進学。しかし1946年3月に大阪理工科大学を退学し、京都帝国大学工学部建築学科に入学。
山本 信(やまもと まこと、1924年9月6日 - 2005… 山本 信(やまもと まこと、1924年9月6日 - 2005年)は、日本の哲学者、東京大学名誉教授。 大阪府堺市生まれ。1943年東京帝国大学文学部哲学科入学。1944年9月兵役のため休学、館山で敗戦、復学。1947年卒業、大学院に入学、1952年満期退学。1956年東京大学文学部助教授、1971年教授、文学部長を務め、1985年定年退官、東京女子大学文理学部教授。1992年同学長、1998年退任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
甲田 光雄(こうだ みつお、1924年(大正13年)8月1日… 甲田 光雄(こうだ みつお、1924年(大正13年)8月1日 - 2008年(平成20年)8月12日)は、日本の医師、医学博士。元・日本綜合医学会 会長。元・甲田医院(閉院)院長。断食療法の推進者で、難病治療に効果を上げた内科医である。 幼少期よりスポーツ万能で、旧制中学では相撲の選手で主将を務めるほどであったが、中学3年の時、慢性胃腸病で2年間休学。中学5年生時には黄疸を重症化させ3か月寝込み、急性肝炎を発症する。その後、快癒前に陸軍士官学校へ入学。後に慢性肝炎へと移行する。戦後、大阪大学医学部に入学するが、胆囊胆道炎、十二指腸炎、大腸炎などに次々と罹患。大阪大学病院へ入院し、治療を受けるも病状は改善せず、一進一退を続ける。
八木 三日女(やぎ みかじょ、1924年7月6日 - 201… 八木 三日女(やぎ みかじょ、1924年7月6日 - 2014年2月19日)は、大阪府堺市出身の俳人、眼科医(医学博士)。本名・下山ミチ子。 大阪女子高等医学専門学校(現・関西医科大学)卒。在学中、澁谷道らと学生俳句会に参加し、同医専に教授として在任していた平畑静塔に師事し俳句をはじめる。「激浪」「雷光」「梟」「夜盗派」「縄」を経て「海程」同人。1964年、同人誌「花」を創刊・代表を務める。 「例ふれば恥の赤色雛の檀」(『紅茸』)「満開の森の陰部の鰭呼吸」(『赤い地図』)「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」(同)など、鋭敏な感性で独自の抽象的・エロス的世界を展開。関西前衛俳句を代表する女性俳人として注目された。
飯干 晃一(いいぼし こういち、1924年〈大正13年〉6月… 飯干 晃一(いいぼし こういち、1924年〈大正13年〉6月2日 - 1996年〈平成8年〉3月2日)は、日本の作家。元読売新聞社会部記者。タレントの飯干恵子(現:飯星景子)は娘。映画『仁義なき戦い』シリーズの原作者として知られる。 大阪府出身。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)卒業後、旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)卒業、1950年京都大学法学部(現在の京都大学大学院法学研究科・法学部)卒業。 読売新聞勤務時は社会部副編集長であったが、「現場に出られないとつまらん」と会社を辞め、『山口組三代目』を執筆し、それまでになかった切り口で広島ヤクザ抗争の内部を克明に描いた『仁義なき戦い』を週刊サンケイに連載し反響を得る。
多田英之(ただひでゆき、1924年(大正13年)5月6日 -… 多田英之(ただひでゆき、1924年(大正13年)5月6日 - 2021年(令和3年)9月21日)は、日本の建築構造学者。大阪府出身。専門は建築構造で耐震構造・免震構造・鋼管構造など。免震の生みの親。工学博士、一級建築士、技術士。1983年に建設大臣の特別認可を取得し、国内免震建築第一号積層ゴムを用いた免震建物評定を八千代台住宅に誕生させる。平成元年には日本建築学会免震構造小委員会主査として「免震構造設計指針」をまとめ、2001年に東京都杉並区に28階建て日本初の超高層免震マンションを実現する。積層ゴムアイソレータの実物大実験など耐震実験を多く行い、免震という概念を確立。 1942年、大阪市立都島工業学校建築科卒業。
