横田 明(よこた あきら、1962年〈昭和37年〉10月3日… 横田 明(よこた あきら、1962年〈昭和37年〉10月3日[要出典] - )は、大阪府吹田市出身の日本の考古学者、元考古学技師(財団法人大阪府埋蔵文化財協会調査課技師)、元地方公務員(大阪府教育委員会文化財保護課調査第一グループ副主査)、日本考古学協会会員である。 韓国語翻訳者、舞台俳優、レイキティーチャーとしても活動する。 1990年4月から2023年3月まで大阪府教育委員会事務局(のちの大阪府教育庁)文化財保護課に考古学職として勤務し、大阪府内の文化財保護業務に従事した。 在職中には阪神・淡路大震災後、兵庫県教育委員会に3年間派遣され復興支援に従事した。さらに東日本大震災後には岩手県教育委員会に2年間[要出典]、福島県教育委員会に9か月間[要出典]派遣され、文化財の復旧・復興業務に携わった。
中井 均(なかい ひとし、1955年9月18日 - )は、日… 中井 均(なかい ひとし、1955年9月18日 - )は、日本の考古学者。専門は中・近世城館遺跡、近世大名墓。滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科名誉教授。NPO法人城郭遺産による街づくり協議会理事長。織豊期城郭研究会代表。大名墓研究会代表。 大阪府枚方市出身。龍谷大学文学部史学科卒業。(財)滋賀県文化財保護協会、米原町教育委員会、米原市教育委員会、滋賀県教育委員会、長浜城歴史博物館を経て、2013年から滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科教授となった。小学5年生から中・近世の城跡探検をはじめ、現在は日本各地の中世・近世城郭の発掘調査・整備の委員を務める。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
土生田 純之(はぶた よしゆき、1951年5月17日 - 2… 土生田 純之(はぶた よしゆき、1951年5月17日 - 2023年7月5日)は、日本の考古学者。専修大学名誉教授。博士(文学)(関西大学)。 大阪府生まれ。天理大学文学部卒業後、関西大学大学院博士前期課程を修了。宮内庁書陵部陵墓調査室員、同主任研究官、専修大学文学部助教授を経て同学部教授。専門は日本考古学。特に古墳時代・飛鳥時代を主な研究領域としていた。 2023年7月10日、『文化遺産と現代』を出版した同成社がTwitterで訃報を発表した。
森田 克行(もりた かつゆき、1950年〈昭和25年〉 - … 森田 克行(もりた かつゆき、1950年〈昭和25年〉 - )は、日本の考古学者。高槻市立今城塚古代歴史館・同しろあと歴史館特別館長。現在は高槻市文化財アドバイザー。 大阪府高槻市生まれ。大阪府立島上高等学校を卒業。龍谷大学文学部史学科考古学専攻卒業。高槻市教育委員会埋蔵文化財調査センター所長、文化財課長、市教育委員会地域教育監、今城塚古代歴史館館長、歴史系登録博物館2館の特別館長を経て、2021年(令和3年)から高槻市文化財アドバイザー。高槻城跡、安満遺跡、安満宮山古墳、今城塚古墳、闘鶏山古墳、新池埴輪製作遺跡、阿武山古墳、昼神車塚古墳などの調査と研究にかかわる。 育ちも高槻市で、高槻城の天守跡に新設された島上高校の時、クラブ活動の考古学クラブで、高槻市にある安満遺跡の環濠で弥生時代の土器を発掘し「まだ濡れたままの壺を手にした時に、とても感動して」考古学の道に進むことを決意した。
中村 浩(なかむら ひろし、1947年(昭和22年)2月15… 中村 浩(なかむら ひろし、1947年(昭和22年)2月15日- )は、日本の考古学者、大阪大谷大学名誉教授。専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学(東アジア窯業史)、日本仏教史。 大阪府富田林市生まれ。1969年(昭和44年)立命館大学文学部日本史学専攻卒業。大阪府教育委員会文化財保護課勤務を経て、大谷女子大学文学部専任講師、助教授、教授、校名変更で大阪大谷大学文化財学科教授。2013年(平成25年)定年、名誉教授。高野山真言宗龍泉寺住職。 2001年(平成13年)『和泉陶邑窯の歴史的研究』で立命館大文学博士。 大阪府南部に分布する古墳時代の須恵器の窯跡群である「陶邑窯跡群」について精力的な研究を行い、その須恵器の編年は、「中村編年」として知られる。
辰巳 和弘(たつみ かずひろ、1946年1月3日 - )は、… 辰巳 和弘(たつみ かずひろ、1946年1月3日 - )は、日本の考古学者・歴史学者。元同志社大学歴史資料館教授。 大阪市生まれ。1969年同志社大学文学部文化学科卒、1971年同大学院修士課程修了。静岡県立焼津中央高等学校教諭、静岡県教育委員会文化課指導主事を経る。1981年同志社大学校地学術調査委員会調査主任を経て、同志社大学歴史資料館学芸員、同資料館教授となる。2011年定年退職。
河上 邦彦(かわかみ くにひこ、1945年5月10日 - )… 河上 邦彦(かわかみ くにひこ、1945年5月10日 - )は、日本の考古学者、元神戸山手大学教授。 1945年、大阪市生まれ。1965年関西大学大学院文学科日本史学専攻修士課程修了(後に1995年「後期古墳の研究」を関西大学に提出して文学博士の学位を取得)。 卒業後は、1970年より奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、1972年に同研究所技師となる。1980~82年、北京大学に留学。橿原考古学研究所第三調査室長、副所長および同附属博物館館長を務め、神戸山手大学教授を兼任した。また、中国西北大学客員教授。中国社会科学院古代文明研究センター客員研究員。広陵町教育委員会文化財保存センター所長。 飛鳥京跡、牧野古墳、東明神古墳、下池山古墳、黒塚古墳など多くの調査を担当した。
都出 比呂志(つで ひろし、1942年1月1日 - 2025… 都出 比呂志(つで ひろし、1942年1月1日 - 2025年7月18日)は、日本の考古学者。大阪大学名誉教授。文学博士(大阪大学・論文博士・1989年)。初期国家論を基に前方後円墳体制論を提唱した。大阪府大阪市出身。
