日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11… 日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11月20日〉- 1926年〈大正15年〉10月22日)は、日本の外交官。位階および勲等は正三位・勲一等。伊勢国(現在の三重県)出身。 伊勢国で日置伊右衛門の五男として生まれる。1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省に入る。 1905年(明治38年)、代理公使としてサンフランシスコに渡航したのち、仏僧釈宗演とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見。 1914年(大正3年)に中国公使に就任。同年12月3日、加藤高明外相は日置に対華要求を訓令する。翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣は袁世凱に対華21カ条要求を行い、日置はその交渉担当となった。
牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元… 牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉- 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の官僚、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。 1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(のちの利通)と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った[要出典]。
酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861… 酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861年11月23日) - 大正7年(1918年)12月28日)は、日本の教育者。位階および勲等は従三位・勲二等。 高知県出身。1883年(明治16年)、東京大学理学部物理科を卒業した。茨城県第一中学校校長、海軍教授、第三高等学校教授を歴任。1899年(明治32年)、第六高等学校校長に就任し、1910年(明治43年)に第三高等学校校長に転任した。
稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(… 稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(文久元年9月26日) - 1908年(明治41年)11月25日)は、明治時代の日本の外交官。著書で南進論を唱えたことで知られる。 肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年(明治15年)、東京大学文学部に入学。翌年東京大学明治十六年事件に巻き込まれて、英国ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに留学、ジョン・ロバート・シーリーに師事する。大学では日本人クラブを設立し、英国紳士のマナーを研究した。また、大学の理事会を説得し、日本人の入学試験からギリシャ語を免除させた。
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年… 沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。 美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。
西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861… 西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861年10月16日) - 1937年7月10日)は、日本の教育者、郷土史家。 初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県佐賀市西田代町)に生まれ、西村家を継いだ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。 東大卒業後、佐賀県尋常中学校を振り出しに、岐阜県第一中学校、大分県立大分中学校、福岡県立豊津中学校の教諭を経て、福井県立武生中学校、滋賀県立第一中学校、福岡県立中学修猷館、長崎県立長崎中学校の校長を歴任する。郷里に帰り、成美高等女学校校長を最後に教職生活を終える。 1914年、鍋島家が創立した佐賀図書館の館長に就任。
中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、… 中橋 徳五郎(なかはし とくごろう、旧字体: 中橋 德五郞、1861年10月13日〈文久元年9月10日〉- 1934年〈昭和9年〉3月25日)は、日本の政治家、実業家、官僚。大阪商船社長、衆議院議員、内務大臣、商工大臣、文部大臣を歴任。政友会。旧姓は斎藤。号は狸庵。加賀国(石川県)生まれ。 文久元年9月10日(1861年10月13日)、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に加賀藩士斎藤宗一・キン夫妻の五男として生まれる。 1882年(明治15年)、東京大学英法科を卒業後、1886年(明治19年)に東京帝国大学法学部選科を卒業する。大学院では商法を専攻する。 1886年(明治19年)、中橋徳五郎は判事試補となり、横浜陪審裁判所詰となる。
藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈18… 藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈1861年10月12日〉 - 昭和8年〈1933年〉12月23日)は、日本の数学者、統計学者、教育学者。東京帝国大学理科大学教授、帝国学士院会員、貴族院帝国学士院会員議員、理学博士。 明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。 佐渡国(現: 新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では幾何学の専門家のテオドール・ライエが担当したゼミナールに参加する一方、エルヴィン・クリストッフェルの下で偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。
町田 重備(まちだ しげとも、文久元年8月11日(1861年… 町田 重備(まちだ しげとも、文久元年8月11日(1861年9月15日) - 大正11年(1922年)2月12日)は、日本の逓信官僚。錦鶏間祗候。 東京府に横瀬貞幹の二男として生まれ、町田きくの養子となった。1877年(明治10年)に陸軍士官学校に入るが病のため退学した。1883年(明治16年)、東京外国語学校仏語簡易科(現在の東京外国語大学)を卒業。その後帝国大学書記を務めた後、帝国大学法科大学に入学し、1888年(明治21年)に卒業した。枢密院雇、法制局参事官試補、衆議院書記官を経て、1895年(明治28年)に逓信書記官となった。逓信省では京都郵便電信局長、神戸郵便電信局長、大阪郵便局長、逓信省経理局長を歴任した。