本田 創造(ほんだ そうぞう、1924年〈大正13年〉5月5… 本田 創造(ほんだ そうぞう、1924年〈大正13年〉5月5日 - 2001年〈平成13年〉1月7日)は、日本の歴史学者。専門はアメリカ史。一橋大学名誉教授。サンケイ児童出版文化賞受賞。 大阪市出身。1949年東京大学経済学部卒業。1954年一橋大学経済研究所アメリカ経済研究部門で、都留重人教授や小原敬士教授の下、佐藤定幸とともに助手に就任。 一橋大学経済研究所助教授、神戸大学文学部助教授、一橋大学社会学部教授を経て、1988年一橋大学を定年退官し、一橋大学より名誉教授の称号を受ける。同年桜美林大学教授に就任。その後桜美林大学学長補佐、桜美林大学副学長を務めた。2001年1月7日、虚血性心不全のため死去。
南都 雄二(なんと ゆうじ、1924年〈大正13年〉4月26… 南都 雄二(なんと ゆうじ、1924年〈大正13年〉4月26日 - 1973年〈昭和48年〉3月19日)は昭和後期の上方の漫才師、俳優。本名は戸田 朝治(とだ ちょうじ)。大阪府大阪市生まれ。大阪電機学校卒業。 ミヤコ蝶々との漫才コンビ「蝶々・雄二」として知られ、「夫婦善哉」の司会で人気を博した。 1941年に大阪電機学校を卒業した。戦後、大阪中央郵便局の電気係を経て、三遊亭柳枝主宰の柳枝劇団に参加し、照明部で裏方をしていた。その後演者側に回り、看板女優だったミヤコ蝶々の弟子となり「鈴夫」と名乗る。 1947年に柳枝と離婚した蝶々と結婚し、1948年、柳家三亀松の改名の提案で「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビを結成した。
松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月1… 松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月14日 -1982年(昭和57年)11月2日)は、日本の実業家、美容指導者、和装教育者、ヨガ指導者、文学士、美容師、僧侶。本名 松嶌茂雄。 関西学院大学卒業後、東宝撮影所・美粧部に勤務。退職後、美容研究会・日本尚美会を発会、会長に就任。和装教育団体・全日本和装協会、ヨガ健康法普及団体・国際ヨガ協会を創立。連合会会長として各会の指導・運営に当たる。株式会社尚美会・代表取締役。宗教法人神通山千光院・院主。 1924年〈大正13年〉4月14日、大阪府豊中市に松嶌伊左衛門の長男として誕生。旧制豊中中学・剣道部で全国制覇するなど活躍。関西学院大学・文学部在学中からスポーツ新聞や美術写真集、雑誌 「文芸復興」などの出版事業を手掛ける。
中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 201… 中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 2015年5月22日)は日本の画家。洋画家。 画風は、第二次世界大戦後の人々の暮らしなどを抒情的、詩的に描き出す、時には戦争体験も踏まえたものが中心であったが、1965年(昭和40年)から妻とともに自動車で世界一周をすると人間の逞しさや生命の根源を窺うものへと変化した。 1924年(大正13年)、現在の大阪府大阪市城東区に生まれる。大阪府立四條畷中学校在学時から油絵を描き始め、保田龍門のアトリエなどでデッサンを学ぶ。帝国美術学校西洋画科へ入学するとともに川端画学校へも通った。1944年(昭和19年)学徒動員にて出征。中支那派遣軍の部隊に配属するも、逃走を試みるなど軍人としては問題があった。
高田 好胤(たかだ こういん、1924年(大正13年)3月3… 高田 好胤(たかだ こういん、1924年(大正13年)3月30日 - 1998年(平成10年)6月22日)は、法相宗の僧。薬師寺元管主。法相宗管長。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯をささげた。 大阪市出身。俗名は高田好一。裕福な家庭に生まれたが、11歳のとき証券会社勤務の父を肺結核で失い困窮した。母方の実家は東大寺龍蔵院で、知人だった薬師寺の管主橋本凝胤が弟子として好胤を引き取った。凝胤の教育は厳しかった。幼少期、友人宅に呼ばれて遊びに行ったとき、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。
伊達 三郎(だて さぶろう、1924年3月27日 - 199… 伊達 三郎(だて さぶろう、1924年3月27日 - 1991年9月12日)は、日本の俳優。本名は桜 春太郎(さくら しゅんたろう)、別名義:伊達 岳志(だて たけし)。 大阪市大正区出身。大映出身。さとう事務所に所属していた。興國商業高校卒業。 復員後の1945年に大映京都に入社し、翌1946年、片岡千恵蔵と古川ロッパが共演した稲垣浩監督の『おかぐら兄弟』でデビューを果たす。以降は大映の名物悪役として活躍。時代劇からヤクザ映画まで、その特徴ある面長な風貌で、大映映画の全盛期を支えた。 大映倒産後はテレビドラマに本格的に進出し、刑事ドラマや時代劇では悪役を数多く演じた。1991年9月12日死去。
