吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
大阪府:6,116人
吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は… 藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は、日本のマルクス主義哲学者。 大阪市生まれ。1934年、関西大学大学院中退。経済学者の藤本昭(神戸大学教授)は甥。長女は福井扶未子。谷沢永一が師と仰いだ。
入谷 唯一郎(いりたに ただいちろう、1905年 - 198… 入谷 唯一郎(いりたに ただいちろう、1905年 - 1989年3月14日)は、日本の水泳競技黎明期の競泳選手。日本でクロール泳法を習得した初期の泳者の一人。 現在の大阪府高槻市出身。子供のころから地元の芥川で泳いでいたという。1919年(大正8年)、旧制茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に入学。同級には高石勝男がいた。茨木中学校は体育教諭杉本伝のもとで水泳の盛んな学校であり、入谷が入学した1919年(大正8年)には中田留吉が招かれて水泳の指導に当たった。 当時、クロールは50m競泳にのみ用いられる泳法であると理解されており、長距離には片抜手や抜手が用いられていた。1919年(大正8年)の帝国水友会主催全国大会(鳴尾)の中等学校の部100mに出場した際、杉本と中田が相談の上、入谷にクロールのみで100mを泳いでしまえと指示、入谷は泳ぎ抜いた。
山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1… 山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1997年1月1日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授。専門は電気工学、半導体工学。工学博士(京都帝国大学)(1945年)。 大阪府生まれ。
生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1… 生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1991年8月23日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。京都大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制松江高等学校を経て1929年京都帝国大学文学部仏文科卒、神戸商業大学予科講師、教授、戦後1947年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1964年京都大学文学部教授を務め、1968年定年退官。 若くしてスタンダールの『赤と黒』を翻訳。以後バルザック、フローベール、プルーストら19世紀フランス文学の作家を紹介し、ラファイエット夫人の「クレーブの奥方」、フローベールの「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開いた。また、1953年に日本国内で出版されたボーヴォワール『第二の性』の訳でも知られ、桑原武夫、伊吹武彦とともに京大フランス学を形成した。
平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 … 平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 - 1971年2月15日)は、日本の経営者。野村不動産社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1929年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村證券に入社。野村財閥の創始者である野村徳七にかわいがられ、指導を受け、1946年4月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1952年8月に専務、1956年11月に副社長を経て、1959年6月に野村不動産社長に就任した 大阪証券取引所理事、大阪証券業協会理事、京都大学講師、読売テレビ放送取締役なども歴任した。 著書に「証券市場論講義」がある。
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27… 我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月15日)は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表(移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 堺市出身。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校)、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業。 帝塚山学院講師を経て1936年(昭和11年)堺市役所に入った。堺市の助役などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月… 島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月9日 - 1978年(昭和53年)10月25日)とは、日本の洋画家。大阪府大阪市北区出身。 1904年(明治37年)7月9日、大阪府大阪市北区に生まれる。 1924年(大正13年)3月、大阪府立天王寺中学校卒業。同年4月、東京美術学校西洋画科入学。在学中の1928年(昭和3年)10月、帝展に「読書」が初入選。翌1929年(昭和4年)、東京美術学校西洋画科を卒業。 同年渡仏、フランスで「午後」がサロン・ドートンヌ入選。翌1930年(昭和5年)パリ国立美術学校のリュシアン・シモン教室に入学するも2年後の1932年(昭和7年)に中退する。その後ポール・ランソンのアカデミー・ランソンでフレスコ画法を学び、1933年(昭和8年)からサロン・デザルティスト・フランセに毎年出品を開始、翌1934年(昭和9年)出品の「ユゲット・トノン孃肖像」はマンション・オノラブル賞を受賞している。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。
秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明… 秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明治37年)3月17日 - 没年不明)は元宝塚少女歌劇団花組主演娘役クラスの人物である。大阪府池田町(現・池田市)出身。 この芸名は小倉百人一首の第1番:天智天皇の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月2… 佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月23日 - 1990年〈平成2年〉7月20日)は、日本の実業家。日本の民族学の初期を第16代日本銀行総裁の渋沢敬三とともに資金的に支えた。また、大日本帝国陸軍と国策を動かす仕事をし、第二次世界大戦後は知的人脈や優れた語学センスで、歴史の裏舞台で日本済の発展に心血を注ぐなど、スケールの大きな行動力からアジア版アラビアのロレンスと呼ばれる。 太平洋戦争前は岩畔豪雄(陸軍中野学校設立者)に協力し、国策会社「昭和通商」運営に深く関わる。また第三高等学校 (旧制)に今西錦司とともに山岳部をつくり、加藤泰安の就職に関与するなど、のちに京都大学が探検大学と呼ばれるような基礎となる多くの探検には佐島の影響があった。
小川 二郎(おがわ じろう、1904年〈明治37年〉2月6日… 小川 二郎(おがわ じろう、1904年〈明治37年〉2月6日 - 1981年〈昭和56年〉5月22日)は、日本の英文学者。文学博士。広島大学名誉教授。ノートルダム清心女子短期大学教授。龍谷大学教授。 大阪府大阪市出身。甚之丞の二男。1926年、広島高等師範学校卒業。和歌山県立海草中学校教諭となる。1934年、広島文理科大学英文科卒業。1942年、広島文理科大学助教授となる。1950年、ウィリアム・ブレイク「無心と経験の歌」研究で広島大学文学博士。1951年、広島大学教授に就任。1967年、定年退官する。 英国ロマン派の詩が専門。宗教は仏教。趣味は随筆、油絵、詩歌。住所は広島県安佐郡安古市町相田(現・広島市安佐南区相田)、広島市牛田本町。
長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 197… 長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 1976年8月5日)は、日本の漫才作家、演出家、放送作家。 大阪府島之内出身。御津小学校、天王寺中学校、旧制大阪高校を経て、東京帝国大学文学部美術史学科卒。 実子は、元NHK大阪放送局所属の演出家・長沖渉。祖父は加賀藩士で、明治維新後に大阪に出てきて商売を始める。 大阪高校在学中に左翼運動を始める一方、1925年に武田麟太郎、秋田實、藤沢桓夫と共に文学同人誌『辻馬車』を創刊。大学在学中に新人会に参加。 1929年3月、東大を卒業。 1930年、徴兵検査で歩兵第一連隊に入隊。甲種幹部候補生で10ヶ月ほど過ごし除隊後、作家に復帰。『中央公論』に「肉体交響楽」を寄稿するも軍批判とみなされ発表を見送られる。
牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日… 牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の作家、詩人、翻訳家、イタリア文学者で、イタリア民謡「山の大尉」の歌詞も訳した。父は高級住宅街「苦楽園」を開発した実業家中村伊三郎。夫は「広辞苑」「少年少女ファーブル昆虫記」「生き物図鑑」などのイラスト画家牧野四子吉(よねきち)。 1904年(明治37年)大阪府大阪市北区上福島(現福島区)生まれ。大阪市立靱尋常小学校(現大阪市立明治小学校)、大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)を経て、神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)へ進学(のちに中退)。1924年(大正13年)東京時事新報(現産経新聞)に勤務。
深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、… 深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、日本のこけし研究家・版画家・童話作家。本字での表記は深澤要。 東京市下谷区池之端七軒町に生まれる。少年期は、医師である父に従って九州で育った。1917年、福岡県嘉穂中学校に入学するが病気のため退学。1921年、大阪泰西学館に入学するも病気のため退学。 1925年、大阪市立工業学校(現大阪市立都島工業高等学校、翌年、大阪市立都島工業学校と改称)に勤務。かたわら童話研究を志す。1929年、都島工業学校を退職。行人社書店を設立するが病気のため閉店。『古本屋の棚』『子供考』を出版。1933年、東京に移る。1934年、このころより、こけしの収集研究が始まり産地訪問が始まる。
