芝田 貴臣(しばた たかのり、1980年8月12日 - )は… 芝田 貴臣(しばた たかのり、1980年8月12日 - )は、長崎県出身のサッカー指導者。 はり師、きゅう師の資格を持っている。明治大学体育会サッカー部のトレーナー時代には長友佑都らを体幹トレーニングで鍛えた。 2007年からはサガン鳥栖のフィジカルコーチを務め、2010年岸野靖之と共に横浜FCへ移った。 2015年、カターレ富山フィジカルコーチに就任。シーズン終了後に契約満了をもって退団。 2016年、松本山雅FCアカデミーフィジカルコーチに就任。
櫻井 庄吾(さくらい しょうご、1979年6月23日 - )… 櫻井 庄吾(さくらい しょうご、1979年6月23日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者。旧姓元田(もとだ)。現役時代のポジションはGK。奈良県出身。 父は元プロ野球選手の元田昌義。 長崎県立国見高等学校から関西学院大学を経て、一般企業に就職したがサッカーへの夢を捨てきれず、SC鳥取のセレクションを受ける。練習生として2ヶ月ほど帯同した後、正式契約。主力として2年間プレーしていたが、家庭の事情により退団し地元・奈良のクラブへ移籍した。都築龍太は高校の1年先輩。 古巣・高田FCで1シーズン過ごした後にスタッフへ転身を果たし、2006年から高田FCで指導者を始め2008年から高田FC女子部門の監督を務めた。
百武 義成(ひゃくたけ よしなり、1977年11月21日 -… 百武 義成(ひゃくたけ よしなり、1977年11月21日 - )は、長崎県東彼杵郡川棚町出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。セレッソ大阪に所属していた。 川棚小学校でサッカーを始め、その恵まれた体格でメキメキと実力を発揮し当時のライバルでもあった石木小学校、小串小学校からも注目を浴びた。川棚中学校に進学して2年でレギュラーを掴みチームに貢献した。同中学は長崎県ではベスト4に入る程の強豪であった。3年時に長崎県立国見高等学校の小嶺忠敏監督の目に止まり、熱心な勧誘を受けた後に国見高校へ進学した。国見高校では船越優蔵、河口真一と共に国見山脈と呼ばれ、セットプレーでは相手チームの脅威であった。
山口 哲治(やまぐち てつはる、1977年9月8日 - )は… 山口 哲治(やまぐち てつはる、1977年9月8日 - )は、長崎県出身の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 1996年にサンフレッチェ広島に入団。同期は、服部公太、影山貴志、金本圭太、高田純、松永一慶、秋満勝二、上田実。当時GKには前川和也、河野和正、下田崇といたため、出場機会はまったく与えられなかった。 1999年からはサガン鳥栖へ移籍。3年目にはレギュラーポジションを奪うも、家庭の事情で2002年末に引退した。 引退後は、地元諫早市にて飲食店経営。 長﨑に帰郷後、母校でもある長崎県立諫早商業高等学校サッカー部の指導をし、長崎県の国体チームのGKコーチとして活躍。長崎県サッカー協会一種技術委員長として、長崎県内のサッカー普及活動を行っている。
宮崎 健治(みやざき けんじ、1977年6月24日 - )は… 宮崎 健治(みやざき けんじ、1977年6月24日 - )は、福岡県出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 国見高校、関西学院大学を卒業後、2000年にJ1リーグの京都パープルサンガに加入。1年目の開幕戦でデビューし、18試合に出場した。しかし、クラブはJ2リーグに降格。2001年は4試合に出場、シーズン終了後に退団した。
髙木 成太(たかき なりた、1977年4月5日 - )は、長… 髙木 成太(たかき なりた、1977年4月5日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 プロ選手としてのキャリア後半はDF登録であったが本来はMFであり、J1、J2では主にボランチで起用された。 1993年長崎県立国見高校に入学。全国高等学校サッカー選手権大会に2度(第73回 (1994年)、第74回 (1995年))出場したが、第73回は3回戦、第74回は2回戦で敗退した。なお、同級生に船越優蔵、松本磨、百武義成などがいる。 ブレイズ熊本所属時にASAYANのJリーガーオーディションで落選したが、これがきっかけのひとつとなりヴェルディ川崎に入団した。 横浜FC草創期のメンバーで、JFLからJ2への昇格を果たした時の中心選手。
中島 豪(なかしま たけし、1976年1月15日 - )は、… 中島 豪(なかしま たけし、1976年1月15日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手。ポジションはDF。日本サッカー協会公認B級コーチ。 1994年にはアジアユース・インドネシア大会で日本代表の準優勝に貢献。 1994年9月に早稲田大学から浦和レッズに加入。3シーズンで19試合に出場した。1997年にアビスパ福岡に移籍した。 現在は福岡県飯塚市のユースクラブ「ライジングスターズ」の監督として後進の指導にあたる。サッカー選手の中島大嘉は甥。