唄 孝一(ばい こういち、1924年3月18日 - 2011… 唄 孝一(ばい こういち、1924年3月18日 - 2011年1月11日)は、日本の民法学者。旧・東京都立大学名誉教授。文化功労者。大阪府出身。 東京大学では川島武宜に師事し、家族法を専攻する。川島の影響を受け、実態調査を積極的に行うなど、法規範の研究に新たな方法論を盛り込むことに尽力した。1960年の母親の突然死をきっかけに、医事法の研究も行うようになる。世界医事法学会副会長、日本医事法学会代表理事などを歴任。日本の医事法学分野における最高権威といえる存在。 2012年3月、唄孝一の研究資料を収集した『医療と法と倫理(ELM)専門総合資料館」(仮称)』が明治大学内に開設され、2015年に『ELM(法・医・倫理の資料館)』として本開館された。
左藤 恵(左藤 惠、さとう めぐむ、1924年2月28日 -… 左藤 恵(左藤 惠、さとう めぐむ、1924年2月28日 - 2021年1月9日)は、日本の政治家、弁護士(大阪弁護士会所属)。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、国土庁長官、郵政大臣、法務大臣を歴任した。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立住吉中学校(現:大阪府立住吉高等学校)卒業。旧制高知高等学校を経て、1945年9月京都帝国大学法学部卒業。同年10月、逓信院入省。郵政省に所属し、大臣官房文書課長補佐、外務省出向(ジュネーブ領事)、貯金局国際業務部長、電波監理局放送部長、松山郵政局長などを歴任。 1969年、大阪府知事であった父・左藤義詮の在任中に旧大阪6区から自民党公認で立候補し初当選。衆議院議員連続当選10回(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2… 黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。 大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。父は大同電力の電気技師、母は植村正久の弟子の牧師で名古屋の金城女学校で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は安治川発電所の社宅で生まれた。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった。大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)に入学し、4年で終了して同志社大学の予科に入学。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。 ソ連国境に近い綏芬河の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に朝鮮に辿り着き、内地へ帰還した。
吉沢 伝三郎(吉澤 傳三郎、よしざわ でんざぶろう、1924… 吉沢 伝三郎(吉澤 傳三郎、よしざわ でんざぶろう、1924年2月8日 - 2003年4月15日)は、日本の哲学・倫理学研究家。ニーチェを主とした近代ドイツ哲学研究で知られる。東京都立大学名誉教授。 1924年(大正13年)、大阪府に生まれる。1941年(昭和16年)に大阪府立高津中学校を卒業後、旧制一高に進学。1949年(昭和24年)に東京帝国大学文学部倫理学科を卒業。和辻哲郎から教えを受けた最晩年の弟子の一人であり、和辻にその人柄と秀逸な研究をこよなく愛された愛弟子だった。 卒業後は東京都立大学教授となる。1987年に定年退官。2003年に死去。急死した最愛の長男の墓に永眠している。 専門は近代ドイツ哲学。
稲田 悦子(いなだ えつこ、1924年2月8日 - 2003… 稲田 悦子(いなだ えつこ、1924年2月8日 - 2003年7月8日)は、日本の女性フィギュアスケート選手、コーチ。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックのフィギュアスケート競技女子シングル日本代表。戦前、戦後合わせて全日本選手権7回優勝。日本の女子フィギュアスケートの先駆者でもあった。大阪府大阪市出身。梅花高等女学校卒業。 1924年(大正13年)、大阪の稲田時計店の末娘として生まれた。1932年(昭和7年)、8歳のときから永井康三にスケートの指導を受け、才能を開花させた。1933=1934年、全日本ジュニア選手権優勝。1934~1935年、全日本選手権優勝した。1935年11月の日本代表選考会で、総得点1745.3点で2位の東郷球子を300ポイント以上引き離して優勝した。
山崎 豊子(やまさき とよこ、1924年〈大正13年〉1月2… 山崎 豊子(やまさき とよこ、1924年〈大正13年〉1月2日 - 2013年〈平成25年〉9月29日)は、日本の小説家。本名は杉本 豊子(すぎもと とよこ)。 大阪府大阪市南区順慶町通(現:中央区南船場)出身。実家は老舗昆布屋の小倉屋山本である。1936年(昭和11年)に大阪市芦池尋常小学校を卒業して相愛高等女学校に入学し、1941年(昭和16年)に卒業した。相愛入学後、年一回刊行されていたらしい校友会誌『相愛』に作文を寄稿しており、12歳時の「淡路島」が現存する最初期の文章とみられる。 太平洋戦争下の1944年(昭和19年)、京都女子高等専門学校国文学科卒業。毎日新聞社に入社した。 毎日新聞大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務し、当時学芸副部長だった作家井上靖のもとで記者としての訓練を受けた。
石田 良雄(いしだ よしお、1924年 - 没年不明)は、大… 石田 良雄(いしだ よしお、1924年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。 城東商業学校から1947年に太陽ロビンスへ入団。同年退団。
大木 実(おおき みのる、1923年〈大正12年〉12月16… 大木 実(おおき みのる、1923年〈大正12年〉12月16日 - 2009年〈平成21年〉3月30日)は、大阪府堺市出身の俳優。本名は池田 実。 大阪福島商業学校(現・履正社高等学校)卒業後、照明助手として日活多摩川撮影所に約10年間勤務。 木暮実千代の推挙で役者へ転身。 1951年、『あゝ青春』で映画デビュー。1952年から1961年まで在籍した松竹では佐田啓二、高橋貞二と共に三羽烏と言われ、多くの映画に主演、中でも「張込み」は代表作と言える。 1963年からは東映を中心に活動し脇に回る。若山富三郎とは仲が良く、兄弟と呼び合っていた。 1970年代からはテレビドラマへも進出した。 2009年3月30日午前3時、膵臓癌の為東京都大田区の病院で逝去。
堀井 数男(ほりい かずお、1923年12月12日 - 20… 堀井 数男(ほりい かずお、1923年12月12日 - 2006年7月24日)は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
小西 秋雄(こにし あきお、1923年11月21日 - 20… 小西 秋雄(こにし あきお、1923年11月21日 - 2011年6月4日)は、日本の経営者。新キャタピラー三菱社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1948年に京都大学法学部を卒業し、同年に三菱重工業に入社。1982年に取締役に就任し、1985年6月に常務を経て、1987年4月には新キャタピラー三菱社長に就任。1993年6月に相談役に就任。 2011年6月4日肺炎のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年〈大正12年〉11月5… 佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年〈大正12年〉11月5日 - )は、日本の小説家。大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇。甲南高等女学校卒業。 父親と同様「憤怒の作家」と言われ、社会を鋭く批判する姿勢から「男性評論家」と呼ばれていた。 1923年11月5日(戸籍上は11月25日)、佐藤洽六(筆名 ・佐藤紅緑)とシナ(元女優の三笠万里子)の次女として、大阪市住吉区帝塚山で出生した。父親は先妻のはるを棄て、シナと再婚していた。1925年に「私の故郷」と呼ぶ兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。小学校時代は大衆小説の大家である父親に送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふけっており、算術は苦手であったという[要出典]。