水野 正好(みずの まさよし、1934年〈昭和9年〉8月14… 水野 正好(みずの まさよし、1934年〈昭和9年〉8月14日 - 2015年〈平成27年〉1月27日)は、日本の考古学者。奈良大学名誉教授、元学長 。元元興寺文化財研究所長。専門は考古学、古代史・文化史(宗教考古学、まじない) 。大阪府大阪市出身 。 大阪府大阪市生まれ。奈良県田原本町立田原本小学校、大阪市立東中学校を経て、1953年(昭和28年)に大阪府立今宮高等学校卒業。 1957年、大阪学芸大学(現・大阪教育大学)学芸学部中学4年課程を卒業。1962年から滋賀県教育委員会に勤務し、日本初の技師に[要説明]。1969年から大阪府教育委員会、1974年から文化庁文化財保護部記念物課に勤めて主任調査官となる。
森 浩一(もり こういち、1928年7月17日 - 2013… 森 浩一(もり こういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。同志社大学名誉教授。専門は、日本考古学・日本文化史学。 大阪府大阪市出身。少年時代は堺市近郊に住み、尋常小学校の国史の国定教科書における記紀神話と、堺市の百舌鳥古墳群を通じて、古墳及び陵墓への関心を抱く。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1951年に同志社大学文学部英文学科卒業、1957年、同大学院文学研究科文化史学専攻修士課程修了。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組む(例:黄金塚古墳)。学生考古学研究会も創設(後に古代学研究会)。 卒業後は府立泉大津高校の教諭を務める傍ら、新沢千塚(奈良県橿原市)など古墳の発掘に従事。
坪井 清足(つぼい きよたり、1921年〈大正10年〉11月… 坪井 清足(つぼい きよたり、1921年〈大正10年〉11月26日 - 2016年〈平成28年〉5月7日)は、日本の考古学者。勲三等旭日中綬章、文化功労者。 奈良国立文化財研究所所長、元興寺文化財研究所所長。奈良国立文化財研究所では、事前の発掘調査の義務付け、発掘調査費用の原因者負担の原則の確立など、埋蔵文化財行政の枠組み構築に努めた。 1921年(大正10年)11月26日、大阪府大阪市に生まれた。父親は在野の考古学者である坪井良平であり、日立造船に勤務しながら梵鐘の研究などを行っていた。父親の勤務先の関係で東京市牛込区で育った。1934年(昭和9年)4月、父の母校でもある大阪大倉商業学校に入学した。
末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月2… 末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学・論文博士・1948年)。大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)生まれる。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。 河内狭山の旧家の一人っ子として生まれた。1904年に狭山尋常小学校入学、父親の勧めで狭山池周辺の土器片集めに熱中する。隣家の陸軍大将植田謙吉に憧れて陸軍幼年学校入学を希望するも母親に反対され進学を断念、土器石器集めや、祖父が集めた古武器を眺めて暮らすうち、水戸学の学統をひく感化院院長高瀬真卿の日本刀の新聞連載を読み、高瀬と文通を始める。
坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月… 坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月30日 - 1984年〈昭和59年〉8月4日)は、大阪府大阪市出身の考古学者。奈良国立文化財研究所所長などを務めた考古学者の坪井清足は息子。 在野の考古学者として梵鐘などを研究した。太平洋戦争時には金属類回収令によって全国の寺院から梵鐘が供出されたが、坪井の論文が参考となって慶長年間以前鋳造の梵鐘は供出を免れた。 1897年(明治30年)1月30日、大阪府大阪市東区淡路町1丁目に生まれた。父親は古美術愛好家であり、幼少期から金石文の拓本採取などを手伝った。 高等小学校を卒業後、1914年(大正3年)3月に大阪大倉商業学校を卒業したが、卒業後に就職した大倉組大阪支店は1915年(大正4年)に解雇された。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 195… 清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 1955年12月27日)は、日本の医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られる。 1885年、岡山県医学校長兼病院長の清野勇の長男として生まれる。父の勇は東京帝国大学医学部第一期卒業生で、のちに大阪医学校の校長・病院長も務め、臨床医学の大家として知られ財を成した。祖父の清野一学は沼津藩医。謙次は北野中学、第六高等学校 (旧制)を経て、考古学の道を希望したが父親が許さず京大医学部へ進学。 1909年、京都帝国大学医学部を卒業。藤浪鑑の病理学教室へ助手として入り、生体染色の研究を始める。
濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せ… 濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。京都帝国大学総長・名誉教授。「青陵」は号。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。 1881年、岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府南郡岸和田村(現:岸和田市岸城町)に生まれた。府立大阪尋常中学校(現:大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)に転校。卒業後は関西に戻り、第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)をに進学、卒業した。 1902年、東京帝国大学文科大学史学科に入学し、美術史を専攻。