平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久… 平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1914年(大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士、日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族。 1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ、1872年(明治5年)東京・横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。 直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した。
水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日… 水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日(文久元年7月7日) - 1932年3月26日)は、日本の政治家。第3代神戸市長(在任:1905年9月27日 - 1909年)。神戸港の築港に取り組み、第一期工事を実現させた功績から「築港市長」と呼ばれる。肥後国(熊本県)出身。旧姓は斎藤。 斎藤能躬の子として、1861年8月12日(文久元年7月7日)、肥後国(熊本県)に生まれる。1892年(明治25年)3月、水上新平の養子となる。東京帝国大学卒業後、長崎県書記官、貴族院書記官、大蔵省参事官、神戸税関長、横浜税関長などを経て、1905年9月27日に神戸市長に就任。1905年3月17日に辞任した第2代市長・坪野平太郎の後任は市会内の進歩党、政友会による抗争が原因で難航し、2度の投票をもってしても決まらず、仲裁に入った神戸商業会議所会頭岸本豊太郎が兵庫県知事服部一三、大蔵大臣阪谷芳郎らと協議した結果候補に挙がったのが水上であった。
戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6… 戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6月25日) - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の法学者・政治家。学位は、法学博士。 加賀国石川郡金沢城下下本多町(現・石川県金沢市下本多町)出身。戸水義の長男。帝国大学法科大学(現・東大法学部)卒業後、ヨーロッパに留学。帰国後、1894年(明治27年)に帝国大学法科大学教授に就任。ローマ法、民法学が専攻。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦時には富井政章らと「七博士意見書」を提出し、ロシア帝国へ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張。このことからバイカル博士と渾名されることになる。日露戦争末期の1905年(明治38年)に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。
藤田 四郎(ふじた しろう、文久元年6月18日(1861年7… 藤田 四郎(ふじた しろう、文久元年6月18日(1861年7月25日) - 昭和9年(1934年)1月9日)は、日本の農商務官僚、貴族院勅選議員。 志摩国鳥羽出身。鳥羽藩士・藤田龍三の三男に生まれ、出生地は越後国西蒲原郡弥彦村、東京帝国大学法科大学卒業。明治18年(1885年)、外務省に出仕し御用掛外交官試補、外務省参事官となり、ベルリンやウィーンの公使館に勤務した。その後逓信省に転じ、参事官と後藤象二郎逓信大臣の秘書官を兼ねた。さらに明治25年(1892年)には農商務省に転じ、参事官・後藤象二郎農商務大臣秘書官・特許局長・農務局長を歴任した。明治31年(1898年)5月から7月まで農商務次官を務め、11月に再任された。
飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7… 飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7月24日) - 1921年(大正10年)3月14日)は、明治・大正期の動物学者、魚類学者(理学博士)。海綿の研究と、鳥・寄生虫に関する研究が多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした。 日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。また、豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードでも知られる。 寄生虫類を研究し、その感染経路を明らかにする。また1918年(大正7年)に1000頁を超える「動物学提要」を著す。これは明治・大正期の動物学を総括したもので、長く必読の教科書とされ、日本における動物学の普及に貢献した。
恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年… 恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年7月23日) - 昭和22年(1947年)7月30日)は、日本の薬学者。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の創立者。 信濃国松代城下 (現在の長野県長野市松代町) に松代藩士恩田十郎時篤の子として生まれる。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。日清戦争、日露戦争に従軍し、医学用語の統一を図り、「独和他国字書大全」、「独和新医学大字典」を刊行、陸軍医官であった森鴎外からも業績をたたえられた。 1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。
玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4… 玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4月27日) - 1937年(昭和12年)11月6日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人。旧名は、名村 程三(なむら ていぞう)。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。
