田浦 英理歌(たのうら えりか、2000年2月1日 - )は… 田浦 英理歌(たのうら えりか、2000年2月1日 - )は、日本の陸上競技選手、長距離走。 熊本県宇城市出身。ルーテル学院高等学校時代は全国高等学校駅伝競走大会に補欠登録で出場は叶わなかった。 高校卒業後は東洋大学に進学。1年次の全日本大学女子選抜駅伝競走大会 (富士山女子駅伝) 、2年次の全日本大学女子駅伝対校選手権大会ではともに1区を任された。同年次の富士山女子駅伝最終7区では17位で襷を受けたものの7人抜き。鈴木優花、和田有菜、真部亜樹ら有力選手を抑えて区間賞を獲得。 2022年 積水化学に入社。翌年の全日本実業団対抗女子駅伝競走大会 (クイーンズ駅伝) で1区を区間5位と好走し、チーム優勝。
堀端 宏行(ほりばた ひろゆき、1986年10月28日 - … 堀端 宏行(ほりばた ひろゆき、1986年10月28日 - )は、日本の元男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。熊本県八代市出身。189 cm・68Kg。2011年世界陸上大邱大会男子マラソン6位入賞。 2005年3月、熊本県立八代東高等学校卒業。高校時代は国体男子5000m代表として出場した事がある位の、全国的には無名の選手だった。同年4月、宮崎県延岡市拠点の旭化成に入社・陸上部に入部後、着実に力を付けた。初マラソンは2008年2月の東京マラソン男子の部で9位。 2011年3月のびわ湖毎日マラソンでは、31Kmを過ぎて今井正人と足が接触した際に大きくバランスを崩し、あわや転倒しかけるアクシデントで一旦は今井との差が開いた。
阿蘇品 照美(あそしな てるみ、1982年8月2日 - )は… 阿蘇品 照美(あそしな てるみ、1982年8月2日 - )は、日本の元陸上競技選手(長距離走)。熊本県阿蘇郡一の宮町(現・阿蘇市)出身。 一の宮町立一の宮中学校時代の1997年に第15回全国都道府県対抗女子駅伝で3区に出場、区間賞を取り、熊本県チームの優勝に貢献した。熊本信愛女学院高等学校を経て2001年に京セラに入社。長距離選手として活動した[要出典]。 2003年12月の第24回全日本実業団女子駅伝では、同じ区間(3区)を走った渋井陽子と同タイムの区間賞であった。 2005年には4月の兵庫リレーカーニバルの女子10000メートル (m)で世界陸上選手権の参加記録Aを突破する31分23秒55を記録して2位(日本人最高順位)となったが、代表選考会となる6月の日本陸上競技選手権大会では31分59秒01のタイムで8位に終わり、代表選出はならなかった。
川上 優子(かわかみ ゆうこ、1975年8月1日 - )は、… 川上 優子(かわかみ ゆうこ、1975年8月1日 - )は、1990年代後半から2000年代初期に活躍した、女子陸上競技(長距離走)元選手・指導者。キヤノンアスリートクラブ九州アドバイザー。1996年アトランタオリンピック(7位入賞)と2000年シドニーオリンピック(10位)は共に女子10000m代表として出場した。 熊本県下益城郡松橋町(現在の宇城市)出身。熊本信愛女学院高校卒業。 信愛女学院高校在学中の1991年度・1993年度には全国高校女子駅伝に出場した。1991年度の1年時は4区3kmを走り、区間6位(チームは5位)で走り、1993年度の3年時は準エース区間2区4.0975kmを走り、区間3位(チームは6位)であった。
松野 明美(まつの あけみ、本名:前田明美、1968年4月2… 松野 明美(まつの あけみ、本名:前田明美、1968年4月27日 - )は、日本の政治家、タレント、元陸上競技長距離走・マラソン選手。 1988年・ソウルオリンピック女子10000m日本代表。その後、女子マラソンでもオリンピックを目指したが、マラソンの種目で五輪代表に選出されることは一度も無かった。 選手引退後はタレント活動を経て政界入りし、熊本市議会議員(2期)、熊本県議会議員(2期)を経て、第26回参議院議員通常選挙に日本維新の会比例代表候補として出馬し当選した。 1968年、スイカ・メロンの全国一の産地である熊本県鹿本郡植木町(現:熊本市北区)の農家に生まれる。小学生の頃は無口でいじめられっ子だったが、小学校5年生の時に市内のマラソン大会で優勝。
築地 美孝(つきじ よしたか、1936年9月16日 - )は… 築地 美孝(つきじ よしたか、1936年9月16日 - )は、熊本県玉名郡長洲町出身のマラソンランナー、スポーツ指導者。 熊本県立玉名高等学校を経て、1959年、東京教育大学体育学部卒。 大学卒業後、東京急行電鉄陸上部監督を経て,東急鯱パスKK勤務の傍ら数々のマラソンランナーの育成に努める。 経歴が日本マラソンの父である金栗四三と同一である。
多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - … 多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - ?)は、日本のスポーツ黎明期の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。 熊本県生まれ。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業し、東京高等師範学校に入学。玉名中・東京高師で金栗四三の1年後輩にあたり、全盛期の金栗に鍛えられた「金栗門下生」と評される選手である。 1914年(大正3年)11月2日の全国陸上競技大会(現在の日本陸上競技選手権大会)では1500m走で4分44秒2を記録した(当時の日本記録)。1915年(大正4年)5月2日の第2回日本オリンピック大会(豊中運動場)でも1500m走で優勝している。1915年(大正4年)5月の極東選手権競技大会(第2回大会、上海)に出場。
金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891… 金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。位階は従五位。 青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加した。また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。 名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。