城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、… 城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、数学者、コンピュータ技術者。日本のコンピュータパイオニアで、ほぼ最初期にコンピュータに取り組んだ一人。大阪府大阪市生まれ。 日本の初期のコンピュータ開発は、電子式では、城によるもの以外に、1949年に開発着手し1956年に完成動作した岡崎文次のFUJIC、1952年にプロジェクトが開始され1959年完成動作した東大TACがある。城の「阪大真空管計算機」 は、1953年のまとまった科学試験研究費により本格的に始まっている。しかし、予備実験的な段階までを含めると、1948年にはじまる三田繁による東芝TAC もあるが、城はENIACについての1946年のニューズウィークの記事を見て電子式の計算機械に取り組み、1950年にはENIACの1桁分のブロック線図にもとづいた10進4桁の演算装置を完成させている。
清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年… 清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1984年〈昭和59年〉3月14日)は、日本の政治家(池田市議)、実業家。池田銀行頭取。南海毛糸紡績、宝塚ホテル、能勢電気各取締役。池田商工会議所会頭。位階は従五位。元・池田銀行頭取清滝一也は養子。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 大阪府池田市出身。清瀧辰吉の六男。伯父徳兵衛の養子となり1930年、家督を相続。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 1930年7月、池田実業銀行取締役に選ばれ同年9月1日頭取に就任した。1951年、池田銀行頭取に就任した。1974年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。
斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月… 斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日 - 1944年(昭和19年)9月5日)は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。 大阪府に生まれる。岸和田中学校を経て、立教大学に入学。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した。 1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社。運動部記者を務める傍ら、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた。 1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した。
八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - … 八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - 1989年4月20日 )は、大阪府大阪市出身の裁判官、サッカー選手。
中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1… 中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1985年10月15日)は、英語学者。 大阪市生まれ。1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、横浜正金銀行入行、大阪支店勤務。36-45年マニラ、ニューヨーク、リオデジャネイロ、青島の各支店に勤務。39年ニューヨーク市立大学で英語学を学ぶ。46年横浜正金銀行大阪支店、47年東京銀行に移行し、48年東京本店勤務。58年定年退職、60年早稲田大学専任講師、66年教授、74年定年退職。75―84年日本実用英語学会会長。84年名誉会長。墓所は小平霊園(13区2側)。
三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年… 三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年12月20日)は、日本の医史学者。専門は朝鮮医学史。もと京城帝国大学助教授。 大阪府堺市生まれ。九州帝国大学卒業。1932年、博士。堺市教育委員賞、日本医師会最高優功賞、日本医史学会功労賞、韓国科学史学会感謝牌賞などを受賞。
藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1… 藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1998年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。種智院大学教授。真言宗智山派管長。智積院65世能化。専門は密教学。真言宗清和院住職。義父に、智積院55世能化の高井観海。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日… 飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日‐1991年(平成3年)8月19日)は昭和期の作曲家、指揮者。妻は女優の夏川静江。娘に女優の夏川かほる。