三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3… 小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3月10日) - 1946年(昭和21年))は、陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。日本で最初のフィルムによる写真撮影を実施したとされる者として知られている。 文久元年に現在の茨城県にて小倉元心の次男として生まれる。東京帝国大学理科選科を卒業。1887年(明治20年)に陸地測量部の前身組織である参謀本部陸軍部測量局に技生傭として奉職。1889年(明治22年)5月に小川一真、江崎礼二らとともに日本寫眞會の設立に関わる。同年12月25日、陸地測量部陸地測量手(判任官)に任官し、1892年(明治25年)7月6日、陸軍砲工学校敷地内において繋留気球から軍用空中写真の撮影に成功した。
桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月3… 桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月30日) - 1911年(明治44年)11月6日)は、日本の明治期における外科医、侍医。宮内省侍医。越後国新津(現在の新潟市秋葉区)出身。従四位勲四等。 1861年4月9日(文久元年2月30日)に越後国新発田藩領新津村(後に中蒲原郡新津町→新津市)の士族桂愼吾の六男として誕生。幼名は秀助。1887年(明治20年)7月9日に東京帝国大学医科大学を卒業(明治19年度卒業生)した。 卒業後東京帝国大学医学部においてドイツの外科医で、お雇い外国人であるユリウス・スクリバ博士の助手となった後、済生学舎及び第一高等中学校医学部(後に千葉医科大学を経て千葉大学医学部)教諭となり外科学を担当したが、1889年(明治22年)5月2日宮内省侍医局に異動となり第一高等中学校の後任に大学同期の三輪徳寛を推薦した。
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月3… 日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日) - 1934年(昭和9年)1月22日)は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。 書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する。 1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る。のち1901年(明治34年)工学博士。
斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(18… 斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 昭和6年(1931年)1月2日)は、日本の内務官僚。錦鶏間祗候。日本法律学校(現在の日本大学)創立者の一人。妻は山東直砥の長女。 加賀国金沢藩家老津田正行の三男として生まれ、斯波蕃の養弟となった。1883年(明治16年)、東京大学法学部を卒業。卒業後は研究生となり、さらに文部省留学生としてベルリン大学で国法学、行政法、国際法を学んだ。1888年(明治21年)に帰国し、帝国大学法科大学教授となる。翌年2月、法制局参事官を兼ね、7月には教授の兼職を解かれ法制局専任となった。1894年(明治27年)からは恩給局審査官を兼任した。
都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年… 都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉- 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ。15歳のときに東京開成学校へ入学。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した。
天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年1… 天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年12月27日) - 1938年(昭和13年)3月26日)は、明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。
保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年… 保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。最終階級は陸軍軍医監。位階および勲等、軍功は正四位・勲三等・功四級。 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り、1895年(明治28年)には再びドイツのハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年… 松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 神戸師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学、卒業して医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ、近くの村出身の女性と結婚したが離婚した。原因はひとえに「小さな家」のためであった。 最も長命だった弟の柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月… 馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 会津藩に士籍を有し、のち福島県議を5期務めた馬場庄平の次男である。会津若松英語学校などで修学したのちに上京し、中村正直の私塾、東京英語学校(官立)を経て東京大学予備門に進む。 1885年(明治18年)7月、東京大学法学部を次席で卒業。 馬場は司法省御用掛となり、東京始審裁判所詰として裁判官のキャリアを開始する。横浜地裁、東京地裁、東京控訴院での勤務を経て1896年(明治29年)に浦和地裁裁判長、翌々年に大審院判事となる。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年… 高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) - 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延… 和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延元年7月14日〉 - 1919年〈大正8年〉7月18日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。号は吐雲。 但馬国(現兵庫県)出身。豊岡藩士・和田垣譲の次男。1881年東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、ケンブリッジ大学・ベルリン大学で学び、1883年に帰国。文部省御用掛を経て、1886年帝国大学法科大学教授となり、金井延とともに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入、自由主義経済学からの転換を促した。1891年法学博士。1898年の農科大学教授に転じる。また日本女子商業学校校長、東京商業学校校長として民間実業教育に尽力。
青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6… 青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6月28日) - 1939年(昭和14年)6月28日)は、日本の政治家(衆議院議員)。 江戸の徳島藩邸で生まれた。廃藩後、徳島県名東郡住吉島村(現徳島市)に移った。藩校長久館、洋学所などで学んだ。 東京帝国大学法科大学を卒業後、地方裁判所検事、弁護士、地方裁判所検事正、控訴院検事、京都府書記官を歴任した。1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に立憲政友会より出馬するも一坂俊太郎に敗れ落選。しかし1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙で武市彰一と争い初当選した。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙にも出馬したが武市彰一に敗れ落選となった。
大島 道太郎(おおしま みちたろう、1860年8月4日〈万延… 大島 道太郎(おおしま みちたろう、1860年8月4日〈万延元年6月18日〉- 1921年〈大正10年〉10月5日)は岩手県盛岡市出身。冶金学を専門とする工学博士であり、日本近代製鉄の父と呼ばれた大島高任の長男にあたる。正三位。 盛岡藩士・大島高任の長男として生まれる。1870年(明治3年)大学南校に入学。1878年(明治11年)に東京帝国大学理学部に転じ、1879年(明治12年)4月にドイツへ自費留学する。1881年(明治14年)3月、同国フライベルク鉱山学校(後のフライベルク工科大学)を卒業し、冶金工師の学位を得て帰朝。道太郎は1890年(明治23年)2月に宮内省御料局技師に任じられ、生野支庁に勤めた。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。
隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元… 隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1943年(昭和18年)11月26日)は、日本の教育者、天文学者、数学者、心理学者、占星術師。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。 久留米藩士の子として後の久留米市螢川町に生まれる。幼名は井上木六郎。生後まもなく隈本家の養子となる。1872年(明治5年)11歳で久留米藩の藩校である好生館(洋学所、同年11月柳河藩の洋学校と合併し宮本中学校となる)に入学し、柘植善吾や英人宣教師ジョージ・オーウェンから、英語、幾何学、地理、博物学を学ぶ。 1875年(明治8年)官立東京英語学校、1876年(明治9年)官立東京開成学校予科(1877年(明治10年)に官立東京英語学校と統合して東京大学予備門となる)理科を経て、1878年(明治11年)9月東京大学理学部に第一期生として入学し、星学を専攻する。
山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年… 山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年5月28日) - 1905年(明治38年)5月27日)は、明治時代の日本のジャーナリスト。号は愛川。 1860年(万延元年)、安芸国安芸郡府中村(現在の広島県府中町)に生まれる。藩校修道館(現・修道中学校・修道高等学校)、広島外国語学校で学ぶ。1876年(明治9年)に上京し、東京開成学校に入学。東京開成学校時代の同級生には、高田早苗・三宅雪嶺・有賀長雄・田中舘愛橘らがいる。1878年9月、東京大学文学部に入学。高田早苗・市島謙吉らとともに小野梓が主宰する鷗渡会に加わり、さらに立憲改進党の結党に参加。1882年7月、東京大学を卒業。同年10月、東京専門学校創立に参加し講師に就任、「政治学原論」の初代担当者を務める。
横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(18… 横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(1860年6月14日) - 昭和17年(1942年)1月20日)は、日本の古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。 長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。 1882年(明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業。農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した。1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された。1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た。
萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年… 萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年6月6日) - 大正13年(1924年)1月31日)は、日本の歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。 ※日付は明治5年まで旧暦
猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万… 猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万延元年4月4日) - 1944年(昭和19年)1月31日)は、明治期から昭和初期における外科医。京都帝国大学医科大学名誉教授、同附属病院初代院長、日本で最初の喉頭癌手術を行った。但馬国豊岡藩出身。 1860年6月(万延元年4月)但馬豊岡藩(現:兵庫県豊岡市)の家老猪子清の長男として誕生した。藩校、稽古堂を経て1873年(明治6年)東京外国語学校に入り、翌年東京医学校に転じ、1882年(明治15年)3月東京大学医学部を卒業した。同期には青山胤通・西郷吉義・佐藤三吉・田代正等がいる。 卒業した年の5月京都府立医学校教諭になり、1887年(明治20年)には医学校校長に就任、翌年には日本で初の喉頭癌全剔出摘出手術を成功させた。
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月… 高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。 衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任した。 1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。文学部の授業では外山正一、中村敬宇、信夫恕軒の授業に感化され、黒川真頼の授業が一番役に立ったという。