中尾 益朗(なかお ますろう、1923年10月28日 - 2… 中尾 益朗(なかお ますろう、1923年10月28日 - 2003年4月11日)は、日本の実業家。帝人医薬社長、帝人副社長、副会長、顧問を歴任。 鹿児島県日置郡串木野村下名、後の串木野市(現いちき串木野市)元町出身。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1945年に第七高等学校造士館理科を卒業。1949年に東京大学工学部を卒業し、帝国人造絹絲株式会社(1962年に帝人株式会社へ商号変更)へ入社。三原工場技術課長、三原工場レーヨン製造部第二技術課長、岩国工場レーヨン製造部長、松山工場テトロン第一製造部長を経て、1970年徳山工場長、1971年松山工場長、1972年取締役、1977年常務、1980年専務、1983年副社長。
尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 201… 尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 2013年5月4日)は、日本の歴史学者。文学博士(名古屋大学・論文博士・1962年)(学位論文「幕藩体制の政治的原理と朱子学との関係に関する研究」)。東京大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。幼少期は旧満州(中国東北部)に移住。第三高等学校を経て1943年東京帝国大学文学部国史学科入学するも同年12月に学徒出陣。1945年8月の終戦は第二航空軍(満州)教官。翌年に復員。 1949年、東京大学文学部国史学科卒業。1958年、名古屋大学文学部講師、1962年1月、名古屋大学文学部助教授。同年4月、東京大学文学部助教授を経て、1970年、東京大学文学部教授。
福井 崇時(ふくい しゅうじ、1923年(大正12年)8月1… 福井 崇時(ふくい しゅうじ、1923年(大正12年)8月19日 - 2018年(平成30年)5月4日)は、日本の物理学者。名古屋大学名誉教授。1957年、高エネルギー荷電粒子の飛跡を観測する「放電箱」(ディスチャージチェンバー、後のスパークチェンバー)を開発、1961年仁科記念賞、1962年朝日賞(文化賞部門)を、いずれも宮本重徳とともに受賞。1985年紫綬褒章、1993年勲三等旭日中綬章、2001年イタリア共和国功労賞コメンダトーレ三等騎士勲章。著書に『身近な物理の世界』(1991年)、『粒子物理計測学入門』(1992年)がある。 また1966年のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたことが判明している 。
沼田 鈴子(ぬまた すずこ、1923年7月30日 - 201… 沼田 鈴子(ぬまた すずこ、1923年7月30日 - 2011年7月12日)は、日本の平和運動家。広島市への原子爆弾投下での被爆者の1人。被爆により左脚を失い絶望に陥ったところを、被爆アオギリを見て生きる希望を取りもどし、切断障害を抱えた身でありながら被爆体験証言活動と平和運動に心血を注いだ。証言活動では被爆アオギリのことを多く語ったことから「アオギリの語り部」として知られる。広島市原爆被害者の会の元副会長、広島を語る会の元会員。大阪府出身。
田幸 敏治(たこう としはる、1923年7月1日 - 201… 田幸 敏治(たこう としはる、1923年7月1日 - 2011年12月24日)は、日本の応用物理学者。東京工業大学名誉教授。元応用物理学会会長。元日本分光学会会長。 1923年7月1日生まれ。1941年12月大阪市立都島工業学校機械科、戦時繰り上げ卒業。旧制高校への進学希望がつのり、始めた受験勉強の無理と戦前・戦中の食糧事情が重なり、結核を患う。旧制松山高等学校を経て、1944年10月東京帝国大学理学部物理学科入学。1947年9月同大学卒業後は、東京大学理工学研究所研究員となる。1956年1月中央計量検定所主任研究員。1970年12月東京工業大学教授、精密工学研究所の併任教授。1972年東京工業大学精密工学研究所に転任、電気計測部門教授。
