村岡 達子(むらおか たつこ、1950年3月3日 - )は、… 村岡 達子(むらおか たつこ、1950年3月3日 - )は、日本の宗教家。オウム真理教の元幹部(代表代行)。宗教団体Aleph元副代表および元会長。ホーリーネームはウッタマー。 広島県福山市出身。高等学校卒業後,上智大学外国語学部に進学する.上智大学中退後、早稲田大学第二文学部仏文専修卒業。ロサンゼルスに進出した大手日本企業に勤務するが、倒産のため帰国。1988年7月にオウム真理教に入信。同年12月に出家。英訳仏典の日本語への翻訳や教祖麻原彰晃の海外渡航の際の通訳などを務める。 1995年のオウム真理教事件の発覚後に教団代表である麻原や代表代行である松本知子の逮捕により、同年6月に代表代行に就任。
粟本 昭夫(あわもと てるお、1927年2月12日 - 20… 粟本 昭夫(あわもと てるお、1927年2月12日 - 2025年)は、日本のイエズス会司祭、宗教家、教育者。
渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2… 渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2011年10月12日)は、広島県広島市西本浦町(現南区)出身の宮司。元サッカー選手、指導者。 実家は広島市の黄金山に面した邇保姫神社。國學院大學出身という異色の経歴は神社の神主だからである。 広島似島中学教諭時代に日本代表に選出され、1954年のワールドカップスイス大会予選と第2回アジア競技大会(マニラ)の国際Aマッチ2試合に先発出場した。体格も良く、ゴールキーパーとして安定したプレーを見せ、名ゴールキーパーと謳われた。視力が悪かったためメガネを掛けてプレーした。当時チームでのニックネームはやはり「神主」だったという。 指導者としても活動しており、山陽高校監督として1967年、同校を全国高校選手権優勝に導いた。
紀野 一義(きの かずよし、1922年8月9日 - 2013… 紀野 一義(きの かずよし、1922年8月9日 - 2013年 12月28日)は、日本の仏教学者、宗教家。真如会主幹。
谷口 清超(たにぐち せいちょう、1919年10月23日 -… 谷口 清超(たにぐち せいちょう、1919年10月23日 - 2008年10月28日)は、日本の宗教家。生長の家第2代総裁。生長の家創始者・谷口雅春の娘婿。実父はかつて裁判官をしていた荒地清介、実母は荒地多加代。 広島県広島市出身。東京帝国大学文学部心理学科卒業後、戦争の激化で軍役に就くものの、すぐ肺を病み療養のため病院に入院。そこで相部屋の上等兵より谷口雅春の『生命の實相』を見せられ、その教えに感動する。 終戦後、「万教帰一」を唱える雅春は、GHQの厳しい思想統制に対して西洋の光明思想を翻訳・紹介する文筆活動を開始、その翻訳助手を募集する広告を新聞に掲載。それを見た荒地清超はすぐに上京し、谷口宅を訪問。
副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)… 副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)は、昭和・平成時代の神職、政治活動家。明治神宮権宮司。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両団体の初代事務総長を務め、日本会議に連なる保守運動に挺身した。 広島県広島市生まれ。佐賀藩の須古鍋島家の家臣の副島家に生まれる。父親の副島知一は副島家第13代に当たる。1934年、國學院大學神道部を卒業した。 熊野那智大社、坐摩神社に勤めたのち、1940年に明治神宮に入った。1945年4月の空襲で本殿が焼失すると、戦後、御社殿の戦災復興募金活動や御社殿の復興に尽力したとされる。明治神宮の権宮司をつとめるとともに明治神宮崇敬会の事務局長、理事長、副会長として組織の発展に貢献した。
沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 199… 沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 1994年5月5日)は、宗教家、仏教伝道者。実業家、「ミツトヨ」創業者。 広島県賀茂郡志和町(現・東広島市志和町)の浄土真宗本願寺派・浄蓮寺の三男に生まれ、京都平安中学(現・平安高等学校)に学ぶ。卒業後、本山である西本願寺から派遣され1915年、仏教布教のため19歳で渡米。ハリウッド・ハイスクールとカリフォルニア大学バークレー校(UCB)で数学を4年、さらに同校大学院で経済学(統計経済、景気変動学)を学ぶ。「今でこそ日米は平等に扱われているが、当時は日本人は犬猫のようだった」と奮起、学業と平行して米国人に仏教文化を伝えたいと英文雑誌「ザ・パシフイック・ワールド」を創刊。
浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年1… 浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年12月5日〉 - 1892年〈明治25年〉12月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。 天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。
鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11… 鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11年1月1日) - 1904年(明治37年)6月18日)は、幕末・明治期の宗教家である。備後国出身であり、曹洞宗の僧侶として全昌寺・孝顕寺・清凉寺住職を歴任した。明治期には仏教の改革運動に取り組み、仏僧の肉食妻帯を認めさせた。その後、還俗し神職となった。大教院長。御嶽教2代管長。禅僧としては鉄面清拙とも名乗り、ほかに江湖翁の号も用いた。 文化11年1月1日(1814年2月20日)、備後国因島に誕生。俗姓は宮地。父親は宮地長光(与三兵衛)、母親は木原氏の某。幼名は不明。雪爪は次男であり、兄に松之助、弟に与三兵衛秀明がいた。鴻が自ら記すところによれば、宮地氏は醍醐天皇の皇子である源高明に系譜を遡ることができる家柄であり、氏は保安年間に備中宮地荘を賜ったことに由来するという。