西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 -… 西谷 三四郎(にしたに さんしろう、1914年8月24日 - 1994年1月25日)は、日本の精神医学者。 徳島県阿波市生まれ。旧姓・吉田。1943年千葉医科大学卒業、1950年学位論文「頭部通電の重積による精神障碍の研究」で金沢大学より医学博士の学位を取得。 金沢大学医学部助手、1948年国立金沢病院精神科医長、1959年東京教育大学教授、筑波大学教授、1978年定年退官、東京教育大学名誉教授、1981-85年文教大学教授。1963年11月に榊原清、尾島碩心らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - … 高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - 1993年(平成5年))は、日本の昆虫学者。徳島県徳島市出身。田宮尋常小学校(現徳島市立千松小学校)、旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)、東京農業大学卒業。 徳島県加茂村矢三に4男として生まれる。鳴門市の親族の家の養子となり、1933年(昭和8年)に旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)を卒業。同級生に植物研究家・高知女子大学元教授の赤沢時之がいる。 昆虫館系雑誌「昆蟲界」に、「吉野川下流地方の昆虫相(1)~(完)」(1933年-1937年)を報告し、徳島県内の昆虫約700種を記録・報告した。 1937年(昭和12年)に東京農業大学を卒業。
千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月1… 田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月12日 - 1991年(平成3年)10月21日 )は、日本の法学者。一橋大学名誉教授。法学博士。専門は公法学(憲法・比較憲法・行政法)。キリスト教徒であったが、キリスト教徒の殉職自衛官の訴訟では国側の証人として、宗教上の人格権を否定した。美濃部達吉門下。弟子に長谷川正安、杉原泰雄、山内敏弘など。 1907年(明治40年)1月12日、静岡県三島市に生まれる。1923年(大正12年)、徳島県立徳島中学校卒業。1927年(昭和2年)、第一高等学校文科乙類卒業。1929年(昭和4年)12月、高等試験司法科合格。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業。
阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 -… 阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 - 1979年(昭和54年)5月24日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。工学博士。京都大学名誉教授。 徳島県徳島市蔵本元町に生まれる。徳島県立徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)、第六高等学校を経て京都帝国大学工科大学電気工学科に入学。1918年(大正7年)同校を卒業後、財団法人青柳研究所(現:公益財団法人応用科学研究所)に入る。のち京都大学講師、助教授を経て1940年(昭和15年)教授となった。この間の1935年(昭和10年)に学位論文「特別高圧回路自働遮断器」により 工学博士 (京都帝国大学)の学位を取得している。1955年(昭和30年)退官後は、同志社大学工学部教授、日本放送協会経営委員会委員などを歴任した。
那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日… 那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉10月20日)は、日本の東洋史学者、文学博士、京都大学名誉教授。誠軒と号す。 1890年、徳島県徳島市生まれ。生家は江戸初期以来の藩儒の家柄。11代前の那波道円(号は活所、1595年-1648年)は紀州藩に仕え、道円の子の那波元成(号は木庵、1614年-1683年)には『老圃堂詩集』の著書がある。5代前の那波師曾(字は孝卿、号は魯堂、1727年-1789年)は春秋の学を修め、『左伝標例』の著書があり、阿波藩に使えた。以後、那波家は、利貞の父、那波韋(字は緩卿、号は蜆北)まで、代々阿波藩に藩儒として仕えた。 1898年(明治31年)、利貞が8歳の時、父の韋が亡くなり、利貞は母の旧姓多賀氏より経学の教えを受けた。
黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治2… 黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治20年〉10月20日 - 1974年〈昭和49年〉12月2日)は、日本の農学者。徳島県松茂町出身。東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 大阪府や神奈川県の農事試験場長などを歴任し、1929年(昭和4年)に千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に宇都宮高等農林学校校長に就任。1947年(昭和22年)9月4日、昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に学校の概況を奏上した。1948年(昭和23年)に旧制香川県立農業専門学校の校長に就任。その後、香川大学農学部の初代学部長となる。1953年(昭和28年)に香川園芸研究協議会の初代会長に就任。