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(186… 山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。 武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。 1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。
山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月… 山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月11日) - 1939年(昭和14年)1月9日)は、明治から昭和初期にかけての日本の鉱山学者、実業家。大久保利世の孫、大久保利通の甥。 薩摩藩士の山田有庸とスマ(大久保利世三女)の次男として鹿児島城下で生まれる。 1874年に上京し、伯父の大久保利通宅に寄宿。東京英語学校に入学する。1877年に大学予備門、1885年に旧東京大学を卒業し、理学士を授与される。 1886年、正八位となる。翌年依願免官後、ドイツへ留学。1889年の帰国後、大島高任の娘である大島ヒサと結婚。 1894年に帝国大学工科教授に就任。1897年、三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社し、同年5月に分家する。
関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3… 関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の国文学者。 1869年、江戸日本橋茅場町に関根只誠の長男として生まれる。幼名を又三郎、直三郎。正直と名乗ったのは中村正直に倣ってのことである。 東京大学で小中村清矩、黒川真頼に国学を学ぶ。同級生に落合直文、池辺義象があった。1886年、大学卒業、1888年、華族女学校助教、ついで学習院教授、女子高等師範学校教授として教鞭をとった。1909年、文学博士を授けられ、1917年、宮内省御用掛、1926年、講書始に国書を進講する。1928年、帝国学士院会員。1932年、心臓病のため死去。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2… 穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2月28日〉 - 1912年〈大正元年〉10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。 伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。前妻は伊達宗城家令・西園寺公成の長女さと(早世)、後妻は浅野総一郎(初代)(浅野財閥創始者)の長女まつ。 明治22年から始まった民法典論争に際し発表した論文「民法出テゝ忠孝亡フ」(法学新報第5号、明治25年8月25日)で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、穂積陳重によると題名は江木衷の発案。
市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年… 市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年2月17日) - 1944年(昭和19年)4月21日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(3期)、文化事業家、随筆家、初代早稲田大学図書館長。号は春城。 安政7年(1860年)2月17日、越後国蒲原郡水原村(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目直太郎の長男として生まれた。幼名は雄之助といい、これは病弱のため八幡宮より一時的に貰ったものである。のちに郷土の英雄・上杉謙信にあやかって謙吉と改名した。 市島家は丹波国発祥で、慶長3年(1598年)越後に移り、商業で財を成した豪農一族で、角市家は宗家三代目喜右衛門の二男次郎吉から始まる筆頭分家である。
砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年… 砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年2月10日) - 1933年(昭和8年)4月15日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 播磨国飾東郡姫路(現兵庫県姫路市)で、姫路藩士砂川貫一郎の二男として生まれる。1882年(明治15年)、東京大学を卒業した。同年の東京専門学校(後の早稲田大学)の創設にあたっては、創立委員として小野梓や高田早苗などと共に大隈重信を支え、最初は講師を務め、後には評議員・維持員を務めた。その後、大阪で弁護士として活動し、大阪弁護士会長も務めた。さらに関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、後に監事、主席理事を歴任した。 また1887年(明治20年)より大阪府会議員を務め、議長にも選出された。
田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月… 田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月25日) - 1918年(大正7年)1月30日)は、日本の明治期から大正期における外科医。長崎医学専門学校長、長崎県医師会長も勤め同県の医術発展と医療普及に尽くした。越前国出身。 1860年2月16日(安政7年1月25日)、越前坂井郡棗村(現福井県福井市)に福井藩士の子として生まれる(名前はただし、又はただすと資料により異なる)。1871年(明治4年)福井藩中学校に入学し、1874年(明治7年)第一大区医学校に入学した。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・西郷吉義・佐藤三吉等がいた。 大学卒業後長崎県立長崎医学校(現長崎大学医学部)教諭を命じられ、以降同県検疫官・長崎病院医師等を兼ね、1889年(明治22年)長崎医学校が第五高等中学校医学部となると同校教諭となり長崎病院次長兼外科部長に就任した。
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延… 石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。 1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。 遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。