八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日… 八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日 - 1991年〈平成3年〉5月22日)は、日本の脚本家。元日本シナリオ作家協会理事長(1965年 - 1968年、1982年 - 1991年)。脚本家の白坂依志夫は長男。 大阪市出身。早稲田大学露文学科卒業。卒業後、しばらくはロシア文学の翻訳家、築地小劇場などの新劇運動を経て。 1928年、春秋社から人生読本というタイトルでトルストイの翻訳書を出版、笹本寅が携わった。 1936年、PCL入社。脚本第一作は『武士道朗らかなりし頃』を発表、1939年(昭和14年)『樋口一葉』で注目され、その後シナリオライターに専念する。 。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を伊馬春部、北条誠、北村寿夫とともに交代で執筆。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903… 六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903年)2月3日 - 平成12年(2000年)11月11日)は、大正時代から平成時代の浮世絵師。 明治36年、2代目歌川国鶴の次男として、東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。母は四条派の絵師ゆた。祖父は歌川国鶴。始めは2代目歌川国春と号しており、明治38年(1905年)に大阪市南区(現在の中央区)徳井町に移った。さらにその3年後、明治41年(1908年)には京都市に転居している。父の2代目歌川国鶴のもと、浮世絵を学んだ後、山元春挙及び中井汲泉に師事し、運筆及び風景画を習得した。大正7年(1918年)には、叔父の5代目歌川豊国に引き取られ、再び浮世絵を学んだ後、大正11年(1922年)には東京府下幡ヶ谷の前田英に師事し、写真背景画を学んでいる。
ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1… ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1903年1月12日 - 1991年5月15日)は、日本の写真家。本名は桑田和雄。 1903年に大阪市西区江戸堀で生まれる。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)を卒業後、写真家になるために上海に渡り、その後香港やシンガポールにも渡る。1927年に帰国後、玉子と結婚。1929年に芦屋で写真材料店を開き、「ハナヤ勘兵衛」と名乗るようになった。 1930年に、中山岩太が中心となり結成された「芦屋カメラクラブ」に紅谷吉之助、高麗清治らとともに参加し、関西での新興写真運動の中心的存在の一人として活躍。その作品には、多重露光やフォトモンタージュを駆使したものが多く、強烈なモダニズムを感じさせ、1932年に創刊された雑誌『光画』にも、その作品が掲載された。
田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 … 田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 - 1984年(昭和59年)3月20日)は、日本の理学、植物博士。微生物学者。専攻は、植物生理学、細胞生理学。光合成の研究により世界的評価を得た。国際生物学事業計画(International Biological Programme)副会長。 大阪市出身。医学者の田宮猛雄の弟。また、チェロの演奏家でもあり、民谷宏の変名で、諸井三郎、河上徹太郎らと共に樂團スルヤを組織した。 1926年(大正15年)東京帝国大学理学部植物学教室卒。ドイツ国、フランスに留学後、1933年(昭和8年)東帝大助手、1939年(昭和14年)同大学助教授、1943年(昭和18年)東京帝大教授(理学・植物学)。
後藤 郁子(ごとう いくこ、1903年 - 1996年)は、… 後藤 郁子(ごとう いくこ、1903年 - 1996年)は、日本のプロレタリア・ロマン派詩人。戸籍名は内野郁子。旧姓の後藤がペンネームとなっている。夫は内野健児(ペンネーム:新井徹)。夫と、当時、日本統治下の朝鮮における民族差別を目の当たりにしたことと、治安維持法の名の下に、文芸等文化活動の検閲などによる弾圧を知る。しかし、そんな社会状況の中での詩作活動等を継続、プロレタリア詩誌『詩精神』に代表される幾つかの詩誌編纂に携わった。 後藤郁子は、栃木県上都賀郡足尾字小滝にて、鉱山技師の父愛五郎と母みつの長女として、1903年(明治36年)6月に誕生した。幼い頃より書画や琴などを好み、稽古する環境にあった。
西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉-… 西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉- 2008年〈平成20年〉6月5日)は、日本の実業家。父親は、実業家の西松喬。配偶者は坂野鉄次郎の養子坂野紀美子。大阪市西区江戸堀生まれ。 1903年に大阪市西区江戸堀に生まれる。両親はインド綿花輸入を扱う輸入商社西松商店を経営していた。大阪で2年から3年ほど過ごした後に、神戸市東灘区東明に移った。その後、御影師範学校附属の小学校に通い、1916年に卒業。その後、開学まで1年待ち、1917年に甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校)に1回生として入学。甲陽中学卒業後は、慶應義塾大学に進学した。その後、鐘紡に就職。1933年から1938年までヨーロッパ駐在員としてロンドン、ニューヨークに赴任した。