大久保 誠(おおくぼ まこと、1975年5月3日 - )は、… 大久保 誠(おおくぼ まこと、1975年5月3日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者。長崎県出身。現・BRISTOLサッカースクール代表。 福岡大学在学中の1997年にはユニバーシアード代表シチリア大会の日本代表に選ばれている。 大学を卒業後1998年にサンフレッチェ広島に加入。同期入団は、石川裕司、池端陽介、植田元輝、大畑隼哉、行友亮二、秋元雅博、山下一弥。主力として入団当初から攻撃的なMFで試合出場し、周囲にも期待されていたが、度重なる怪我に加え、その年の途中から加入した山口敏弘、翌年に加入した藤本主税のためにレギュラー確保にまでいたらなかった。2000年に怪我が原因で引退。 その後は地元へ帰っていたが、2004年から2008年まで名古屋グランパスエイト下部組織のコーチとして活躍。
永井 篤志(ながい あつし、1974年12月23日 - )は… 永井 篤志(ながい あつし、1974年12月23日 - )は、鹿児島県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。ベガルタ仙台ジュニアユース監督。 実兄は元プロサッカー選手、サッカー指導者の永井秀樹。長男はプロサッカー選手(ベガルタ仙台)の永井大義。 1992年、国見高校3年次に全国高等学校サッカー選手権大会優勝、攻撃的なMFとして活躍した。駒澤大学に入学したが中退。 1995年、静岡県藤枝市から福岡市に移転したJFL・福岡ブルックス(現アビスパ福岡)へ入団。攻撃的なMFとして同年にリーグ優勝を果たしJリーグ昇格に貢献。JFL新人王およびベストイレブンを獲得した。
上村 崇士(うえむら たかし、1973年12月2日 - )は… 上村 崇士(うえむら たかし、1973年12月2日 - )は、大阪府出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。 長崎県立国見高等学校2年次に頭角を現し、1990年夏の全日本ユース選手権で活躍。これが関係者の目に留まり日本ユース代表に選出された。また同年には控え選手として高校選手権制覇を経験、翌1991年にはレギュラーの座を掴み高校選手権ベスト4進出に貢献した。 卒業後の1992年にJリーグの横浜フリューゲルスに入団するが(同期には前園真聖ら)、出場機会は少なく、複数のクラブを渡り歩いた。 2008年にジェフユナイテッド市原・千葉レディースの監督へ2度目の就任。この年ディビジョン2で優勝し、クラブをディビジョン1昇格へと導いた。
路木 龍次(みちき りゅうじ、1973年8月25日 - )は… 路木 龍次(みちき りゅうじ、1973年8月25日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手(DF)。左サイドのスペシャリスト。元日本代表。実兄は路木健。 国見高から1992年にサンフレッチェ広島に入団。同期には吉川公二がいる。当初は左サイドバックとして片野坂知宏の控えであったが、徐々に成長し出場機会を得出す。ビム・ヤンセンが監督に就任したプロ3年目の1995年からレギュラーを獲得した。3-4-3の左ウイング・左サイドハーフ、あるいは3-5-2の左ウイングバックとして活躍、ピーター・ハウストラとのコンビでチャンスを量産した。[要出典]1996年にはアトランタ五輪代表レギュラーを務め、アトランタオリンピックの対ブラジル戦では、GKとDFの間にクロスを上げ、伊東輝悦の得点をアシスト、マイアミの奇跡を演出した。
塚本 秀樹(つかもと ひでき、1973年8月9日 - )は長… 塚本 秀樹(つかもと ひでき、1973年8月9日 - )は長崎県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。Jリーグのアビスパ福岡に所属していた。 明治大学卒業後の1996年よりアビスパ福岡に入団。控えGKの佐野友昭に出場機会を与えることがありながらも正GKを務めた。1999年に小島伸幸が入団すると控えに回ることとなり、自身の怪我もあり、2年連続でリーグ戦出場なしに終わった。2000年シーズンオフには、横浜F・マリノスの榎本達也の獲得が濃厚だったこともあり、一旦は戦力外通告を受けたものの、榎本の獲得が失敗に終わったこともあってか、結果的にチームに残留した。2001年は後半戦に出場機会を増やしたものの、チームはJ2に降格。
長峯 宏範(ながみね ひろのり、1973年5月12日 - )… 長峯 宏範(ながみね ひろのり、1973年5月12日 - )は、宮崎県出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。 国見高校、関西大学を経て、1996年に京都パープルサンガに入団、試合出場は途中出場1試合で、その年に退団した。
路木 健(みちき けん、1972年10月16日 - )は、長… 路木 健(みちき けん、1972年10月16日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。実弟は路木龍次。現在は京都サンガF.C.スタッフ。 現役時代はドリブルによるサイドの突破が魅力のミッドフィールダーであった。 国見高校3年時に全国高等学校サッカー選手権大会優勝、大会優秀選手にも選ばれた。 1991年にマツダSC(現、サンフレッチェ広島)に入団。同期は森山佳郎、森秀昭、柳本啓成、笛真人、松山大輔、小倉一浩がいる。その後引き続き、サンフレッチェ広島にも在籍したが、トップ出場はなし。 1993年に京都パープルサンガ(現、京都サンガF.C.)に移籍、2年間プレーしたあと1995年に現役引退。
森 秀昭(もり ひであき、1972年10月16日 - )は、… 森 秀昭(もり ひであき、1972年10月16日 - )は、長崎県諫早市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現FCバイエルン・ツネイシU-13コーチ。 1991年にマツダSCに入団。同期は森山佳郎、柳本啓成、笛真人、路木健、松山大輔、小倉一浩。しかし、トップチームであるマツダSCでの出場機会はなく、サテライトチームであるマツダSC東洋での出場のみだった。サンフレッチェ広島設立とともにプロ契約。1995年にビム・ヤンセン監督によってレギュラーに抜擢されるも、翌1996年は怪我もあり出場は無かった。 同年途中にアビスパ福岡へ移籍すると、レギュラーとして活躍。1998年にはJ1参入決定戦にも出場し、得点した。
内田 利広(うちだ としひろ、1972年8月12日 - )は… 内田 利広(うちだ としひろ、1972年8月12日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(守備的MF)。 小学生時代に多比良少年団で全日本少年サッカー大会準優勝、中学時代に国見中学で全国中学校サッカー大会準優勝、高校時代に国見高等学校で全国高校サッカー選手権大会優勝の実績を持つ。またU-17サッカー日本代表やバルセロナ五輪予選代表にも選出されている。 1995年に入団した名古屋グランパスエイトでは1試合の出場に留まったが、1997年に移籍したセレッソ大阪では運動量の多い、いぶし銀のボランチとして66試合に出場した。 現役引退後はセレッソ大阪ユースのコーチを経て、2003年以降は国見町(現:雲仙市)役場に勤務している。
原田 武男(はらだ たけお、1971年10月2日 - )は、… 原田 武男(はらだ たけお、1971年10月2日 - )は、佐賀県出身の元サッカー選手・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはMF、DF。 小学校3年生のときに兄二人の影響でサッカーを始める。鹿島東部中学校を経て、高校は長崎県の国見高校に進む。1年次に全国高校サッカー選手権に優勝、3年次はチームの主将を任される。進学した早稲田大学では、4年次に第42回全日本大学サッカー選手権大会で優勝、原田は5得点をあげて最優秀選手賞を受賞した。大学での同期に相馬直樹がいる。大学時代にはユニバーシアード日本代表、オリンピック日本代表に選出され、バルセロナ五輪アジア予選に出場。1991年には日本代表に召集され、試合出場はなかったが韓国代表との国際Aマッチにベンチ入りした。
永井 秀樹(ながい ひでき、1971年1月26日 - )は、… 永井 秀樹(ながい ひでき、1971年1月26日 - )は、大分県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。 元サッカー選手、サッカー指導者の永井篤志は実弟である。 三浦知良に抜かれるまでのJFL最年長得点記録を持っていた。 長崎県立国見高校を卒業後、国士舘大学に入学しバルセロナオリンピック最終予選に出場するも、本大会の出場権を取れなかったことで大学を中退し、1992年にヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)に入団。 1995年にジャパンフットボールリーグの福岡ブルックス(現・アビスパ福岡)、1996年に清水エスパルスに期限付き移籍後、翌年にV川崎に復帰。その後翌1998年に横浜フリューゲルスに完全移籍。
山木 勝博(やまき かつひろ、1970年4月16日 - )は… 山木 勝博(やまき かつひろ、1970年4月16日 - )は熊本県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 長崎県立国見高等学校では1学年上に二宮浩や吉田裕幸、同期に永井秀樹、1学年下に原田武男らがいる。2年時の高校総体では準優勝。冬の高校選手権(第66回)では、決勝の東海大学第一高校戦において決勝点となるボレーシュートを決め、同校の初優勝に貢献した。大会後には優秀選手に選ばれ、日本高校選抜の欧州遠征に参加した。3年時の高校選手権(第67回)ではベスト8に終わったが前年に続き優秀選手に選ばれた。 高校卒業後に駒澤大学へ進学したが、その後中退し、1992年に日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団に加入。
吉田 裕幸(よしだ ひろゆき、1969年11月25日 - )… 吉田 裕幸(よしだ ひろゆき、1969年11月25日 - )は、長崎県出身のサッカー指導者、元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 Jリーグ昇格後はファネンブルクの控えに回ったが、旧JFL時代は背番号10をつけたこともある選手。現役を引退後、静岡県の芥田学園高等学校の体育教員となる。その後、2006年に大分トリニータU-18コーチに就任し、U-15監督、U-18監督と2010年までの5年間で3職に携わった。 2011年にベガルタ仙台へ移り、同年はジュニアユースコーチ、翌2012年から2016年までジュニアユース監督を務めた。2020年までアカデミーダイレクター補佐兼アカデミースカウトを務め、ベガルタ仙台を退団した。
立石 敬之(たていし たかゆき、1969年7月8日 - )は… 立石 敬之(たていし たかゆき、1969年7月8日 - )は福岡県北九州市出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 学生時代は、響南中学校で全国3位、国見高校で総体準優勝、1987年度の選手権では、同期のFW二宮浩及び一学年下のMF永井秀樹と共にチームの軸となり決勝戦の無失点勝利に貢献して優勝を果たすなど活躍。創価大学に進むとブラジルやアルゼンチンへの留学で経験を積んだ。 大学卒業後はブラジルのECノロエスチでプレーし、後にベルマーレ平塚、東京ガス(後のFC東京)、大分トリニータと旧JFLでプレー。東京ガスでは岡島清延とドイスボランチを形成し活躍。大分では現役引退後もコーチや強化部長などを歴任、トップ強化とユース育成を同時進行で進める。
中尾 幸太郎(なかお こうたろう、1969年6月8日 - )… 中尾 幸太郎(なかお こうたろう、1969年6月8日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはDF。 国見高校、大阪商業大学を経て、川崎製鉄サッカー部(後のヴィッセル神戸)に入部。1997年には川崎製鉄時代から3人目の生え抜き選手としてJリーグのピッチに立った(他の2人はGKの兼本正光とDFの梶山洋一である)。 ヴィッセルを退団後は佐川急便で働きながら佐川系のサッカークラブを転々。2005年に佐川急便京都サッカー部の選手兼任監督に就任するも、同年限りでサッカー部の廃部が決定。2006年からは佐川急便京都サッカー部を母体として滋賀県に移転したFC Mi-Oびわこ(現・レイラック滋賀FC)にて選手兼任監督を務めた。
矢野 由治(やの よしはる、1969年5月18日 - )は、… 矢野 由治(やの よしはる、1969年5月18日 - )は、長崎県長崎市出身のサッカー指導者。 1989年に早稲田大学へ進学。ア式蹴球部に所属し、3年時からは関塚隆の下でプレー。同大学大学院へ進学し、在学中からフィジカルコーチを務めるようになった。大学院修了後にはブランメル仙台で指導。 1997年に東京ガスフットボールクラブ(後にFC東京)のフィジカルコーチに就任。10年間に渡って同クラブでの選手強化に尽力した。2007年限りで退任。 2006年からは、反町康治監督の下でU-23日本代表のフィジカルコーチを務め、北京オリンピックに参加した。 2009年、川崎フロンターレ監督の関塚に指名され同クラブのフィジカルコーチに就任し、2012年限りで退任。
村田 一弘(むらた かずひろ、1969年5月12日 - )は… 村田 一弘(むらた かずひろ、1969年5月12日 - )は、大分県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。 国見高校在学中の1987年に第66回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した。高校卒業後は中央大学に進学するが、父死去に伴って1年で大学を中退する。故郷の長崎に帰り、三菱重工業の下請け会社で勤務していた。また、しばらくして九州リーグの三菱重工長崎サッカー部でプレーした。 Jリーグ入りを目指していたヤンマー(現:セレッソ大阪)のセレクションを受けて合格、1993年よりヤンマーに入団した。その後、C大阪及び大分トリニータでプレーした。 2000年に現役を引退し、翌2001年からは大分で指導者としてのキャリアを開始。
二宮 浩(にのみや ひろし、1969年4月11日 - )は、… 二宮 浩(にのみや ひろし、1969年4月11日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(FW)。 小学校3年生の時にサッカーを始める。1985年に進学した国見高校では同期の立石敬之、塚本明正、村田一弘、中尾幸太郎、吉田裕幸と共に2年次に高校選手権準優勝、3年次に優勝を経験。 筑波大学を経て、1992年に浦和レッドダイヤモンズに入団。Jリーグ開幕年である1993年には故障者が相次いだため出場機会を掴み17試合に出場したが、高校時代に見せた突破力溢れるドリブルからのチャンスメークは影を潜め、Jリーグの屈強なDF相手に苦戦した。 1995年、関東リーグ・プリマハムFC土浦(後の水戸ホーリーホック)へと移籍。
其田 秀太(そのだ しゅうた、1969年2月6日 - )は、… 其田 秀太(そのだ しゅうた、1969年2月6日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF)。 国見高等学校3年時の高校総体で初優勝、冬の高校サッカー選手権で準優勝に貢献。 卒業後の1988年に日本サッカーリーグ1部の全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団し中心選手として活躍するが、1991年から就任した加茂周監督の掲げたゾーンプレス戦術の中では出場機会を失う。 1994年にジャパンフットボールリーグ所属の藤枝ブルックス(現在のアビスパ福岡)へ移籍。翌1995年のジャパンフットボールリーグ制覇とJリーグ昇格に貢献した。
森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、… 森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、静岡県掛川市生まれ、長崎県長崎市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。日本代表監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。 静岡県掛川市で生まれたが、父親が造船関係者だったため、幼少期から名古屋市、横須賀市、佐賀県唐津市と各地を転居し、唐津市立鏡山小学校に入学するもすぐに転居。小学1年生から長崎市に定住する。自身では「長崎生まれ広島育ち」を自称する。 サッカーを本格的に始めたのは小学6年生の時で、それまでは少年野球をしており、プロ野球選手になることが夢だった。小学6年のサッカークラブチーム「土井首SSS(土井首サッカースポーツ少年団)」時代に第4回全日本少年サッカー大会にGKとして出場している。
小島 光顕(こじま みつあき、1968年7月14日 - )は… 小島 光顕(こじま みつあき、1968年7月14日 - )は長崎県出身の元サッカー選手(MF、DF)、サッカー指導者。 東京農業大学卒業後、当時日本サッカーリーグ2部の富士通に加入し、1993年Jリーグ開幕にあわせてサンフレッチェ広島に移籍。記念すべきJリーグ開幕戦に出場、決勝点を決める。本来守備的なMFであったが、そのユーティリティー性をかわれDFや右ウイングなどでも活躍した。1999年出場機会と他チームでのプレー経験を求めアビスパ福岡移籍。ここではセンターバックとして活躍したが、若返りの煽りを受け、戦力外通告により2002年に引退 2005年7月末、神奈川県相模原市にて、整体・リフレクソロジーサロンを開業。
赤澤 昌美(あかざわ まさみ、1968年5月5日 - )は、… 赤澤 昌美(あかざわ まさみ、1968年5月5日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(DF)。 国見高等学校3年生だった1986年度、高校総体の同校初優勝、冬の高校サッカー選手権の準優勝に貢献。 卒業後は、順天堂大学に進む。 その後、住友金属工業蹴球団に入団し、そのまま鹿島アントラーズに1992年と1993年の2シーズン在籍したがJリーグ発足後にトップチームでの出場機会はなかった。 1994年、コスモ石油サッカー部に移籍。 引退後は、会社員として働きながら、FMかしまのアントラーズ・スピリッツ(水曜日午後6時から午後7時)のサッカーコメンテーターをつとめる。 2022年4月から、かみす防災アリーナの定期教室「大人の室内サッカー(ビギナー)」で指導者をつとめる。
岩本 文昭(いわもと ふみあき、1968年4月23日 - )… 岩本 文昭(いわもと ふみあき、1968年4月23日 - )は、長崎県長崎市(旧香焼町)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 国見高校時代のポジションはMF。小嶺忠敏に師事し、3年時にインターハイを制覇し、冬の全国高校サッカー選手権では初出場で準優勝。チームメイトには赤澤昌美、其田秀太、小島光顕がいた。ちなみに、1学年上には、元日本代表FWの高木琢也がいた。 駒澤大学卒業後は地元に帰り長崎銀行に入行、県リーグの有明SCと国見FCでプレーした。2004年3月、有明SCと国見FCが合併し、新生有明FCが発足、コーチとして植木総司監督を支え二人三脚で九州リーグ昇格を決めた。クラブがV・ファーレン長崎に改称した2005年にトップチームの監督に就任した。
古島 清人(ふるしま きよと、1968年4月3日 - )は、… 古島 清人(ふるしま きよと、1968年4月3日 - )は、日本の熊本県八代市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サッカー選手の古島圭人は息子。 小学生時代・中学生時代から全国的に注目されていた大型GKであった。国見高校卒業後、当時日本サッカーリーグのフジタ工業クラブへ加入。Jリーグ開幕の際、プロ化したフジタの後身のベルマーレ平塚では名良橋晃、岩本輝雄、エジソンらとJリーグ昇格に大きく貢献。昇格した1994年は小島伸幸にポジションを奪われ、1996年にはアビスパ福岡に移籍した。 引退後は大宮のコーチなどを歴任。2016年に河北華夏幸福のGKコーチに就任。
前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は… 前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は、長崎県平戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。元日本代表。 現在はFCバイエルン・ツネイシ監督を務める。 長男は前川黛也。父同様サッカー選手かつ、GKとしてプレーしている。 現役時代は、大きな体格を活かしたセービングを得意とした。特に相手との1対1の場面でのセービングに定評があり、絶妙な飛び出しで何度もチームを危機から救った。シュートに対する反応はもとよりPKにも強く、またハイボールの処理も巧みにこなした。その様は「生きている壁」と形容された。人柄もサポーターから愛され、広島退団時には涙を流すサポーターもいた。
高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は… 高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表。大阪商業大学卒業。Jリーグ・V・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)および監督を務める。 家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥。 現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ、ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった。
植村 修一(うえむら しゅういち、1966年12月3日 - … 植村 修一(うえむら しゅういち、1966年12月3日 - )は、日本長崎県出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 トヨタ自動車、京都紫光/京都パープルサンガなどでプレー、京都パープルサンガがJリーグに昇格した1996年に引退した。
勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、… 勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF。元サッカー日本代表。元フットサル日本代表。 島原商業高校時代は全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。大阪商業大学を経て、本田技研工業に入社。センターバックとして活躍すると、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選、香港戦でAマッチ初出場。アジア地区最終予選の韓国戦の第2戦にも出場したが、0-1と破れワールドカップ出場はならなかった。1987年にはソウル五輪のアジア地区最終予選まで進出したが、最終戦で中国に敗れ敗退。以降は代表を遠ざかったが、1991年に日産自動車へ移籍し存在感を発揮すると、新たに代表監督に就任したハンス・オフトによって代表に復帰。
森 正明(もり まさあき、1961年7月12日 - )は、長… 森 正明(もり まさあき、1961年7月12日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、政治家。自由民主党所属の神奈川県議会議員(6期)。 福岡大学を卒業後にフジタ工業に入団。1988年5月29日のCRフラメンゴ戦でサッカー日本代表として初めて出場した。 1999年に自由民主党公認で神奈川県議会議員選挙(平塚市選挙区、現在は6期目)に当選し、2016年5月から2017年5月までは同議会議長を務めた。フジタ工業を前身とする湘南ベルマーレの試合やイベントにも度々顔を見せている。
松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎… 松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎県長崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(S級指導者ライセンス所持)。 高校時代は長崎県立長崎北高等学校でプレーする。ちなみに小林伸二(長崎県立島原商業高等学校卒)は同県出身の同い年である。 筑波大学時代の1年後輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼、2年後輩に小野剛がいる。交換留学の1期生としてブラジルにサッカー留学も経験した。1984年に望月らとともにマツダへ入社した。 マツダSC(現 サンフレッチェ広島F.C)に入団、当初は恵まれた体格からFWとして起用されていたが、コーチにハンス・オフトが就任するとCBに固定される。その後は信藤克義(信藤健仁)とコンビを組み、1987年天皇杯決勝進出、1989年-1990年のJSL2部ベスト11、2度のJSL1部昇格を経験した。
