地下 誠二(じげ せいじ、1963年〈昭和38年〉5月16日… 地下 誠二(じげ せいじ、1963年〈昭和38年〉5月16日 - )は、日本の銀行家。 日本政策投資銀行社長を務める。 岡山県岡山市出身。岡山県立岡山芳泉高等学校を経て、1986年(昭和61年)に東京大学法学部を卒業し、日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)に入行。高校の同級生に財務官僚の栗原毅がいる。 プロジェクト部ファイナンス課長としてPFI案件への融資や地方公共団体への助言を担当。2010年日本政策投資銀行特命チーム部長。2011年執行役員(特命担当)。2012年特命担当執行役員。2014年執行役員経営企画部長。2015年常務執行役員。2018年取締役常務執行役員。2020年6月代表取締役副社長。
宮長 雅人(みやなが まさと、1954年(昭和29年)9月1… 宮長 雅人(みやなが まさと、1954年(昭和29年)9月12日 - )は、日本の銀行家、実業家。勲等は旭日中綬章。岡山市に本店を置く中国銀行の第9代頭取を務めた。現職としてちゅうぎんフィナンシャルグループ会長を務める。岡山県新見市出身。 1954年(昭和29年)、岡山県新見市高尾に生まれる。1973年(昭和48年)3月、岡山県立新見高等学校卒業。1977年(昭和52年)3月、早稲田大学法学部卒業。 早大卒業後、中国銀行へ入行する。入行後はキャリアを積み、1999年(平成11年)6月、44歳で田ノ口支店長となる。2003年(平成15年)6月に福山支店長。2005年(平成17年)6月、50歳で取締役融資部長となる。
杉山清次(すぎやま せいじ、1947年(昭和22年)4月17… 杉山清次(すぎやま せいじ、1947年(昭和22年)4月17日 - )は、日本の銀行家。みずほ銀行元頭取、会長。
山本 吉章(やまもと よしあき、1939年9月2日 - 20… 山本 吉章(やまもと よしあき、1939年9月2日 - 2016年10月20日)は、日本の銀行家。 岡山県岡山市出身。1963年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に中国銀行に入行。 1989年6月に取締役に就任し、1993年6月に常務、1998年6月に専務を経て、1999年4月には頭取に就任。しかし、体調不良で、2000年3月に辞任。 2016年10月20日病気のために死去。77歳没。
橋本 徹(はしもと とおる、1934年(昭和9年)11月19… 橋本 徹(はしもと とおる、1934年(昭和9年)11月19日 - )は、日本の銀行家。富士銀行頭取、ドイツ証券会長、日本政策投資銀行社長のほか、国際基督教大学理事長も歴任した。プロテスタント信者。 両親とも教員の子息として岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。年若い頃から英語に関心を抱き、岡山県立高梁高等学校在学中は英語クラブに所属。高校の同期には、伊藤忠商事副社長の森澤寛二、大学教授の南智、岡山東商業を甲子園優勝に導いた向井正剛がいた。東京大学法学部在学中にも英語研究会に所属したほか、柔道部にも所属した。 外交官を目指し、外務公務員上級試験を受験するも不合格となったため、富士銀行(現:みずほ銀行)に入行。
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月… 立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日 - 1966年(昭和41年)7月10日)は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身。 1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した。 大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10… 守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。 元庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった。 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 … 万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 - 1959年3月28日)は、日本の実業家、明治から昭和期の銀行家である。全国銀行協会連合会元会長、三井銀行元会長、帝国銀行元頭取・会長を歴任した。 岡山県勝央町出身。作東義塾(現・岡山県立勝間田高等学校)を経て、1907年(明治40年)、青山学院高等科(現・青山学院大学)を卒業。同年、米山梅吉の誘いで三井銀行に入社し、1937年(昭和12年)に同銀行会長に就任する。1943年(昭和18年)に帝国銀行を設立して取締役頭取となる。その2年後に同銀行の会長、全国銀行協会連合会会長に就任。1953年(昭和28年)には、東京通信工業(現・ソニー)会長などを歴任。
公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6… 公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6日 - 昭和28年(1953年)2月25日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。元朝鮮銀行副総裁。元中国銀行頭取。 岡山県都宇郡大内田村(のち都窪郡吉備町、現岡山市北区)に公森仲次の長男として生まれた。 その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)へ進学、1901年に卒業し、旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。明治41年(1908年)7月、東京帝国大学政治科卒業する。大蔵省奉職。昭和5年(1930年)8月退官、日本興業銀行理事に就任。昭和12年(1937年)4月朝鮮銀行副総裁。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
加藤 貞則(かとう さだのり、1957年(昭和32年)8月2… 加藤 貞則(かとう さだのり、1957年(昭和32年)8月23日は、日本の銀行家、実業家。岡山市に本店を置く中国銀行の頭取、ちゅうぎんフィナンシャルグループ社長。 1957年、岡山県倉敷市生まれ。岡山県立総社高等学校を経て、1981年、早稲田大学政治経済学部卒業、中国銀行入行。1993年、米国シカゴ大学経営大学院修了。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。