伊藤 隆男(いとう たかお、1902年11月12日 - 19… 伊藤 隆男(いとう たかお、1902年11月12日 - 1992年10月12日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大阪府出身。1916年に茨木中学校を卒業し、同年に資生堂に入社した。1927年に取締役に就任し、1948年に大阪資生堂専務に就任し、1959年8月から1964年12月までに社長を務め、1964年12月から1967年までに会長を務め、それ以後は相談役を務めた。 1966年10月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1992年2月10日、慢性気管支炎のために死去。89歳没。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2… 河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪府堺市出身。1920年に旧制大阪府立堺中学校から第三高等学校へ入学し、1923年に同校を卒業。京都帝国大学文学部仏文科で落合太郎・河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。 1928年学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。 上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。
福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 198… 福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 1981年1月6日)は、昭和期の土木技術者・橋梁工学者。工学博士。大阪市出身。 1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。大学では田中豊に師事。卒業後、田中が橋梁課長を務める内務省復興局の嘱託となる。 1926年(大正15年)には東京帝国大学助教授を兼務し、フィーレンディール橋の豊海橋を設計(1927年(昭和2年)竣工)。 1927年には、新潟市の萬代橋の設計を依頼され、田中や成瀬勝武(復興局橋梁課筆頭技師)の指導を受けながら、5か月で設計を仕上げ、その設計料で欧米に留学したという。なお、萬代橋は1929年に竣工した。 1933年(昭和8年)、土木学会賞を受賞。
小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 19… 小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 1960年4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。第3次吉田内閣で賠償政務次官を務めた。 大阪府泉大津市出身。貧家の生まれであり、小学校を中途退学せざるを得なくなり、自由労働者の中に身を投じたという。 1945年、土建業の寅林組を設立。1946年、第22回衆議院議員総選挙で当選(以後第28回まで当選7回)。自由民主党大阪府連合会会長、大阪府漁港協会会長、大阪府土木建築協同組合理事長、大阪府消防協会長など要職を歴任する。 1954年11月、日興連汚職事件により福田繁芳と共に収賄罪の容疑で逮捕され、後に懲役6か月・執行猶予1年の判決を受けた。
秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 19… 秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 1984年7月11日)は、日本の数学者。京都大学名誉教授。 自身の研究室から2人のフィールズ賞受賞者(広中平祐、森重文)を輩出している。 和歌山県出身。旧制大阪府立天王寺中学校四年修了、旧制第三高等学校卒業。1926年京都帝国大学理学部数学科卒業。第三高等学校教授を経て、1948年京都大学教授。退官後、1951年から東京教育大学教授を兼ね、京都大学数理解析研究所の設立に尽力。1967年群馬大学学長。 日本数学会理事を務め、専門の代数幾何学を研究し数学教育にも力を入れた。1984年7月11日死去。81歳。 ヴォルフガング・クルル、オスカー・ザリスキ、永田雅宜に並び、可換環論の初期の基本的かつ重要な仕事をしたことで有名である。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は… 廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名喜多 猶光(きた なおみつ)、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある。 1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる。 大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期)の俳優になる。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する。