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kud… リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kudo, 1886年7月25日 - 1967年6月3日)は、アメリカ合衆国の原生動物学者。日本の徳島県出身で工藤 六三郎(くどう ろくさぶろう)といったがアメリカに帰化した。農学士、理学博士。
笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22… 笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22日 - 1956年(昭和31年)1月10日)は、日本の教育家・古代史家・郷土史家・考古学者。号は無何有郷人、神也。内藤湖南・高橋健自に続いて邪馬台国大和説を提唱し、他に倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼とする説や、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説を提唱した。叙正六位、勲六等瑞宝章受章。 1884年6月22日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平・アイ夫妻の長男として生まれる。 脇町尋常小学校、脇町高等小学校、徳島県立脇町中学校を経て、1902年9月に國學院大學に入学する。1905年に特待生に選ばれ、1906年7月、國學院大學高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業する。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
石川 美子(いしかわ よしこ)は、日本のフランス文学者、明治… 石川 美子(いしかわ よしこ)は、日本のフランス文学者、明治学院大学名誉教授。専門はロラン・バルト研究、風景画論、自伝研究。 徳島県板野郡藍住町出身。徳島県立城南高等学校から京都大学文学部フランス文学科、東京大学大学院人文社会系研究科を経てパリ第7大学で博士号を取得。専修大学助教授を経て、2001年より明治学院大学文学部フランス文学科教授。 20世紀フランスの哲学者で批評家、ロラン・バルトを中心に現代批評、自伝文学、旅行記、風景画に関しての著作、翻訳を手がけている。
有井 進斎(ありい しんさい)は幕末、明治の儒学者。徳島藩寺… 有井 進斎(ありい しんさい)は幕末、明治の儒学者。徳島藩寺島学問所素読方、長久館助教授、長崎師範学校(1874-1878年)教諭、陸軍参謀本部編纂課雇員、東京府師範学校兼中学校教官。 天保元年(1830年)阿波国徳島に生まれた。 那波鶴峰に業を受け、小出兼政に算術、岩本贅庵に経書、史書を学び、寺島学問所素読方、西の丸長久館助教授を務めた。履歴書によれば、明治元年(1868年)11月12日徳島藩町学校長、明治2年(1869年)10月15日学校洋書局一等助教、明治3年(1870年)6月1日漢学校教授となっている。 長崎師範学校(1874-1878年)教員を命じられた門弟岡本韋庵に代わりを依頼され、明治4年(1871年)6月教員、明治5年(1872年)6月文部省十等出仕、8月教諭となった。
垣塚 彰(かきづか あきら)は日本の生物学者(細胞生物学、分… 垣塚 彰(かきづか あきら)は日本の生物学者(細胞生物学、分子生物学)。学位は医学博士(京都大学)。2024年3月末にて京都大学大学院生命科学研究科を定年退職。同年4月から京都大学大学院医学研究科 研究員。元京都大学大学院生命科学研究科所長。京都大学名誉教授。 専門は生物学であり、特に分子生物学、細胞生物学といった分野の研究に従事。神経変性疾患などの難治性疾患に関する研究で知られる。マチャド・ジョセフ病は原因遺伝子から作られる異常タンパク質が凝集して発症することを明らかにするなど、ポリグルタミン病研究に貢献した。マチャド・ジョセフ病の発症メカニズムの解明が評価され、2002年にベルツ佳作賞を受賞。
鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、新字体:鳥居竜蔵、旧字体: … 鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、新字体:鳥居竜蔵、旧字体: 鳥居龍藏)、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者、民族学者、考古学者。 1870年(明治3年)、徳島の新町橋近く(現在の徳島県徳島市東船場町)にある煙草問屋に生まれる。 実家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた。 1876年(明治9年)、観善小学校(現・徳島市新町小学校)に入学したが、学校になじめず家に逃げ帰ることも多かった。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている。
鳴門 義民(なると よしたみ)は、明治時代の英学者、農政官僚… 鳴門 義民(なると よしたみ)は、明治時代の英学者、農政官僚。阿波国美馬郡出身。江戸で大木忠益に蘭学、横浜で外国人に英語を学び、神奈川奉行所に勤務した。東京に英学塾を開いた後、農業行政に転じ、全国でメイガの駆除法を指導した。晩年芝区会議員。 天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた。幼名は次郎、後に次郎吉。 佐々家口伝によれば、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという。