赤星 慶治(あかほし けいじ、1950年(昭和25年)9月2… 赤星 慶治(あかほし けいじ、1950年(昭和25年)9月23日 - )は、日本の海上自衛官。第29代海上幕僚長。熊本県出身。 哨戒機PS-1およびP-3Cのパイロット出身で、飛行時間は約4,000時間である。
熊本県:6人
赤星 慶治(あかほし けいじ、1950年(昭和25年)9月2… 赤星 慶治(あかほし けいじ、1950年(昭和25年)9月23日 - )は、日本の海上自衛官。第29代海上幕僚長。熊本県出身。 哨戒機PS-1およびP-3Cのパイロット出身で、飛行時間は約4,000時間である。
折木 良一(おりき りょういち、1950年(昭和25年)2月… 折木 良一(おりき りょういち、1950年(昭和25年)2月10日 - )は、日本の元陸上自衛官。熊本県津奈木町出身。第31代陸上幕僚長、第3代統合幕僚長。1等陸佐までの職種は野戦特科。 熊本県立八代高校を経て、1972年(昭和47年)3月に防衛大学校(第16期)を卒業し、陸上自衛隊に入隊。第3特科群長、陸幕補任課長、同装備部長を経て、 2003年(平成15年)3月に陸将に昇任、第9師団長、陸幕副長、中部方面総監の要職を歴任し、2007年(平成19年)3月、第31代陸上幕僚長に就任。2009年(平成21年)3月には統合幕僚長に就任した。統合幕僚長就任直後に発生した北朝鮮による弾道ミサイル発射実験への対処、ソマリア沖の海賊対処及び自衛隊ハイチPKO派遣並びに自衛隊南スーダン派遣の実施計画の制定し、2011年(平成23年)3月に発生した東日本大震災では、3自衛隊10万人の統合任務部隊を編成、史上初の災害派遣態勢を確立して北澤俊美防衛大臣(当時)の指揮を補佐した。
高森 直史(たかもり なおふみ、1939年(昭和14年) -… 高森 直史(たかもり なおふみ、1939年(昭和14年) - )は、海上自衛官、海軍史・海軍料理研究家、管理栄養士。本名は、日浦直史。最終階級は1等海佐。 熊本県人吉市出身。1959年(昭和34年)、佐伯栄養専門学校卒業。1960年(昭和35年)、海上自衛隊に入隊(2等海士)。1965年(昭和40年)、海上自衛隊幹部候補生学校卒業。防衛大学校教官、護衛艦補給長、航空群司令部幕僚、海上幕僚監部人事課、護衛艦隊司令部幕僚、海上幕僚監部衣糧班長、同給与班長、第4術科学校研究部長、舞鶴地方総監部経理部長を歴任。1986年(昭和61年)、1等海佐に昇任。1994年(平成6年)、退官。 旧海軍料理書から「肉じゃが」のルーツを発掘し、舞鶴や呉の町おこしに協力。
上田 泰弘(うえだ やすひろ、1916年(大正5年)11月1… 上田 泰弘(うえだ やすひろ、1916年(大正5年)11月14日 - 2013年(平成25年)12月16日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第9代航空幕僚長。 熊本県熊本市出身。1933年(昭和8年)、熊本中学四年修了で陸軍士官学校に入校。1937年(昭和12年)7月、陸軍士官学校を卒業、歩兵第16連隊附となり、日中戦争勃発とともに小隊長として出征。1939年(昭和14年)9月に第16連隊第3中隊長(中尉)としてノモンハン事件に従軍した。陸大に入ってから航空に転科し、1944年(昭和19年)9月に陸大を卒業、第51航空師団の編成主任参謀となるも翌1945年(昭和20年)に終戦を迎える。 終戦後は公職追放となり、親類が経営する会社に勤めたり、独立して雑貨商をはじめたりしたが上手くいかず、1951年(昭和26年)10月、警察予備隊に入隊、総隊総監部人事部人事班に配属された。
岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月… 岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月6日 - 1995年(平成7年)2月24日)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。 1913年(大正2年)12月6日、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年(昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。
中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25… 中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25日 - 1996年〈平成8年〉8月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将補。 1910年6月25日、熊本県に生まれる。福岡県三池中学校入学。何度も展覧会に絵を出展するなど、最初は画家志望だったが、従兄弟に勧められて海軍兵学校(第58期)を受験。1930年11月、卒業。その後の遠洋航海では船酔いして寝込み、船乗りがこれではと海軍をやめようかと思っていたところ、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という適性検査の結果を知らされ、それ以降航空畑を歩むことになる。1932年4月、少尉。 1933年11月、海軍中尉。