小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は… 小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現AC長野パルセイロ監督。 中学3年の時に島原商業高の小嶺忠敏監督が自宅に直々に勧誘に来たことがきっかけで同校に入学し、雨や台風でも休みなしで練習、練習後に12kmのコースを走らされることもあった。1年次の1976年からFWとして頭角を現し、2年次の1977年にはインターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。元々はサッカーは高校までで終え、卒業後は両親が国見町(現・雲仙市)で営む家業の菓子店を継ぐための修行に入るつもりであったが、小嶺の影響により指導者を志し、1979年に大阪商業大学へ入学。
中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )… 中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )は、長崎県島原市出身の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。 現周南公立大学サッカー部監督。 島原商業高校では小嶺忠敏から指導を受け、大阪商業大学では上田亮三郎から指導を受けた。どちらもミッドフィルダーとしてプレーした。 1981年大学卒業後、マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部(マツダSC、現在のサンフレッチェ広島)に入団した。ディフェンダー(サイドバック)として信藤克義(信藤健仁)や松田浩らとDFラインを形成、高校・大学の後輩にあたる小林伸二や、高橋真一郎・猿沢茂・木村孝洋ら地元広島出身者、ディド・ハーフナーら外国人らとプレーした。
横山 正文(よこやま まさふみ、1956年4月10日 - )… 横山 正文(よこやま まさふみ、1956年4月10日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはFW(ウインガー)。長崎県出身。 島原工業高校卒業後、日本サッカーリーグ1部の新日本製鐵サッカー部に入部。中心選手として活躍したが、かつての強豪も1970年代以降は低迷を続けており、タイトルに縁は無かった。また同サッカー部は1982年に2部へ降格したが、移籍する事なくプレーを続行。 1983年からは主将を務め、1986-1987年はコーチ兼任選手としてプレーした。 日本代表では、川渕三郎監督時代のモスクワオリンピックアジア予選、ワールドカップ・スペイン大会アジア予選(ともに1980年)でウイングのレギュラーとして全試合に出場。
坪田 和美(つぼた かずみ、1956年1月23日 - )は、… 坪田 和美(つぼた かずみ、1956年1月23日 - )は、長崎県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 法政大学から1979年にヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)へ入る。入部前から「大学ナンバーワンGK」との呼び声も高く、前年に入団していたユース代表・鈴木康仁とポジション争いを演じ、1980年から翌年にかけては二人そろって日本代表に選出されていた。1980年、前年に退部した垣内輝久から背番号1を受け継ぐと、1981年からは鈴木を退け6年連続で全試合出場し、不動のヤンマーの守護神となった。 1992年に引退後はC大阪コーチ、サガン鳥栖ヘッドコーチを経て、2003年からアイン食品サッカー部監督、2007年度からグランセナ新潟FCの監督に歴任。
小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 20… 小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 2022年1月7日)は、日本の元高校教員、サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。 長崎県南高来郡堂崎村(後の有家町、現在の南島原市)出身。父親は生前に太平洋戦争で戦死したため母子家庭(7人兄弟)で育ち、一家は農業で生計を立てていた。中学(堂崎中学)時代はバレーボール部に所属。長崎県立島原商業高校入学後よりサッカー部に所属し、3年時には主将を務め、九州選抜チームにも選出された。 高校卒業後は家庭事情から就職する予定であったが大阪商業大学からのスカウトもあり同大学に進学してサッカー部に所属。