岡澤 完治(おかざわ かんじ、1923年(大正12年)6月2… 岡澤 完治(おかざわ かんじ、1923年(大正12年)6月25日 - 1972年(昭和47年)6月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(2期、民社党)。位階は正五位、勲等は勲三等。 大阪府枚方市津田町生まれ。母親とは早くに死別した。 小学校卒業後、府立四條畷中学校に学ぶ。1945年(昭和20年)、陸軍士官学校卒業。 1946年(昭和21年)4月、京都大学法学部入学。卒業後、大学院に進学し国際法を専攻した。 1954年(昭和29年)、法曹界に入る。愛情と信頼を信条とし、進んで恵まれない人たちの弁護を引き受け、「庶民の岡沢、正義の岡沢」として知られた。 1959年(昭和34年)、大阪府議会選挙に際し、やがて第二の故郷となった大東市から日本社会党公認として立候補し、当選したが、これは、岡沢が庶民の中に親しく入っていった庶民性と行動力がその根底にあったからである。
内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2… 内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2018年1月27日)は、日本の経営者。元関西電力(関電)代表取締役副社長。旧姓は竹内。 大阪府出身。天王寺中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年、京都帝国大学経済学部卒業と同時に関電前身の関西配電に入社。1962年に芦原義重社長の秘書になり、政財界とのパイプ役を約30年間務めた。1970年に芦原は会長に退き、さらに相談役名誉会長に退いたが、その後も腹心であった内藤を用いて社内に強い影響力を持った。ところが、1986年に『朝日ジャーナル』誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ、その一種恐怖支配とも取れるワンマンぶりが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奥村宏であった)。
吉川 雅恵(よしかわ まさえ、1923年4月20日 - 19… 吉川 雅恵(よしかわ まさえ、1923年4月20日 - 1991年12月17日)は日本の女優。本名は吉川美代子(旧姓:林田)。大阪府大阪市出身。旧芸名=仁保海(にほみ)月子。宝塚歌劇団在団中の愛称はオバァちゃん。特技は三味線、日舞。
乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明… 乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明)は兵庫県芦屋市生まれ大阪府大阪狭山市育ちの元プロ野球選手。 1942年に京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)から、阪神に入団。2年目の1943年には62試合に出場した。1944年から登録が無く、1946年に阪神に復帰するも翌1947年シーズン前に退団し、新たに創設された国民野球連盟の大塚アスレチックスに参加した。1950年には、古沢建設から栃木県代表として都市対抗野球に出場し、2年後には明利酒類から同県代表としてサンベツに出場した。 2024年のドラフト会議でオリックス・バファローズから育成6巡目指名を受けた乾健斗は孫にあたる。
岡部 伊都子(おかべ いつこ、1923年3月6日 - 200… 岡部 伊都子(おかべ いつこ、1923年3月6日 - 2008年4月29日)は、日本の随筆家。 大阪府大阪市出身。1936年、相愛高等女学校を結核のため中退。婚約者が沖縄戦で戦死しており、この時の体験から、自分を「加害の女」と呼び、「女は被害者ではない。送り出した自分も戦争に加担した」と語っていた。戦後すぐ結婚したが、7年後に離婚[要出典]。同人誌『文学室』に参加[要出典]、谷沢永一は岡部の才能を最初に認めたのは自分であると書いている(『回想開高健』[要ページ番号])。 1954年から朝日放送「四百字の言葉」の原稿を担当し、これをまとめた『おむすびの味』(1956年)で認められる。美術・伝統・自然・歴史・戦争・沖縄・差別・環境問題など、様々なジャンルの著書・連載を多数残した。