森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - … 森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - 1995年(平成7年)3月12日)は、日本の数学者。女性数学者の先駆けで、女手で育て上げた子供4人とも教授(天文学者の森本雅樹、経済学者の森本芳樹ら)になったことでも有名である。夫は数学者森本清吾。 1902年(明治35年)大阪府大阪市北区曽根崎生まれ。大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業後の1918年(大正7年)東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科に進学した。卒業後の1924年東北帝国大学(現・東北大学)理学部数学科に入学し1927年(昭和2年)3月卒業。この年6月、数学科で出会った東北帝大助手の深澤清吾と、周囲から反対されたが結婚した(清吾が、姓を森本に改称)。
寿岳 しづ(じゅがく しづ、1901年〈明治34年〉10月2… 寿岳 しづ(じゅがく しづ、1901年〈明治34年〉10月23日 - 1981年〈昭和56年〉6月27日)は、日本の英文学者、随筆家。 大阪市生まれ。旧本名・岩橋 静子。梅田高等女学校中退。 日本ライトハウスの創始者で愛育事業を行った岩橋武夫の妹。兄武夫が早稲田大学在学中に失明し関西学院に転じたため、兄の杖がわりとなって一緒に通学、ノートをとるなどして助けた。1923年に英文学者・寿岳文章と結婚。1927年に小説『朝』を発表した後、1933年に居を京都府乙訓郡向日町(現・同府向日市)に移した。1937年、ウィリアム・ハドソンの『はるかな国・とほい昔』を翻訳するなど、文筆活動に活躍。 文章とともに和紙の研究を行い、1943年に共著『紙漉村旅日記』を私家版で刊行。
山下 栄二(山下 榮二やました えいじ、1901年(明治34… 山下 栄二(山下 榮二やました えいじ、1901年(明治34年)10月14日 - 1990年(平成2年)1月9日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県姶良郡西襲山村(現・霧島市)で生まれる。肥料問屋に奉公後、1920年(大正9年)、久保田鉄工所の尼崎工場に鋳物臨時工として入り、同鉄工所に1956年(昭和31年)の定年まで務め、その後、同顧問、同社友となる。 1921年(大正10年)の争議を機に労働運動に加わる。1923年(大正12年)に関西商工学校(現・関西大倉高等学校)を卒業した。1928年(昭和3年)、三・一五事件で検挙されたが不起訴となる。同年、社会民衆党所属で尼崎市会議員に当選し、その後、兵庫県会議員を務めた。
飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶ… 飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶろう、1901年(明治34年)9月8日 - 1955年(昭和30年)10月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県簸川郡塩冶村上塩冶(現出雲市上塩冶町)で、飯国恒一の六男として生まれる。同郷出身の宍道政一郎(出雲製織創業者)の書生を務めながら、堺中学(現大阪府立三国丘高等学校)、関西大学専門部法律科を卒業した。 宍道が経営していた大阪帆布、出雲製織で勤務。1941年(昭和16年)、出雲製織、錦華紡績、日出紡織、和歌山紡織が合併して大和紡績が設立されると、出雲工場長に就任。戦後は、常務、専務取締役を務めた。その他、島根県商工経済会評議員、石見人絹工場取締役、島根繊維工業取締役・社長、大和工業取締役、浜田機械工業取締役、大和農機具工業社長なども務めた。
淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1… 淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1977年5月20日)は、日本の社会評論家。
柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - … 柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - 1998年1月5日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1918年に関西商工学校を卒業。1929年に発動機製造(のちのダイハツ工業)に入社し、1943年に取締役に就任し、常務、専務を歴任。1966年に再び取締役に就任し、顧問、ダイハツディーゼル社長、会長、相談役を歴任した。 1969年に藍綬褒章を受章し、1975年に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年1月5日全身衰弱のために宝塚市の病院で死去。96歳没。
島 秀雄(しま ひでお、1901年(明治34年)5月20日 … 島 秀雄(しま ひでお、1901年(明治34年)5月20日 - 1998年(平成10年)3月18日)は、昭和初期 - 中期の鉄道技術者。元日本国有鉄道(国鉄)技師長(1955年 - 1963年)。宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長(1969年 - 1977年)。大阪府出身。島安次郎の子。 「デゴイチ」の愛称で知られる貨物用蒸気機関車D51形の設計に関与。また新幹線計画では、国鉄総裁の十河信二や新幹線総局長の大石重成らと共にその実現に大きく貢献し、「新幹線の生みの親」と称される。国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わった。 1969年(昭和44年)に英国機械学会のジェームズ・ワット賞を日本人として初めて受賞。