真弓 常忠(まゆみ つねただ、1923年3月6日 - 201… 真弓 常忠(まゆみ つねただ、1923年3月6日 - 2019年4月3日)は、日本の神職・神道学者・歴史学者。皇學館大学名誉教授。住吉大社名誉宮司。 大阪市生まれ。神宮皇學館大學卒業後、1975年まで住吉大社禰宜、1993年まで皇學館大学教授。退任後は八坂神社宮司を経て、住吉大社宮司に就いた。2012年より同名誉宮司。2019年4月3日に死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石濱 恒夫(いしはま つねお、1923年〈大正12年〉2月2… 石濱 恒夫(いしはま つねお、1923年〈大正12年〉2月24日 - 2004年〈平成16年〉1月9日、80歳没)は、日本の文学者。石浜 恒夫とも表記。 大阪府大阪市出身。父は歴史学者(東洋史学)の石濱純太郎。従兄に小説家の藤沢桓夫がいる。2人の娘のうち長女は女優の京春上、次女はエッセイスト、挿絵画家の石浜紅子。 大阪高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部美術史学科在学中から父の友人であった織田作之助などの影響を受けて文学を志し、大学卒業後に川端康成に弟子入りし、鎌倉の川端の私邸に住み込み師事した。1968年(昭和43年)に川端がノーベル文学賞を受賞した際には、ストックホルムでの授賞式に同行している。
松岡 阜(まつおか ゆたか、1923年2月12日 - 200… 松岡 阜(まつおか ゆたか、1923年2月12日 - 2008年5月9日)は日本の彫刻家。大阪府出身。 東京美術学校彫刻科を卒業。平櫛田中に師事し、写実的な作風を受け継いだ。 1955年、行動美術協会に入会。1956年、行動美術賞を受賞した。 代表作は、阪神甲子園球場敷地内に建つ「野球王ベーブ・ルースの碑」レリーフ(ブロンズ製・縦90cm・横90cm)。プロ野球選手ベーブ・ルースが他界した翌年の1949年、同球場が彼の来場した史実を記念して松岡に依頼し制作された。なお2005年、ルースの生誕地であるアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに「総合スポーツ記念館」が開館し、ルースの生家にある記念館が移設された際、阪神球団は松岡が保管していたオリジナルより作成されたレプリカを同記念館に寄贈している。
松浦 行真(まつうら こうしん、1923年1月24日 - 1… 松浦 行真(まつうら こうしん、1923年1月24日 - 1991年4月25日)は、大阪市出身の日本の作家、産経新聞記者、浄土宗の僧侶。 大阪市生まれ。大正大学二年修了。1946年産経新聞入社、のちフリー。『風が燃えた』『熱い嵐』は、1978-79年にテレビドラマ化された。
駒井 茂春(こまい しげはる、1923年1月8日 - 199… 駒井 茂春(こまい しげはる、1923年1月8日 - 1998年11月12日)は、日本の経営者。ダスキン社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1943年に大阪商科大学高等部商業科を卒業。安宅産業、自営業、クントクでの勤務を経て、1963年にダスキンの創業に参加し、取締役、副社長を経て、1979年11月に社長に就任。1994年6月から1998年6月までに会長を務めた。 1998年11月12日心不全のために死去。75歳没。
鷲谷七菜子(わしたに ななこ、1923年1月7日 - 201… 鷲谷七菜子(わしたに ななこ、1923年1月7日 - 2018年3月8日)は、日本の俳人。 大阪府出身。楳茂都流の舞踊家・楳茂都陸平と元宝塚歌劇団娘役の吉野雪子(千鳥)との間の長女。本名・ナナ子。生後7ヶ月で楳茂都流二代目家元の祖父に引き取られ、祖父母によって育てられる。1940年、夕陽丘高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)卒業。 高女時代より俳句をはじめ、1942年より「馬酔木」に入会、水原秋桜子に師事。また1946年、「南風」に入会し山口草堂にも師事する。1951年「馬酔木」同人。「南風」編集・発行に参加し、1962年より「南風」婦人投句欄選者(1980年まで)。1984年、草堂の指名により「南風」主宰となる。
田中 太郎(たなか たろう、1923年 <大正12年> 1月… 田中 太郎(たなか たろう、1923年 <大正12年> 1月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1945年に東京帝国大学工学部機械学科を経て、1947年に東京大学工学部大学院を修了し、同年10月に民生ディーゼル工業に入社。1958年10月に日本電装に転じ、1971年2月に取締役に就任し、1978年5月に常務、1979年3月に専務を経て、1985年3月に副社長に就任し、1987年3月には社長に昇格。1991年3月から1995年3月までに会長を務めた。 1989年4月に藍綬褒章を受章。
津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の… 津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の版画家。元日本宣伝美術会会員。 大阪府岸和田市生まれ。旧制岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)に学ぶ。 1952年に積水化学に入社し、宣伝部に所属する。1959年、アートハウスを設立する。1974年にはスタジオパレットを、1997年にシーディーシーを、それぞれ設立した。 2002年に、BSデジタルラジオ320chJFN1 BSジャズギャラリーにて「津田耕ジャズの世界」の放送が開催された。 2003年12月に死去。
中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2… 中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2014年3月6日)は、日本の外交官。駐中華人民共和国大使などを務めた。位階は従三位。 1922年(大正11年)、大阪府生まれ。北野中学校、旧制第三高等学校を経て、京都大学法学部卒業、外務省に入省。チャイナ・スクールと誤解されることが多いが、実際はフランス語研修を受けたフレンチ・スクールで、条約局と国連外交が長い。 若い頃は演劇青年で学徒動員の経験をもち、「霞完(かすみ かん)」のペンネームでバレエの台本を執筆しており、『いのち』は東京とベオグラードにおいて、『動と静』は東京とカイロにおいて、『蕩々たる一衣帯水』は東京と北京において、それぞれ上演された。
大沢 文夫(おおさわ ふみお、大澤 文夫、Oosawa, F… 大沢 文夫(おおさわ ふみお、大澤 文夫、Oosawa, Fumio、1922年12月10日 - )は、日本の生物物理学者。戦後、学問研究では異端とも思える状況の中で、物理学者の立場から生物の研究を開始した。海外の研究に依存しないで日本で独自の研究を展開し、世界的な研究をした。直接の弟子が数百人と多く、弟子以外にも多くの研究者に多大な影響を与えた。日本の生物物理学の創設・開拓・牽引者。名古屋大学名誉教授/大阪大学名誉教授。小谷正雄の直弟子。寺田寅彦の孫弟子。理学博士。作家富士正晴の義弟。
中野 藤生(なかの ふじお、1922年12月8日 - 200… 中野 藤生(なかの ふじお、1922年12月8日 - 2009年8月12日)は日本の統計力学者。線形応答理論への寄与で知られる。大阪市出身。 1922年、大阪に生まれる。1944年(昭和19年)9月、大阪帝國大学(現大阪大学)理学部物理学科を繰り上げ卒業後、海軍技術見習尉官となって海軍兵学校にて物理教官となる。戦後、大阪帝國大学理学部副手、大阪大学助手を経て、1955年1月に名古屋大学教授となる。 1955年に「電気伝導度の公式」を、1973年には「対称破りポテンシャルの方法」を発表。1986年、停年退官ののち名古屋大学名誉教授。2009年8月、肺炎のため名古屋市にて死去。86歳であった。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
牧 冬彦(まき ふゆひこ、1922年(大正11年)12月2日… 牧 冬彦(まき ふゆひこ、1922年(大正11年)12月2日 - 2006年12月25日)は、日本の実業家。神戸製鋼所元社長。神戸商工会議所会頭や関西経済連合会副会長などを務めた。大阪府出身。 茨木中学、旧制三高を経て、1944年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。出征し、終戦後にはシベリアで抑留生活を送った。帰国後、1948年3月に神戸製鋼所に入社。主に人事、労務など管理畑を歴任した。 1983年からの社長在任期間は、円高不況による業績低迷の中、高知工場などを閉鎖。一方で西神総合研究地区の整備を開始し、現在の神戸総合技術研究所の基礎を築いた。 1995年の阪神・淡路大震災では神戸商工会議所会頭として地元復興に尽力。